ある双子兄弟の異常な日常 第二部
第2章 さびしい半分
SCENE4
『アイヴァース先生。ええ、僕です、クリスターです。突然学校を辞めることになったと聞いて、どうされているのかと思って…怪我の具合はどうです? ああ…それは、よかった。…レイフは、あれからショックで学校を休んでしまいました…そうですよ、僕が、悪戯っ気を出して、彼をあなたの部屋に行かせたんです…そう、あなたの悪癖について匿名の投書をしたのも僕ですよ。あなたのことを人格者だと信じている校長が、あなたに対する信頼を失い、襲われたというレイフの訴えをちゃんと聞いてくれるように、僕が前もって裏工作したんです。復讐? さあ、どうでしょうね…先生、そのことも含めて、あなたに一度会って話をしたいんです…最後のカウンセリングを受けさせてくれませんか…? あなただって、このまま僕と別れてしまうのは心残りでしょう? そうですね…次の土曜日の午後三時はどうです…場所は…いいですよ、そこで待っています。ありがとうございます、先生。では、土曜日に』
アイヴァースと電話で交わした約束の土曜日の午後―。
クリスターがよく利用する図書館近くの路上にとめられたアイヴァースの車の中で、クリスターは彼と二人きりでいた。
助手席におとなしく座って、クリスターは横目でアイヴァースを眺めやる。
「眼鏡は、どうしたんですか?」
「あの時、君の弟に壊されてしまったからね。今新しいものを作っているところだよ」
アイヴァースは正面を向いたまま、冷静さを装って答える。
レイフに殴られた傷跡や青あざがまだ残る、その横顔を見ながら、せっかくのハンサムが台無しだなとクリスターは思っていた。
「僕の芝居を一目で見抜いたあなたが、僕とレイフを取り違えたなんて信じられない」
クリスターは、心底意外だったというように言った。
「全くだな」
アイヴァースは苦笑した。
「なぜ、そんな失敗をしたんだと思いますか?」
クリスターは、首を軽く傾げて、僅かに低めた声で謎かけをするかのごとく尋ねた。
「あなたは、カウンセリング・ルームを訪ねてくるのは、間違いなく僕だと思い込んでいたからですよ」
アイヴァースは胡乱げにクリスターを見た。
「先入観というのはくせものだと、あなたが言ったとおりです」
鋭い平手打ちくらったように、アイヴァースの頬が微かに震えた。確かに彼はそんなことを言った覚えがあった。レイフになりすましたクリスターの正体を見破った時、そして、クリスターに一服持って体の自由をきかなくしてから、無理やり彼を抱いた時―。
「クリスター…」
ハンドルの上に手を置き、その上に額を押し付けるようにして、アイヴァースは深く嘆息した。
「君は、ただでは人を許さない子だ。自分を傷つけた相手には、容赦なく復讐をする…だが、それでも、まさか君が大切にしている弟を使うなんて、さすがに私も予想できなかったよ」
クリスターはアイヴァースに見えないところで、手をぎゅっと握りしめた。
「…それも先入観というものですよ、先生」
クリスターが窓の外を何気なく見ると、少し離れた歩道を親子連れが歩いていた。両親のまわりをまつわりつき、互いにじゃれあっている幼い兄弟の無邪気さに、クリスターはふと目を細めた。
「これから、どうするつもりなんです?」
「そんなことを君が気にするのかい?」
「ええ、少しは。でも、あなたが答えたくないのなら無理に答える必要はありませんよ、先生」
窓の外の幸福そうな兄弟から視線を離し、クリスターはアイヴァースを振り返った。
「君のおかげで仕事は失ったし、クリニックもあのざまだ…まだはっきりとは決めていないが、どこか他の街に移って、やり直そうかと思っている…自暴自棄になってこの一年を無駄に費やしてしまったが、私も、残りの人生の全てを放棄してしまう気にはなれないようだ」
