ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第1章 終わりの始まり

SCENE5

「どうして、あの女がクリスターさんと一緒にいるんですかっ!」
 フットボールの練習に出るなり血相を変えたダニエルにレイフが詰め寄られたのは、あれから僅か三日後のことだ。
 怒り心頭のダニエルに手を引っ張られてレイフがクラブハウスの前までに引きずられていくと、なるほど、先にグラウンドで練習を始めていたクリスターの傍に例のキャサリンがいる。クリスターは自分のものという態度で馴れ馴れしげに話しかけている、その様子は、ダニエルでなくても癇に障るものに違いない。
 しかし、レイフはむしろクリスターの行動力の方に呆気に取られていた。
(すげ、手ぇ、早過ぎっ)
 ああいうまねは、やはりレイフにはできない。
「あれ程あの馬鹿女をクリスターさんには近づけないでくださいって言ったのに!」
 普段は割とクールなのに今は頭から湯気が出そうなほど怒っているダニエルの非難を半ば聞き流しながら、レイフは考え込んだ。
(キャサリンと付き合うって…初めは単なる思い付きか冗談かと思ったけれど、本気だったんだ。それじゃあ、やっぱ、オレにも誰か紹介してもらうつもりなのかな…ううん…一緒にデートとかすんのかな)
 今でもあまり気は進まなかったが、こうなったらそろそろ自分も腹をくくらなきゃならないかなと、レイフは神妙な顔になった。
「どうして、よりによってキャサリンなんです。全然つりあわないのに」
 まだ文句を言っているダニエルをレイフはちらっと見下ろし、軽くたしなめた。
「仕方ないだろ、クリスターが決めたことなんだぜ」
 クリスターが決めたと言うとダニエルは黙り込むしかなかったようだ。さっと頬を赤らめてじっとグラウンドの方を睨みつけている、その目は気のせいか少し涙ぐんでいるようだ。
(ああ、こっちも可哀想だよなー)
 ダニエルのクリスターに対する気持ちを今は知っているだけに、レイフは痛々しいの半分、これであきらめて欲しいと願うの半分の複雑な気分だ。
「あ」
 ふいに、ダニエルが何やら嬉しそうな声をあげた。
 再びレイフがグラウンドを見やると、クリスターはキャサリンに練習の邪魔になるから出ていけと言っているらしい。キャサリンは不満そうな顔をしたが、クリスターが素っ気無く背中を向けるのに、ついにあきらめたように離れていった。
 当然だ。クリスターは、例え恋人にでも、むやみやたらとべたべたされたり、ましてや何かに集中したい時にそれを妨げられたりすることを嫌う。クリスターは誰にも独占されない。誰にも心の中にまで踏み込ませない。そんな彼のやり方を理解することは、普通の女性には難しいのではないか。クリスターが今まで付き合った人は多いが、どの相手とも長続きしなかったのは、彼のそんな冷淡さに起因しているのかもしれない。
 すごすごと去っていくキャサリンを、レイフはそれ見たことかというような皮肉な思いで見送ってしまった。女の子相手に、これはちょっと意地悪だろうか。
 だが今は、キャサリンがクリスターにかまってもらおうとしても無理だ。現在のクリスターの関心はフットボールにあって、恋にはない。
「レイフ」
 気がつけば、クリスターがこちらに体を向けていた。
「何をしている。早く来い、おまえがいないと練習もやりにくい」
 顎をしゃくって自分を誘うクリスターに、レイフはふっと笑った。
