ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第1章 終わりの始まり

SCENE4

「よし、いいぞっ。ブロックかわして、そのまま突っ込んでいけ!」
 テレビは今、フットボールのカレッジ・リーグの中継の只中だ。
 金曜は自分達の試合、土曜日曜はそれぞれカレッジ・リーグにNFL(プロ)のテレビ観戦と、この季節、レイフは好きなフットボールにつま先から頭のてっぺんまでつかっている。
 今夜は双子の両親は仕事で帰りが遅いため、二人で先に夕食をすませ、後はリビングに落ち着いてこうして一緒に試合を見ていた。
「よっしゃ、タッチダウン!」
 テレビ相手でも熱中するとつい歓声をあげたり手を振り上げたりと騒がしいレイフとは対照的に、クリスターはほとんど微動だにせず、画面の中で展開されるプレイを分析するかのように真剣に追っている。
 今夜は結局応援しているチームが勝利し、レイフも大満足だった。
「ああ、よかったよな、クリスター」
「うん」
 レイフは飲みかけのコーラを一気に飲み干して、試合終了直後の観客席やチームの様子を流しているテレビをうっとりと眺めた。
「昨日は、オレ達も試合で勝ったし、今年はなんかついてるって気がする」 
「僕達はついているから勝ったんじゃない。実力だろう」 
 冷静にたしなめるクリスターをレイフはきょとんとして振り返る。
「あは。そうでした、キャプテン」
 レイフは一瞬目をぐるっと回し、それから茶目っ気のある笑顔で片目をつむってみせた。
「去年は惜しかったけど、今年こそ一番上まで勝ち登れるさ。おまえと組めりゃ、この世に恐いものなんてない気がするよ」
 レイフが調子づいてこんなことを言うのに、クリスターの厳しい瞳がふと和らいだ。
「僕も…そう思っているよ。レイフ、おまえと僕がチームを引っ張るんだ」
「んんー、いや、リーダーはやっぱおまえだろ。オレ、そんな責任負うような柄じゃないし。クリスターは最高の司令塔だって、コーチも言ってたじゃん」
「フランクス・コーチは、レイフの破壊力のある走りも攻撃の要としてちゃんと評価してくれているよ」
「ほんと? あの鬼コーチ、いつもはあんま誉めてくんないけど、今でもオレに期待してくれてるんなら嬉しいや」
 二年前、フットボール・チームに入った当初、二人のうちより注目されたのは四十ヤード走で高校最速の記録を出したレイフだった。実際その身体能力は、兄のクリスターでさえ凌いでいた。高校一年目で一軍レギュラー入りが即決されるほど、将来のエースとして期待を集めたレイフだったが、その後はなぜかあまり伸びず、気がつけばまたクリスターに追い抜かれていた。
 だが、それもいつもの定位置に戻っただけで、別に悔しいとはレイフは思わなかった。
 ずっとクリスターの一歩後ろにいたレイフなのに、あの一時期だけ彼を追い抜いて、いきなり皆の視線を一身に集めてしまった。嬉しくないわけではなかったが、いつも見ていた背中が前にないことに、妙に落ち着かなかったものだ。
 そう、あれは、たぶんまぐれだったのだ。クリスターが前にいて、その背中をレイフが追いかけている。この位置関係にある方がずっと楽で、何より安心できる。
 そんなことを思い出してぼうっとしていたレイフだったが、取りとめもなく流れていきそうな心を現在に引き戻すと、自分の様子をじっと窺っている兄に再び顔を向けた。
「そういやーさ、クリスターにも一度聞いておきたかったんだけど、いいのかよ、ダニエルの奴」
 この間から気になっていたことを、レイフはクリスターに切り出した。
「あいつさ、フットボール・チームのためにチェスまでやめたんだと。もちろん、クリスターは聞いてるよな」
「ああ…」
 クリスターはちょっと微妙な顔になって、さり気なくレイフから視線を逸らした。
「はっきり言って、クリスターの責任だぜ。あいつがいきなりフットボールなんて言い出したの、絶対おまえの影響だもん」
「そうだね。でも、そうすると決めたのは彼の意思だよ。ダニエルはね、三ヶ月の夏休みの間にフットボールの理論だけは誰にも負けないほどに覚えこみ、ちゃんとトレーナーもやれるようジムでアルバイトしながらスポーツ医学まで勉強した。それだけでなく、今年僕らのライバルとなりそうなチームのデータを分析してまとめあげたものを手土産にフランクス・コーチに直談判に行ったんだ」
