ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第2章 ミスター・パーフェクト

SCENE1


 十一月。フィリップス・アーバン高校フットボール・チーム『ブラック・ナイツ』は順調に試合に勝ち続けていた。もともとは進学校で、スポーツにはあまり強くないとされていたアーバン高校だが、ここ数年はスポーツ活動の強化に力を入れるようになっていた。昨年これまで一度も出場したことのない州大会に出て、いきなり準決勝まで進んだ『ブラック・ナイツ』にかけられる期待は、今年は一層大きい。
 特に注目もされず、訳が分からないまま勝ち進んでしまった昨年とは、選手の覚える期待感も、またプレッシャーも段違いだろう。
(それでも、次の試合に勝てば地区代表か…)
 勝ちを進める毎に騒がしくなってくる外野をわずらわしく思いながらも無視して、クリスターはいつも冷静に状況に対応している。
 およそ熱狂とは程遠いクールな性格であり、チームの司令塔が浮き足立つ周囲に流されては他のメンバーを動揺させることになるからという計算もあった。
(何も大騒ぎするようなことじゃない、州プレーオフへの出場権を手にしたくらいで…。今年は一番上まで勝ちを獲りにいくチームなら―)
 実際勝利に慣れていないということが、自分達にとって一番のネックだとクリスターは思う。皆が優勝を意識し始めた時からが、辛いだろう。昨年もそれで負けたようなものだ。
『うちのチームの要は、おまえとレイフを中心としたオフェンスだからな。攻撃的な作戦で、点を取りまくって、勝ちに行く。できれば、もう少しレイフにはここという時に気持ちの面での踏ん張りを示して欲しいが…おまえと違ってあいつはプレッシャーに弱いのか、時々妙に消極的になることがあるからな。ノリに乗ってる時はいいんだが、プレイに波がありすぎる。去年も準決勝戦に出た途端、固くなって、本来のプレイができなかっただろう。今年こそは一戦ずつ実力出し切った試合をしろと、そこんとこ、弟によく言い聞かせておけ』
 先程の試合が終わった後、フランクス・コーチから聞かされた言葉を思い出して、クリスターは口惜しげに唇を噛み締めた。
(今日の試合、勝ったはいいけれど…レイフの奴め、手を抜いたな…!)
 コーチと話し込んでいたために少し遅れてクリスターがロッカー・ルームに入った時には、レイフの姿はそこになかった。
 試合終了直後クリスターと目が合った瞬間嫌な予感を覚えて、兄に捕まる前にどこかに逃走したのかもしれない。
(どうせ帰る時は車で一緒に帰るしかないんだし、逃げても同じなのにね。まあ、いいさ、レイフ、家に帰ったら今夜はじっくり説教だぞ)
 レイフ自身は手を抜いたという自覚はないのかもしれない。しかし、コーチが指摘するように、彼には、肝心な時に力を出し切れないということがままあった。
(今年は一番上に立ってみたいと言ったのは、おまえのくせに…)
 ことスポーツに関しては、レイフにはクリスターを上回る才能と実力がある。あれだけ恵まれた身体能を持つレイフが本気になって努力さえすれば、どんな望みも叶えられるだろう。だが、彼には、面倒なことや辛いことを避けたがるしようもない性向があった。てっぺんに立てば気持ちよいだろうとその瞬間の夢は見ても、そこに至るまでに何をどうしなければならないのかを考えない。
(レイフの馬鹿…本当ならおまえがエースになってもおかしくないのに…そう、いつまでも二番に甘んじることなどないんだ)
 ロッカー・ルームにまだ残っていたチーム・メイトは、勝ち試合だったというのになぜか仏頂面で怒りのオーラを発しているクリスターに、声をかけようとしたがかけられず、ずんずん奥に入っていく彼を黙って見送っている。
