ある双子兄弟の異常な日常 第三部
第2章 ミスター・パーフェクト
SCENE4
アーバン校に入学してすぐに受けたフットボール・チームのトライアウトで、僕は四十ヤード走で自己最高のタイムを出した。トライアウトに向けて練習してきた成果だと自分では満足していたのだが、その僕よりもレイフは速く走った。
まだ十五才で、いきなりプロ級のタイム、四・三秒を叩き出したレイフに周囲の注目はいっせいに集まり、それなりの好記録を出したものの僕の存在は弟の陰に霞んだ。
身体能力では僕よりレイフの方が少し上かもしれないということはそれ以前から分かっていたことだが、まざまざと見せつけられたのは、あの時が初めてだった。
もしかしたら僕達の差は思っていた以上に大きなものなのかもしれない―興奮した大勢に取り囲まれ未来のエースだともてはやされて戸惑い顔のレイフを眺めながら、僕は悟った。
レイフと互角であるためには、僕は努力しなければならなかった。一方、面倒くさいことの大嫌いなレイフは、練習らしい練習などせず、走ることも跳ぶことも遊び半分に嬉々としてこなしながら、とんでもない記録を出す。
そんなレイフがいつか本気になったらと想像すると、僕は激しい焦りに駆られた。弟が皆から賞賛されているのに、それを素直に喜んであげられない自分を恥じた。
結局、僕は恐かったのだ。
それ以来、僕は考えを少し改めることにした。スピードやパワーでレイフとまともに張り合おうとすることはやめて、他の部分を伸ばしてカバーすることにした。クォーターバックにポジション変えを希望したのも、それが理由だったが、実際、器用な戦略家の僕には合っていたと思う。
今では、エースとしてチームを引っ張る立場にある僕をレイフが少し後ろから追いかけている。
不思議なのは、周囲の期待をあれ程集めたレイフが、一年目に好記録を出したきりあまり伸びないでいることだ。
それでも充分エース級の選手ではあるけれど、本来の実力がどれほどのものか分かる僕から見るともどかしくてならないくらい、レイフは長いスランプから脱せないでいる。
レイフ、おまえはいつ目が覚める?
そうして、僕は僕で覚悟しておかなくてはならない。いつかレイフが自分の本当の力に気づいたら、きっともう僕など必要としなくなる。彼は一人で何でもできるし、どこにだって好きな所へ行けるのだ。
レイフのためにはそれこそ望むところだ。そうなるよう僕も仕向けている。
けれど、頭で割り切ろうとしても感情がついていかず、こんなことを自分に向かって問いかけながら僕はいつも途方に暮れてしまうのだ。
レイフがいなくなった、その時、僕は一体どうすればいいのだろう…?
(そう、必ず勝つと心に誓っていた。この瞬間を夢見てきた)
頭の中が真っ白に焼け付いて、クリスターはしばし何も考えられなかった。
タッチダウンを叫ぶ審判の声は確かに聞こえた。そのすぐ後に鳴ったホイッスルも―。
試合は終了したのか。
初めは劣勢だったブラックナイツが後半戦で追い上げ、残り時間僅か二十秒で五点差にまで迫った最後の攻撃。一つタッチダウンを取れば逆転勝利という勝つか負けるかぎりぎりの状況だった。
この試合で最初から徹底的にマークされていたレイフにボールを渡すべきかどうか判断に迷うところだったが、もう後がないという状況まで追い詰められれば、コーチの判断もクリスターのそれと重なった。レイフの破壊力のある走りに命運を託した最後の勝負だったのだ。
そして今、ゴールラインを僅かに超えた辺りで、敵のタックルを食らいながらもしっかりボールをキープしたレイフが倒れこんでいる。
クリスターは肩で息をしながら頭を巡らせ、スコアボードを振り返った。
二十三対二十四。ブラックナイツが逆転している。
(勝ったのか?)
