ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第2章 ミスター・パーフェクト

SCENE3


 その日の授業が終わって、クリスターが教室から出て行くと、廊下で1人のひょろりと背の高い生徒が彼を待ちかまえていた。
「よっ、待ってたぜ、ミスター・パーフェクト」
 クリスターは不機嫌そうに唇を歪めた。
「そんなふざけた呼び方をするなら、僕は君の取材なんか二度と受け付けないよ、アイザック」
「何だよ、相変わらず愛想がないな」
 銀縁の眼鏡を指で押し上げながら素早く近づいてくる少年を、クリスターは苦笑混じりに見守っていた。
 新聞部の部長アイザック・ストーンは、愛嬌がありながら抜け目のない黒い目を輝かせて、クリスターの肩を軽く叩く。
「呼び方なんか、おまえの好きなようにいくらでも変えてやるさ。とにかく取材だけはさせてもらうからな、そういう約束だろう?」
「フットボール・チームについて正確なところを書きたいなら、フランクス・コーチの取材だけで充分だと思うけれどね」
「いいや、真実なだけじゃ、欲張りな読者は満足しないのさ。やっぱり紙面に輝きを持たせるヒーローがいなきゃ、寂しいだろ。おまえのインタビューと写真の一枚も載せりゃ、うけが違うんだよな。ジャーナリスト志望としては、大衆が何を求めているか常に計算しつつ取材をする必要があるのさ」
「ジャーナリストというよりも、君のその考え方では芸能記者とかパパラッチとか、むしろそっち系統のような気がするんだけれど―」
 調子のいいアイザックの答えに首を傾げながらも、クリスターは彼に引っ張られるがまま新聞部の部室までやってきた。
「今日はおまえをインタビューするからって、他の部員はわざわざ追い出したんだぜ。他人が大勢いる所では、おまえはなかなか本音を話さないからな」
 誰もいないことを確認するかのように部室の外を窺った後、アイザックはドアを閉じて、クリスターが待ち受けているテーブルに戻ってきた。
「懐かしいだろ、この部屋も。一年前は、おまえはここにしょっちゅう入り浸って、まるで自分の司令室のように使っていたものな。あの頃は、まだ卒業前だったコリンやミシェルがいて…後は俺とおまえ、それから、あの可愛いダニエルもいたっけな」
「ああ」
「ダニエルの奴は、相変わらずおまえにべったりのようだな。おまえが新聞部に顔を出さなくなって以来、あいつもここに寄り付こうとはしない。冒険を共にした仲間にしちゃ、ちょいと薄情じゃないか?」
 インスタントのコーヒーのカップをクリスターに勧めながら、アイザックは軽くなじるような口調で言った。
「あの事件を通じてのみ、僕達は仲間だったんだよ。これが終わったら何食わぬ顔をして普通の学生生活に戻ろう、そのためにもお互い距離を置くようにしようと、ここで皆が最後に集まった時に約束したはずだ」
「ダニエルは、いいのかよ」
「彼は、あの事件が起こる前から僕と親しかったからね。一緒にいても、別に不自然じゃないだろう?」
 アイザックは頭をかいて何やら考え込んだかと思うと、ふいにクリスターの方に身を乗り出してきて、こっそり秘密を打ち明けるような低い声で囁きかけた。
「正直言うとさ、あの事件の真相を記事にできなかったことが、俺は今でも心残りなんだよ。結局部長のコリンがやめようって決めたのに不承不承俺も従った訳だけど―事実を知りながら黙っているのはジャーナリスト魂に反するというか、腰抜けみたいで嫌だというか」
「おや、何を言うんだよ。勇敢な新聞部のすっぱぬいたスクープが、あの頃事件をちゃんと調べることに及び腰だった学校を動かしたんじゃないか。充分に立派だったよ、君達は」
 クリスターが片目をつむって揶揄するように言うのに、アイザックは肩をすくめた。
「ふん、あんなの真相のごく上っ面だけじゃないか。本当はもっと根っこの深い事件だったんだ。決して単なる不良グループが起こした暴行や恐喝事件じゃない…将来有望な学生が集まるエリート校だから、汚点となるような問題は隠したいって校長らの姿勢も気に食わないしさ」