「うわ、そこまでやったか」
「選手になることは無理だけれど、ブレインとしてアシストさせてほしいと…初めはしぶっていたコーチも、ついには根負けして、僕に任せると言った。だから僕は、自分の能力でチームに貢献できると思うならやってみればいい、ただし、チームの空気を乱したり、皆の足手まといになるようならすぐにやめてもらうとダニエルに言い渡した」
「厳しいね」
「当たり前だろ。誰でも自分の言葉と行動には責任を持つべきだ。大体フットボールなんてやったこともないダニエルが、僕とコーチを口説き落としていきなり主務になっても、皆に受け入れてもらうには一苦労しなくてはならないと思うよ」
「そこなんだけどさ、オレが心配しているの。なあ、やっぱ、一応トライアウトくらい受けさせてみたら、あいつ? うまくいったら、たとえ二軍でも選手として入れるかもしれないじゃん」
「それは…無理だな」
「なんで決め付けるんだよ」
 言い切るクリスターに反発を覚えて、思わずレイフは食い下がった。
 そんなレイフをクリスターはちらりと見やった。一瞬躊躇うかのように沈黙し、それから口を開いた。
「ダニエルは脚が不自由なんだよ。小さい頃に車の事故にあったんだって。普通に生活する分には支障はないし、リハビリの成果で今では歩き方も自然になってよくよく見ていないと分からないけれどね。ただ速く走ったり跳んだりといった動作や、ましてやスポーツなんて…」
 レイフは虚をつかれて、しばし絶句した。
「そ…そうなのか。知らなかったよ、オレ」
 そんな話、レイフは初めて聞いた。ダニエルとはもう知り合って一年にもなるし、一緒に遊びに行ったことも何度かあるが、彼はそんな素振りは一度も見せなかった。
 まあ、ダニエルにとっては、レイフなどあくまでクリスターの『おまけ』程度の存在なのだから、そんな個人的なことをいちいち打ち明けはしないだろうか。
「彼はプライドが高い上に負けず嫌いなんだよ。自分にハンデがあるなんて他人に知られて同情されるのが我慢できないんだ。子供の頃は運動ができないってよく苛められたらしい。でも、だからこそ、他の面で努力して周囲を見返してやろうとしてきた」
「そっか…結構苦労してたんだな、あいつ」
 レイフはしんみりと呟いた。
「あの年で初めから何かをあきらめなくてはならないなんて、僕らには想像できない辛さだろうね。ただダニエルは、そのせいで卑屈になるのではなく、自分にできることを見つけ出し他人の倍の努力してそれを伸ばした。そんな強さがある彼なら、今度のことも何とかうまくやれるんじゃないか。少なくとも夢を掴む機会は彼にも平等に与えられるべきだと僕は思うんだ」
「う、うん…」
 クリスターはダニエルに対しても他と変わらずクールな態度だが、実は結構気にかけている。一年前のチェス対決からして、そうだった。
(きっついとこもあるけど、あんなに可愛い子に夢中で慕ってもらえたら、そりゃ、クリスターだって悪い気しないだろうし、情だって移るんだろうな)
 ダニエルのクリスターを追う眼差しの真剣さを思い出して、レイフは胸の中が何やらもやもやとしてきた。
「他人に知られるのが我慢できないって…そんな深い話でも、あいつ、兄貴には打ち明けてんだ」
 うっかり漏らした言葉が我ながらひがんでいるように聞こえて、レイフは焦った。
「い、いや、その…だってさぁ、ダニエルの奴、おまえをちょっと崇拝しすぎかなぁって…。おまえが好きなことは自分も好きだなんて、きらきらした目で臆面もなく言っちまうんだぜ。オレ、もう恥ずかしくって、どうしようって思っちゃったよ、はははっ」
「…僕のことが好きなんだって、彼」
「は…」
 下級生にやきもちを焼いてしまったやましさを笑ってごまかそうとしたレイフだが、クリスターがぽつりと漏らした一言にぐっと喉を詰まらせた。
 しばし、気まずい沈黙が流れた。
「そ、それって…つまり…?」
 レイフは激しい動揺をごまかすよう、小指の先で頬を引っかいた。
「…うん……そういうこと」
