ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第2章 ミスター・パーフェクト

SCENE2


「…今年もここまでやってくれるとは、私も非常に君達のことを誇りに思っているよ」
 クリスターは、上機嫌で話し続ける校長の顔から視線を外し、彼の背後にある本棚の中に収められた分厚い本のフランス語のタイトルを読みながら、改めてその趣味の偏向ぶりを確認した。それから、部屋の右手にあるキャピネットの上にこれ見よがしに並べられた数々のトロフィーやメダルを眺めた。名の通った弁論大会や科学コンテスト、優秀な生徒が集まる私立校らしい文化系の名誉の記録だ。どうやら校長は、今年はまた別の種類の勲章がここに飾られることを熱望しているらしい。
「これもフランクス・コーチの手腕と君達の努力の賜物だろう。昨年に引き続き地区代表として州プレーオフに進めるとは夢のようだ。だが、それで満足せず、是非今年こそは優勝を目指して欲しい。ここ数年、我が校はスポーツでも上位に食い込めるようにと莫大な投資もしてきた。まさか、その成果がこれ程早く出るとは思ってなかったが…君のような優秀な生徒が集まってくれたおかげだね、クリスター・オルソン君」
 校長の猫なで声で名前を呼ばれると背中のあたりがむずむずしたが、クリスターはそんな不快感は全く見せず、優等生的態度で返した。
「フットボールはチームスポーツですから、一人や二人の選手の才能でどうなるものではないと思います。この学校に入って気づいたのは、設備やその他の面でのサポートがとても充実していることでした。とても公立校では望めないような、スポーツ選手には最高の環境ですね。その中で選手一人一人が力をつけていった結果が去年の試合に現われたのではないでしょうか」
 クリスターは、隣に立っているがっしりした体格の男の方へ視線を移した。
「僕としては、フランクス・コーチからプロレベルの作戦や戦術を教えてもらえたことが、すごくプラスになったと思っています」
 クリスターが微笑むのに、もとプロでカレッジの名門チームのコーチ等を経てきたセオドア・フランクスは、こちらに話を振るなとでもいうかのごとく軽く眉を上げた。
「まあ、子供達を教える側としても、学校の全面的なパックアップがあるのはありがたいですな。何しろフットボールは資金のかかるスポーツですから。ここのようにプロでもよだれが出そうな設備を整えてくれる上、いい選手を本気で集めてくれる学校は、少なくとも北東部では、めったにありませんよ。これで結果を出さなければ、サギみたいなものでしょう。私から一つだけ注文をつけるとすれば、頼むからあまり騒ぎ立てないでくれということでしょうか。まだ十七、十八の少年達を大人の思惑で振りまわさないでいただきたい」
 プロ時代から、早く結果を出せとうるさいオーナー相手の場数を多く踏んでいるせいか、フランクスは堂々たる態度で、優勝の確約を欲しがっている校長に軽く釘を刺した。
 コーチのこんな所は尊敬に値すると、クリスターは思う。だが、自分までまとめて子供扱いはして欲しくないなと、本格的なフットボールの戦術を授けてくれた恩師であっても、微かな反発を覚えた。
「いや、むろん子供達に余計なプレッシャーを与えるつもりなどないよ、私は…ただ、まあ、激励というか、君達のような生徒こそ、学校の誇りだと伝えたくてね」
 助けを求めるようにこちらに話しかけてくれる校長に、クリスターは微笑みながら頷いた。
「はい、分かっています」
 しかし、腹の底では、この俗物め、こんなくだらない長話を聞かせるためにコーチや自分に貴重な練習時間を削らせてここまで呼び出したのかと軽蔑しきっていた。
 優勝するつもりかと問われれば、迷わずそうだと答えてやる。だが、それは、この見栄っ張りな校長に、州大会優勝のトロフィーをくれてやるためではない。
「クリスター、君のことは…担任やカウンセラーからも聞いているよ」
 クリスターの一見穏やかそうな態度に気を許したのだろう、校長は親しげに話を続けた。
