ある双子兄弟の異常な日常 第二部
第2章 さびしい半分
SCENE

「お父さん、お父さんっ、ねえねえ、空中ブランコしてよっ」
 もうずっと昔、幼い双子達が子犬のようにじゃれかかって、そんな遊びをせがむと、子煩悩の父親はわずらわしげにすることなくいつも相手をしてくれた。
 小さかった兄弟には、父親は今よりももっと強く逞しく見え、その太い腕にぶら下がってぐるぐる回してもらうのが楽しくて仕方がなかった。
 きゃあきゃあとはしゃいだ声をあげる、そっくり同じ顔をした小さな息子達を見る父の目はいつも優しく温かくて、自分たちが愛されているのだということを幼いながらに彼らははっきりと感じとっていた。
「お父さんの一番の宝はおまえ達だよ、クリスター、レイフ。父さんは昔追いかけた夢は失ったけれど、その代わりにおまえ達を授かることができた。おまえ達を守って大きくしてやることが、立派な大人になったおまえ達を見ることが、父さんの今の夢だな。だから…生まれてきてくれて、ありがとうな」
 いつだったか、双子の誕生日にそんなことを語りかけてきたラースのことを、レイフは夢うつつに思い出していた。
(ああ、どうして、こんな昔のことなんか思い出すのかなぁ)
 きらきらと何かが目の辺りできらめくのに、レイフは眩しげに顔をしかめ、上げた手で光をさえぎった。
(朝なんだ…)
 一瞬学校に行かなくてはと思ったが、今日が休みであることを思い出してほっとする。
 レイフがうっすらと目を開けると、窓から差し込む光を受けてきらきらと輝く硝子のイルカのウインド・ベルが視界に入ってきた。
 そう言えば、あれも父親に買ってもらったものだった。双子が揃って一生懸命にねだれば、ラースは結局駄目だとは言わなかった。いつだって子供に甘すぎるくらい甘い親だった。
 ぼんやりと窓辺にぶらさがった双子のイルカを眺めていたレイフの顔が、次第にはっきりとしたものになっていった。
「あ…?」 
 レイフは瞬きをした。
 とっさに寝床から跳ね起きた。瞬間腰に覚えた馴染みのない痛みに、レイフは顔をしかめた。
「えっ…え…?」
 レイフは、そこに見出すものを恐れるかのように己の傍らを見下ろした。すると、やはりそこには、レイフと同じ裸の兄がいて、満ち足りた幸福そうな微笑を口元にうかべて眠っていた。
 クリスターのむき出しになった胸や首筋には、暗い薔薇色をした跡が幾つも残っている。レイフが残したのだ。同じ跡はレイフの体のそこかしこにも残っている。クリスターがつけたものだ。
 ドキドキと、レイフの心臓は激しく打ちはじめた。慄き、打ち震えていた。
「オレ…オレ達は…一体、何をした…?」
 朝の光と共に、昨夜見た幸福な夢も一気に覚めてしまったようだ。
 様々な現実が一気に頭の中に押し寄せてきて、レイフは、いまや自分たちが越えてはならない一線を踏み越えてしまったことへの罪の意識に恐れおののいている。
「どうしよう…どうしよう…」
 混乱したレイフは、低い声で呟きながら頭をかきむしった。その目は、怯えながら、依然として安らかな眠りを貪っている兄に向けられている。
 その瞼が次の瞬間にでも開いたら、クリスターににっこり笑いかけられたら―。
 想像して、レイフは身震いし、我が身をかき抱いた。
 たぶん、レイフは、またクリスターに捕まってしまうだろう。今でもまだ昨夜の高揚と幸福感の名残はレイフの中にある。レイフの半分は、まだ惹かれている。
「クリスター…」
 レイフは後ろめたさを覚えながらも、クリスターの薔薇色をした頬に唇を押しあてずにはいられなかった。恐くなったようにすぐに身を引いたが、クリスターを今でも欲しがっている自分に否応なく気づかされた。
「でも、こんなこと…やっぱり…続けられない…」
 レイフは兄を起こさぬように気をつけながら、そっと寝床から抜け出した。 
 脱ぎ散らかしたパジャマを拾い集める間にも、昨夜の行為を思い出させる熱っぽい痛みが感じられた。
 レイフは、束の間、途方に暮れたようにクリスターを見下ろした。
「シャワー…浴びてこよう」
 ポツリと呟いて、レイフは子供部屋を出、浴室に向かった。
 体を洗い流しても、レイフがクリスターと一緒に犯した罪が洗い落とせる訳ではないとは百も承知していたけれど―。



 その後しばらくして起きだしてきたクリスターは、リビングでぼうっとテレビを見ていたレイフにいつもと何も変わらぬような笑顔でおはようと言って、彼を抱き寄せ頬に唇を押し当てた。
 レイフが戸惑うくらい、クリスターには何も後ろめたがっている様子はなかった。
(クリスターってば、恐くないのかよ、不安にならないのかよ。おまえは、オレ達がしてしまったことを平気で受け入れられるのか?)