「それは、よかった。あなたのような優れたセラピストが、このまま専門から完全に手を引いてしまうなんて、やっぱり惜しいですからね」
「皮肉にしか聞こえないよ、クリスター」
「今の言葉だけは僕の本心ですよ、先生」
二人の間に沈黙が下りた。
「クリスター、君の方こそ…これから、どうするつもりなんだい?」
アイヴァースは、ためらいがちに再び口を開いた。
「レイフのことを…私は聞いているんだよ」
クリスターはアイヴァースの顔から視線をはずし、シートに体を預けるようにして正面を見た。
「君は、弟に対する自分の気持ちには薄々気づいていた。だからこそ悩んで、迷って、どうすればいいのか、自分なりに答えを探し求めてきた。だから、私がスクール・カウンセラーとして君の前に現れた時も、君は迷わず私に近づいた。救いを求めていたのだと言ったら聞こえがいいが、君は私を利用しただけだよ、クリスター。君は、私が何を言おうが、初めから聞くつもりなどなかったんだ。ただ、他の誰にも打ち明けられない秘密を誰かに聞いてもらいたかった。それは、君にとっては、自分の本心を再確認するための行為に過ぎなかっただろう」
「僕は、そこまで利己主義じゃありませんよ」
クリスターは、眉間に軽くしわを寄せた。
「僕は、あなたのことが好きでしたよ、アイヴァース先生。尊敬もしているし、あなたが仕事に復帰するつもりだと聞いて本当に嬉しい」
熱心に訴えかけるかのように、クリスターは言った。
「そう、僕は父さんや母さんのことも愛しています。だから、両親にいつも誇りに思ってもらえるような息子でありたい。友達だって、大切です。けれど、レイフの前では、それらはみんな何の意味もなくなってしまうんです」
クリスターは言葉を切った。顔をうつむけ、しばし己の内側に向き合うかのように沈黙した。
「僕は、結局、あの子しか欲しくないんです」
ポツリと漏らしたクリスターの言葉は、何故か哀しげに響いた。
「僕がずっと不安を覚えていたもの、夢にうなされるほどに悩まされていたものは、僕のあの子に対する、この感情だったんです。あの子が愛しくて可愛くて…僕だけのものにしたいあまりに、いつか僕自身があの子を傷つけてしまうのではないかと恐かったんです。どうしたら僕の手からあの子を守れるか、どうしたら自分を抑えられるのか―そんなことをずっと思いつめていたんです」
クリスターは、胸にためていた息をゆっくりと吐いた。
「僕の中のあの子に対する所有欲に、あなたが気づかせてくれた。それだけでも、僕はあなたに感謝しなければならないのかもしれない」
クリスターは傍らのアイヴァースを振り返った。固い表情をして、息を殺してクリスターの話に聞き入っていたアイヴァースと目が合った。クリスターは、にこりと微笑んでみせた。
「あなたは、僕達がこれから先もずっと一緒にいて同じ幸せを追求していけるとは限らないと言いましたね。確かに、いつかレイフは、僕といるよりも一人で生きる方がいいと、僕から離れていこうするかもしれない。大人になったら、僕よりも好きな人を見つけて…その人と一緒になりたいと思うようになるのかもしれない」
クリスターは唇を震わせた。頬がかっと熱くなってくるのを意識した。
「でも…でも、そうなるとは限らないじゃないですか。僕は、レイフさえいれば他には何もいらない、あの子と一緒にいられれば、それで幸せだと思う。それに、あの子だって、僕の傍にいたい、それが幸せだと言ってくれました。こうなったら、認めるしかないけれど、僕は、他の誰にも弟を渡したくなどない、僕のものにしたい。身勝手な所有欲かもしれないけれど、もし…もしレイフが…レイフも同じように僕のことを想ってくれていたら…。そう、僕はレイフを支配しようというんじゃない…レイフが嫌がることを無理強いして、彼を混乱させたり傷つけたりはしない。けれど…もしかしたら、レイフだって…同じように僕のことを欲しいと思ってくれるかもしれない…父さんや母さん、友達もみんないらないから、僕だけが欲しいと…確かめることも恐くてできなかったけれど、もしかしたら―」