「スポーツができるだけでなく、生徒会活動でもリーダーシップを発揮し、その忙しい生活の中でも成績は常にトップを維持しているそうだね。英才クラスの秀才達も、あまりにも完璧なクリスターには遠く及ばない…天は二物を与えないという話は嘘だったのかなと君を見ていると思うよ」
 またもや背中がむずがゆくなるのを覚えたが、クリスターはポーカーフェイスの裏に感情を隠し続けた。
「カウンセラーは君に上の学年にスキップすることを勧めたそうだな。今でもまだ大学の入学願書は受け付けているし、君ならば、どんな名門大学からも引く手あまただろう。どうして、そうしないんだい?」
 クリスターは少し顔をしかめた。この手の質問は苦手だ。
「そうですね…スキップや大学進学を考えたこともありますが…ただ、僕自身は別に急ぐ必要はない気もするんです。正直言って、将来どの分野に進むのかまだ決められなくて…。フットボールはカレッジでも続けたい気はします…弟と一緒に…でも―」
 フランクス・コーチの視線がちらっと自分に向けられるのに、クリスターは黙り込んだ。
 微かな焦燥感を覚えた、その時、クリスターは母親のヘレナの顔を思い出した。この問題については、以前彼女とも話し合ったことがあった。
「…僕の母は、スキップを重ねて十五才でMITに入学したんです。その母が言うには、自分の能力を活かせる場所を早い時期に見つけられた喜びはあったけれど、その代わりに同じ年頃の子達が普通の学校生活で経験するはずの貴重な体験をもしかしたらふいにしてしまったのではないだろうかと、後から残念に思ったそうです」
 次第にもとの歯切れのよさを取り戻しながら、クリスターはぽかんと自分を眺めている校長を正面から見据えた。
「それを聞いたせいもあるのかもしれませんが、僕はやはり今の時期でしかできないことを色々試したいんです。生徒会やフットボールもそうですし、他にもまだやりたいことがあります。それらを通じて、次第に自分の方向性が見えてくるのではないか、自分が本当にしたいことが分かってくるのではないかと期待しているんです」
 クリスターは校長の自慢のトロフィーやメダルの上にもう一度さっと視線を投げかけた。それらの賞の幾つかは、クリスターも狙っているものだ。
 クリスターの口元に挑戦的な笑みが閃いた。
「フットボールのシーズンが終わったら、次の目標を目指します。来年はウエスティングハウス科学コンテストに応募するつもりなので、年明けからはその準備に追われることになりそうです」
 未来のノーベル賞科学者を発掘するバロメーターになると言われるコンテストの名前を挙げるクリスターを見上げる校長の眼差しには、賞賛を通り越して、この怪物はどこまでやる気かというような不安が漂い始めている。それもまた、クリスターは気に入らなかった。
(僕が手当たり次第に何に挑戦しようが、僕の勝手だろう。うまくいったら、あなたの部屋を飾る賞がまた一つ増えるわけだし、そんな奇妙なものを見るような目で見ないで欲しいな)
 クリスターの苛立ちはピークに達していた。
 この見栄坊のインテリ気取りの校長を椅子に縛り付けて、以前から聞いてみたかったのだが、フランス系ですらないアメリカ人のあなたが自分の子供達にフランス名をつけたのはどういう訳かと、白状するまで急所に電流を流してやるという想像をしながら、クリスターはあくまで礼儀正しく付け加えた。
「つまり、高校生活は僕にとって猶予期間のようなものなんです。自分の将来をじっくり考えて、決めるための。だから、独創的なカリキュラムで生徒一人一人の才能を伸ばそうとしてくれる、この学校は僕にとっても好都合の、とても居心地がいい場所なんですね」
 クリスターの誉め言葉に、結構単純な校長は気をよくしたようだ。
「ふむ…なるほどね、進路を決めかねている生徒は大勢いるが、つまり君の場合、才能がありすぎて将来何をするのか選びかねているというわけだね。贅沢すぎる悩みだよ」
 クリスターの答えをそう解釈して納得したらしい校長は、いきなりはたとなって、両手を軽く打った。 