怒涛のような歓声が押し寄せてくる中、クリスターは白昼夢を見ているような心地で意識を漂わせていた。
「クリスター!」
消耗しきって足元をふらつかせながら近づいてきたトムがクリスターの腕を叩いて、呼びかけた。
「勝った…おい、ちゃんと起きてるか、ほら、見ろよっ、スコアボード。俺達、勝ったんだぜ」
ベンチから駆け寄ってきた連中と一緒になって、抱き合い、肩を叩きあって勝利を喜んでいるチーム・メイトを見渡しながら、クリスターはのろのろと頷いた。
「そうか…」
ゴールラインの方をもう一度見やると、最後のタッチダウンを見事に決めたレイフは、そこに座り込んだまま、放心したように空を仰いでいる。
あっちはあっちでまだ現実に帰ってこられないようだ。
「僕達が優勝した」
噛み締めるように呟いて、クリスターは傍らのトムを振り返り泣き笑いのような顔になっている彼の頭を軽く小突いてやると、ベンチの前に立っているコーチの方へゆっくりと歩き出した。
フランクス・コーチはこの瞬間を待ち構えて群がってきた新聞や雑誌の記者達やマイクを向けてくるテレビのインタビュアーに囲まれて、身動きが取れないようだ。
恩師に感謝の言葉を送りたいのだが今は無理かと思いながら、ヘルメットをはずし流れる汗をぬぐいつつ歩いていくと、数人の取材記者がクリスターに気がついてマイク片手に抜け目なく近寄ってきた。
「キャプテンのクリスター・オルソン君、見事な逆転優勝でしたね」
「今の気持ちはどうですか?」
用心深くじっと黙り込んでいるクリスターの言葉を取材陣は興味津々の表情で待ち受けている。大の大人が高校生を取り囲んでちやほやと持ち上げて、明日の紙面のためとはいえご苦労なことだ。すっと頭の芯が冷めてくるのを覚えながら、クリスターはやはりこちらに向けられているテレビ局のカメラにちらっと目を向けた。
クリスターはカメラ嫌いだし、プロでもない自分がゲーム以外の所で人の関心を引くのも何だか性にあわない。
「プレッシャー知らずの司令塔と言われてきましたが、全く、高校生とは思えない精神力ですね。今日の試合でも、前半の苦しい状況を乗り切れたのは、エースであるあなたが動じず、正確なプレイを続けたからでしょう。どうして、いつもそんなに冷静でいられるんですか?」
「今大会のMVPはクリスター君が取るのではないかと予想されてますよ」
クリスターは一瞬助けを求めるようにコーチに視線を送ったが、おまえなら一人であしらえるだろうというかのごとく、彼は軽く片目を瞑ってみせるだけだった。
「さて、11年生で、チームが州チャンピオンにまで登り詰めた今、来年の目標はもちろん二度目の優勝ですよね?」
「ええ」
今勝ったばかりだというのに早速来季の話かと一瞬不快感が増し、クリスターは思わず顔をしかめそうになった。
「ミスター・パーフェクト!」
聞き覚えのある甲高い声がするのにそちらを振り向くと、新聞部のアイザックがプロの記者達に混じってちゃっかりクリスターにカメラを向けながらVサインを送っていた。
「なあに、そんなしかめっ面をしてるんだよ、クリスター。優勝チームのキャプテンらしく、もっと素直に喜べよ。ここまで来て感情を出し惜しみすることはないだろう、おまえが目指した最高の瞬間なのにさ」
「別に出し惜しみなんかしてないよ」
クリスターは苦笑しつつ、アイザックに頷き返した。
それから、腹を括って取材陣の方に向き直り、こんな盛り上がった状況で大人達が自分に最も言わせたいだろう台詞を考えて、口に上らせようとした。
その時―。
「クリスター、クリスター!」
勝利の気分にすっかり酔いしれ興奮しきったレイフが、トムと一緒に転がるように駆け寄ってきた。取材陣に阻まれて途中でそれ以上兄に近づくことはできなくなったが、レイフは人垣の向こうから飛び上がるようにして喜びを表現しながらクリスターに訴えかけた。
「すっげぇや、オレ達ほんとに優勝したんだぜ!」
レイフの発した素直な叫びがクリスターの胸の奥深いところを突いた。
「レイフ…」
くしゃっと顔を歪めるレイフに目を奪われたまま、クリスターはあえぐように息をした。
「最高の気分だぜ、なあ…おまえも、そう思うだろっ」
もちろんクリスターも同じようも感じていたはずだ。出し惜しみしていたわけでもないが、ただ、自分を抑制することがほとんど癖となっていた彼にとって、レイフのように素直に感情を出すことは難しかったのだ。
クリスターはレイフの方に顔を向けたまま、のろのろと上げた手を胸に置いた。
レイフの目にじわじわと涙が浮かんでくるのを認めながら、クリスターは試合が終わって一端落ち着いた心臓の鼓動が急に早くなってくるのを感じていた。まるで、レイフの見えない手がクリスターの胸の内側にするりと入ってきて、心を覆う固い鎧を引き剥がし、むき出しの彼を掴んで大きく揺さぶったかのようだった。