クリスターは、熱に浮かされたように、半ば自分に言い聞かせるように切々と訴えた。
「クリスター」
押し殺した、しかし、強い響きを帯びたアイヴァースの呼びかけに、クリスターは慄いたように黙り込んだ。
「それは、許されないことなんだよ」
クリスターは、途方に暮れたような目でアイヴァースを見つめ返した。
「分かっています」
出会ったばかりの頃とは違うアイヴァースの真摯な態度には心を揺さぶられたが、クリスターは、自分は彼の言うことなど聞かないだろうと分かっていた。
アイヴァースの言ったことは、やはり正しかったのかもしれない。クリスターは彼を利用しただけなのかもしれない。
「でも、どうしても…抑えられないんです」
こんな常軌を逸した執着を、アイヴァースとのやり取りを通して、クリスターは自らのものとして認め受け入れていった。
だから、今はこんなにも率直に言える。
「あの子は僕のものです」
アイヴァースは息を吸い込んだ。クリスターを見つめる瞳を揺らした。
「クリスター…君は…」
アイヴァースは堪えかねたかのように座席から身を起こし、クリスターの肩に手をかけようとしかけたが、思い直したかのようにかぶりを振った。
気持ちを静めようとするかのごとく、アイヴァースは深く息をした。
「私が何を言っても、君を思いとどまらせることはできない…そうだね?」
クリスターはアイヴァースをまっすぐに見つめ返し、頷いた。
アイヴァースは無力感を漂わせた表情で、クリスターに向けて薄く微笑んだ。
「それで…一体君は、弟を道連れに、どこまで行くつもりなんだい、クリスター?」
クリスターの顔にもほのかな微笑がうかんだ。
「分かりません。でも、たぶん…行ける所まで行ってみようと…僕達が一緒にいても許される場所が見つかるまで」
クリスターの心は、一瞬、遠くに飛んだ。弟を連れて茫漠たる平原をさ迷った、あの冷たい冬の一夜に戻っていた。あの時、あんなにも幸福だったのは、自分達が一緒にいることを邪魔する他の人間達のいない世界のただ中で、レイフと二人きりでいられたからだ。世界から隔絶された二人だけの楽園を夢見ることができたからだ。
「世界の果てまでも…」
クリスターは瞑目し、しばし追憶に浸るかのごとく黙り込んだ。
再び目を開いた時、クリスターは何かしら吹っ切ったような顔をして、息を詰めて己を見守るアイヴァースに笑いかけた。
「クリスター?」
アイヴァースの口から戸惑いの声がもれた。
クリスターは助手席から身を起こすと、アイヴァースの肩に手をかけ、彼の体をシートに押し付けた。そのまま彼の口に唇を深く重ね、吸った。
やがて身を起こすと、呆然となっているアイヴァースの目を覗き込み、クリスターは低くささやいた。
「さよなら、デイビッド」
そのままクリスターはアイヴァースの車から降りた。
一度も後ろを振り返ることなく、クリスターは背の高い街路樹の並ぶ歩道を歩いていった。角を曲がり、やがて見慣れた図書館の赤茶けたレンガ色の建物が見えてきたところで、クリスターは足を止めた。
長い緊張からやっと解き放たれたかのように、クリスターは肩の力を抜き、全身で大きく息をした。
ふと思い出して、アイヴァースに最後のキスをした唇に指を持っていった。クリスターは苦笑し、かぶりを振った。
「家に…帰らなきゃ…」
ポツリと呟いた後、クリスターは急に心細くなって、己の腕をぎゅっと掴みしめた。
逃げ場所を探すかのごとく、不安げな眼差しで周囲を見渡した。
他に行く所などどこにもないことは、知っていたけれど―。
クリスターは、手のひらに爪を立てるように拳をきつく握り締めた。
「レイフの所に、帰るんだ」
クリスターは、躊躇う自分にそう言い聞かせて、再び歩き出した。