ある双子兄弟の異常な日常 第三部
第1章 終わりの始まり
SCENE3
フィリップス・アーバン高校は、四年制私立の進学校、所謂プレップ・スクールだ。生徒の半分以上はアメリカ全州から来ている寮生で、クリスターとレイフのようなデイ・スチューデントはむしろ少数派だ。東部で指折りの名門校として知られ、卒業生には政治家や実業家など各界で活躍するエリートも多い。
この学校をそもそも選んだのは、クリスターと母のヘレナだった。中学時代から学校始まって以来の秀才で通っていたクリスターは、学校の推薦状と成績表、後は簡単な面接で簡単に入ることができた。だが、レイフはそうはいかなかった。クリスターが進学を決めた中学最後の二年は、レイフもこれまでの人生でこれほど勉強したことはないと断言できるほど死ぬ気で勉強した。おかげで成績は推薦レベルに達し、後はスポーツができることを評価されて何とか兄と同じ学校に滑り込むことができた。
双子の家庭は父の経営する警備会社が順調で裕福な方だったが、それでも子供二人を私立にやるのは結構な負担ではなかったろうか。
父親のラースはそうでもないが、母親のヘレナはもともとエリートだっただけに教育にも熱心な人だ。子供に物質的な贅沢はさせないが、教育にかける費用だけはいつでも惜しまなかった。
そんな母親に外見だけでなく頭の中身までよく似たクリスターは、入学直後から英才クラスに入り、そこでもまたトップの成績を維持している。
一方のレイフはと言えば、空気の抜けた風船だった。取り敢えず兄と同じ学校に入れたことで、勉強に対するやる気は燃え尽きてしまったのだ。もともと彼は、好きなスポーツさえできれば、後はどうでもいいという非常に分かりやすくも困った考えの生徒だった。
(ちっきしょーっ!)
放課後の校舎をレイフは猛スピードで突っ走っていた。
おしゃべりしながら廊下を歩いていた生徒達は、すごい勢いで走ってくる彼にはね飛ばされるのではないかととっさに凍りついたが、そこは敵のディフェンスをかわしながら走るのが専門のランニング・バック、誰ともぶつかることなくあざやかに抜いていった。
この日、生徒指導担当の副校長からの呼び出しを受けたせいで、レイフはフットボールの練習に少し遅れた。
昨日のアメリカ史のクラスでの態度が悪かったと、教師から報告があったらしい。
レイフは歴史にはあまり興味はないし、教師との相性もよくなかった。だから、ついつい、それが言葉や表情に出てしまう。退屈な授業でも我慢して聞く振りだけはし、口のきき方にももっと気を使えばいいだけのことだが、馬鹿正直なレイフにはそれができない。
(ったく、面倒くせぇ)
何より規律を愛する神経質なミス・リーは、レイフのぶっきらぼうな言動にいちいち過剰に反応してしまうようだ。
呼び出しを三度食らえば反省室行きだぞと副校長に釘を刺されたが、レイフは指導室を出ると彼の言ったことなどすぐに忘れた。
(ああ、全く、つまらないことで練習に遅れちまったよー)
面白くないクラスや苦手な教師との付き合い方などどうでもいい。そんなことを言ったら真面目なクリスターにどつきまわされそうだが、レイフにとってはフットボールこそ学校生活における最優先事項だ。
三ヶ月ぽっちしかない貴重なシーズンなのだから、フットボールのための時間は少しでも無駄にしたくない。
(クリスターも、もう練習始めてるかな。副校長に呼び出し食らったせいで遅れたなんて聞いたら、きっとまた長い説教から始まるんだろうな)
怒ったクリスターはこの世の何より恐ろしいが、兄と一緒に練習ができるかと思うとレイフの胸は弾んだ。
一緒に通学している二人だが学校内の行動は別々だ。優等生のクリスターはレイフとは選択しているクラスも違うし、ランチタイムも微妙にずれている。週のうちの二日は大学まで講義を受けに行っているクリスターは校内で姿を見かけること自体少ない。せっかく同じ高校に進学したのに、これではあまり意味がなかったと後悔することもたまにある。