 クリスターはじっと黙り込んで膝の上で広げた手の平を意味もなく睨んでいる。そんな兄を、レイフは緊張のあまりどきどきしながら見守った。
(うわ、もしかしたらって、そんな気は少ししてたけど、マジかよー)
 恋愛経験皆無に等しい自分の直感など当てにならない、どうせ勘違いに決まっているとレイフはひたすら念じてきたのだが、どうやら大当たりだったようだ。
「ど、どうする気なんだよっ」 
 つい強い詰問調になって、レイフは兄を追及した。
「どうもしないよ」
 クリスターはふっと溜息をついた。
「ダニエルの気持ちに応えるつもりはない」
「そ、そうなんだ。まあ…それでいいんじゃない…ほっときゃ、熱もいつか冷めるだろうし…」
 レイフは密かに胸を撫で下ろしながら適当な返事をしたが、後が続かない。クリスターはそれ以上何も言わないし、テレビから流れる音声がなければ、耐え切れないほど気詰まりな雰囲気だったろう。
『へえ、すげぇな、クリスターって男子にまでもてもてじゃんっ』とか、『何かおかしなフェロモン出してんじゃないの』とか、馬鹿を言って、この場を適当に紛らわそうかとレイフは一瞬思った。しかし、この問題に下手に触れるとまずい方向に流れていってしまいそうで、怖くて、結局兄と同じように黙り込むしかなかった。
「…オレ、喉、渇いた。ジュース取ってくる」
「じゃあ、僕の分も頼むよ」
 半ば逃げるようにキッチンへ向かいながら、レイフはもどかしさに歯噛みするような気分を味わっていた。
 クリスターに対して本当に言いたいことも言えず、聞きたいことも聞けないなんて―。
(昔は、こんなじゃなかったのにな。どんな悩みも打ち明けられる相棒相手に遠慮することなんてなかった)
 後にしたリビングをちらっと振り返り、レイフは溜息をついた。
 以前は存在しなかった見えない壁が、クリスターとレイフの間に、今はある。
(分かってるさ、何もかも元通りになんてできるはずがない。いくらなかったことにして忘れようとしても、やっちまった事実を完全には消せない)
 四年前に一度だけ、二人が犯した過ちは、決して蘇らせてはならない記憶として封印された。
 初めは兄にどう接したらいいのか分からずぎこちなかったレイフだが、クリスターの方は見事に『何も変わっていない』ふりを演じ通した。かなり無理をしていたのだろうと今なら分かるが、クリスターよりずっと単純なレイフは兄に普通に話しかけられていると次第にそれを信じるようになり、いつの間にか二人はもとの鞘に納まっていた。
 だが、それは、きっと錯覚に過ぎない。
 こんなやり切れなさを覚えるたびに実感する。
 むしかえしてはならない過去を想起させる言葉や態度は、暗黙にうちに、二人は慎重に避けてきた。
 何だかそれが、越えてはならない見えない壁を築いて、その陰からお互いの本当の気持ちを探り合っているような、打ち解けられない雰囲気を作り出している。
(クリスターの気持ちが分からない。ものすごく知りたいのに、あいつの心をこじ開けちまうのが怖くて、できない)
 キッチンの明かりをつけ、冷蔵庫の中を物色しながらも、レイフの想いは双子の兄に向けられていた。
 クリスターは、あれ以来変わった。
 何かに憑かれたように、スポーツだけでなく、勉強や他の分野にも手を広げ打ち込むようになった。もともと才能があったのだろう、特にチェスではめきめき力をつけ、異例の速さで頭角を現した彼は気の早いマスコミに天才少年などと騒がれるようになった。高校に進学してすぐに受けたSAT(大学入学資格試験)の数学ではパーフェクト・スコアを取り、高校に在籍しながらMITのコンピューターのコースまで取ってしまう。興味のあることには何でも挑戦して自分の能力の限界を試しているかのような兄を、相変わらず運動一辺倒なレイフはぽかんと眺めているばかりだった。
 クリスターに比べれば、レイフの世界はすごく狭いし、幼い。付き合っている人間の数もレベルも違う。クリスターが接する広い世界、そこで出会う人々、その中で一体レイフはどの位置にいるのだろう。
(僕は、レイフが一番大切だから―父さんや母さんよりもだよ。僕がおまえを誰よりも愛しているってことを、覚えていてくれ)
 あの時レイフを抱きしめながら真剣に囁いた少年は、今のクリスターとは別人のようだ。