 レイフは心の中で兄に向かって訴えかけたが、それを実際口に出して、クリスターに詰め寄る勇気は持てなかった。
 両親のいない休日を、二人は、近くのリクリエーション・センターに出かけて、そこで会った友達と一緒にボウリングをしたり、その友達の家に遊びに行ったりして過ごした。家の中で兄と二人きりで過ごしたくはなかったレイフは、密かにほっとしていた。
 友人達と遊んでいる時も、レイフが鼻白むくらい、クリスターにはいつもと変わった所はなかった。楽天的で悩みらしい悩みなど抱えたことのないレイフが、こんなに深刻な気分になっているというのに、どういうことだ?
 家に戻って、夜になると、レイフはまた不安になってきた。昨夜のようなおかしな事態になったらどうしようと警戒していたのだが、クリスターがレイフに迫ってくることはなかった。
 もしかしたら、クリスターは昨夜のことは一度だけの過ちとして忘れるつもりなのだろうか。それはそれでレイフには何やら釈然としなかった。なかったことになど、できるはずがない。
 それでも、夜遅くになって両親が帰ってきた時、彼らの車が家の前で止まった、その瞬間―。
 圧倒的な安堵とほのかな落胆が入り混じった複雑な気分で溜め息をついたレイフに、ふいにクリスターが身を寄せてきたのだ。
「レイフ」
 クリスターはレイフを強く抱きすくめ、その顔を覗き込んだ。
「僕は、レイフが一番大切だから―父さんや母さんよりもだよ。僕がおまえを誰よりも愛しているってことを、覚えていてくれ」
 その意思的な瞳が、クリスターの本気を語っている。レイフが答えられないでいると、クリスターは素早くレイフの唇にキスをした。熱く激しい恋人のキスだ。
 玄関の扉の鍵をあける音がした。
「クリスター、レイフ、今帰ったぞ。おお、起きて待っていてくれたのか?」
 ラースの声にレイフが身震いした瞬間、クリスターは身を離した。
「お帰りなさい、父さん、母さん」
 クリスターはレイフの肩をぽんと叩くと、何事もなかったかのように、両親を出迎えに玄関に向かった。
 レイフは、その場に一人呆然と立ちつくしていた。
 クリスターに抱きしめられキスされた途端、体はすぐに反応しそうになった。クリスターの体に腕を回して、あの激しいキスに自らも応えたかった。
 なかったことになどするつもりは、クリスターには全くないのだ。自分達は兄弟だけれど、同時に恋人同士なのだと、当然のことのように考えている。
 一度レイフを手に入れてしまったクリスターは、もはや彼を逃がしてはくれないだろう。
「どうしよう…」
 レイフは、今更ながら、実の兄を心底恐ろしいと感じていた。



 その夜は、何事もなかった。
 両親の顔を見てしばらく話した後は、レイフとクリスターは二階に上って、それぞれのベッドで眠った。
 レイフはまんじりとしてほとんど眠れなかったが、クリスターは熟睡できたようだ。
(オレは、やっぱり恐いよ、クリスター…こんなこと、父さんや母さんに知られたらって想像すると、本当に恐い…おまえは考えないのかよ? 父さん達がどんなにショックを受けるか、どんなに苦しむか…オレ、やっぱり父さん達を悲しませるのは嫌だよ)
 翌日のレイフは、寝不足のせいもあるが、起きてからずっと憂鬱な顔をしていた。
 ラースは急な葬儀に参加するために離れなければならなかった仕事の様子を見るために、朝から出かけていた。
(でも、母さんがいてくれるからよかったよ。母さんの前では、さすがの兄貴も変なことはできないだろうし)
 それに、母親を交えると、クリスターとレイフの関係も怪しげなものではなく、何となくいつもと同じ雰囲気に戻って、普段と変わらぬ会話をすることができた。
