ある双子兄弟の異常な日常 第三部

第1章 終わりの始まり

SCENE2


 湯気に霞んだシャワー室は勝利の余韻を引きずっているチームメイトの陽気な声で騒がしい。
「いててっ」
 熱いシャワーを頭から浴びながら、レイフは胸に覚えた鈍い痛みに顔をしかめた。
 試合が終わって、しばらくの間忘れていた。ニックに肘鉄を食らった箇所だ。
(ああ、やっぱり赤くなってやがる)
 指先で押さえながら、まさか骨にひびなど入っていないかとレイフはさすがに少し不安になった。
 シーズン始まって早々負傷して試合に出られないなどと、しゃれにならない。丈夫だけが取り柄の体だから、大した傷ではないと思うけれど―。
 レイフが降り注ぐシャワーの中でじっと考え込んでいた、その時だ。
「レイフ」
「うひゃ?」
 すぐ後ろから低い声で名前を呼ばれて、レイフはびくっと飛び上がり、とっさに後ろを振り返った。
「て、何だ、クリスターかよ。コーチのとこに寄ってたんじゃなかったのかよ」
「それは、もう終わった」
 クリスターの鋭い視線が自分の胸に注がれているのに、レイフは一瞬ひるんだ。
「痛むのか?」
「え?」
「さっき、ニックとぶつかった時、彼の肘を食らっただろう? 見せてみろ」
 レイフは目をぱちぱちさせた。
「あのぶつかりあいの只中で、よくそこまで見ていたな。おまえ、目ざとすぎっ」
 クリスターはふっと笑って、身を屈め、レイフの胸の赤くなった部分に指で触れた。
「これは痛む? …それじゃあ、ここは?」
 レイフに確認を取りながら気遣いに満ちた指先で触れてくる、クリスターの頭を見下ろしながら、レイフはますます落ち着かない気分になってきた。
「…たぶん打ち身だけで、骨は大丈夫だと思うけど―明日になってもまだ痛みが続くようなら病院で診てもらおう」
「う、うん…」
 出しっぱなしのシャワーの音を背中に聞きながら、その音がばくばくいっている心臓の鼓動を打ち消してくれることをレイフは必死で祈っていた。
 兄の裸体とこんなに近くで向き合うことは久しぶりだったろうか。鏡の前に立っているかのように、そっくり同じ体。今唯一違うのは、レイフの胸には赤い小さなうっ血した箇所があるということだけだ。
(噛み付いてやろうか、そこ)
 傷一つないクリスターの胸をじっと見ながら、レイフはふと妙に凶暴な気分に駆られた。
 赤く、血がにじむくらいに歯をたててやろうか。クリスターの胸にもレイフと同じ印がつくほど―。
「おおい、双子ーっ」
 湯気の中でクリスターと向き合ったままぼうっとしていたレイフは、その呼びかけに我に返った。
「何、二人で見つめ合ってんだよ。つーか、目の毒っ」
 親友トム・バーマンがにやにや笑いながらこちらを見ているのに、レイフはちょっと居たたまれない気持ちがした。
「レイフがさっきの試合で傷を負ったらしいんだ」
「え、マジかよ」
 さっと顔色を変えるトムに、クリスターは鷹揚に頷き返す。
「一応コーチにも報告はしたけれどね。それで、これからの試合に影響が出ることはないと思うよ」
 クリスターは軽くレイフの肩を叩くと、心配顔のトムの方へ歩いていった。
 その後ろ姿に、レイフの目はついつい行ってしまった。
 自分と同じ見慣れた体と言ってしまえば、それまでだ。しかし、『自分』の後ろ姿をこうやって客観的に眺められるのは、双子にのみできることではないか。
(オレが言うのもなんだけど…兄貴の奴、いい体してるよなぁ)
 すらりと高い背に、長い手足。強肩でならすクォーター・バックだけあって肩や上腕の筋肉は隆としたものだ。それから、その広い肩幅のせいでむしろほっそりして見える腰だとか、引き締まった形のいい尻だとか―。
(変態!)
 レイフはいきなり壁の方に向き直り、堅いタイルに額をがんっとぶつけた。
 近くでシャワーを浴びていた仲間がうろんそうな目を向けてきたが、笑ってごまかし、レイフはシャワーのノブをいっぱいにひねった。
 シャワーの音以外もう何も聞こえない。シャワー室の片隅でたぶんトムと話しているだろうクリスターの声も自分の心臓の鼓動も、この音が打ち消してくれる。
 むきになったように頭を洗いながら、レイフは強く念じた。
(流れちまえ、ブラコン)
 たちこめる蒸気の向こうに、ゆらりと、遠い記憶が陽炎のように揺らめいたが、レイフは見ない振りをした。
 それからしばらく熱いシャワーをがんがん浴びまくって、誰もいなくなった頃やっと、すっかりのぼせたレイフはふらふらになりながらシャワールームから出て行った。



