ある双子兄弟の異常な日常 第二部
第2章 さびしい半分
SCENE3

 事件のショックから立ち直れないレイフは、あれから一週間学校を休むことになった。
 実際、あの後しばらくは学校中が大騒ぎになった。
 アイヴァースはすぐさま病院に運ばれ、レイフは校長室で教師や校長から何があったのか問い詰められて、挙句の果てには両親まで呼び出された。
 だが、レイフはカウンセリング・ルームであったことをなかなか語ろうとはしなかった。それでも、校長たちに追及され、両親に促されて、アイヴァースから襲われかけたということを、やっと打ち明けたのだった。
 本来なら、学校職員に対して暴力を振って怪我まで負わせたのだから、よほどの理由がなければ退学になってもおかしくはなかった。しかし、レイフが言うことが本当なら、非はアイヴァースにあるということになる。初めは半信半疑だった校長も、芝居とは思えないほど動転したレイフの様子から、アイヴァースとの間に『何か』があったことは認めざるを得なかった。
 それに加えて、レイフが起こした事件の前日、生徒から寄せられたの匿名の投書によって、アイヴァースがカウンセリング・ルームで喫煙と飲酒を習慣としていたことが明らかになった。
 実際、翌日以降、カウンセリングを受けていた生徒たちを呼び出して話を聞くと、アイヴァースから何かされたという者は他にいなかったものの、校内では禁止されている喫煙だけでなく、時折アルコールの臭いをさせていたという証言も得られた。
 アイヴァースを自らカウンセラーに推した校長の落胆は激しく、保護者達の動揺も大きかった。そうして、アイヴァースは免職になる前に早々に自ら辞職願を提出し、即日受理された。
 うやむやに終わらせたいという学校側の意図が、若干感じられるような結末ではあった。



「レイフ、ただいま」
 クリスターが学校から帰ってきた時、レイフは一人ベッドに寝そべって、考え事にふけっていた。
「母さんはまだ帰ってきていないのかい?」
「うん…」
 レイフは、ベッドから起き上がって、部屋に入ってきた双子の兄を凝然と見つめた。
 そう言えば、あの一件以来、この家の中で兄と二人きりになるのは久しぶりだった。レイフを心配してしばらく仕事を休んでいたヘレナは、今日からラースの警備会社を手伝う仕事に復帰している。
「どうしたんだい、そんな変な顔をして?」
 クリスターは荷物を机の上に置くと、レイフに向かって笑いかけ、近づいてきた。
「退屈だろう、一週間も学校を休んでいると?」
「そりゃ、退屈だよ。一緒に遊ぶ兄貴も友達もいないし、母さんは一緒にいてくれたからまだましだったけど、やっぱりずっと家にいて楽しいことなんか何もない」
「その様子なら、来週からは予定通り学校に戻れそうだね」
 隣に腰を下ろすクリスターに、レイフは何か言いかけたが、思い直したように口を閉ざした。
「いい知らせがあるよ」
 何やら意味深な表情を浮かべているクリスターに、レイフは目をぱちぱちさせた。
「アイヴァースは学校をやめることになった。彼がおまえにしたことを考えると免職になっても当然だけれど、そうなる前に自分から辞職願を出したんだ。だから、おまえが学校に復帰しても、もう二度と彼の顔なんか見ないですむから、安心したらいいよ」
「あいつ、学校を辞めたんだ…」
 レイフはぼんやりと呟いて、顔をうつむけた。
「悪徳カウンセラーには、当然の報いだよ」
 クリスターの険のこもった台詞に、レイフは何かしらはっとして、そちらを振り返った。
「父さんなんか、今でもまだアイヴァースを訴えてやるって息巻いているくらいだよ。いいカウンセラーだと聞いて安心していたのに、自分の子供に悪戯をするよなんて許せないって、病院送りにしたくらいでは腹の虫がおさまらないらしいね」
「う、訴えるなんて…いくらなんでも、そこまでしたらアイヴァース先生が気の毒だよ。ただでさえ、オレのせいで、全治一週間の怪我までしたんだから」
「おや、レイフ。おまえは被害者なのに、そんなにあっさりアイヴァースを許してしまっていいのかい? あの時は、あんなに激昂して、アイヴァースをぼこぼこにしてもまだ足りないって様子だったのに」
「ゆ、許した訳じゃないけど…今だって、思い出したら、頭がかっとなってくるよ…あんなことされて…でも…」
 レイフは口ごもり、クリスターの涼しげな顔を見返した。
「あんなこと…」