 レイフにとって何が幸せかと言うと、こうしてクリスターに必要とされる瞬間だ。フットボールを一緒にやっている時だけは、他の誰でもない自分だけがクリスターと対等の場所に立っていられる。
 レイフは照れくさそうに鼻の頭を引っかくと、辛抱強く待ち受ける構えのクリスターに向かって声を張り上げた。
「ああ、悪っ。今、そっち行くから」
 傍らのダニエルが投げかけてくる視線にこもる微かな羨望を味わいながら、レイフは兄のもとへ悠然と歩いていった。



(クリスターがキャサリンなんかと付き合う気になったのは、オレのせいだと思うのは、やっぱうぬぼれだよなぁ)
 今回は、ハニーの時のような複雑な事情があるわけではない。たぶん本当にクリスター自身も気分転換がしたかったのだろう。だが、一緒にデートというアイディアは、やはり今までまともに女の子と付き合った試しのないレイフのためのものに違いない
 レイフは相変わらず異性に対しては本当に不器用だった。
 無論、関心がないわけではない。人並みに彼女くらい欲しい。もっとあからさまに言ってしまうと、女の子相手に初体験がしてみたい。
 レイフだって十七才のエネルギーの有り余っている高校生なのだ。女の子とやりたいのかやりたくないのかと問われれば、ものすごい勢いでやりたい方に諸手を上げてしまうくらい、そっちにも興味深々だ。
(けど、そこまで兄貴のお膳立てでっていうのも、何だか抵抗があるよなぁ。どうせオレはクリスターと違ってもてたためしなんかないけど、そんな同情されたかないや。大体兄貴の監視下でのデートや初体験なんて…どうよ…?)
 そんな不満や不安を心の底に抱えながらも、レイフは結局クリスターの用意した据え膳をいただくことになりつつあった。
「ねぇっ、急におとなしくなったのね、レイフ」
 目の前のテレビの画面をぼんやりと眺めながら考えに沈みこんでいたレイフは、つまらなそうな声がいきなりかけられるのに、夢から覚めたように瞬きをした。
「あ、ごめん。ちょっと考え事してて…」
「ふうん。一体何考えてたのよ?」
 テレビの前のゆったりとしたソファに一緒に座っていたミナ・ハミルトンは、従姉妹のキャサリンにどこか似た気の強そうな目を意地悪そうに細めて、レイフを覗き込んだ。
「た、大したことじゃないよ」
 レイフは焦って、ミナからちょっと身を引いた。緊張を隠そうとテーブルからジュースのボトルを取り上げて飲む振りをした。
 視線をさっと周囲に巡らせる。天井が高く、木材を多用した山小屋風のリビング。壁際には広い炉床を備えた本物の暖炉まである。親の目を盗んだ、ガキどもの秘密のパーティーに使うにはもったいないような場所だ。
 キャサリンの一家がスキーのシーズンによく訪れる山荘なのだそうだ。
 この週末、レイフはクリスターに引っ張られるがまま女の子達を連れて郊外へドライブに出かけ、夜はここに泊まることになった。かねてから約束のダブルデートというわけだ。
 キャサリンが親にどんな言い訳をしたのか知らない。大嘘つきのクリスターはフットボール・チームの仲間と泊りがけで作戦会議とか何とかもっともらしい理由を父親に対して平然と言っていた。
「兄貴達、遅いよなぁ、何やってんだろ」
 レイフはそわそわと落ち着きなく長い脚を組み替えて、扉の方へ視線を投げかけた。
 観戦していたフットボールのテレビ中継が終わったので、何か映画でも見ようとキャサリンと一緒に適当なビデオを探しに二階の部屋に上がったクリスターだが、まだ帰ってこない。
「いいじゃない、放っておきなさいよ」