 自分のロッカーの前に着くと、クリスターは黙々とユニフォームやその下の鎧のような防具を外していった。そうするうちに次第に『戦闘モード』だった気持ちが切り替わっていく―。
 装備を解いてしまって、クリスターはほっと息をついた。体はまだ戦いの余韻を残して熱く火照っているが、心は既に冷めている。
 ロッカーの前の細いベンチに置かれていたまっさらなタオルを取り上げて、ダニエルかなと自分を追いかけてチームに入った少年の顔をクリスターが思い浮かべた時、彼がいる場所の裏側のロッカー辺りから、今考えていた当人が誰かと言いあう声が聞こえてきた。
 クリスターは眉を潜め、その声がする方へ向かった。
 ずらりと並んだロッカーの角の辺りで足を止め、クリスターが様子を窺うと、ラインをやっている大柄な選手の一人にダニエルが絡まれている。今までも時々彼をからかったり、苛めまではいかないが軽く小突いたりすることのあった奴だ。
 一瞬クリスターは間に入ってやめさせようと口を開きかけたが、気を変えた。
 華奢で小柄なダニエルは、マッチョ信仰でもありそうな大柄なスポーツ選手達からすると苛めやからかいの対象になりやすい。しかし、それを承知で進んでチームに入ってきたダニエルなのだから、このくらい自分で切り抜けてもらわなくては困る。
 そう突き放して考えたものの、いざとなれば助けに行くつもりでクリスターは眺めていた。しかし、すぐに、その必要はなさそうだと分かった。
 実際、ダニエルは自分よりも頭二つ分くらい上背のある大男相手に毅然としたもので、揶揄されてもひるまずに軽く受け流し、堂々と渡り合っている。最後は、その選手の方が楽しそうな笑い声を上げて、ダニエルの肩を親しげに軽く叩いた。どうやら絡まれていると思ったのはクリスターの勘違いで、スキンシップのようなものだったらしい。
 クリスターの唇にふと微笑がうかんだ。
「あ、クリスターさん?」
 こちらを振り返ってクリスターの存在に気づいたダニエルが、びっくりしたような声を上げたかと思うと、慌てて駆け寄ってきた。
「ああ」
 クリスターは自分のロッカーの方へ戻りかけた足を途中で止めた。
「見てたんですか?」
 小声で囁くダニエルにクリスターは軽く頷いた。
「とめに入るべきだろうかと迷ったんだが―」
 クリスターが言いかけた言葉の先を、ダニエルが利発そうな目を輝かせて続けた。
「分かっています。あれくらい、ぼく一人の力で切り抜けないといけませんよね。下手にクリスターさんに頼ると特別扱いだとか変なふうに受け取られて、余計にチームの中で孤立することになってしまいます」
 ダニエルのように察しのいい相手と話すのは楽だなと、クリスターは密かに思った。これが、キャサリンのような頭の回転がゆっくりな相手だと、こちらの考えを分かってもらえるまでいちいち細かいところまで説明しなければならないので、次第に会話自体が面倒になってしまう。
「…ぼくは、何かおかしなことを言いましたか?」
 クリスターが薄く微笑むのに、ダニエルは怪訝そうに問い返した。
「いや…ここまでよくもったなと感心したんだよ。最初の頃は、皆に無視されたり邪魔者扱いされたりで、泣きそうになっていたこともあったのに、今ではちゃんとチームの一員として馴染んで…よくがんばったな」
 クリスターには珍しい優しい言葉に、ダニエルははっと息を吸い込んだ。
「えっ…そ、そんな…誉めてもらうほどのことじゃないです…」
 しどろもどろになるダニエルの色白の顔が、見る見るうちにウサギの耳のようなピンク色に染まっていく。さっきまでは普通に打ち解けていたのに急に緊張したりして、一体どうしたのだろうとクリスターが不思議がっていると、ダニエルはクリスターを見上げる瞳を揺らせ、恥ずかしそうに顔を背けた。
(ああ…なるほどね)