「おお、そう言えば、以前君と同じようなことを言った生徒がいたな。あの子も、君と同じほど優秀だったのに、将来何をしたいかという話になると黙り込んで…先に進みたいとは思わない、今の状態が自分には心地いいからと―だが、待てよ、あの少年は確か一年前―」
 そこまで言って、自分が口にのぼらせた人物が正確にはどういう存在であったのかを思い出したらしい、校長は唐突に口をつぐんだ。
 校長の迂闊さに、クリスターは一瞬天を仰ぎたい気持ちに駆られた。だが、下らない話をだらだらと聞かされるよりは、ずっといい。
 実際クリスターは、ここに至ってやっと退屈なばかりだった校長が興味を引かれる話題を口にしたなと思っていた。
「ああ、それは彼のことですね」
 居心地悪げに身じろぎをする校長は、できればこの話には即終止符を打ちたいのだろうが、クリスターはわざと続けた。
「ジェームズ・ブラックでしょう?」
 瞬間、その名前が悪い運を運んでくる忌み詞であるかのように、校長は顔を強張らせた。
「あ…ああ、彼を知っているのかい?」
 クリスターは猫のように目を細め、さらりと言った。
「ええ、少しだけ。英才クラスで一時期同じクラスを取っていたことがあったんです。特に親しかった訳ではないのですが…その後、彼が問題を起こして退学になったと聞いた時は驚いたものです」
 傍らのフランクス・コーチが軽く咳払いをした。ジェームズ・ブラックの名前は、彼にとっても禁句なのだろう。
 クリスターも、それ以上追求するつもりはなかった。
「さあ、我々はそろそろ失礼させてもらいます、校長」
 何となく気まずい空気が漂う中、フランクス・コーチが言うのに、校長ははっとした顔をし、それからのろのろと頷いた。彼はそれ以上クリスターを引きとめようとはしなかった。
「おまえは、なかなか鼻につく奴だな、クリスター」
「そうですね、僕もそう思います」
 校長室を出たところで、クリスターはフランクス・コーチに早速たしなめられた。
「でも、フランクス・コーチだって、忙しいのに呼び出されて、あんな長話につき合わされて、辟易していたでしょう?」
「俺はどうしても我慢ならなくなったら、がつんと言ってやるさ。だが、おまえは、あのたまらん校長に対しても、表面上は礼儀正しく優等生的態度を取り続けた…内心はかなりイラついていただろうにな。全く、いつも取り澄ました顔ばかりしていないで、もう少し普通の十七才らしくできないものか。そんなふうに溜め込んでいると、いつか大爆発するぞ」
「適当に発散しているから、大丈夫です」
 あっさり答えるクリスターにコーチはやれやれというように嘆息した。
「なあ、クリスター、さっき校長にも聞かれたことだが―おまえには、本当に将来の夢というものはないのか? レイフと一緒に大学に進んでフットボールを続けたいというようなことを漏らしたが、それにも確信がない様子だったな。レイフの奴は、おまえと二人で将来はプロに行くんだと無邪気に吹聴しているが、おまえ自身はどう思っているんだ?」
 クリスターは表情を覗き込もうとするコーチの目を慎重にかわしながら、彼と一緒にクラブハウスに向かって歩いていった。
「プロになんて…僕には分かりません。父親を見て知っていますから―好きだけではやっていけない世界であることも、様々なリスクを負うこともね。そこまで自分がフットボールを愛しているのか、突き詰めていくと自信がなくなってきます」
「ふむ」
 校長に対するよりは幾分素直になって答えながら、クリスターは、果たしてこれは贅沢な悩みなのだろうかと考え込んでいた。
『何でもできる』クリスターは、では、その有り余る才能とやらを活かして将来何をしたいのかと問われれば、いつも途方に暮れて立ち尽くすしかなかった。
 全てのことを器用にこなせるが、のめりこむほどに好きなものは何もない。一時チェスに打ち込んだのは自分の力を単に試したかったからだ。だが、頂上まで一気に上り詰め、今度は周りがプロになるのかと騒ぎ始めた頃には、これも違うという結論に達してしまった。結局クリスターにとって、チェスはそこまで大切なものではなかったのだ。