 ミナがさばさばした口調で言うのを、レイフは不思議そうに振り返る。今回、レイフに紹介するためにキャサリンが声をかけた少女だ。キャサリンの従姉妹だけあって、顔立ちもよく似ている。キャサリンのような明るいブロンドではないが濃茶色の肩までの長さの髪は艶々して綺麗だ。
「キャサリンはあんたのお兄さんに夢中。二人きりになれるチャンスを今日はずっと窺っていたんだから…邪魔しちゃ駄目だよ、弟君」
 意味ありげに片目をつむってみせるミナに、レイフはきょとんと瞬きした。
「うわ、ほんとに鈍くて子供だね、あんた」
 同い年の女の子にあきれたような声を上げられて、レイフはむっとした。それから、いきなり、ミナのほのめかしたことの意味が分かった。
「あ…」
「そういうこと。こら、駄目だよ、二人はそっとしておいてあげなきゃ」
 とっさにソファから腰を上げかけるレイフをミナは大人びた態度でたしなめた。
「今うっかり二階に上がっていったら、気まずい思いをするだけだよ」
 レイフは激しい焦燥感に一瞬駆られたものの、すぐにがっくりと肩を落として、再びソファに座りこんだ。
「やだな、何ショック受けてんのよ」
「ショックなんか受けてねーよ」
 言い返すレイフの声は、しかし、弱々しい。
 泊りがけでデートと聞いた段階で、こういう展開も覚悟していたはずだが、いざとなると戸惑う自分がレイフは情けなかった。
(ていうか、クリスターが誰かとやってる現場のすぐ近くにいるって状況が…何だか落ちつかねぇ…。どうせ、ジェシカさんとか今まで付き合ってた人達ともしっかりしてたんだろうけど、それはオレの知らない場所でのことだから、実感なんかなかったし…)
 レイフはよほど思いつめた顔をしていたのだろう、ミナが気遣わしげな声をかけてきた。
「ねえ、レイフ、本当に大丈夫?」
「何が、大丈夫、だよ?」
「うーん、違うのかな。あんまりがっかりしているから、もしかして、あんた、キャサリンに気があったのかなって心配したんだけど」
「そんなんじゃないよ」
「なら、よかった」
 にこっとレイフに向かって笑いかけるミナは可愛かった。キャサリンに似ているが、あれほど女くささが鼻につかないし、性格もあっさりしているので、レイフにとっては打ち解けやすいタイプではある。
「あたし、キャサリンから男の子を紹介するって聞かされた時は、きっとまたあの娘に利用されるんじゃないかなって思ったよ。あたしを口実にして、自分の意中の相手と楽しむつもりなんだって。まあ、丁度退屈だったし、別にそれでもいいかって話に乗ったんだけどね」
 ミナはレイフの手からテレビのリモコンを取り上げて、適当にチャンネルを変えながら、屈託なく言った。
「前に似たようなデートをした時は最悪で、あたし、途中でタクシー呼んで逃げちゃったわ。キャサリンは自分のお目当ての男の子とべたべたすることしか考えないし、また、紹介された奴がとりあえずやることしか頭のないような馬鹿でさぁ」
「ふ、ふうん…そりゃ大変だったよな」
 自分も似たり寄ったりかもと後ろめたさに内心びくびくしながら、レイフは適当な相槌を打った。
「だから、あんた達双子を見た時は、キャサリンにしては随分上等な男の子を捕まえてきたのねってびっくりした。はっきり言って、クリスターなんか、彼女にはもったいなさ過ぎると思ったよ」
 レイフはとっさに深々と頷きそうになったが、それは失礼かと思い直した。
「そう思うんだったら、いっそ、あんたがキャサリンからクリスターを取ってやってもよかったんじゃないか。オレと一緒にいても、どうせつまんねーだろ」
 またしても二階にいる二人を意識して、レイフはついこんなことを漏らしてしまった。