「母さんがいない間、何も変わったことはなかった?」
「うん、僕達二人でちゃんとやれたと思うよ。食事もちゃんと食べて後片付けもしたし、夜更かしもせずにいつもの時間に寝たし」
 しれっとした顔で母に対して嘘をつくクリスターはやはり悪党だと、レイフは思った。だからと言って、レイフが本当のことを打ち明けるわけにはいかないが。
 クリスターがヘレナと話している一方、昼食のテーブルについて料理ができるのを待っている間もレイフは悶々と考え事をしていた。
(母さんは取り乱したことのない人だけれど、自分たちが留守の間息子達はセックスしてましたなんて聞かされたら…いくらなんでも動転するよなぁ)
 やがて、ヘレナは出来上がった皿を双子達の前に置いた。
「おなかが空いたでしょ。母さんは、ちょっとだけ父さんのオフィスを覗いてこようと思うから、あなたたちだけ先に食べなさい」
 食べ盛りの子供達のためのボリューム満点の今日のランチは、いつも買っている肉屋のスペシャルサイズのジャーマン・ソーセージだ。レイフの好物なのだが、何と言おうか、よりにもよって今、これだけは見たくなかった形状だ。
「どうしたんだよ、レイフ。早く食べないと冷めるよ」
 平気な顔をして、クリスターはフォークでソーセージを突き刺し、かぶりついている。
 もしかしたらクリスターより自分の方がナイーブなのかもしれないと、おいしそうにソーセージを食べている兄からうろたえつつ視線を外し、レイフは思った。
 固まったまま、うつろな目で皿の上の大きな肉色のソーセージを凝視している弟に、やがてクリスターも気がついた。
「馬鹿…何、想像してるんだよ」
 クリスターが顔をしかめて囁くのに、レイフは居たたまれなくなった。
「ほっとけ、馬鹿兄貴!」
 恥ずかしさに真っ赤になったレイフは、そう怒鳴ると椅子から立ちあがり、昼食のテーブルから逃げ出した。
「あら、どうしたの、レイフは?」
 外出の準備をしていたヘレナが、キッチンに再び顔を覗かせた。
「今、二階に駆け上がっていったわよね。レイフが食事にほとんど手をつけないなんて、信じられないわ」
 クリスターは一瞬答えにくそうな顔になった。
「心配しないでいいよ、母さん。レイフも思春期だから、色々悩んだり、不安定になったりすることもあるんだよ。僕が後でなだめておくからさ」
 ヘレナは、美しい髪に指を滑らせながら、クリスターに探るかのような眼差しを向けた。
「クリスター、私達が留守の間、レイフと何かあったの?」
 クリスターの心臓が、胸のうちでびくんと震え上がった。
「どうして?」
「レイフの態度を見ていれば分かるわ。あの子は嘘のつけない子ですもの。あなたに接する時のぎこちなさやあの不安そうな目…喧嘩をしたという雰囲気でもない…後ろめたそうにしていると言えばいいのかしら。いずれにせよ、レイフらしくない様子よ」
 勘の鋭い母を必死の自制心を働かせてまっすぐに見返しながら、クリスターは、レイフが恐がる気持ちを少し理解していた。
 愛する母親にあのことを打ち明ける勇気は、やはりクリスターにも持てなかった。一生の秘密として抱えていくしかないのだろう。
「確かにちょっと喧嘩というか…僕はレイフのことを、いつまでも子供でいる気かって馬鹿にしたような言い方をして、レイフがすねたことはあったけれど、そんなに深刻な争いはしていないよ」
 クリスターはつとめて平静さを装いながら、ゆっくりと答えた。
「たぶん、まだレイフはアイヴァースとの一件を引きずっているんだと思うよ。昨日も、それで嫌な夢を見たらしくて、だから朝から憂鬱そうだろう?」