「アイザック、そのことは今更蒸し返すなよ。もし、どうしてもあれについて書きたいなら…そうだな、もっと月日が経ってから、あくまでフィクションとして脚色して本でも書いたらどうだ」
「だから…俺は小説家じゃなくて真実を究明するジャーナリスト希望だっつうの。ううん、確かに今事実を書くのはまずいとは分かってるよ。俺達も危うく警察の世話になりそうな危ない橋を渡ったからな…。今考えたら、よくあんなことやったって、我ながら感心するよ。あの頃の自分の勇気を誉めてやりたいくらいさ。でも、俺達が立ち上がってなきゃ、今でも『奴』はこの学校にいて、何の罪もない連中が苦しめられていたかもしれないんだ。なあ、考えてみたら、俺達ってヒーローだよな」
「ヒーローなら尚更余計なことは何も言わずに、黙っているべきだよ」
「ああ、そうかい。生憎俺はおまえほど潔くはなくってな。ふん、おまえは本当に大した役者だよ、クリスター。そんな穏やかな顔をしてさ、恐くて誰も手を出せなかった奴に挑んで、追い詰めて…本当にここから叩き出しちまった。おまえがいなきゃ、俺達は何もできなかった。奴が諸悪の根源だってことは薄々知っていても、どうすれば追い出せるかなんて分からなかったし、自分らにそれができるなんて夢にも思わなかった」
「僕だって、一人じゃ、何もできなかったさ」
「そうかなぁ…俺達は所詮雑魚みたいなもので、結局あれはおまえとJ・Bの一騎打ちだったような気がするけどな」
 アイザックが口にした、ある人物の呼び名にクリスターは眉をひそめ、声を低めて忠告した。
「アイザック…学校内で彼の名前をうかつに口に出さない方がいい。終わったと言っても、まだ1年しか経っていないんだ。J・Bはいなくなっても、かつて彼の配下となっていた連中はまだ学校に残っている。頭がなくなったからおとなしくしているだけだよ。それに、彼の被害者になった生徒ならもっと大勢いるだろう…これ以上傷つきたくなくて、名乗り出ていない子達はきっと多いと思うよ。真実を知らせたいと思うのは君の勝手だが、それによって傷つく者達がいることを忘れるな。ジャーナリストの責任だろう」
 すると、アイザックは神妙な顔になって、しばし黙り込んだ。
「被害者か…そういや、クリスター、おまえが付き合ってたハニー・ヘンダーソンも確か…奴のせいで―」
「ああ」
 クリスターは、探るようなアイザックの視線をさり気なくかわして、頷いた。
「すまないな、おまえって、あまりそういう自分の事情って話さないから、うっかり忘れてしまう。その…確か彼女って、精神的に参ってしまって、学校やめたんだよな。今どうしているか、分かっているのか?」
「病院に入ってちゃんとした治療を受けるという知らせは、ハニーが実家に戻ってすぐに彼女の親からもらったよ。けれど、それきり連絡は途絶えてしまったから、今頃どうしているかは知らない。これ以上立ち入ることは、僕にもできないからね」
「そうか…」
 何となく気詰まりな沈黙が部室に流れた。
 クリスターは改めて、部屋の中をぐるりと見渡した。本棚の中に収められたファイルや雑誌の数々。乱雑な机の上のコンピューターやレコーダーにカメラ。あの頃とあまり変わっていないようだ。ここで、クリスターを含めた五人の学生が放課後集まって、秘密の作戦を進めていた。その内の二人は卒業し、残りの者達は、何もなかったふりをして平和な学校生活に戻っている。
 だが、単純に昔のことと懐かしむには、まだ記憶は生々しく、思い出す度、今でも反射的に緊張が背筋に走った。
(J・B…ジェームズ・ブラックか…)
 テーブルの上に置いた手を、クリスターは無意識のうちに握り締めた。
「なあ、クリスター、おまえが俺に用心しろ、慎重に行動しろなんて言うのはさ…もしかして、今でも警戒しているのかよ、奴のこと…?」
 クリスターは我に返ったように瞬きをした。
「ああ、そうかもしれないね」
「どうしてさ、だって、奴はもう退学になったんだ。二度と戻ってこないだろう」
「学校には戻れないだろうけれど、自由の身にはいつかなるだろう。別に殺人のような重犯罪を犯したわけではないし、何と言っても未成年なんだからね。矯正施設に入っても、せいぜい1年か2年くらいで保護観察という形で出てくると思うよ」