「あら」
 ミナは意外そうに瞬きをした。
「へえ、レイフって、クリスターのことをすごく意識してるんだ。双子って、そういうものなの?」
 ミナは興味津々レイフを追求しようとしたが、途中で気を変えたようだ。ふいに真顔になって、こんなことを言った。
「あのね、クリスターは確かに物凄く素敵だと思うわよ。顔もスタイルも抜群だし、すごく頭がいいんでしょうね、とにかく話がうまいし、よく気がつくし、女の子に対するマナーも完璧よ。大体、まだ高校生なのにあんなに人を引きつけるオーラが出てる男の子って、見たことない」
「ほめちぎりじゃないか」
「でもね、あたしの正直な感想だけど、何だか完璧過ぎてとっつきにくいのよ、彼。キャサリンはもう完全に舞い上がっているから気がつかないでしょうけれど…ねえ、クリスターは一体どうして彼女と付き合う気になったのかしら」
 この娘、従姉妹と違って賢いなと、レイフは少しぎくりとした。
「クリスターは恋人と別れたばかりだから…誰かに慰めてもらいたい気持ちとか、あったんじゃないの…?」
「そうかなぁ…あたしだったら、そんな時はしばらく一人でいたいと思うけど」
 ミナはジュースを飲みながら、少し考え込んだ。それから、改めてレイフを振り返った。
「だからね、話をもとに戻すと、あたしは、レイフ、紹介されたのがあんたでよかったなぁって思ってるのよ」
「えっ」
 レイフの心臓が胸の奥で小さく飛び上がった。
「クリスターが相手だったら、たぶん、あたし、ここまで来てなかったんじゃないかな?」
 ミナは悪戯っぽく笑って、軽く小首を傾げた。すると、ほっそりした綺麗な首が薄手のセーターの襟から覗いて、レイフはどきりとした。
「キャサリンは馬鹿よ。付き合ってみたら、あんたの方が絶対優しくて温かくて、クリスターよりもずっと好きになれるのに…うん、何変な顔してるのよ?」
「いや、そんなこと女の子から言われたの、たぶん初めてだから」
「あは、カリスマ兄貴のおかげで、随分割食ってたんだね」
 ミナは動揺するレイフの肩に手をかけると、いきなり身を乗り出して、彼の唇に軽くキスをした。
 不意打ちかよ。レイフは目を剥いた。
「ね、レイフ、あんたのこと好きになってもいいかな?」
 ミナはソファの上に膝をついた格好で、レイフの顔に両手を当てて覗き込むようにしながら囁きかけてきた。
「オ、オレ…」
 さすがにキャサリンの従姉妹だけあって、いざとなれば男の子に対しても積極的だ。レイフはごくりと喉を鳴らした。
「今まで付き合った男の子なんかめじゃないくらい、すごくゴージャスだよ、あんた」
 ミナが腕を巻きつけてくるのにどう応えたらいいのか分からず、レイフは固まったままだった。
(うわっ、うわぁっ、どうしようっ)
 葛藤しているうちに、レイフはまたミナに唇を奪われた。
「兄貴にばかりおいしい思いをさせることなんかないよ、レイフ。あたし達はあたし達で楽しくやろう」
 レイフは目を閉じた。またしても、クリスターが今キャサリン相手にどうしているのか、すごく気になってきた。
 クリスターも、こんなふうにキャサリンから迫られたのだろうか。それとも、クリスターから誘ったのだろうか。女の子からキスされたくらいでは、クリスターは動じまい。スカートから伸びたキャサリンの脚や白い胸元は綺麗だった。あの肌には、もう触ったのだろうか―。
「きゃっ」
 レイフに軽々と持ち上げられ、そのまま広いソファに押さえつけられたミナは小さな悲鳴を発した。
(あいつは、女の子とどんなふうに―するんだろう…?)