 どうやら、クリスターが上半身裸なのがまずかったらしい。優しい言葉をかけられたのと相まって、急にひどく意識してしまったのだろう。
 クリスターはちょっと首を傾げると何となく落ちつかなげに腕をさすった。
(しかし―いちいち僕が何か言ったりしたりする度に、こんな反応をされては困るな。女の子を扱うより、ある意味気を使う…)
 ダニエルには、告白された時点で、彼の気持ちには応えられないとはっきり告げている。それでも構わないから傍にいたいと訴えるダニエルをはねつけることもできたはずだが、クリスターはそうはしなかった。
 素っ気無なくされるほど余計にむきになるダニエルの性格は、一年前のチェス対決の時からクリスターはよく知っている。今までどおり適当な距離を保って接するのが一番いいだろうという判断だ。
 ダニエルの存在が全く気にならないといえば、しかし、嘘になる。小賢しくて生意気で、気になる相手に自分を認めてもらおうとつい無茶をしてしまう、彼を見ていると、クリスターは何となく中学生の時の自分を思い出した。結局、一生懸命な姿が痛々しくて、放っておけないということか。
 だからこそ、クリスターはダニエルには手を出さない。彼には多分に憧れや尊敬を恋愛感情と混同している節がある。一時の感情にまかせておかしなことになって、思春期の熱が冷めた時に後悔させるのは可哀想だ。
(可哀想だなんて僕が思うのもおかしな話だが…今まで付き合った人相手に、そんな気遣いをしたことなど、たぶんなかった。キャサリンみたいに、来るものは拒まず、簡単に関係を持って…結局長続きせずに終わって…)
 付き合い始めて僅かひと月で早くも別れる機会を窺っている、現在の『恋人』を思い出して、クリスターは密かに溜息をつく。初めから薄々分かっていたことだが、キャサリンとはどうしてもあわない。やることをやってしまってもう飽きたというのは、いくらなんでも薄情過ぎるだろうか。ひと月弱での破局とは、最短記録を達成しそうだ。
「あの…」
 クリスターの憂鬱そうな顔色をどう読み取ったのだろうか、ダニエルが落ち着きを取り戻した声で話しかけてきた。
「クリスターさん、言ってもいいですか…? キャサリンのことなんですけど…」
 クリスターは眉をひそめた。他人の迷惑などお構いなしにクラブハウスや練習中のグラウンドまで押しかけてくるキャサリンとは、ダニエルは頻繁に衝突していたのだ。
「彼女が、また何か迷惑でもかけたのか?」
「いえ、そんなことじゃないです。実は、彼女が、テニス部のエースと付き合い始めたって噂を聞いて…」
 クリスターは一瞬虚を突かれ、それから用心深く聞き返した。
「でも、それは…ただの噂なんだね?」
「いいえ、噂だけを根拠にクリスターさんにこんな不愉快な話を聞かせるわけにはいかないから、ちゃんと調べたんです。放課後キャサリンをこっそりつけていって、テニス部の奴と一緒にいる現場を捕まえて白状させました」
「ふうん」
 そこまでやったかと、クリスターはキャサリンの裏切りよりもダニエルの行動の方に気を引かれていた。
「あの女、許せません。クリスターさんと付き合っているくせに、別の男となんて、軽すぎる」
 自分のことのように憤慨しているダニエルを面白そうに見下ろしながら、クリスターは、しかし、自分の胸には何の怒りも失望も湧き上がってはこないことに苦笑していた。
「たぶん、僕の態度がキャサリンにとっては冷たすぎたんだろう。僕は、今はどうしてもフットボールが恋より優先だし、一緒にいても次の試合のことを考えてしまう。恋人の関心を常に自分に引き付けておきたいキャサリンとは、そのせいでもめたこともあったよ。それがあって、ここしばらく会ってなかったんだけれど、その間に、自分をもっとかまってくれそうな相手を見つけたわけだ」