 クリスターはレイフに眼差しを向けたまま、首をかしげた。
「アイヴァースに何をされたんだい、レイフ? 本当にキスだけ? 僕にだけは、そろそろ本当にことを話してくれてもいいだろう?」
 レイフの頬がカッと顔が熱くなった。
「ば、馬鹿、何てことを聞くんだよ? キ、キ、キス以外には何もないよっ。あって、たまるか…」
「よかった」
 クリスターは目をつむって、心底ほっとしたというように吐息をついた。
「おまえが、それ程ひどい目にあったわけじゃなくて、本当によかった」 
 いきなりクリスターに抱き寄せられて、レイフははっと息を飲んだ。
「おまえの動転ぶりがあんまりすごかったから、まさかとは思いながらも、僕も心配したよ。おまえを彼のところに一人でやったことを後悔した…おまえがアイヴァースなんかにどうかされてしまうなんて思わなかったし、様子がおかしかったら、すぐに助けに飛んで行くつもりだったけれど、でも…」
 レイフの頬に頬を押し付けながらクリスターが愛しげにかき口説くのを、レイフは当惑しつつ聞いていた。何だか、胸が苦しくなってきた。
「クリスター…」
 レイフは居心地悪げに身じろぎするが、クリスターの腕は弱まらなかった。
「ちょっと…離せよ…」
 クリスターがやっと腕を緩めてくれたのに、レイフはほっと息をついた。
「あ…?」
 自分を間近でじっと覗き込んでいるクリスターの顔にうかぶ真剣さ、ひどく飢えたような切迫した表情に、レイフはとっさに動けなくなった。
 そんなレイフのぽかんと開かれた唇に、クリスターは軽く唇を押し付けた。
「へっ?」
 何が起こったか分からず目を真ん丸くするレイフに向かって、クリスターは囁いた。
「消毒、だよ」
 レイフは、弾かれたようになってクリスターから飛びのくと、足をもつれさせて、ベッドの下に転がった。
「うわぁっ? な、何をするんだよ、クリスター!」
 床にしりもちをついたまま、真っ赤な顔で口元を押さえ叫ぶレイフに、クリスターはすっと目を細めた。
「本当に、キスだけでこんなに動転するものなんだね、レイフ」
 ベッドから立ち上がって、しげしげと己を見下ろし、助け起こそうと手を伸ばす兄を、レイフは信じられないものを見るかのごとく睨みつけた。
「おまえは弟にキスするのかよっ!」
 レイフはクリスターの手を払いのけると、他に何と言ったらいいのか分からず、そんなことを叫んだ。
「キスくらい、僕達はしてたじゃないか」
「えっ…えっ…?」
「僕達がうんと小さかった頃、遊びの中で、鏡に向かってするように向き合って、手を合わせたり、唇も重ねてみたり、一体どこまで僕達は同じにできているんだろうと確かめ合うような、そんなことを僕達はしたよ。覚えてない?」
 レイフは、必死になって、首を横に振った。
「そう…」
 クリスターは残念そうに顔をしかめ、溜め息をついた。
「ク、クリスター、おまえ…おまえ…」
 レイフは赤くなったかと思えば今度はさっと青ざめて、突然見知らぬ人のようになってしまった兄を呆然と見上げた。
 その時、レイフの頭の中に、あの日、自分がアイヴァースを傷めつける様子を冷ややかに眺めていたクリスターの姿をうかびあがった。
「そ、そうだ、おまえ―あの時、オレをはめやがっただろう!」
 あのクリスターの姿を見た時から喉の奥に引っかかって取れない小さな骨のように気になっていた何かが、その瞬間、レイフは腑に落ちたような気がした。
「あの日、カウンセリング・ルームでアイヴァースがクリスターだと信じ込んだオレに向かって話したこと、あいつの態度…オレの知らない何か深い意味があるようで、ずっと気になってたんだ」
 レイフは、己の前で両腕を体の脇に垂らしたまま静かにたたずんでいるクリスターに向かって、胸の奥で渦巻いていた不安と不審を一気にぶちまけた。
「それに…それに、あんなにオレがアイヴァースに近づくことを嫌がっていたのに急に会えばいいなんて言って…しかもおまえになりすまして騙してやれなんてオレをけしかけた…あれっ、クリスターの言うことが変わったって不思議に思ったんだ」
 クリスターは、レイフが必死で頭の中でまとめた考えをどもりながらも懸命に語るのを、奇妙なほど平静に聞いていた。
 レイフは、まさかという不安と疑いに押しつぶされそうだった。
「アイヴァースは…あの時のオレは、あいつの言葉の意味を推し量ることなんかできなかったけれど…でも、あいつはすごく真剣な目をしてた…戸惑うくらいにオレを…いや、クリスター、おまえのことを本気で心配していたよ…」