それでも、この季節だけは違った。今でも双子達の間で共有できる数少ないものの一つが、フットボールなのだ。
校舎を飛び出し、そのままの勢いでグラウンド脇に体育館と並んであるクラブハウスに走りこもうとした時、入り口でいきなりレイフは呼び止められた。
「クリスター」
今でも双子の兄と間違えられることはしょっちゅうだったので、レイフは別に動じず、そちらを振り返った。
ブロンドの髪を後ろにまとめた少女がレイフを探るように見つめていた。短いチアのスカートから伸びた長い脚がちょっと眩しいくらいに綺麗で、レイフはつい見とれてしまった。
今年からレイフのチームのチアリーダーをやっている女の子だが、今まで言葉をかわしたことはなかったと思う。美人で、いい家のお嬢様らしいが、我が侭との評判も耳に挟んだことがあったが。
期待と緊張をはらんだ目でじっとこちらを窺っている少女に、レイフは向き直った。
「えっと、キャサリン・コナー…だったかな? 生憎とクリスターじゃなくて、レイフの方だよ」
レイフが名乗った途端、それまでしおらしげにしていたキャサリンの顔つきが変わった。
「それじゃ、クリスターはどこにいるのよ? さっきグラウンドを見に行ったけれど、練習にはまだ出てなかったわ」
言葉使いまでつんけんしたものとなっている。少女の豹変振りに呆れ返りながら、レイフは言い返した。
「オレだって、今ここに着いたとこなんだぜ。何だ、クリスターの奴まだ来てないのかよ…そういうことなら、大方生徒会の方にでも顔出してるんじゃないのかよ。ふん、兄貴の分刻みのスケジュールまで、オレが知るか」
「ふうん、そうなの? 練習中はいつもあんなにクリスターにべったりのあんたなのに」
てっきりクリスターだと思って声をかけたのに当てが外れて腹立たしいのだろう。キャサリンは腕を組んで、レイフを憎らしげに睨み付けた。
「せっかくクリスターが一人でいるところを見つけたと思ったのに、あんただったなんて、本当に残念っ」
「そっちが勝手に間違えただけだろ。オレに八つ当たりするなよ。第一、あんたが兄貴に何の用があるんだよ」
こんなふうにいちいち相手にせずすぐにこの場を立ち去るべきだとは思ったが、それができないのが、レイフの異性に対する気の弱さだった。
「そうね、あんたとクリスターを間違えるなんて、私の方こそどうかしていたんだわ。外見がそっくりだって、しょせんあんたなんかクリスターの『劣化コピー』じゃない」
レイフは目をぱちぱちさせた。
(劣化コピー? うまいこと言うなぁ)
一瞬レイフは、怒るよりもむしろ感心してしまった。
(い、いや、ちょっと待て。やっぱりひどいだろ、それは)
こめかみの辺りがぷちっと小さな音を立てたような気がした。
「れ、劣化コピーだぁ? 失礼にも程があんだろ…大体おまえなぁ…!」
遅れてこみ上げてきた怒りに任せてレイフが大声をあげようとした時、キャサリンが叫んだ。
「私、クリスターが好きなの!」
不意打ちを食らって、レイフは絶句した。
(うわ、いきなり直球できやがった)
好きな相手に告白だの何だのと、レイフが最も苦手とするシチュエーションだ。この場合は対象がクリスターなのだから、これ以上巻き込まれる前に、レイフには関係ない話と突き放せばよかったのだが、焦るあまり、そこまで考えが回らなかった。
クリスターに熱を上げている女子は大勢いて、チアの連中もチームの花形QBの彼女の座を狙って互いに火花を散らしているしいが、彼は同年代の少女はほとんど相手にしない。実際クリスターが付き合うのは、いつもジェシカのような落ち着いた年上の女性ばかりなのだ。
(どうしよう。はっきり言ってやるべきだろうか。あきらめろ、クリスターの理想は年上のインテリ女だ。あんたは確かに美人だけれど、おつむはちょっと足りない感じだし、第一あいつの好みに照らせばまだ若すぎるって)