 クリスターは、もうレイフなど必要としていない。一時はレイフも本気でそう信じかけた。進学した学校に馴染めずにいた時期と重なったため、精神的に不安定となったレイフは親にも教師にも反抗し、危うくドロップアウトしかかった。
 今思えば、あれは、片割れを見失い途方に暮れた心が発した悲鳴だったのだろう。
 クリスターはどうしたか。レイフのSOSにちゃんと気づいて戻ってきた。それどころか―。
(ああ、そうさ、本当はオレだって分かってる。今でも―クリスターを本気にさせられるのは、オレだけだ)
 ふと思い出して、レイフは屈折した優越感に、ほんの少し駆られた。
(ダニエルじゃ、たぶん無理なんだよ。あの素敵なジェシカさんだって駄目だ。ましてや、キャサリンみたいな何にも分かってない馬鹿な女なんて、クリスターはきっと鼻にも引っ掛けない)
 それから、ふと自虐的な気分になって、ひとりごちた。
(オレがからめば、話は別だろうけどな。ハニーの時だって…オレが彼女に気のある素振りなんて見せなきゃ、クリスターは絶対つきあったりしなかったはずだから―)
 ちくんと、錆びた釘を打ち込まれたかのように、心臓が痛んだ。
(あーあ、キャサリンと言い合ったせいかな、ここんとこ、やたらとハニーのこと思い出しちまう)
 その時、背中に視線を感じて、レイフはキッチンの扉を振り返った。ひやりとした。
 クリスターがそこに立っていた。
「どうした、まるで幽霊でも見たような顔をして」
 レイフははっと息を吸い込んだ。
「ジュースを取りに行くだけで、一体何分かかっているんだ、おまえは」
「ああ、うん…」
 レイフは口ごもった。取り出したジュースをテーブルに置いたまま、ついぼんやりしてしまったようだ。
「ごめん、何だか腹が減ったから、食べれるものないかなぁって探してて…」
 もごもごとレイフが言い訳している隙に、クリスターはキッチンに入ってくると、勝手知ったるもので、戸棚を開いてクッキーの箱やスナック菓子を取り出した。
「どこに何があるか、場所くらい覚えたらどうだ」 
「クリスター、また母さんみたいなこと言ってる」
 レイフは上目遣いに兄を見ながら口をすぼめた。
 てきぱきとトレーの上にジュースのボトルや菓子の袋を並べる兄をレイフはじっと窺っていた。
「僕に何か言いたいことがあるのか?」
「えっ…いや、その…」
 クリスターがいきなり問いかけてくるのに、レイフは焦った。
 先程まで頭の中でぐるぐると回っていた、口に出すのをはばかられるような屈折した想いをぶちまけられるほど、さすがにレイフはもう素直ではない。
「キ…キャサリン・コナーって知ってる…?」
 勘のいい兄の追及の矛先をかわそうと、レイフは、思いつくままに彼女の名前を口にした。
 クリスターは意外そうな顔でレイフを振り返った。
(私、クリスターが好きなの!)
 レイフが辟易するほどの押しの強さで迫ってきた金髪の少女を思い起こしながら、結局彼女はどうしたかったのだろうと考えた。たぶん、レイフを手がかりに、クリスターに近づきたかったのだ。
「なあ?」
 何も言わずにじっと自分を見据えているクリスターの視線に、レイフは次第に落ち着かなくなってきた。
「チアの?」
 レイフはこくんと頷いた。クリスターには心の裏側に隠した秘密まで全て見透かされそうな気がして、レイフは体の脇で握り締めていた手の内がじっとりと汗ばんでくるのを感じていた。
「知っているよ。あの『ブロンド』だろ」
 クリスターは唇の端をほんの少し吊り上げて微笑んだ。
 その微妙な表情と言葉のアクセントの置き方に、レイフはぞっとした。
(うわ、ダニエルの毒舌なんざ、こいつに比べたらまだ可愛いもんだっ)
 クリスターはダニエルのようにあからさまに他人を馬鹿呼ばわりなどしない。微かに表される軽蔑や嫌悪は面と向かっていてもよほど察しのいい人間でないと気づかないくらいだ。だが、腹の中では、冷酷なまでに他人の愚かさを見下している。
(ああ、知っているよ、あの馬鹿なブロンドだろう。選手を追い掛け回すために親に頼み込んで強引にチアになった恥知らずな女だ。おまえ、あんな女に引っかかって、振り回されたのかい。まともに相手にするから、そうなるんだよ。全く、情けないな!)