「まさか、奴が復讐しにくるって恐れてるのかよ、クリスター? そりゃ、恨んではいるだろうけど、出所してすぐにまた問題を起こしたらどうなるかくらい、頭のいい奴なら分かるだろう。そこまでしやしないよ」
「僕も君のように楽観したいところだけれどね。だが…そうだね、たぶん僕は…彼に対して、やりすぎたんだと思うよ。最初に僕を挑発して本気にさせたのは彼だったが、その挑発に乗って、遊びの範疇ではすまされないゲームを繰り広げたのは僕だ。普通の悪党なら怯んで、僕に関わるのは二度とごめんだと思い知るところだが、生憎彼は『普通』じゃない。僕は彼に勝つことは勝ったが…あれで本当に終わらせることができたのか、正直言って不安が残る。何だか、今でも彼が続きをしたがっているような気がしてならないんだ。そう、僕には、何となく彼の心の動きが分かるんだよ。あの頃は、彼を打ち負かすため、まずその心を理解し、行動の裏の裏を読み、先手先手を打とうとするようなことばかりしていたからね」
「取り越し苦労じゃないのか、クリスター。まあ、おまえがどうしても気になるっていうなら、奴が入所している施設にあたって、今どうしているのかくらい調べてやるけど?」
 アイザックの親切な提案に、クリスターは気を引かれた。だが、彼のことだから、ただの親切心からではなさそうだ。
「そうだな…もし、調べられるようであれば、頼むよ、ジャーナリスト君」
 幾分用心深くなりながら、クリスターは頼んだ。
「ああ、任せておけって。その代わり、フットボール・チームのエース、クリスターは、俺の取材に全面的協力してくれよ。だってさ、来週ははや準々決勝で、このままの勢いだと本当に決勝まで行けてしまいそうな気配じゃないか。もし決勝戦にまで進めたら、俺もベンチに入れてくれよな、栄光の瞬間をばっちし記録にとってやるぜ」
 抜かりなく、すぐさま交換条件を出してくるアイザックに、クリスターは片方の眉を跳ね上げ、やれやれというように肩をすくめた。
「そのよく回る口を閉じて試合の間おとなしくしていると約束できるなら、コーチに話を通してやるよ。それよりも―僕にインタビューするつもりなら、そろそろ始めたらどうだい? 僕はこの後生徒会にも顔を出さなくてはならないし、早くしないと時間切れになるよ?」
 クリスターの意地悪な言葉に、アイザックは幾分焦ったように椅子に座りなおし、レコーダーのチェックをした。
「ああ、そうだ、まずは写真も一枚撮らせてくれよ」
 写真嫌いのクリスターが顔をしかめるのにもお構いなしに、アイザックはポラロイドカメラを構えた。
「ほら、写すぜ。さわやかに笑ってくれよな」
 言うが早いがもうシャッターを切り、更に立て続けに何枚か写真を撮る。
「ううん、何だか表情が固いなー。緊張しているのかよ」
「僕の承諾も得ずにいきなり写したくせに、勝手なことを言うんだな」
「ううん、俺はカメラマンとしても結構自信あるんだけれどな。おまえにいい表情をさせて写真を撮るのは、至難の業だよ」
 クリスターは幾分むっとしてアイザックの手から写真を引ったくり、眺めてみた。
「…確かにね。我ながら仮面みたいに取り澄ました冷たい顔をしているな」
 ちらっと見ただけで、もうこれ以上見たくないような気分になって、クリスターはその写真を机の上に投げるようにしてアイザックに返した。



 時々、おかしな夢を見ることがある。
 温かくぬめった暗闇に弟と一緒に包まれて、ゆらゆらと漂いながら眠っている。
 そのうち僕達の体は溶かされて、血も肉も混じりあったどろどろの塊となり果てていくんだ。
 ぞっとするけれど、同時に、奇妙な安息がそこにある。
 そんなふうに初めからやり直すことができたらいいと僕は呟いてみる。
 そう、今度こそ、二人で一つの完全な人間として生まれ変われたら―。



「クリスター、クリスター…」
 軽く肩を揺さぶられて、クリスターは薄っすらと目を開けた。広げた本の上に突っ伏していた頭を傾けると、自分を覗き込む弟の顔が目の前にあった。
「やあ…」