だが、いくらキャサリンの高飛車な態度が鼻につくからといって、彼女なりに真剣な想いを全否定することは、やはりレイフにはできなかった。
「やめとけよ」
レイフはぼそりと言った。
「クリスターには今付き合ってる人がいるんだ」
さすがにキャサリンは一瞬ひるんだ顔をしたが、まだあきらめなかった。
「そんな噂、聞いたことないわよ」
「同じ学校の人じゃないよ」
先日の出来事を思い出して、レイフは少し落ち込んだ気分になった。
「それに、たぶんクリスターはこの先も同じガッコの子とは付き合わないと思う。追いかけるだけ損だよ。悪いこと言わないから、他を探せよ」
「何よ、それ」
キャサリンはまだレイフの言うことを疑っているようだ。さすがに、この女しつこいなとレイフも閉口してきた。
その時、キャサリンははたと思いついたかのように言った。
「分かったわ、レイフ。あなた、クリスターに妬いてるのね?」
「は…はぁっ?」
思わず、レイフはのけぞった。
「ど、どうして、そういう話になるんだ?」
本気で仰天してレイフは問い返した。
「おんなじ顔した双子なのに、クリスターは何をやっても一流で、あんたは二流以下。もちろん女の子達だって見る目あるから、少しくらい運動ができるからって、野蛮人のあんたより、クリスターに夢中よ。それが気に入らないんでしょう?」
レイフはふっと気が遠くなったような気がした。
よくもまあ、そんな理屈を引っ張り出してきたものだ。勘違いも甚だしい。
また、こめかみの辺りがぷちっといった。
(あ…もう駄目…もう限界かもしんない。神様、女の子に決して手は上げませんが、怒鳴るくらいはしてもいいですか? でも、それで泣かれたりなんかしたら、もっとうざいし)
キャサリンのヒステリックな声は、キャンキャン鳴くスピッツ犬に似ている。アルバイト先の獣医のケージの中にいた、小さいくせにやたらとうるさかった犬を思い出しながら、レイフは必死で気持ちを落ち着けようと試みた。
レイフの沈黙をどう受け取ったのか、キャサリンは鬼の首を取ったかのような調子で更に続けた。
「それに、クリスターは同じ学校の子とは付き合わないなんて、あんたは言ったけれど、それは嘘でしょ。私、知ってるのよ、ハニー・ヘンダーソンのこと」
レイフは、はっと息を吸い込んだ。
「九年生の時、あんたが最初に好きになって…でも、ぐずぐずしているうちに結局クリスターに取られたんでしょ」
ハニー・ヘンダーソン。久しく聞かなかったその名前に、レイフの胸中は激しくざわめいた。
「クレイジーだって言われたくらいに風変わりな子で、最後は本当に頭がおかしくなって、学校をやめていったんだって聞いたわ。それがショックで、クリスターは彼女と別れた後誰とも付き合わなくなったんだって…。もちろん、あんたもショックだったでしょうけれどね、レイフ。好きな子をお兄さんに横取りされて、もしかして今でも恨んでいるんじゃないの?」
レイフはかあっと熱くなった頭を手で押さえた。こみ上げてくる怒りのために、がんがんと痛む。
レイフはぎりっと歯を食いしばった。
「何にも知らねぇくせに、おまえなんかがハニーのことを軽々しく話すんじゃねぇ…!」
それまでキャサリンにむしろ圧倒されていたレイフが突然火を吹くように叫ぶのに、彼女はびくっと震え上がった。
そんな彼女に、レイフは指を突きつけるようにしながら迫った。
「いいか、二度とオレやクリスターの前でその名前を口にするな。さもないと―」
先程までの弱気な態度とは打って変わってレイフが凄みのきいた目で睨みつけるのに、キャサリンはすっかり青ざめている。
「な、何よ…」
気の強い彼女は、それでも言い返そうとした。いや、もしかしたら大声で叫びだそうとしたのかもしれない。
一時はぐれかけて不良グループとつるんだこともあるため、今でも何をするか分からない乱暴者というイメージを抱かれているレイフだ。ここで騒がれ人を呼ばれたら、キャサリンに暴力を振るおうとしたと誤解されかねない。