 今のクリスターのリアクションをレイフが意訳すると、こんなところだろう。
(はっ、オレがキャサリンだったら、絶対泣いてるね。普通に振られた方がはるかにマシだぜ、この大魔王)
 自分まで遠まわしに責められているような圧迫感を覚えて、レイフはへこみそうになる気持ちを奮い立たせようと、ドキドキいってる心臓の辺りをそっと押さえた。
 それにしても、ダニエルに対するような気遣いや優しさを時には見せるかと思えば、この情け容赦のない冷酷さだ。我が兄ながら、二重人格ではないだろうかと疑いたくなる。
「レイフ」
「な、何だよ」
 腕を組んでじっと自分を凝視していたクリスターがおもむろに口を開くのに、レイフは反射的に身構えた。
「心理学的に分析するとね、レイフの気の弱さ、苦手だと思う他人についつい押し切られてしまうのは、心の底に実はその相手に対する好意が存在するからなんだよ」
「は、はい?」
 クリスターの瞳が悪戯っぽく光るのに、レイフは、もしかしたらキャサリンなどという苛めかからかいの種をクリスターにうっかり提供した自分は、自ら墓穴を掘ったのかなという気がしてきた。
「だからね、この場合、おまえはキャサリンのことを少しいいなと思ったんだ。彼女に何て言われたか知らないけれど、気になる女の子に振り回されるのが実はちょっと気持ちよかったりなんかしたんだろ?」
「あ、ありえないっ、そんなことあるもんかっ。そ、そりゃ、黙ってりゃ可愛い子だと思ったし、胸とか脚とか綺麗だなぁって一瞬見とれたかもしれないけど…」
「ふうん」
 心なしかクリスターの目が冷たくなった。
「レイフって、あんなのがタイプだったんだ。それとも、本能に忠実なだけなのかな」
「ど、どういう意味なんだよ」
「キャサリンが気になるなら、試しにつきあってみたらどうなんだい?」
「冗談、きついぜ」
「レイフが嫌なら、僕がつきあってみようか」
 レイフの頭は、今度こそ真っ白になった。
「なななな、何で、そうなるんだよーっ!」
「どうせキャサリンは僕と付き合いたいと言ってきて、おまえは巻き込まれただけだろう。それなら、僕が彼女をどうしようが、おまえは関係ないと思うけれど」
 レイフの動転振りをからかうかのごとく、クリスターは片方の眉を軽くはね上げた。
「そ、そりゃ、その通りだけど…いや、待て、どうしておまえ、キャサリンが自分目当てでオレに絡んできたって分かるんだよ」
「ああ、やっぱり、そうだったんだ。おまえが言いにくそうにしていたから、ちょっとカマをかけてみただけだったんだけれどね」
 ものすごく冷静に言われて、レイフは返す言葉が見つからなかった。
「つ、付き合うって…まさか本気じゃないよな? 大体キャサリンはクリスターの好きなタイプじゃ全然ないだろっ」
「うん、そうだけど、たまには全く好みとは違うタイプ相手に冒険してみてもいいかなって気もする。ジェシカの教養溢れる話しぶりに、最近少し飽きてきたところだったから」
「だからっ!」
 レイフは本気でかっとなった。弟をからかうにしても、性質が悪すぎる。
「おまえ、付き合ってる人がいるのに他の子に手を出すなんて…そういう二股って反則だぞっ。ジェシカさんにも悪いし、そんないい加減な気持ちで付き合わされるキャサリンだって可哀想じゃないかっ。オレ、そういうの、大嫌いだからなっ」
「黙れ。童貞」
「う」
「可哀想だなんて、それこそレイフの思い違いだよ。いつまでもそんな無邪気なこと言ってるから、キャサリンみたいな女にすぐにつけこまれるんだよ」
 果敢にも兄に食ってかかったレイフだが、軽くいなされてしまった。平然とジュースのボトルをあけて飲み始めるクリスターを睨みつけ、ぐっと握り締めた拳のやり場に困りながら、レイフはわなわなと震えていた。
「心配しなくていいよ、僕は二股なんてかけたりしない。ジェシカとは別れたから、先週…」
「えっ」
 突然の告白に、レイフは目を瞬いた。
 脳裏にジェシカの柔らかな声が蘇る。
(お兄さんを借りるわね)