「まあ…レイフが、まだそれほどあの事件を引きずっているなら…やはり、それこそ専門のセラピーにかかった方がいいのかもしれないわね。でも…」
 ヘレナは納得しきれないかのように首をかしげ、クリスターを凝視した。母親にこれ以上追及されても自分は持ちこたえられるだろうかとクリスターは警戒したが、ヘレナは込み上げてくる嫌な考えを振り払うかのごとく頭を振ると、クリスターに向けて優しく微笑んでみせた。
「分かったわ、クリスター。私はあなたを信じます。レイフのことをお願いね、お兄ちゃん」
 ちくんとクリスターの胸の奥が痛んだ。
 ヘレナが外出するのを玄関まで見送った後、クリスターは深い溜め息をついた。胸をそっと押さえた。平気だと思っていたはずなのに、案外辛いものだ。自分のことを愛し信頼してくれている母や父を裏切ることは。
 だから、レイフの辛さも理解してやるべきなのだろう。しかし―。
「もっと辛いのは、自分自身を裏切ることだよ、レイフ」
 クリスターは、階段の下からレイフが逃げていった二階を見やった。
 意を決したように、クリスターは階段を上っていく。目指すのは、レイフがいる子供部屋だ。
「レイフ、入るよ」
 自分の部屋でもあるのだが、一応ちゃんと断ってからクリスターは扉を開けた。
 クリスターから隠れるようにベッドの中にもぐりこんでいるだろうと思っていたレイフは、開けた窓の前に立っていて、風に揺れるウインド・ベルを眺めていた。
「レイフ?」
 クリスターが呼びかけると、レイフは一瞬身をすくめた。それから、躊躇いがちに兄の方を向いた。
「母さんは出かけていったよ。今この家にいるのは僕達2人だけだ、レイフ」
 レイフの琥珀色の瞳が心細げに揺れるのに、クリスターは苛立ちを覚えた。
「どうして、そんな目で僕を見るんだ、レイフ?」
 クリスターは、ついきつい口調でレイフを問い詰めてしまった。
「僕を恐がるのはよせよ。僕がおまえを傷つけるとでもいうのか? 言っただろう、僕はおまえを愛しているって…おまえだって僕を愛している。それなのに―」
「クリスター、やめろよっ」
 レイフはさっと青ざめて、両手で耳を塞いだ。
「そんなこと、もう言うなっ。兄弟で、あ、愛しているだの、セックスだのって、やっぱりどう考えても異常だよ…ゆ、許されるはずがない…」
「ふうん、そう言うレイフは誰に許してもらいたいのさ。神様? 父さんや母さん? 僕は誰にも許してもらおうなんて、思わないよ。おまえさえいてくれれば、他のことは、僕にはどうだっていいんだ」
 クリスターはつかつかとレイフに近づくと、その体を抱きすくめ、強引にキスをした。
「クリスター!」
 レイフは必死になってもがき、兄の抱擁から逃げた。
「オ、オレの体に勝手に触るなよっ。嫌がってるのにキスするなんて、反則だぞ」
 守るかのごとく自分の体に腕を回すレイフの上気した顔を眺めつつ、クリスターは皮肉っぽく唇をゆがめた。
「嫌がっているふうには見えないよ。レイフってば、本当に嘘がつけないんだね。今だって、しっかり感じたじゃないか。正直に言えよ、レイフ、僕にキスしたい、父さんと母さんがいない、この隙に僕とまたやりたいって」
 レイフは、火を吹かんばかりに真っ赤になった。
「僕を欲しくないなんて言わせないよ」
 クリスターは凄みを含んだ声でささやいた。
「あの夜のことを思い出せよ、レイフ。忘れることなんて、お前にはできないはずだよ。僕はよく覚えている…あの時のおまえの顔…おまえが、どんな可愛い声をあげて僕にしがみ付き、体を押し付けてきたのか。僕とやっててすごく気持ちよかっただろう? あんまりよかったものだから、二度目は、おまえは自分で僕を抱きたがった。はっきり言って、おまえは救いようがなく下手だったけれど、おまえが望むなら、僕はまた受身をしてあげてもいいよ」