「ああーっ、腹減った、腹減ったーっ」
 クラブハウスから出た頃には、既に日は暮れかけていた。
「もうカフェテリアは閉まってるし、寮で食っていけと言いたいとこだけど、食堂が開く時間にはまだ早いぜ」
 大げさにお腹を押さえてふらふらしてみせるレイフを、横に並んで歩いていたトムが見上げながら言った。
「ピザでもマックでも何でもいいから、食いに行こう。今なら、オレ、店一軒食いつぶせそう」
「近くにオープンしたばかりのピザ屋があったから、帰りに寄ってみようか。車の中に割引クーポンがあったと思うよ」と提案したのは、クリスターだ。
「あは、何それ。クーポンなんか取っておいたのかよ。クリスターって、母さんみたいなことするんだな」
「おまえをレストランなんかで野放しにして好き勝手に食べさせたら、僕のアルバイト料なんてあっという間になくなってしまうよ」
「おまえも来いよ、トム。今日はオレ達大活躍だったし、ご褒美に兄貴がおごってくれるってさ」
「当たり前のように言うんだな」
「だって、クリスターはチームのキャプテンじゃん」
 レイフは悪戯っぽく片目をつむった。憮然とした面持ちのクリスターを横目に見ながら、小柄なトムの肩を抱いて耳打ちをする。
「それにさ、こいつ、高校生のくせにすごく稼いでるんだぜ。親父の知り合い通じて色んな会社のコンピューター・プログラムの書き換えや修正とかして、下手なプロ雇うよりも安くつくし仕事も速いしって、重宝されてんの」
「へえっ。それじゃ、遠慮なくたからせてもらおうかなー。行こう行こうピザ屋」
 はあっと溜息をつくクリスターの後ろを、少々バランスが悪いながらも肩を組んでピザコールしながらレイフとトムが続く。
 やがて学校の敷地から出、静かになった校舎の横の道を少し離れた駐車場に向かって三人は歩いていった。
 駐車場が見えてきた、その時だ。道路脇に止まっていた一台の車がクラクションを鳴らした。
「何だよ、あの車」
 レイフが不審そうに立ち止まってそちらを見ると、その白い車のドアが開き、一人の若い女が降りてきた。
 レイフの顔から笑みが消えた。
「クリスター」
 にっこり笑って手を振る、茶色のストレートの髪を長くのばした知的な感じの美人に、レイフも見覚えがあった。一度家の前で会ったことがある。
「ジェシカ…来ていたのか」
 クリスターの声には微かな戸惑いが感じられた。
「講義が終わってからここに来たの。試合開始には間に合わなかったけれど、充分楽しめたわ」
 クリスターは気まずそうにちらっとレイフの方を見、それから車の傍に立って待ち受ける様子の女に素早く歩み寄った。
「試合、よかったわよ。大活躍だったじゃない、赤毛ののっぽさん」
 ややハスキーな落ち着いた声は、いつかレイフが電話で聞いた時と同じように感じがよかった。
「なあ…誰?」
 突然現れた美女に興味津々のトムにわき腹を肘でつつかれて、レイフははっと我に返った。
「うん…」
 レイフは一瞬口ごもった。
「兄貴が付き合っている人。ハーバードの学生だってさ。ほら、クリスターの奴、今あそこで心理学のクラスを取ってるから―そこで知り合ったんだ」
「大学生か…やっぱうちの学校の女子とは雰囲気違うよなぁ。カッコいい大人の女の人って感じ」
 トムは羨ましそうに溜息をついた。
 クリスターはこちらに背を向けているため、その顔は見えない。
 レイフは、クリスターの向こうに覗くジェシカの美しい顔―さらさらした長い髪を指先でいらいながらクリスターを見上げる、そのあまやかな眼差し、綺麗な唇が笑みこぼれる様にじっと見入っていた。
(何か…チクチクしやがる…心臓…)
 この場に立っているのも落ち着かなくて、じりじりしながらレイフが待っていると、クリスターはやっとこちらに戻ってきた。しかし―。
「レイフ、悪いけど、先に家に戻ってくれ。今夜は少し帰りが遅くなるかもしれないけれど、心配しないでって、母さんに…」
 レイフはむっつり黙り込んで、地面に視線を落とした。
「すねるなよ、子供みたいに。ほら、車のキー」
「ば、馬鹿、すねてなんかいねぇよっ」
 むきになったように言い返し、クリスターが取り出したキーをレイフは腹立たしげに掴み取った。
「それじゃ」
 クリスターはまだ何か言いたげなレイフの肩を軽く叩き、呆気にとられているトムに向かって頷くとくるりときびすを返した。そのまま、既に車に乗り込んでいるジェシカのもとに彼は戻っていった。
「お兄さんを借りるわね」
 ジェシカが運転席の窓から親しげに手を振るのに、レイフもぎこちなく手を振り返した。
 そうして、二人を乗せた車は走り去った。
(ちぇっ)
 トムと一緒に道端に取り残されたレイフは、しばしその場にたたずんで、兄が恋人と一緒に消えていった方向をひたすら目で追っていた。