 正直言って、クリスターは肩の荷が下りたような気がしていた。
 これで余計な雑念のもとを排除できるというのは我ながら勝手すぎるが、本音なのだから仕方ない。
「すみません、クリスターさんに嫌な思いをさせてしまって」
「君が謝ることじゃないよ、ダニエル。むしろ、感謝したいくらいだ」
 クリスターがもらした本音を理解するには、ダニエルはまだ純真すぎたかもしれない。
「え?」
「いや…」
 当惑するダニエルの頭に手を置いて、クリスターはしばらく考え込んだ。それから、大きな目を見開いてじっと自分の言葉を待っている彼に、ゆっくりと言い聞かせた。
「ダニエル、僕を気遣ってくれる君の気持ちは嬉しいよ。ただ、僕のためだからといって誰かを尾行するとか…そういう真似はもうやめてくれ。分かるだろう、そういう探偵か警察紛いの行為は、僕達は『あれ』きりやめたんだから」
 クリスターがほのめかしたことに、ダニエルは神妙な顔で聞き入り、こくんと素直に頷いた。 
 クリスターは少しほっとした。
「ありがとう、ダニエル」
 また少しダニエルの頬が赤らんだが、今度は収拾がつかなくなる前にクリスターはさっと身を翻して、歩き出した。
 背中を向けたまま、クリスターはダニエルに軽く手を振った。
「今度はもう少し考えて、付き合う相手を選ぶよ。正直、キャサリンのような女はもうこりごりだ」
 どんな相手でもどうせ本気にはなれないだろうけれどと、クリスターは半ばあきらめたように、胸のうちで呟いていた。
(誰でもいい…熱烈な恋は無理でも、一緒にいたいと自然と思えるような相手が見つかれば―初めは好きでなくても傍にいれば愛着がわいて、そのうちそれが愛情に変わるかもしれない。…全く、自分で考えて白けるくらい、そんなふうに他人を求める僕など想像もつかないな。演技なら、別だけれどね。つまり、僕の中にはもともとそんな感情はないということだろうか。外面だけは完璧に取り繕っているから周りはちやほやするけれど…誰のことも愛せないなんて、案外僕は、人間としては欠陥品なのかもしれないな)
 キャサリンに対する自分の冷たさに嫌気が差していたのだろうか、クリスターは何となくささくれ立った気分でそんなことを考えてみた。
 自分のロッカーの前に戻ってきたクリスターは、ちらっと隣のロッカーを見やった。
(レイフ…)
 きつかったクリスターの表情がふと緩んだ。
 今も昔と変わらず手のかかる弟は、今、一体どこで何をしているのか。好きな遊びにばかりに熱中する子供のように、責任や面倒なことはみんなクリスターに押し付けて、自分にお鉢が回ってくると逃げてしまう―。
 だが、そんないい加減な弟をうまく操縦して、その気にさせるのがクリスターは昔から上手だったのだ。
(僕が率先して何かをしようとすれば、おまえも負けじと追いかけてくる。途中で飽きて投げ出したことでも、僕がやめないでいると、しばらく後には戻ってきて一緒にしたがる。だから今年も、僕が何がなんでも優勝するという姿勢を見せれば、俄然その気になるはずだ。仕様のない奴め、根っこのところが幼児期から成長していないんだから)
 レイフが隠れそうな場所も大体把握している。もう少し時間を置いて、レイフがそろそろ戻りたい気分になった頃、ゆっくり探しに行こうとクリスターは思った。
 その時レイフにかける言葉や、それに対する彼の反応を頭の中でシミュレーションしているうちに、いつの間にかクリスターは機嫌を直していた。
 シャワーを浴びて帰り支度を整え、きっかり三十分後、そろそろ潮時だろうとクラブハウスを出て逃走中の弟を探しに出かけた時には、クリスターの頭の中からキャサリンの存在など綺麗にぬぐい去られていたのだ。



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