ある双子兄弟の異常な日常 第二部
第2章 さびしい半分
SCENE5

 その夜、広々としたリビングの片隅で、クリスターは母へレナを相手にチェスをしていた。クリスターは学校のチェスクラブにも入っていて、今度市内の中学生トーナメント出ることになっているため、ヘレナに特訓してもらっているのだ。顧問の数学教師も舌を巻くくらいの腕前のクリスターだが、ヘレナにだけはまだ一度も勝ったことはなかった。
 レイフは同じリビングの一角でラースと一緒にぼんやりとテレビを見ている。クリスターは時折彼が何か言いたげな視線を自分に送っていることに気づいていた。だが、クリスターが顔を上げると、レイフは慄いたように顔を背け、再びテレビの画面に目を戻してしまう。
 言いたいことがあるのなら、はっきり言えばいいのに。全く、レイフらしくない態度だ。
 クリスターがアイヴァースとの関係を打ち明けてからずっと、クリスターとレイフとの間にはこんな緊張した空気が流れている。
 どんな大喧嘩をしても、口などきかないと宣言しても、兄を無視することなど、レイフにはいつだってできたためしはなかった。だが今回は、彼にしてはなかなかがんばっている。
「オレ、もう寝るよ。おやすみ、父さん、母さん」
 まだ就寝時間には少し早かったが、レイフはこらえ切れなくなったようにいきなりそう言って、ソファから立ち上がった。
「もう寝るのか、レイフ」
「うん、何だか、今日は疲れちゃって…柔道の稽古がハードだったからかな」
 そんなのは大嘘だ。いつだってエネルギーがありあまって、元気すぎるくらいに元気なレイフなのに。
「そうだ、レイフ、もうじきおまえ達の誕生日だろう。いくらなんでも、そろそろあの子供部屋は卒業した方がいいと思うんだ。実際、あのベッドじゃ、おまえ達も不自由だろうしな。今度の休みでも、新しいベッドをショッピングセンターに見に行かんか?」
 クリスターは思わずそちらを見た。レイフも、いきなりのラースの提案にたじろいだようだ。
「新しいベッド…? そりゃ、確かに今の子供用ベッドじゃ窮屈なのは本当だけれど…」
 レイフは助けを求めるようにクリスターを振り返ったが、兄と目が合うと、慌てて視線を逸らした。
「う…うん…そのことは…また考えるよ。お、おやすみっ」
 もごもごと答えて、レイフは逃げるようにリビングから出て行った。
 クリスターは溜め息をついて、目の前のチェス盤に注意を戻した。
「レイフと喧嘩でもしたの、クリスター?」
 穏やかな声で呼びかけられて、クリスターが顔を上げると、へレナが気遣わしげな眼差しを向けていた。
「うん、ちょっと…」 
 クリスターはとっさに口ごもった。
「でも、大したことじゃないよ。レイフはすねてるだけなんだから。いつだって僕がレイフを子供扱いする、僕が一人で何でも先に決めてしまうって…最近僕にちょっと反抗するんだ。でも、ほら、そういうのって思春期にはよくあることだよね?」
「そう言うあなただって、同じ年じゃないの」
 ヘレナはクスリと笑った。
 化粧っ気のないヘレナの顔は、三十を過ぎた今でも充分に美しい。炎の滝のような髪、すっと通った鼻筋、ふっくらと形のいい唇。男性の目を釘付けにしそうな大柄でよく目立つ華やかな容姿をしているが、琥珀色をした瞳は研ぎ澄まされた知性に溢れている。美しく賢い母親は、幼い頃からクリスターの自慢だった。
 感情的になった姿をほとんど見たことのない、いつも落ち着いて理性的な母の傍にいたものだから、学校に入って、むしろ感情の生き物であることが多い他の女の子達と知り合うようになって、最初のうちクリスターは戸惑ったものだった。
「仲のいいあなたたちが、こんなに長い間冷戦状態にあるのを見るのは初めてよ」
 ヘレナの綺麗な手が、チェス盤の上の駒を進めた。
「あっ」