 まだ半分夢見心地でクリスターが微笑むと、レイフもつられたように笑った。
「何、レイフ?」
 レイフの手が頭に置かれ髪の中に指が差し込まれる感触に、クリスターは気持ちよさそうにまた目を閉じる。
「へへ、今頃クリスターはどうしているのかなって部屋を覗いてみたら、机の上に突っ伏して爆睡しているだもん。こんなに気の緩んだ様子のクリスターは珍しいやって、見物に来たの。いや、あんまりできすぎて化け物みたいだって言われるうちの兄貴もまだ人間だったんだって、ちょっと安心したっていうか和んだっていうか」
 クリスターは眉間にしわを寄せると、手探りで捕まえたレイフの頭を机の上に押さえつけてやった。
「いてっ、何すんだよ、離せよっ」
 クリスターは逃れようとするレイフの肩に腕を巻きつけて自分の方に引き寄せながら、クスクス笑った。
「何だかまたおかしな夢を見ていたような気がするんだ」
「どんな?」
「はっきりと覚えているわけじゃないけど、あれはたぶん僕らが生まれる前にいた場所じゃないかな…」
「分かんないよ、クリスター」
「ただの夢の話さ、僕にだってはっきりと分かるものか。ああ、そうだ、確か前にコーチにも言われたことあったよね、僕達は足して二で割れば丁度いいって。その通りだなって思うよ。…だからね、もう一度母さんの中に戻してもらって、偏ったところがないように綺麗に分けてから生まれなおすんだ。二人とも今よりずっとバランスの取れた人間になれるよ。そうしたら、きっと―」
 クリスターは続く言葉を口の中に飲み込んだ。
 こんなふうに分かたれた自分の半分を恋しがって苦しい思いをすることもないのかもしれないね。
「ううん、オレは、今のままでいいよ」
 レイフはと言えば、結局クリスターの腕に捕まえられたまま、逃げるどころか、自分からもクリスターの背中に腕を回してじっとしている。
 放っておいたら、レイフのことだから、こうしてクリスターにもたれかかったまま、いつの間にか寝付いてしまうかもしれない。
 クリスターにしても、このまま何も言わず弟とじっと寄り添いあっていたいという誘惑は大きかったが、やはりそれはまずかろうし、何より姿勢が辛い。
 クリスターはようやくレイフを解放してやって机の上から身を起こすと、あくびをかみ殺しながら、壁の時計を眺めやった。夜中の一時を回っている。
「ああ、もうこんな時間か…」
 クリスターが読んでいた分厚い専門書をぱらぱらめくって首を傾げているレイフを、彼は振り返った。
 パジャマ姿で、寝癖のついた髪がピンとはねていて、いつも注意するのにまたスリッパもはかないで裸足のままぺたぺた歩いてきて、相変わらず突っ込みどころは満載だったが、クリスターは今は見ない振りをしてやった。
「それで、おまえがこんな時間に僕の様子を窺いに来たのは、一体どういう訳なんだい?」
 眠気を振り払って、いつもの平静さを装いながらクリスターは問いかけた。
「うん…何だか目が冴えちまって眠れなくて…まだ気持ちが昂ぶってるみたいなんだ。だから、もしクリスターが起きてたら、ちょっと話したいなって思ったんだよ。今日の試合のこと―」
 レイフは一瞬頬を赤らめてうっとりとしたかと思うと、クリスターをちょっと不満そうに睨みつけた。
「あれだけの熱戦のすぐ後だっていうのに、クリスターって、普段とやること変わらないのな。何があっても平常心を保ってさぁ、おまえを見てると、今日勝ったくらいで大騒ぎしちゃいけないのかなぁって気がしてくるよ」
「大騒ぎなんか、まだすることないだろ。次の試合こそ僕達が本当に目指しているものだよ」
「だってさ、準決勝戦だったんだぜ。それに、オレ達は勝ったんだぜ。去年できなかったことができたんだ。躍り上がりたいくらい、嬉しいよ」
「去年の雪辱を晴らしただけだよ」
 あくまで冷静に返すクリスターにレイフはもどかしてならないというような顔で反論しかけるが、結局あきらめたように肩を落とした。
「つまんね、近頃のクリスターって、何を言っても乗ってこないんだ」
 レイフは足元に視線を落としてぶつぶつ文句を言ったかと思うと、溜息をついた。
「なあ、来週は本当に決勝戦なんだよなぁ」