 クリスターは腰に手をつき、誘いかけるように目を細め、傲然と顎をそびやかした。
「う…うう…」
 レイフは、激昂のあまり、言葉がうまく出てこないようだった。込み上げてくる怒りと恥ずかしさに涙ぐみながら、殺してやりたいとばかりにクリスターの不敵な顔を睨みつけた。
「ああぁっ、くそぅっ!」
 レイフは、癇癪を起こした幼児のように、激しく足を踏み鳴らした。
「そうさ、その通りだよっ。オレはクリスターとやってて、ものすごく感じたさっ。もう、この世の中にこんなに気持ちがいいことがあったなんて信じられないってくらい、死ぬほどよかったさ。あのまま、やりすぎて死んでしまってもきっと本望だった。こんなおいしい体験をさせてくれてありがとう、ごちそうさまって、おまえに礼を言いたいくらい、強烈によかったともさっ!」
 頭に血が上ったレイフがこんな馬鹿なことを大声で怒鳴り散らすのに、さすがのクリスターも怯んで、うっすらと頬を染め、うつむいた。
「それは…言い過ぎというものだよ、レイフ」
 はあはあと息を切らせているレイフと恥ずかしそうに目を伏せているクリスター、双子達の間にしばし空虚な沈黙が流れた。
「オレ…」
 先に口を開いたのは、頭が冷えてきたらしいレイフだった。
「オレはクリスターを愛しているよ。おまえが、オレにとってはこの世で一番の存在だと思う」
 考えをめぐらせながら、ゆっくりと、自分の言葉で、レイフは本当の気持ちを語りだした。
「でも、オレには…たとえおまえと二人で幸せになれたとしても、それによって傷つくだろう、他の人たちのことを忘れてしまうことはできないよ…父さんや母さんを悲しませたくない…友達だってなくしたくないし…オレ達だけがよければ他はどうなっても構わないなんて…そんなのオレには無理だ…」
 レイフが哀しげに顔を歪めながら語るのに、クリスターは呆然と聞き入っていた。
「なあ、クリスター、オレ達はどこまでいっても兄弟でしかありえないんだよ。双子ってもともとは一つの卵だったんだって、おまえはいつか教えてくれたけれど…確かにオレは時々おまえを自分の一部のように感じることがあるよ。おまえと、その…してた時も、引き裂かれたオレの半分が戻ってきたような満ち足りた幸せを感じた…でも、それも錯覚なんだ。オレ達はやっぱり別の体と心を持っていて、それらは絶対、あんなふうに結びついちゃ駄目なんだ。クリスターはオレの大切な兄貴だ。オレはおまえの弟だ。これからもずっと…それ以外のものにはなれない」
 クリスターは、体の脇でだらりと垂らしていた手を握りしめた。
「レイフ…」
 頭ががんがんと鳴り響いている。レイフの言ったことは嘘だとクリスターは叫びたかった。
「レイフ…僕を拒むのかい、そんなこと…おまえにできるはずがない…」
 不覚にも涙が溢れてくるのを、クリスターは熱くなった意識の片隅で感じた。
「そんなこと―許さないっ!」
 クリスターは怒りと悲しみに体を震わせながら、叫んだ。
「許すものか、レイフ…レイフ…おまえは使い慣れない理屈で自分をだましている…僕をだましている…この僕がおまえのためなら捨てられるものを…おまえに捨てられないはずがない…」
 クリスターの激昂に怯えたように後ずさりするレイフに、クリスターは狂おしげに手を伸ばした。
「逃げるな、レイフ! おまえは、僕の―」
 言いかけた瞬間、クリスターの顔つきが変わった。
(クリスター。もしもレイフが君と共にいることを望まず、君から離れていこうとしたら、その時一体君はどうするんだい?)