 何だか頭の中がかあっとなってしまって、レイフはほとんど衝動的にミナの体を抱きすくめ、何か問いかけようとする唇を口で塞ぎ、不器用な手を激しく上下する胸の上に置いてみた。馴染みのない柔らかな感触が返ってくるのにびっくりして手を引っ込めかけるが、その手をミナが押さえる。
「大丈夫、だよ」
 レイフにこの手の経験のないことなどとっくに見抜いているのだろうが、ミナは別に気にした様子もなくレイフの髪に指を滑らせながら微笑んだ。
「焦んないで、いいから」
 確かミナはレイフと同じ年のはずだが、今は何でも知っている大人のように感じられた。
 少しだけ余裕を取り戻したレイフは、軽く頷くと、今度は大柄な自分の下でミナが苦しくないように気を配りながら、慎重に愛撫とかキスとか繰り返してみた。
 何となく、ミナ相手なら、このままうまくやれそうな気がした。思っていたよりもずっといい娘を紹介してもらえたと思う。可愛いし、明るいし、男の子とも経験済みで、レイフを引っ張れる積極性がある。初めての相手としては打ってつけだ。
(そうだ、深く考えずに取り合えず経験しちまえばいい。そうすりゃ、クリスターに対する引け目も少しはなくなるかな…。別に不安に思うことなんかないんだ。確かに女の子とやるのは初めてだけど…人の肌に触れたり、触れられたりする感覚は知ってる、色々しているうちに自分がどんなふうになっていくのかも―)
 そこまで考えて、レイフはぎくりとした。
 自分のものと違うもの、浅く速くなった二つの呼吸が絡み合った、あの時―。レイフが必死になってしがみつき自らを押し付けながら、狂ったように探った肌の感触はこれとは随分異なっていた。
 とっさに、レイフは首に絡み付こうとする細い腕を振りほどいて、ミナの上から退いた。
「何よ…?」
 ミナはいぶかしげにレイフを見上げた。
「ごめん」
 レイフは息を乱しながら、しばし愕然とミナを見つめ、混乱した頭をかきむしった。
「ほんとに、ごめん、オレ…やっぱ駄目みたい」
 ミナは溜息をついて、ソファから身を起こし、服や髪の乱れを直した。
「分かった。いいよ、無理しなくても。…他に好きな子、いるんだね?」
「う…」
 それはそれで答えに窮する質問だったが、ミナがそれで納得するならと、レイフはためらいがちに頷いた。
「ずっとオレの片思いなんだけど…忘れなきゃならない相手なんだけど、まだあきらめられねぇみたい…最悪だな…」
「仕方ないよ。レイフはまっすぐで自分の気持ちに正直だから、きっと本当に好きな人とでないと、こういうことはできないんだよ」
 だとすれば、本当に最悪だ。
 レイフはしばし所在なげにその場に立ち尽くした後、ぽつりと呟くように言った。
「オレ、外でちょっと頭冷やしてくるよ」
 じわじわとこみ上げてくる自己嫌悪と自己憐憫を味わいながら、レイフは一人コテージの外に出て、手入れをされずに放置された芝の上をぼんやりと歩き回った。
 十月も後半に差し掛かかり、また近くにスキー場もあるからにはこの辺りの標高は高いのだろう、日が暮れてからの冷え込みは激しい。吐く息は微かに白くなるくらいだったが、そのくらいの寒さが、今のレイフには丁度よかった。
 コテージの周囲をぐるりと回りながら、レイフの目は二階に並ぶ部屋の窓を慎重に探していた。
(もしかしたら、あの部屋かな…クリスターがいるのは…?)
 確信はなかったが、クリスターがキャサリンと一緒にいるかもしれないとあたりをつけた窓の下でレイフは足を止めた。
(ここで大声あげてやったら、あいつら、びっくりするかな?)
 そんな嫌がらせを想像してみたが、あまりにも馬鹿馬鹿しいのでやめた。
(レイフ・オルソン。十七才。彼女いない暦十七年、か)
 レイフはふっとシニカルに笑った。
(空しい)
 しょんぼりと肩を落とし、窓に背を向けると、レイフは丁度傍にあった大きな樫の木に近づき、その下にぺたんと座りこんだ。
(ほんとに、オレ、一体何やってんだろ)
 せっかくミナといい雰囲気になれたのに、結局何もできなかった。
(いい娘だと思ったのに…どうして駄目だったんだろう?)