「ああ」
「何だか、ピンとこねぇや。州大会に行けて、もしそこで一番てっぺんまで登れたら最高だろうなって思ったけれど、まさか本当にここまで来れるなんて…好きなことをただ夢中でやってただけなんだけどなぁ。気がついたら、また周りが大騒ぎしているし、新聞やテレビの取材みたいなのも来るようになったし…次勝ったら本当に優勝なんだって分かってきて、何だか落ち着かないっていうか…」
「ことここに至って実感がわいてくると、段々緊張してきたんだろう?」
「う…ん…。そうだなぁ、やっぱりプレッシャー感じてるのかな、オレ。勝ちたいけど、本当に勝てるんだろうかって、不安になってきて―」
「レイフ」
 心細げに唇を噛み締めるレイフの手をクリスターは掴んだ。
「僕達は必ず勝つ。周囲が何を言おうが、流されるな。自分を信じるんだよ、レイフ、おまえにはそれだけの力がある」
 レイフはクリスターに手を取られたまま微かに目を見開いて兄を見つめ返し、それから、ふっと視線を逸らした。
「実力かぁ…将来は絶対プロだなんて豪語しておいてなんだけど、オレはまだ自分の力にそこまでの確信なんて持てないよ。フットボールは楽しいし、勝つのは好きだし、でも、優勝なんて…ここまできたら、オレ個人だけでなくチーム全体に対する責任もかかってくる。去年みたいに肝心な場面でミスしたらとか考え出すと、すごく恐い―」
 去年負けたのは自分の責任だったと軽いトラウマになっているのだろうか、気弱に呟くレイフをじっと観察しながら、クリスターは口を開いた。
「…目を閉じてごらん」
「え?」
 レイフはきょとんとするが、クリスターが促すようにゆっくりと頷くのに、素直に従い瞼を伏せた。
「今までの試合の中で我ながら最高だと思えたプレイを思い出してごらん。細部まではっきりと頭の中に描きこむんだ」
「う、うん…」
「その時、どんな気分だった?」
「そりゃ、気持ちよかったよ。相手のブロックを腕突っ張って押しのけ、吹っ飛ばしてさぁ、もうすっきりしたさ。スピードで振り切ったら誰もオレには追いつけない…そのまんま一気にタッチダウンした瞬間なんか、もう最高だなっ。わーって歓声が降ってきて、嬉しそうに駆け寄ってくるチームの連中に頭小突き回されて、ものすごく嬉しくて、胸の中が熱くなって…」
「来週の試合でも、おまえは同じほどいいプレイができる。観客席から押し寄せてくる怒涛のような歓声の中、素晴らしいプレイをしている自分を想像するんだ。そして、勝った瞬間を」
「ああ、きっとすごく…いい気分だろうな」
 レイフの顔に満足そうな微笑が浮かんでくるのをクリスターは目を細めるようにして眺めていた。
「これから来週の決勝戦まで絶えずそんなイメージを描くようにしろ。なるべくリアルに、感情もまじえてね。そうすれば、実際の試合でも、この感情を味わいたいという欲求が生まれてくる。一流のスポーツ選手というものは、そうやって、試合に向けて自分を一番いい状態に高めていくことができるんだ」
 レイフはぱちっと音をたてそうな勢いで目を開けた。
「緊張するのは悪いことじゃない。むしろ何の緊張もなく試合に臨むよりは、楽しめるくらいの緊張はあった方がきっといいプレイができるよ。勝つイメージを常に持っていれば、試合が迫ってくる緊張感さえも次第に好きになってくる」
 レイフはしばしまじまじとクリスターを眺めたかと思うと、にっと笑った。
「やっぱ、クリスターって、オレをその気にさせるのがうまいや」 
 うんうんと頷きながらイメージイメージと自分に向かって言い聞かせていたかと思うと、レイフはいきなりクリスターの手を強く握り返してきた。
「な、クリスターもやっぱり同じようなイメージトレーニングってしてるのかよ?」
「まあね」
「やっぱり、決勝戦で勝って最高の気分を味わうんだって自分に言い聞かせてんの?」
「ああ」
 クリスターはふと遠い眼差しになった。
「せっかく、ここまで登ってこられたんだ。どうせなら頂点に立ちたい。いや、絶対に立ってやる。おまえと一緒にその瞬間を味わえたら…僕はきっと今まで生きてきた中で最高の気分を味わえるだろう」