 アイヴァースがクリスターに突きつけた究極の問いかけを、今、クリスターはまざまざと思い出していた。
 レイフの不安げに慄いた顔を見つめながら、クリスターは愕然となっていた。
(彼が自分自身の幸福を追求しようとすることを認め、彼を手放すことができるかい?それとも―)
 窓際までレイフを追い詰めていたクリスターの手は、レイフの肩にかかる直前で震え、止まった。
 クリスターは、喘ぐように肩で息をした。
「違う…そうじゃない…僕は、レイフ…おまえを支配したい訳じゃない…一緒に幸せになりたかっただけだよ」
 クリスターは、己の顔がくしゃくしゃに歪み、目から熱い涙がとめどなくこぼれ落ちていくのを感じた。
「おまえが…ただ好きなだけだよ…」
 耐えられなくなったように、震える手で顔を覆った。
「クリスター…」
 レイフが掠れた声で呼びかけるのをはねつけるように、クリスターは背中を向けた。
「レイフ」
 心を静めようと何度も深呼吸した後、クリスターは後ろで息を殺して自分を見守っている弟にささやいた。
「分かったよ、レイフ、おまえを苦しめるようなまねなんか、僕はしない。あのことは、一度だけの過ち、僕達だけの秘密にして忘れてしまおう」
 そんなことは不可能だと分かっていながら、クリスターは感情を欠いた声で続けた。
「そうだ、レイフ、この部屋も…おまえが使うことにしたらいい。僕はゲストルームの一つを自分の部屋にするよ。今度の休みにでも、父さんと一緒に新しいベッドや家具を見に行こう」
 レイフが息を吸い込む音をクリスターは聞いた。
「ちょっ、ちょっと待てよ、クリスター」
 クリスターの宣言にレイフが動揺し、反対しようとするのに、クリスターは苦く笑った。
「大きくなりすぎた僕達には、この子供部屋を二人で使うことは、もう無理なんだ」
 胸に広がるほろ苦い感情を味わいながら、クリスターは弟と共有してきた部屋の全てをさっと見渡した。二人の思い出が、そこにはいっぱい詰まっている。
「僕達は、もう大人の男なんだよ。お前も自覚するんだな、レイフ」
 そう言い捨てて、後ろを振り返ることもなく、クリスターは部屋を出て行った。
「ク、クリスター…!」
 扉を閉じる瞬間、弟のすがりつくような叫びを聞いたが、クリスターは黙殺した。今、扉を開いて、部屋の中に戻り、たった一人で哀しみの涙を迸らせているだろう弟を抱きしめたら、彼を取り戻せるかもしれないと分かっていたが、クリスターはそうはしなかった。
(僕が何より望むのは、おまえの幸せ…おまえが僕から離れ、自分だけの幸せを求めたいというのなら、僕にはおまえを阻むことなどできない)
 クリスターは、頬に残る涙を手の甲で乱暴にぬぐった。
 クリスターは、扉の向こうから聞こえてくる弟の啜り泣きを振り切るように、その場から離れた。
 母が帰ってくるまで、リビングでぼうっとしていようと思った。それまでには涙の跡も乾いているはずだ。
(レイフは僕から離れることを望んだ。さあ、僕はどうしようか…?)
 他に欲しいものなど、クリスターには何一つなかった。 
 今更ながら自覚した寒々とした事実に、震えが込み上げてくるのを覚え、クリスターは己をひしと抱きしめた。
 レイフと一緒に歩むことのできない人生になど、さして面白みが残っているとは思えない。クリスターは自分の能力や頭脳には自信があったが、それを一体何のために使えばいいのかさっぱり分からなかった。
(それでも時がたてば…僕も変われるのかな…もう少し大人になったら…色んな人と会って、一生懸命勉強して経験を積んで…そうしたら、レイフが言ったように、あの子のことはただの兄弟として愛しながら、僕もいつから自分一人で立って歩いていけるようになるんだろうか。自分のだけの将来の計画、友達、好きな人を見つけて、普通に生きられるようになるんだろうか?)
 そんな日がいつか現実に訪れることなど、今のクリスターは全く想像もできなかった。信じることもできなかった。
「レイフ」
 せっかく一度は手に入れたと思ったのに、今度は決して越えることのできない壁の向こうに遠ざかってしまった半身が恋しくて、また涙が込み上げてきそうになる。
 クリスターは、ここにはいない相手に向かって、そっと囁きかけてみた。
「好きだよ」
 空しさがクリスターの胸をふさいだ。
 クリスターはリビングのソファに力なく横になり、胎児のように体を丸めて、そっと目を閉じた。
 片翼をもぎ取られたような、ひどく不安定でよるべない心のまま、クリスターは一人途方に暮れるしかなかった。

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