「だから、どうだって言うんだい?」
 クリスターは一瞬ひどく冷酷な微笑を口元にうかべた。レイフは、またカッとなった。
「クリスター、オレをはぐらかすのはやめろよっ。オレは…オレはずっと悩んでたんだぞっ。お、おまえとアイヴァースの間で何かあったんじゃないかって!」
 レイフは、床から飛び起きると、クリスターの肩を両手でつかんで揺さぶった。
「クリスター、俺には本当のことを言えよっ! 嘘なんかつくなっ。アイヴァースとおまえは一体どういう関係だったんだよっ?」
「どういう関係だったかって?」
 激しく詰め寄る弟を、クリスターは目をすがめるようにして見つめた。
「肉体関係があったかどうかを尋ねているのなら、その通りだよ、レイフ」
 ひどく淡々とした口調であっさり答える兄の体から、レイフはとっさに手を離した。
「に、にくた…い…かんけい…」
 後は言葉にならず口をぱくぱくさせるレイフに、クリスターは悪びれもせずに続けた。
「カウンセリングという名目でアイヴァース先生を訪ねては、あの部屋で僕は彼とセックスしていた。僕の言ってる意味は、分かるよね?」
 レイフは、力のぬけた両腕をだらりと垂らし、呆然となって、全く理解できないことを冷めた口調で語る兄を見守っていた。
「別に初めからそんなつもりでアイヴァースに近づいた訳ではないけれど…確かにアイヴァースには興味はあったけれど、それは彼のプロとしての知識や能力に惹かれたに過ぎなかった。けれど、僕はアイヴァースをひどく傷つけることをしてしまって、怒った彼は僕を無理やり…つまり、強姦したんだ。そう、きっかけは僕の意志には全く反したものだったよ。けれど、その後も彼との関係を続けたのは、僕の意志だった」
「ど、どうして…?」
 レイフは、自分のものとはとても思えない掠れた声で、半ば無意識のまま尋ねた。
「そうだね」
 クリスターは、自分の言おうとすることを吟味するかのように、一瞬言葉を切った。
「別にアイヴァースのことが特別好きだった訳じゃないよ。ただ…僕は、同性愛とはどんなものなのか、知りたかったのかもしれない。経験として試してみたかったのかもしれない」
 ふっと微笑するクリスターは、レイフが知っている双子の片割れではなかった。こんなクリスターを、レイフは知らない。何だか打ちのめされた気分になりながら、レイフは鼻の奥がつうんとし、目がしばしばしてくるのを意識した。
「お兄ちゃんって…オカマだったの…?」
「う…」
 大きな目にいっぱい涙をためて、そんなことを素で尋ねるレイフに、さすがのクリスターも一瞬怯んだらしく、憎らしいくらいのポーカーフェイスを崩した。
 何だか急に恥ずかしくなったかのように、クリスターはレイフのまっすぐな眼差しから顔を背けた。
 その瞬間、レイフの中で何かが弾け飛んだ。
「うう…ああぁぁっ…!」
 レイフは突き上げてくる激情に身悶えし、頭を両手でかきむしり、足を激しく踏み鳴らした。
「ク、クリスターのば、馬鹿、変態、この裏切り者! オ、オレとおんなじ体をあんな奴に触らせるなーっ!」
 たじろぐクリスターに向かって、レイフは大声で怒鳴った。同時に目から涙が迸った。
「クリスターなんか、大嫌いだ! わあぁぁぁんっ!」
 そう絶叫すると、レイフは兄の体を突き飛ばすようにして、泣きながら部屋から飛び出していった。
 後ろでクリスターが何か叫ぶのを聞いたが、レイフは耳を塞いだ。
 兄から逃げたい一心で家を飛び出し、泣きじゃくりながら近くの公園まで走っていった。
(信じられない…クリスターが…オレの兄貴が、あんなことを言うなんて…お、男とセッ…セックスした…なんて…嫌だ…そんなの…他の誰かがクリスターに触ったなんて…)
 体の大きいレイフが顔をくしゃくしゃにして泣いているのを他人に見られたら怪しまれそうなので、彼は公園の人気のない場所にある大きな樫の樹の下に一人隠れるようにうずくまっていた。
(どうして…どうしてなんだよ、クリスター)
 クリスターに裏切られた。
 そんな想いが、レイフの胸に突き刺さっていた。
 生まれた時から一緒にいた、一番身近で、全てを共有してきた相棒が突然見知らぬ他人のようになってしまったことが、何よりも深くレイフの心を傷つけていた。


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