 我知らず唇が笑みにほころびる。
「よかった、クリスターもオレとおんなじように思ってるんだ。何だか、いつもおまえがあんまり冷静だから、実はそれほどフットボールに執着ないんじゃないか、チェスみたいにあっさりとやめられる程度のものでしかないんじゃないかって、オレ、疑ってた」
 レイフはほっとしたように囁く。
「一緒に勝とうな」
 はにかんだように笑うレイフと手を取り合っていると、クリスターは急に胸が詰まってきて、我にもあらず黙り込んでしまった。
 レイフは無防備に信じきった目をして、いつまでもクリスターの手を離そうとしない。
 部屋の中は暖かく、柔らかな影に満ちていて、聞こえる物音といえば、二人がたてる穏やかな息遣いだけだ。
 この一時、クリスターは、子供時代に引き戻されたかのように、レイフをとても身近に感じた。同じ部屋を共有していた頃、彼らは時々どちらかのベッドの中に一緒にもぐりこんで、そのまま寝付いてしまうまで熱心に話しこむことがあった。
「レイフ…」
 あの頃への懐かしさと慕わしさに胸がいっぱいになって、クリスターはつい、いつになく優しい声で弟に呼びかけた。
「うん?」
 レイフは頭を片方に傾けながら、屈託なく笑い返す。
 弟へ向かう気持ちに流れされるがまま、クリスターは唇を開きかけたが、ふいに我に返った。
 今にも引き寄せんばかりに弟の手に指を食い込ませていた自分の手を見下ろし、クリスターは苦笑した。
(駄目だ。これ以上の親密さは、今の僕達にとって危険すぎる)
 クリスターはたしなめるように軽く片方の眉を上げてみせながら、手を離すよう、レイフを無言で促した。
「ああ」
 レイフは指摘されて初めて気がついたらしい、一瞬照れくさそうな顔をしたものの、何となく名残惜しげにクリスターの指に指先を絡め、それからやっと手を引っ込めた。
 ぎこちない沈黙が、二人の間に広がっていく。
「もう自分の部屋に帰って、寝ろよ。僕もそうする」
「うん…」
 レイフはまだ少しクリスターから離れがたそうな素振りをしたが、クリスターは気づかない振りをした。
「明日、練習が終わったら、午後からでもちょっとボストンまで足を伸ばしてスタジアムの下見に行こうか。その方が次の決勝戦をイメージしやすいだろう」
「ん、そうだな」
 レイフは決勝戦と聞いて顔を引き締め、クリスターに頷き返した。
「じゃ、お休み、クリスター」
「ああ」
 弟が部屋を出て行くのをクリスターは椅子に座ったままじっと見送った。
 扉が閉ざされるとクリスターは椅子の背に背中をもたせ掛け、ほっと息をついた。
「決勝戦、か」
 思い出したように、長い間レイフに触れていた手を上げ、もう片方の手で包み込むようにしながら目の前に持ってきた。
 レイフのぬくもりや匂いがまだそこに残っているような気がする。
(一緒に勝とうな)
 信頼に満ちたレイフの呼びかけは、クリスターのしんと冷えた胸の内に火をともす。いつだって彼の存在だけがクリスターを突き動かし、本気にさせる。
(ああ、きっとすごく…いい気分だろうな)
 目を閉じると繰り返し描きこまれた鮮明なイメージが瞼の裏に広がり、クリスターを奮い立たせる。
(レイフ、最高の瞬間をおまえと一緒に味わえるなら―僕はどんなことでもする)
 レイフの体温を覚えている指先にクリスターはそっと唇を押し当てた。
(だから、必ず―)
 まるで祈りでも捧げるような姿勢でじっとしているうちに、クリスターは先程見ていた夢をぼんやりと思い出し、何かしら腑に落ちたような気分になった。
 のめりこむほどに好きなものなど何もないはずのクリスターだが、フットボールにはまだ愛着がある。ゲーム自体よりむしろ、それが自分に与えてくれる貴重な時間を愛している。
 レイフと自分の間に共通点などもうほとんどないことをクリスターは既に自覚していた。
 だが、それでも、同じフィールドに立ちゴールラインのある同じ方向をひたむきに睨みつけている一時だけは、クリスターはレイフと一つになることができたのだ。



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