 クリスターには恋人がいる。レイフにはいない。クリスターにとって恋人が弟よりも大事とまでは、レイフも思っていない。しかし今は、置いてけぼりを食ったことが切なくて―。
「レイフ」
 突然後ろから頭をはたかれて、レイフは軽く前によろめいた。
「い、痛いじゃないか、トム」
 叩かれた後頭部をさすりながら、レイフは恨めしげな顔で親友を振り返った。
「そんな捨てられた子犬みたいな目で兄貴を見送るのやめろよなー。見ている方が恥ずかしくなる」
「う」
 レイフは赤くなって俯いた。
「まあ、羨ましいって気持ちは分かるけどな。クリスターってもてまくりなのに、おまえ、その点では明らかに負けてるし」
「悪かったな」
 レイフはむっとしてトムを睨みつけた。
「ていうか、がんばれよ、弟。おまえだって、その気になったらガールフレンドの一人や二人、余裕でできるはずだぜ」
「そう簡単に言うなよ。だって、仕方ねぇじゃないかっ。ライバルは、あの『帝王』クリスターだぜ。同じ顔しているってことが返ってハンデなんだよ。外見が同じなら、二人のうちより優秀でカッコよくて目立つ方に女の子は皆流れちまう。大体、オレ、女の子のことなんて分からないし…兄貴みたいにうまく接することもできない、そういうの苦手だから…」
 トムは嘆かわしげに溜息をついた。
「お前の場合、その妙な思い込みをなおさなきゃな。俺に言わせりゃ、おまえだって、充分すごいのに。運動神経抜群の天才じゃないか。お世辞抜きで将来はプロにだってなれるぜ。もっと自信持てよ、レイフ、おまえに敵う高校生なんて、いるものか」
 初めはからかい半分の軽い調子だったトムが次第に真剣になってくるのに、何だか追い詰められそうな気がして、レイフはなおも訴えようとする彼をわざと遮った。
「でも、クリスターにだけは絶対敵わない」
 他人の言葉など一切受け付けないような固い声で断言するレイフに、トムは口をつぐんだ。
 励まそうとしてくれるトムには悪いが、これは単なる思い込みではないとレイフは信じている。そう、クリスターに勝つことなど初めからあきらめている。
「何で、そう思うんだよ」
 レイフは怒らせていた肩を落とした。すまなそうに、トムを振り返った。
 レイフをまっすぐに見つめるトムの顔には、もどかしさだけでなく真摯な気遣いがうかんでいた。
 足の速さを評価されレイフと同じスポーツ枠で入学を許可されたトムとは、レイフは馬が合った。フットボール・チームのトライアウト(入部テスト)でも、トムはレイフとたまたま一緒だった。当時絶好調だったレイフは、四十ヤード走四・三秒とプロ顔負けのタイムを叩き出し周囲の度肝を抜いた。その俊足ぶりに、あれ以来トムは惚れ込んでくれているそうだ。だから、時々レイフが自分の実力を過小評価するような発言をすると腹が立つらしい。
「悪ぃ…大声出して」
 レイフはううんと唸りながら小指で耳をほじった。
「うまく言えねぇけど…クリスターとオレとじゃ、『本気』になった時の肝の据わり具合が違うんだよ。オレには絶対できないことが兄貴にはできちまうんだ。あいつの本気を思い知ったら、あいつに勝とうなんて気持ちはなくしちまう」
 いつの間にか周囲はすっかり暗くなっていた。
 レイフは闇の彼方を、微かな怯えをはらんだ目でじっと透かし見た。
「クリスターの本気って…どういう意味なんだよ?」
 トムが追求してくるのに、レイフはちょっと首を傾けて困ったように頭をかいた。
「まあ…知らねぇに越したことはないな」
 それから、頭上を振り仰いで、大きく息を吸った。
「なあ、レイフ」
 なおもトムが言いかけた時、レイフの腹の虫がなった。
 途端に、緊張感が緩んだ。
「ああ…クリスターは行っちまったし…ひもじいから余計に切なくなる…」
 お腹をおさえてがっくりとうなだれるレイフに、トムは慌てて声を張り上げた。
「そ、そうだ、ピザ食いに行くんじゃなかったのかよ。クリスターぬきでもいいじゃん、早く行こう。あんまり遅くなるときっと店も混んでくるぜ」 
「付き合ってくれるのか?」
「もちろんっ。俺達、友達だろ」
 落ち込んでいる様子のレイフを訳が分からないなりに慰めようとしているトムをレイフはがしっと抱きしめた。レイフはじゃれているつもりでも、小柄なトムにとっては破壊力のあるタックルだ。一瞬彼は白目をむきかけたが、レイフは気がつかない。
「ありがとうな、トム。ただしスポンサーがいなくなったから、ピザ代割り勘だかんな」
「え…ええーっ」
 その言葉に我に返ったトムを問答無用で駐車場に引きずっていきながら、レイフはふと後ろを振り返った。
 クリスターは行ってしまった。
 もう十七歳にもなっているのだから、子供の時のようにクリスターといつも一緒にいるわけにはいかないと頭では承知しているはずだが、まだ現実を受け入れられない自分がいることをレイフは実感していた。


NEXT

BACK

INDEX