 綺麗な人だった。家の前や学校で、何度か会ったこともあった。彼女と出かけるクリスターをなす術もなく見送りながら、一人取り残されたレイフは寂しくて―。
「わ、別れたって…マジかよ」
「うん」
 どこか鋭利な刃物を思わせる、隙なく整ったクリスター横顔をレイフは戸惑いながら見つめた。
「なんでさ…だって、すごくいい人だったじゃないか…」
 レイフはあえぐように囁いた。
「そうだね」
「オレ、全然気がつかなかった…。先週って彼女と映画見に行った時…? クリスターって、いつもと様子が変わらなかったし、何も言わないし…」
 レイフは黙り込んだ。クリスターの後ろにある食器棚のガラス戸に自分の顔が暗く映っている。それが、何だか嫌な笑いをうかべているように見えて、たまらくなってレイフは顔を背けた。
 いい人だったのにと言いながら、クリスターが恋人と別れたことを喜んでいる自分がいる。
「…なあ、大丈夫なのかよ、クリスターは…?」
 レイフの気遣わしげな言葉に、クリスターはちょっと首を傾げて考え込んだ。
「ああ…やっぱりまだ少し…胸が痛むかな。でも、僕は大丈夫だよ」
 レイフは何か言いたげに震わせた唇をぎゅっと噛み締めた。
「だからね、ちょっと気晴らしもしたい」
 クリスターは、複雑な感情に瞳を揺らしているレイフに顔を向けて、穏やかに笑った。
 レイフはじっと黙っていた。そう持ってこられると、レイフにはとめようがなかった。
「そんな不満そうな顔をするなよ、レイフ…僕がキャサリンに手を出すのがそんなに嫌? それとも、逆なのかな…?」
 クリスターは意味ありげに呟いたかと思うと、レイフの肩を掴んで引き寄せた。
 クリスターの顔がすぐ傍まで迫ってくるのに、レイフは思わず息をとめた。
「ああ、そうだ、こうしよう」
 クリスターははたと思いついたかのように頷いた。
「キャサリンに頼んで、彼女の友達をおまえに紹介してもらうんだ。何も僕一人で楽しもうなんて思わないよ。ね、一緒にデートするなら、おまえも不満はないだろう?」
「ええっ?」
 レイフを捕まえたクリスターの腕に力がこもった。
「おまえが気に入りそうな子を探してもらうよ。会ってみて、本当にいい子だったら―そのままものにしてしまえ」
 瞬間、低い声で囁くクリスターの琥珀色の瞳の奥に暗い燠火が揺らめいたような気がした。
 縫いとめられたかのように、レイフは身動きも、瞬き一つすることもできなかった。
 クリスターはそれきり口を閉ざし、レイフの顔をつくづくと眺めた。そして―。
「がんばれよ」 
 呆然としているレイフの頭を軽く小突くと、クリスターは身を離した
「何だか、今更テレビを見る気分じゃなくなったし、僕はもう二階に上がるよ。読みかけの本があったから」
 そう言い残すと、クリスターはキッチンから出て行った。
 レイフはその場に凍りついたように立ち尽くしたまま、兄の背中を凝然と見送った。クリスターが行ってしまってしばらく後、レイフはようやくフリーズ状態から解放された。
 停止していた頭がのろのろと動き出す。
(え?)
 さっきクリスターは何と言い残したのか。
 一緒にデート? いい子だったら、ものにしてしまえ?
(ええええええええええぇっ?)
 うっかりキャサリンの名前を持ち出したことが、一体どうしてそんな話に発展してしまったのか。兄に女の子をあてがってもらうなどと、レイフはこれっぽっちも望んでいない。むしろ、やめて欲しい。
 一瞬クリスターを追いかけていって、彼をとめようかとレイフは本気で考えた。しかし、そんなことをすると一体今度はクリスターに何と言われるか。きっとまた、この万年童貞の意気地なしとか、体ばかりでかくなっておつむの中身は小学生のままだとか、鬼か悪魔のように苛め抜かれるに決まっている。
(い、言わなきゃよかった…!)
 自分が掘った墓穴はマリアナ海溝よりも深い―。レイフは途方に暮れて、しばらくその場に立ち尽くしていた。



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