一触即発の空気が漂った、その時、敵同士のようににらみ合う二人の上に、場違いなほど涼しげな声がかけられた。
「あれ、レイフさん、こんな所で何をやってるんですか」
キャサリンはその声がした方をとっさに振り返り、レイフは眉根を寄せた。
「練習さぼるなんて、あなたらしくないですね」
体育館の陰からひょっこり姿を現したのは、栗色の髪の華奢な少年だ。
「さぼってなんか、いねーよ」
レイフは、悪戯を見咎められた子供のようなばつの悪そうな顔をした。
栗色の髪の少年は、キャサリンのことなど気にもとめずにすたすたとレイフの傍まで歩いてきた。
突然の闖入者の登場で、レイフの怒りは瞬く間に鎮火していった。
「それよか、兄貴は?」
レイフの質問を予め予想していたかのように、少年は滑らかに答えた。
「クリスターさんは、生徒会で決議した議題を持って副会長と一緒に校長室に行っています。チーム練習にはもう少し遅れそうだから、僕には先に行っててくれって。これ、今日の練習メニューです。レイフさんに渡してくれって、クリスターさんから」
大事そうに胸に抱えていたノートを少年はレイフに差し出した。クリスターが、その日の練習が終わる度に色々分析して書き込んでいるノートだ。
レイフは、神妙な面持ちでそれを受け取った。
(ちぇっ)
レイフは少しがっかりしていた。せっかく急いで練習に来たというのに、肝心のクリスターは他の事で忙しくてここに来ない。こんなノート一つ、下級生に託しただけで―。
レイフは内心深い溜息をついたが、利発そうな青い瞳でじっと自分を観察している少年の手前、鬱屈した感情は胸の奥にしまいこんだ。
「兄貴も兄貴だけど…ダニエル、おまえまで生徒会とチームの主務の掛け持ちかよ。よくやるよ、大変だろーに」
「ちっとも大変じゃないですよ。このくらい、クリスターさんに比べたら、全く大したことないです」
今期からチームの雑務的なことを一手に引き受けている一年後輩のダニエル・フォスターは、レイフを見上げながらにっこりとどこか取り澄ました顔で笑った。
いかにも賢しげな表情は、『小クリスター』とでも呼びたくなるくらいだ。
「そんなことより、キャサリン・コナー、チアの君がレイフさん相手に何からんでいるのさ」
それまですっかり放置されていたキャサリンは、いきなりダニエルに矛先を向けられて、明らかに動揺した。
ダニエルは手を背中で組んだ姿勢で、キャサリンに向き直った。
「ねえ、いいの? 練習サボって選手に迫っていたなんて、他のメンバーにばれたら、君の立場悪くなるんじゃない? まさかレイフさんを通じてクリスターさんに近づこうなんてしていた訳じゃないよね? そんなぬけがけしようとしたら、きっとチアなんか続けられないよ。間違いなく、メンバー全員から吊るし上げだね。親とかに頼んでやっとの思いで入ったチアなのに、すぐにやめたくないよね。だったら、少しは気をつけようよ。もともと君、他のメンバーからは毛虫のごとく嫌われているんだから」
眉一つ動かさないクールな顔で、ダニエルは棘いっぱいの言葉をすらすらと述べたてた。しかも、ただの挑発ではなく確実に相手の弱みをついている。
「ち、違うわよ」
慌ててキャサリンが言い返すのに、ダニエルは満足そうに頷く。
「ああ、違うんだ、それはよかった。君にとっても、もちろんクリスターさんにとってもね」
レイフを相手にしていた時とは打って変わって、今度はキャサリンに旗色が悪いようだ。
頭の回転が速いだけに口も回ること回ること、キャサリンに反論の間も与えずに、ダニエルは一気に相手を追い詰めていった。
「それじゃあ、早く消えてよ。目障りだから、君」
ダニエルは、天使のようなとでも形容したくなる完璧な笑顔を作って、キャサリンに対してとどめの一言を言い放った。なまじ品よく整った顔立ちだけに、その毒舌の殺傷力は物凄い。
(うわ、きっつー!)