「単純な問いかけだぞ、クリスター、何も深く考えることなどないんだ。おまえは何を一番にやりたいんだ? 何をしている時が一番楽しい?」
 コーチにずばりと突っ込まれて、クリスターはあいまいに微笑んだ。
「だから、そういう特別なものが、僕の中には存在しないんです」
 誰に聞かれても、クリスターにはそうとしか答えられない。実に情けない気分だった。
 コーチはまだ納得し切れていないのか、次の質問を考えているようだ。クリスターは微かな焦燥感を覚え、唇を軽く噛み締めた。
「ただ、欲しいものなら…僕にもありますよ」
 追い詰められたように、クリスターは言った。 
「ほう?」
「でも、それは…絶対に望んではならないものなんです」
 どこか寂しげにぽつりと漏らしたクリスターの横顔を、フランクス・コーチはじっと見つめている。
 馬鹿なことを言ったなと、クリスターは密かに後悔した。
 しばらく無言のまま歩き続け、校舎を出、クラブハウスが見えてきた辺りで、コーチはおもむろに口を開いた。
「なあ、クリスター…」
 その時、クラブハウスに隣接するグラウンドの方角から、よく通る馬鹿に大きな声が降ってきた。
「ああっ、クリスターとコーチじゃん。遅っ。オレ達には遅れるなっていつもうるさいくせに、2人してどこで油を売ってたんだよっ」
 そちらを見て確認するまでもない、レイフだ。
 フェンスの向こうでぶんぶん手を振っていたかと思うと、待ちきれずに金網に足を引っ掛けて軽々と飛び越え、着地するやこちらに向けて全速力で駆け出すレイフを、クリスターとコーチは呆気に取られて眺めていた。
 さすがは陸上の高校記録保持者、何か言い返そうと考えを巡らせる間に、もう目の前まで来ている。
「なあなあ、何の話してたの?」
 尻尾を振ってまつわりついてくる懐っこいレトリバー犬のように、長い腕を伸ばして抱きつこうとするレイフをわずらわしげに押し返しながら、クリスターは困ったような、まんざらでもないような顔で言い返した。
「フェンスを飛び越えるのは危ないからやめろって…何回言ったら覚えるんだ、おまえは」
「言ったっけ?」
「言ったよ、このトリ頭」
 悪びれもせず無邪気に笑っているレイフの頭を捕まえて、クリスターは拳をぐりぐり押し付けてやった。レイフが痛い痛いと悲鳴をあげる。
「校長室に呼ばれて、激励されたんだよ。もしも大会に優勝したら、ご褒美に、レギュラー全員、ニースの別荘に連れて行ってくれるってさ」
「へえっ、すげえ…て、ニースって、どこだっけ?」
「フランスの有名な保養地だよ」
 ピンとこなかったらしい、レイフは目をぐるっと回した。
「ふうん…あ、そういや、フランス人ってカエル食うんだってなぁ」
 恐ろしそうに首をすくめるレイフに、クリスターは軽く吹き出した。
「中国人もね。それより、フランスと聞いて、どうしてそんな発想しかできないんだよっ」
 クリスターが逃げ回るレイフの脇腹をつついてやろうとすると、レイフはよりにもよってフランクス・コーチの背中に回りこんで、彼を盾にする。
 身の丈百九十センチを越える高校生男子二人のじゃれあいに巻き込まれかけたコーチは顔を引きつらせ、ついには、おまえらいい加減にしろと雷を落とした。
「…大体おまえはな、いつも落ち着きがなさ過ぎるんだ。体格なら立派な大人だし、十七才にもなっているんだから、もう少し考えた行動を…えい、俺はさっきクリスターにはこれと正反対の説教をしたな。全く、おまえ達二人は足して二で割れば丁度いいんじゃないか?」
 コーチの説教を聞きながらしょんぼりと頭を垂れて歩いていく弟を、少し離れた後ろからクリスターはじっと見守っていた。
(僕が欲しいもの。けれど、決して望んではならないもの―そして、どんなことをしても守りたい、唯一の絶対的な存在は…)
 弟の背中に向けられた琥珀色の瞳の奥底に一瞬浮かんだ激しい感情を、クリスターは伏せた瞼の裏に封じ込めた。



(何を驚いた顔をしているんだ。僕がこんなまねをするのが意外か。
僕を挑発したのは君じゃないか。僕の大切なものに手を出そうとした。
だが、君の本当の狙いは僕なんだろう?