 心の中で呟くと、答えを求めるかのごとく、レイフは途方に暮れた眼差しを目の前の窓の方へ投げかけた。
 クリスターとキャサリンは今あそこにいるのだろうか。クリスターならきっと、レイフと違って最後までうまくやれたはずだ。
(クリスターは…キャサリンのあの盛り上がった胸をもみしだいたり、あのすらりと長い脚や…人目に触れないようなところまで触ったりしたのかな)
 もしも願いが叶うなら―とレイフは想像する。
(あの部屋に忍び込んで二人が一緒にいるところを覗き見できたら、いいのに。別に何もしやしないよ。ただそっと傍まで歩み寄って、クリスターがどんなふうにするのか見てみたい。邪魔しないようにじっと黙っているから…あの時にあいつがあげる声を聞いてみたい) 
 レイフは堪えきれずに吐息をついた。火を吹くように熱い。
(くっそー、ミナと中途半端なところでやめたせいかな、まだもやもやとおかしな気分が続いているぞ…)
 レイフは目を伏せた。瞼が微かに痙攣する。
(うう、何か、すごくやばくなってきた…どうしよう…)
 固く閉ざした瞼の裏に、レイフはついつい、クリスターに組み敷かれているキャサリンを思い描いた。
(どうしてキャサリンと兄貴のセックスなんか考えて欲情してやがんの、オレ…おかしいな、もしかして本当にクリスターが言ったように、実は彼女に気があったとか…? それとも―)
 うっすらと目を開け、レイフは苦笑する。
 もしかしたら、後ろめたく思いながらもつい見てしまう熱夢の中で想い焦がれるのは、絡みあう二つの体のうちの別な方だろうか。柔らかでとらえどころのない女の体ではなく、触れれば押し返してくるみっしりとしなやかな筋肉の感触、レイフと同じほど強靭で、爆発的な力を秘めた、あの体だとしたら―。
(この病人!)
 レイフはぐんと頭を反らせて、後ろにあった樹の幹に後頭部を思い切り打ち付けた。
 目から星が散るほど強烈な痛さだったが、不埒な自分には当然の報いだと思った。
 自己嫌悪のあまり泣きそうな気分になりながら、レイフが抱え込んだ膝の上に顔を伏せようとした時、彼の耳は土を踏む柔らかな足音を捕らえた。
 反射的に、レイフは顔を上げた。
「こんな所で何をしているんだい?」
 建物の角の辺りで足を止め、首を僅かに傾げるようにしてレイフに穏やかに尋ねる、背の高い影―。
「クリスターこそ」
 自分の声は無様に震えていないか。たぶん、大丈夫だ。
「喉が渇いたから下のキッチンに下りてきて…リビングの前を通りかかった時にちょっと中を覗いてみたらおまえがいなかったから、探しに来た」
 レイフが黙っていると、クリスターは建物の陰の中から現れ、こちらに近づいてきた。そのままレイフが座り込んでいる場所までやってきて、樹の幹に背中をもたせ掛けると、手に持っていたボトルに口をつけた。
「何、飲んでんの?」
「ただのレモネード」
「ビールとか、飲みたいな」
「未成年だろ」
「クリスターって、変なとこで固いのな。女に関してはやりたい放題なのにさ。淫行はOKだけど飲酒は駄目って、どういうことよ?」
 レイフは不満そうに唇を尖らせた。
「ミナとは…うまくいかなかったのか?」
 レイフは顔を赤らめ、うつむいた。
「うん…」
 もしかして追及されるだろうかとレイフは身を固くしたが、クリスターは少し考えこんだ後、意外にあっさりと言った。
「気にするな。たぶん、彼女とはあわなかっただけだろう。そのうち、誰か、おまえの気に入る子が見つかるさ」
 レイフはおずおずと顔を上げて兄の様子を窺った。
 ひんやりと冷たげな横顔からは、行為の名残は感じられない。
「その…キャサリンは…?」
 クリスターは窓の方に顎をしゃくった。
「ぐっすり眠っているよ」
 レイフはクリスターが示した窓に目を移した。
「ね、レイフ、気づいていた? キャサリンの体毛って、もともとはミナと同じ濃茶色なんだよ。他の子達のように脱色して金髪にしていたんだね…本物のブロンドって、やっぱり少ないんだ。たぶん百人に一人くらいじゃないのかな」
 診断を下す医者のような口調で、クリスターがさらりと言った。
 ぼんやりと聞き流しそうになったレイフだが、途中で何かが引っかかって、眉間に深いしわを寄せた。
 キャサリンの体毛が濃茶色って、そんなこと、どうやってあなた、確かめたの?