(…どんなことでもする)
クリスターの頭の中がかあっと熱くなった。
(いつかおまえが本当の実力を出せるようなったら、僕にはとても敵わないかもしれない。それでも構わない、こんな最高の瞬間をおまえと共に掴み取るためなら、この先僕はどんな努力も厭わないし、どんな犠牲も払う)
この瞬間、クリスターは溢れ出した激しい感情を抑えることができなくなった。
(レイフ、おまえがいつか…愛する人を見つけて、その人と一緒になるために僕から離れていったとしても、別にいいんだ。おまえにはおまえの人生があって当然だから、それを邪魔しようとは思わないよ。しかし、それでも、僕はおまえにとって最高の存在であり続けたい、おまえに必要とされたい…共に同じ夢を追うパートナーとして、おまえに隣に立つのは…この僕だ)
クリスターはふいに馴染みのない感触を覚えて目元を押さえた。戸惑いながら離した手を見下ろすと、指先が温かく濡れている。
いつの間にか、クリスターは泣いていたらしい。レイフが感情を隠しもせずに無防備に泣くものだから、こちらにまで伝染したのだろうか。
何があっても動じない冷静沈着なエースと謳われたクリスターが流した涙に、一瞬、彼を取り囲む人々も虚を突かれたように絶句した。
「すみません…」
恥ずかしくなって、クリスターは手の甲でごしごしと目元をぬぐったが、彼の意思に反してはらはらとこぼれる涙はなかなか止まらない。
奥深いところからせりあがってくる衝動を抑えかねているクリスターに向かって、取材スタッフの誰かが唐突にこんな質問を投げかけてきた。
「あ…クリスター君、将来は、やはりプロになるつもりなんですか?」
クリスターは息を吸い込んだ。
声のした方に顔を向けたが、誰が言ったのか分からず、クリスターはもう一度弟を振り返った。
今の問いかけはレイフの耳にも届いたのだろう、真剣な目で食い入るようにクリスターを見ながら、彼の答えを待ち受けている。
(一緒にプロになろうな、約束だろ?)
(ごめん、レイフ、僕はまだ色々迷っているんだ)
クリスターはぎゅっと手を握り締めた。唇が震えた。
「もちろん―」
一時の感情に任せるな。後悔するぞ。
いや、これこそ心の底からの願いだ。嘘偽りのない本心だ。
束の間、二つの声がクリスターの中で激しく相克した。
そして―。
「高校を卒業した後は、カレッジ・リーグに進んで、それからプロになるつもりです。弟と一緒に、この先もずっとフットボールを続けたいんです」
言った途端、胸のつかえが下りて、随分気持ちが軽くなったような気がした。ずっと定まらない気持ちを持て余してきた、自分の行き先を決められずにさ迷っていたクリスターだったが、何も深く考えずに自分の気持ちに正直になるだけでこんなに楽になれるのなら、もっと早くにそうすればよかったのかもしれない。
「クリスター!」
クリスターの宣言を聞いたレイフはしばしぽかんと立ち尽くしたかと思うと、我慢できなくなったかのようにクリスターの周りにいる大人達を強引にかき分け、ぶつかるように抱きついてきた。
クリスターの言葉によほど感動したのか、レイフは彼にしがみついて子供のようにおいおい泣き出した。それを、肩を叩いてなだめながら、クリスターは確かに自分のものとして実感できた喜びを味わっていた。
「いい加減に泣き止めよ、レイフ、恥ずかしいだろ。ほら、おまえが泣くものだから、他の仲間にも移って…見ろよ、うちのラインの連中なんか、必死で涙をこらえているものだから、何だかものすごい形相になってるぞ」
「そんなこと言って、クリスターだってさ…」
お互いの顔を手でぬぐってやりながら、クリスターとレイフは照れくさそうに笑いあった。
二人は肩を抱き合ったまま、一向に熱気の去らないフィールドをゆったりと見渡した。
「なあ、クリスターは今、どんな気持ち?」
「そうだね」
クリスターは頭上を振り仰ぎ、空から降ってくるような歓声にうっとりと目を細めながら微笑んだ。
「最高に幸せだよ」
レイフと共に目指し、越えていく、一つ一つの頂にクリスターの幸福がある。
結局、全てをあきらめて、自分を殺しながらただ日々を重ねてゆくには、十七才のクリスターは若過ぎ、才能にも恵まれていたのだ。
(そうだ、こうして一つの頂上に上り詰めたように、次はもっと高い頂を征服してやる。プロにだって何だってなってみせるとも、レイフ、おまえが僕にそれを望むなら―)
これは、紛れもなく、クリスターにとって人生で最高の瞬間だった。
勝利の栄光に包まれ、一つの夢を叶えた達成感に満たされながら、この先も同じ幸福をレイフと共に味わいたいとクリスターは願った。
振り返れば輝くような笑顔の仲間達、惜しみなく投げかけられる祝福の言葉や拍手―この一時、未来は希望の光に溢れていると、クリスターは確かに信じることができたのだ。