だからこそ、ここまで来てやった。
今更怖気づいたわけじゃないだろうな、僕にここまでさせておいて―。
さあ、ゲームを始めようか。君が勝つか僕が勝つか、命がけのゲームをしよう。そして、もしも僕が勝ったら―その時は弟を返してもらうよ、J・B)



 食事が終わるとコーヒーのマグカップを持ってリビングに移動し、しばらくテレビを見ながらくつろいで家族団欒するのが、オルソン家の習慣だ。
 レイフは、今日受けた進路指導のカウンセラーとの面接のことを、ラース相手に熱心に話しこんでいる。
 この二人、性格がそっくりなので、話があうのだ。
「そんでさ、オレ、将来はプロのフットボール選手になるって言ったんだよ。そのために、まずカレッジ・リーグの有名校に入りたいんだけどって…そしたら、オレならスポーツ推薦が取れるかもしれないけど、どうせ大学に行くのなら、他にも何か身につけることをまず考えろって。プロになれるかどうかなんて今から分からないんだからって」
 レイフの言うことは小学生の時から変わっていないなと、テレビを見る振りをしながら、クリスターは思っていた。
「俺は、おまえならプロにだってなれると思うぞ。怪我にだけ気をつけるならな。大学は、おまえの好きな所に進むといい。推薦が取れるなら、それに越したことはないが、なあに父さんが協力してやるとも」
 自分の見果てなかった夢を息子達に託しているラースは、頼もしげに胸を叩いて、受け合った。ビールを飲みすぎて、気が大きくなっているせいもあるだろう。
 その手にコーヒーのカップではなくウイスキーのグラスが握られているのに、クリスターはちょっと眉を顰めた。この頃でっぷりと太ってきたラースは血圧も高く、医者からは酒量を減らすよう言われているが、一向に聞き入れる気配はない。
(自分で自分を律せないなんてね、父さん…あなたは人はいいけれど、所詮それだけだね)
 何となく二人の会話に混じりたくないクリスターは、ちらっと母の方を見やった。
 形のいい唇に微かな笑みをうかべてレイフとラースを眺めているヘレナは、夫と違って全く老け込んでいない。副社長としてラースの会社を取り仕切るようになり外に出る機会が増えた今は、一層若々しく美しくなったような気さえする。
 どうしてヘレナがラースと結婚する気になったのか、クリスターは時々疑問に思っていた。
「なあ、クリスター」
 突然レイフが話を振ってくるのに、クリスターは幾分戸惑いながらそちらに顔を向けた。
「おまえ、どこの大学がいいと思う? フットボールの盛んな学校って色々あるけどさぁ…」
「ああ、うん…」
 クリスターは口ごもった。
「おまえもオレと一緒にやるんだよな、カレッジ・リーグ?」
 レイフは逃がすまいというようにまっすぐにクリスターの目を見据えながら、追求する。
「レイフ、僕達はまだ十一年生なんだよ。進路を決めるのなんて、一年先のことじゃないか。そりゃ、気の早い奴は大学の下見に行ったりしているけれど―どこに行くのか、じっくり考えて、決めればいい。少なくとも僕は今すぐには決められないよ」
「ちぇっ、逃げやがって、ずるいなっ。クリスターは欲張りすぎるんだよ。選択肢を多くしすぎて、自分で自分がどうしたいのか、訳が分からなくなってんだ。オレなんか、ずっとフットボール一筋なのにさ」
 その場限りの言い逃れのようなクリスターの返事に、レイフは不平をもらしながら、クリスターの脚をつま先で軽く蹴ってきた。
「レイフ、僕だって―」
 おまえとずっと一緒にいたい―言いかけて、クリスターは口をつぐむ。
「ごめん、僕はまだ色々迷っているんだ」
「迷うことなんか、ないだろ」
 駄々っ子のような口調で言うレイフの瞳には、しかし、本気の色がある。
(オレから離れていくなよ、クリスター。子供の頃からの約束じゃないか、一緒にプロになろうって)
 そんなレイフの顔から目を離すことができず、クリスターは気持ちがぐらぐらと揺れ動き、弟が求める方へ傾きそうになるのを覚えた。すると―。
「…レイフ、あまりクリスターを困らせるものじゃないの。それに、あなたはまず今もう少しちゃんと勉強して、卒業に必要な単位を取れるようにしなくてはね」
 柔らかな口調でレイフをたしなめたのは、ヘレナだ。レイフはぎゃふんと叫んで、ソファの背もたれに倒れこんだ。