 ようやく静まりかけた心臓が再びばくばくいいだすのを聞いているレイフの頭の中では、一気に噴出した色んな想像やら妄想やらがものすごい勢いで駆け巡っていた。
「ミナが駄目だったなら、レイフ、こうしてみようか」
 問題発言をぶちかましながら、あくまでクリスターは平然と落ち着き払っていた。
「僕の代わりに、今度はおまえがあの部屋に行けよ」
 レイフは戸惑いに揺れる瞳でキャサリンがいる部屋の窓を見上げ、問いかけるかのように兄を振り返った。
「僕のふりをして、彼女のベッドにもぐりこんで、そっと体に触ってみたらいい。そのうち彼女が気づいたら、きっと、またさせてくれるだろうと思うよ。服なんか脱いでしまったら、彼女に僕らの区別がつくものか。ああ、もちろんレイフは余計なことは何も言わずにいた方がいいけれどね」
「ク、クリスター」
 レイフは思わず上ずった声で兄を呼ぶ。その上から覆い被せるように、クリスターが強い口調で言った。
「そう、僕がやった女をおまえがやるんだ」
「なっ」
 レイフは絶句した。
 まるで自分がつい先程思い描いたみだらな願望を見透かされたかのようで、瞬間、レイフの心臓は凍りついた。
(そう、クリスターが挿れていたところに、今度はおまえのを挿れちまえよ)
 ガツンと殴られたような衝撃を覚えて、レイフはぐらぐらと揺れる頭を押さえた。束の間しんと冷えたと思われた体は火がついたように熱くて、熱くて―もう、どうしたらいいのか、分からない。
「冗談…きついぜ」
 やっとの思いで、レイフは囁く。喉がからからになっていた。
 ああとかううとか唸りながら、レイフは両手で頭をばりばりかきむしった。
「気が乗らないなら、いいよ」 
 クリスターの淡々とした声に、レイフはまた顔を上げる。
 これほど弟を混乱させておきながら、拍子抜けするくらいにあっさりと前言を撤回するなんて、本当にクリスターは何を考えているのだろう。
「…オレも喉乾いたっ」
 レイフの物欲しげな顔にちらっと目を落とすと、クリスターは飲みかけのレモネードを差し出した。レイフはそれをひったくり、半分ほど一気に飲んだ。
「やるよ、それ」
 恨めしそうに睨みつけているレイフを眺め、クリスターはうっすらと微笑んだ。
「まだそこにいるつもりか? 風邪をひくぞ」
「オレの勝手だろ」
「なら、好きにすればいいよ」
 薄情なほど素っ気無い態度で離れていくクリスターを、レイフは何か言いたげな目で追った。
「なあっ」
 レイフが思い切って呼び止めると、クリスターは足を止めた。
 レイフは、とっさに口ごもった。
「キャサリンのこと…大事にしてやれよ」
 レイフの囁きにクリスターは一応耳を傾けていたが、結局何も答えず、振り返りもせず、再び歩き出した。
 その広い背中が建物の陰に消えていくのを食い入るように見つめた後、レイフは肩で大きく息をついた。
 ぎゅっと握り締めていたボトルに、レイフは気がついた。もう一口、飲んでみる。
 クリスターから取り上げたレモネードは、切ないくらいに甘い。
 まだかっかと火照っている頬にボトルを押し付けそっと目を閉じると、レイフは半ばほっとしたような半ばがっかりしたような気分で、ぽつりと呟いた。
「冷てーや…」


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