脇で黙って聞いていたレイフでさえも、思わず、一歩引いた。
キャサリンは顔を真っ赤にし、わなわなと震えだしたかと思うと、さっと後ろを振り返って逃げ出した。
あれほどしつこかった彼女にしては、呆気ない退散の仕方だった。
「全く…レイフさんって、フィールドではほとんど無敵なのに、それ以外の場ではほんとに不器用ですよね」
呆然とキャサリンを見送ったレイフは、ダニエルが嘆かわしげに溜息をつくのを聞いて、傍らを見下した。アイス・ブルーの瞳が恐れ気もなくレイフをまっすぐに睨み上げている。
「選手目当てで寄ってくる女の子の一人や二人、もっと簡単にあしらってくださいよ。可哀想だなんて同情して相手をしていたら、きりがないでしょう? 練習の妨げにもなります」
ダニエルはレイフの腕を拳で軽く叩いた。
「今年こそ優勝目指す気なら、余計な雑念のもとは排除すること。あなたって気持ちがすごくプレイに影響するタイプなんだから、気をつけてください」
「す、すまん」
もっともなダニエルの意見にレイフは恐縮して頭をかいた。何と言っても、彼のおかげでレイフはキャサリンから解放されたのだから感謝して然るべきだろう。
ダニエルはレイフ相手に言いたいことを言ってすっきりしたのか、怒らせていた細い肩を下ろした。
ちらっと後ろを振り返ると、ダニエルは思い出したかのように付け加えた。
「それから、まかり間違っても、あの馬鹿女をクリスターさんに近づけないでくださいよね。本当に身の程知らずで、頭にきます」
忌々しげに、ダニエルは舌打ちをした。
「あは…そこまで聞いてたのか」
先程の自分の激昂ぶりを思い出して、レイフは苦笑した。
とっくの昔に終わったことなのに、他人の口から聞かされただけであれほど取り乱すなど、本当にどうかしている。
「あんないい加減な噂をどこで聞いてきたのか知らないけれど、今更ハニー・ヘンダーソンのことまで持ち出すなんて…」
「いいよ、もう…」
その件はもう蒸し返されたくなくて、レイフは明るい調子で話題を変えた。
「それよりさ、おまえ、今年はチェスクラブの方はどうするんだよ。それも掛け持ちするのか?」
昨年、一年スキップして十四才で高校生となったダニエルはチェス・マニアで、アーバン校に入学してすぐに自らクラブを作った。そうして、かつてアマチュア・チェス界で名を馳せたクリスターが一学年上にいることを知るや、彼を訪ねていっていきなり挑戦状を叩きつけたのだ。クリスター自身は中学最後の年にジュニア選手権、全米選手権と立て続けに優秀したのを最後に、チェスはやめてしまったのだが、ダニエルはしつこく対戦を迫り、ついに根負けしたクリスターは受け入れた。
この出来事の顛末は新聞部が取材に来るほど学校内での話題となり、対局当日、会場となった教室前の廊下や中庭は見物人や野次馬で溢れ返った。
結果は、言わずもがなのクリスターの圧勝だった。
これでもうダニエルに付きまとわれなくなるだろうと胸を撫で下ろしたクリスターの当ては、しかし、外れた。
それまでチェスも勉強もそこそこできて自信家だったダニエルは、自分を完膚なきまでに打ち負かした男にむしろ惚れ込んでしまったらしく、以前にも増してクリスターを追いかけるようになった。クリスターが生徒会に入るなら自分も立候補して書記になったし、もう一年スキップして彼と同じ学年になりたいと今また猛勉強しているそうだ。
それだけでは飽き足らず、全く興味のなかったフットボールにまで守備範囲を広げてしまう辺り、思春期ならではの勢いと思い込みは、ある意味怖い。
一生懸命背伸びしてクリスターに追いつこうとしているダニエルを見ていると、もううっとうしいのを通り越して、レイフはいつもはらはらさせられた。
クリスターに憧れるのはいい。だが、そこまで他人に入れ込んで、本来自分が好きだったことまで犠牲にしてしまうのはどうかと、これでも一応二才年上のレイフは心配してしまうのだ。しかし―。
「チェスですか? ああ、それはやめました」
「え、本気でやめたのか?」
あっさり答えるダニエルに、レイフは拍子抜けしてしまった。
「生徒会書記とフットボール・チームの掛け持ちだけで、今は充分です。この上チェスまで続けようとしたら、きっとどれも中途半端になってしまうでしょう。成績も落としたくないし…。何もかもパーフェクトになんて、僕にはさすがにクリスターさんのまねはできませんから」