「それは言わないでくれよ、母さんっ。ううう、シーズン終わったら、そっちもがんばるからさ」
 クリスターは密かに胸を撫で下ろしながら、助け舟を出したくれた母に向かって感謝の眼差しを送った。
(そう、僕だってレイフの言うように二人でこの先もフットボールを続けたい気持ちは確かにある)
 レイフと一緒にずっと同じ一つの夢を追えたら、クリスターはきっと幸せだろう。だが、いつまでも互いに依存しあう関係にとどまっていてはならないとも思う。自分の足だけで立って生きていけるようにならなくては、一人前の人間とは言えない。そう思うから、ずっと、クリスターは努力してきたのだ。
 他に夢中になって打ちこめるものを探した。多くの女性と付き合ってきたのも、本気で愛せる人がそのうち現れるのではないかと少しは期待したからだ。
 今のところ無駄な努力ばかりで、クリスターの胸には諦めにも似た空虚さが広がるばかりだったが、レイフのためにも、やめるわけにはいかなかった。
 レイフはこの頃クリスターが冷たくなったと思っているかもしれないが、そうではない。いい加減兄離れした方がいいと思うから、クリスターはわざと突き放すのだ。
(おまえだって…大学に行ってフットボールを続けたいなら、僕を意識せず、自分に一番あった所を自分で決めればいい。僕は、おまえが何と言おうが、きっとそうするよ。恋人だって、見つける。だから、レイフ、おまえも…誰か他の人を好きになって、その人をまず大事にすることを考えるんだ。そうやって少しずつ、お互いから離れていこう…)
 考えていくうちに、クリスターは次第に胸苦しさを覚え始め、感情をセーブしようと膝に置いた手をぎゅっと握り締めた。
 結局、そんな考えをレイフに言い聞かせることなど、クリスターはこれまで一度もできないでいたのだ。
(片割れから離れたくない、離れられないのは―僕の方だ)
 クリスターは手の内のマグカップの中のコーヒーを覗き込んだまま、思わず唇が震えそうになるのを歯を食いしばって堪えた。
(苦しい…)
 クリスターにとって、自分をコントロールしようとすることはほとんど癖になっていた。だが、レイフが関わってくるとどうにも気持ちが揺らいで、うまくいかない。
 気分を変えようと、クリスターが何気なくテレビを見やると、ラースがこのところはまっているミステリーもののドラマのクライマックスだった。
 緊迫した音楽が流れる中、主人公が銃を自分のこめかみに当てて引き金を引く。幸い弾は出ない。そうして、同じ銃を敵役の男に手渡す。男は震える手で銃を自分の頭に当て―。
 クリスターは我知らず息を飲んだ。
(ロシアン・ルーレットか)
 厳重に封印した扉の内側で殺したはずの怪物が息を吹き返して起き上がる、そんな気配に脅かされて、クリスターはすっと目を細めた。
 生々しい既視感に捕らわれながら、クリスターはラースの部屋に保管されている拳銃を思い出した。
 あれは、まだあそこに置かれているのだろうか。もう何年も昔、物取りか変質者が家に進入しようとしたことがあって、物騒だからとラースが購入したものだ。幸い、一度も彼がそれを使うことはなかった。もしかしたら、存在すらもう忘れているかもしれない。
 だが、クリスターは、それがどこにあるかは無論、どうやって使うのかも知っている。
 忘れもしない、一年前のあの夜、クリスターはラースの部屋から密かにあの銃を持ち出した。
(今でも覚えている、あれを手に持った時の重みだとか、グリップを握り締めた感触…堅い銃口を頭に押し付けて引き金を引く瞬間の肌がビリビリするような緊張感も―)
 危険な気配を孕んだ追憶に捕まりそうになったクリスターを、レイフの動転した声が今に引き戻した。
「こんな番組、つまらねぇっ」
 突然テレビのチャンネルを変えられて、ラースが怒った声をあげた。
「こら、何するんだ、レイフ。せっかくいいところだったのに」
 無言のままテレビから顔を背けているレイフからリモコンを取り上げると、ラースはぶつぶつ言いながらもとのチャンネルに戻した。
 クリスターがじっと押し黙って見守っていると、レイフが固い表情のままこちら振り返った。どうやら、このドラマの一場面からレイフもクリスターと同じ記憶を蘇らせたらしい。