 思わずクリスターは声をあげ、悔しそうに顔をしかめた。自分が劣勢に立たされたことに、持ち前の負けん気がむくむくと沸きあがってくる。
「あなたの言うとおり、大したことじゃないのならいいのだけれど」
 クリスターははっとなって顔を上げた。
「本当なのかしら?」
 瞬きもせずに正面からクリスターの目を見つめる母に、クリスターは珍しくも反抗心を覚えた。やはり、これも思春期って奴かなと、内心少し思った。
「もし僕が母さんに負けたら、本当のことを言うよ」
 挑戦的に答えるクリスターに、ヘレナはくっきりとした眉を軽くはねあげてみせた。
「クリスター、自分にとって大切な問題や、信条や生き方に関わるような重要な事柄を馬鹿げたゲームにしてしまうのは、どんなものかしらね」
 クリスターはさっと赤面した。恥ずかしくなって、顔をうつむけた。
「…ごめんなさい」
 クリスターは素直に謝った後、しばらくじっと考え込んだ。
 ヘレナならば、クリスターの悩みを理解してくれるかもしれない。アイヴァースよりも、もしかしたらクリスターの助けになってくれるかも知れない。
 クリスターは大きく息を吸い込み、思い切って口を開いた。
「お母さん…あの…あの…」
 その時、廊下に置かれた電話が鳴った。
「俺が出よう。いいから、おまえはクリスターの相手をしてやってくれ」
 ラースがテレビの前から立ち上がって、電話の応対をするためリビングから出て行った。
「誰からかしら…?」
 ヘレナは低く呟いた後、再びクリスターに注意を戻した。問いかけるかのごとく首を傾げる母を、クリスターはためらうように見返した。
「お母さん、僕は…」
 廊下の方から、いきなりラースが叫ぶのが聞こえた。
「まさか! 嘘だろう、ジミーの奴が事故にって…!」
 ヘレナはまばたきし、廊下の方を振り返った。ラースは取り乱した声で、電話の相手と話している。ジミーというのは、確かラースのプロ時代からの親友だった。今はカリフォルニア州に住んでいるが、何回か家にも遊びに来たので、クリスターも覚えている。
「クリスター、ちょっと待っててね」
 ヘレナは立ち上がって、ラースの様子を見るためにリビングから出て行った。
「ちぇっ…」
 勝負のつかないままのチェス盤を見下ろし、クリスターは舌打ちをした。
 それから、自分でもおかしくなって苦笑した。ヘレナに打ち明けようなどと本気で思ったのだろうか。
「でも、母さんなら、僕を止められるかも」
 クリスターはしばらく母が帰ってくるのを待っていたが、落ち着かなくなって立ち上がると、リビングのドアを開けて、廊下の様子をうかがいみた。
「ラース…しっかりして……」
 親友に関する何かよくない知らせを受け取ったらしい、電話の傍でたくましい肩を落としてうなだれているラースをヘレナがそっと抱きしめて、慰めるように囁いている。
 クリスターは、つい顔をそむけ、リビングのドアを閉じた。
 チェス盤の前の椅子に戻ると、溜め息をついた。
 ヘレナにとっては、子供達よりも、ラースが一番の存在なのだろう。時々大きな子供のようになってしまうラースを、芯の強いヘレナがいつも支えている。相手が父親とはいえ、ヘレナを取られることには、クリスターはあまりいい気分がしなかった。
「エディプス・コンプレックスっていうのかな…これって」
 ぼんやりとつぶやいて、放置されたチェス盤に見入った。
「母さんは父さんのものだから、仕方がない。それじゃあ、僕は…?」
 クリスターは立ち上がって、リビングから出ると、低い声でささやきあっている両親を眺めやった。
 クリスターに気がついたヘレナが何か言いたげな目で見るのに、クリスターは、僕は大丈夫だからというように頷き返すと、そっと二階へ続く階段を上がっていった。
 レイフが待っている、二人の子供部屋へと―


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