「ふうん…去年はあんなにチェスしよう、チェスしようって、クリスターにまつわりついてうるさかったのにな」
「一局交えてもらっただけで充分ですよ。全く敵うレベルじゃないって分かって…井の中の蛙だった僕にはいい経験でした。それでも、ちゃんと相手をしてもらえたんだから、満足です」
いいのか、本当にそれでいいのか? 納得できないレイフは、思わず追及してしまった。
「でもさ、それで…何でフットボールなんだよ。しかも、選手じゃなくて態のいい雑用係じゃないか。そんなんで、楽しいのか? おまえの体格で一軍選手なんてそりゃ無理かもしれないけど、もしどうしてもって言うのなら、せめてトライ・アウトくらい受けてみたら―」
「楽しいですよ」
きっぱりと答えるダニエルに、レイフは何と言えばいいのか分からなくなった。
「クリスターさんが好きなことは僕も好きです。だから、フットボールも勉強して、ルールから複雑な作戦まで全て頭に叩き込んだんです。理論ばかりで実戦に出られないのは残念だけれど、その分他でカバーして皆さんが上に行けるようしっかりサポートするつもりですから」
本当に、思春期って、怖い。欲しいもの以外は全く目に見えなくなって、それが例え火の中にあっても、平気で手を突っ込んで取ろうとする。
滑らかな頬を紅潮させて訴えるダニエルを、レイフは内心冷や冷やしながら見ていた。
そういうレイフもまだ思春期真っ只中だったが、たぶんダニエルとは違って、火傷をしたら熱くて痛いということはもう知っていたのだ。
「まあ…無理しない程度にがんばりな。そうそう、チームの連中にもし苛められたらさ、オレかクリスターんとこにすぐ飛んでくんだぞ。倍にしてやり返してやるから」
「そ、そんな迷惑かけられませんよっ」
言い返すダニエルの頭を捕まえると、レイフは子犬を可愛がるように撫で繰り回してやった。ダニエルは悲鳴をあげて逃げようとするが、口はともかく力ではレイフに敵わない。
「じゃ、お先」
洗われた犬のようにはあはあ息をつきながら、すっかり乱れた頭で呆然と立ち尽くすダニエルを置いて、レイフは先にクラブハウスのドアを開いた。
(あーあ、何だか、練習に出る前にどっと疲れちまったな)
キャサリンの告白にはすっかり振り回され、ハニー・ヘンダーソンの名前を聞けば激しく動揺し、それから、ダニエルの一途さにまた冷や冷やされられて―。
冷静に考えれば、全てクリスター絡みの話だ。
レイフの唇に、ふっとほろ苦い微笑が漂った。
(オレには関係ないって割り切ればいいのかな…ハニーは別だけど、あれも終わったことだし…。クリスターが誰を好きになろうが、どこで何をしようが、それはあいつの問題だ。でも、クリスターが絡んでくるとやっぱり気になって…つい係わり合いを持とうとしちまう)
早足でずんずん奥に入っていきながら、逃げるようにロッカールームに入り込むと、レイフは小さく溜息をついた。
手に持っていたクリスターのノートに気がつき、レイフは忌々しげに唇を噛み締めた。
(クリスターの馬鹿、こんなものを人づてに渡したりしないで、自分でここに持って来ればいいじゃないか)
レイフにとっては待ちに待ったシーズンだというのに、クリスターはフットボールだけでは満足できないのか。生徒会とかその他諸々掛け持ちなどして、欲張りすぎる。
(分かってたことだけどさぁ…ちょっとがっかり…)
クリスターはレイフとは違う。別にフットボールがなくても、彼は他の才能を発揮して生きていける。レイフがいなくなったとしても、クリスターは実際あまり不自由しないのではないか。彼を愛し、求める人間は他に大勢いるから―。
クリスターの優先順位の中で自分が位置する場所は今どの辺りだろう。そんな心配をすること自体が幼稚なのだ。それも、分かっている。
クリスターがよく言うことだ。
おまえも少しは大人になれよ、レイフ。大人になれ。大人に―。
しかし―。
「どこで何してやがる、クソ兄貴っ」
何だか無性にイライラして、レイフはクリスターが使っているロッカーにそのノートを叩きつけた。
床に落ちているノートとロッカーを見比べた後、レイフはしょんぼりと頭を垂れた。目を閉じた。
「戻ってこい…ここに…」
呪文のように、ふっと呟いてみる。レイフは苦笑した。
(…ばっかみてぇ!)
レイフは絡み付いてくる嫌なものを振り払うかのごとく頭を振ると自分のロッカーに行き、さっさと着替え始めた。