 クリスターは不安そうに瞳を揺らしているレイフに向かって、ふっと笑いかけた。
(馬鹿だね、何を怖がっているんだ。終わったことをいつまでも引きずるなよ)
 レイフの頬が僅かに紅潮する。
(ああ、分かってる。でも、おまえにとっては終わったことでも、オレは忘れられない。もしも、おまえがあれで命を落としていたら、オレは一生自分を許せなかったろう。いいか、たとえオレのためでも、もう二度とあんなまねすんなよ)
 視線を絡ませながら、クリスターとレイフは自分達だけに分かる秘密の言葉をかわし合った。
(もちろん、あんなことはもう二度としないよ)
 レイフを安心させるために頷き返すと、クリスターは何食わぬ顔で再びテレビの画面に視線を戻した。
(あんなこと、か…)
 レイフがクリスターをなじるのも無理はない。
 銃などと物騒なものまで持ち出して。本当に命を捨てるつもりだった訳ではないが、失敗すれば死んでいた可能性もないわけではない。
 例えどんな理由があっても、普通はあそこまでやらないだろう。だが、クリスターにはやれてしまった。
(それに、運悪くあれで死んでいたとしても、僕は別に後悔しなかっただろうな。その程度の運しか持てないなら、この先もどうせ大した人生は送れないだろう…レイフのことだけは気になるけど―)
 生きること自体にあまり執着がないのだろうかと、クリスターは冷静に自己分析を試みる。
 今の状況に取り立てて不満があるわけでもないし、壁にぶつかっている訳でも、挫折したわけでもない。順調すぎるくらいの高校生活を送っていながら、そんなものは別にいつ失っても構わないような気がする。いっそ、その方がすっきりするかもしれない。我ながらあまりまっとうな精神状態ではないなと、これも他人事のように突き放した気分で眺めるのみだ。
(何が、『あまりにも完璧なクリスター』だ。僕よりも劣ると、あの浅薄な校長が評した連中の方がずっと健全でまともな中身を持っているに違いない。全く、現実とのギャップに吐き気がしそうなほどだ)
 今日校長室で聞かされた話を思い起こしながら、クリスターは胸の奥で苦々しく吐き捨てた。
(何も知らない連中は、外面だけの僕を見て、完璧だとか、才能がありすぎて困っているだなんて勝手なことをほざくけれど、実際僕の心は空っぽで、世のため人のため、あるいは自分のためでさえも、何かを生み出すそうとする意思などない…。欲しいものならあるよ、でも、二度と手に入れてはならないとあきらめたから…行き場のない想いをもてあましながら、おもしろくもない日々を、自分を殺しながらただ生きているんだ)
 ふいに激しい苛立ちがこみ上げ、無性に全てを破壊し尽くしたいような衝動を覚えたが、クリスターは、いつものように、実に見事に抑制した。
 クリスターはおもむろにソファから立ち上がると、大学で受けている心理学のレポートを書きたいから自分の部屋に戻ると言って、リビングを出て行った。
 レイフは一瞬クリスターを追いかけてもっと追求したそうな顔をしたが、ラースが話しかけるのに気を引かれ、結局ついてこなかった。
 クリスターはリビングのドアを閉じたところで、しばし佇んだ。ちらと後ろを振り返った。
(でも―こんな僕にも、どんなことをしても守りたいものはある)
 一年前に巻き込まれたあの事件を通じて、クリスターは、どんな悪意にも勝る、己の凄まじい執念を自覚した。
(僕がしたことは今でもレイフを不安がらせている。確かに、僕は少しやりすぎたのかもしれない、でも、何も間違ったことはしていないよ。レイフは、あんなふうに気に病まなくていいんだ。僕は当然のことをしたまでで、後悔など微塵も感じてはいない、それどころか―)
 クリスターはリビングの扉を凝然と眺めた。父親と話しているらしい、レイフの声が聞こえてくる。
 物思いに暗く沈んだ表情を和らげると、クリスターはふいっと視線を逸らして、歩き出した。
(レイフ、おまえを手に入れようとは、僕はもう考えない。ただ、おまえの幸福と安全を守るために僕は存在していると…心の中で思うくらいは、構わないだろう?)
 そう自分に言い聞かせなければ、今のクリスターにとって、日々を生きることはあまりに空しいから―。


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