ある双子兄弟の異常な日常 第二部
第2章 さびしい半分
SCENE2

「アイヴァース先生、クリスター・オルソンです」
 兄のふりをして、この日計画通りカウンセリング・ルームを訪れたレイフが、お行儀良くノックをして待つと、一瞬の間を置いて、中から返事があった。
「入ってきなさい」
 レイフは、緊張と興奮を押し隠してカウンセリング・ルームの扉を開いた。
(うっ)
 一歩足を踏み入れた瞬間、レイフはひるんだように立ち止まった。
 スクール・カウンセラー、デイビッド・アイヴァースは、奥のデスクから立ち上がって、中に入ってくるレイフを食い入るように見つめていた。その眼差しの強さは、とっさにレイフを戸惑わせるくらいだった。
「クリスター…」
 レイフが扉を閉じることも忘れて立ち尽くしていると、アイヴァースは昂ぶった気持ちを静めようとするかのごとく、肩で息をついた。
「ドアを閉めなさい」
 すっと視線を逸らせ平静さを取り戻した様子でアイヴァースが促すのに、レイフは慌てて従った。
「まさか君が今日約束どおりにカウンセリング・ルームに現れるとは、さすがに私も思っていなかったよ」
 アイヴァースは、こめかみを軽く指先で押さえながら苦笑した。そうして、デスクをまわって、ソファの前でじっと身を固くして立っているレイフの傍までやってきた。
「何と言えばいいのか分からないが…いや、ともかく君がここに戻ってきてくれて私は嬉しく思うよ、クリスター」
 レイフの方こそ、何と答えればいいのか、さっぱり分からなかった。口を開くとぼろが出そうなので、じっと押し黙って、アイヴァースの視線を避けるようにうつむいた。
「そこに座って…今、コーヒーを煎れてこよう。いつもどおりブラックでいいかな?」
 レイフは、こくんと頷いた。本当はコーラの方がいいのだが、今はコーヒーで我慢しよう。それにしても、クリスターの奴、ブラックのコーヒーなど普段は飲まないのだが。
 レイフが密かに首をかしげていると、アイヴァースがコーヒーのマグカップを手に戻ってきた。
「ブランデーは…もう入れないことにしたんだ」
 レイフの向かい側に腰を下ろしたアイヴァースは、カップを手に穏やかな声で彼に話しかけた。
「何となくね…君の前では、そんな逃げの態度は取りたくない気分になってしまったよ。私の中にも、まだそんなプロとして、男としてのプライドや意地が残っていたらしい」
 レイフは、内心焦りながら、アイヴァースの顔を見返した。
 どうしよう。話がさっぱり見えてこない。
 ここに乗り込んでくる前に、クリスターがアイヴァースにいつもどんなカウンセリングを受けていたのか、大雑把な話を聞いておくべきだった。
 今更ながら自分の無計画さを後悔しながら、レイフは、これは早いうちに自分の正体をぶちまけてしまった方がいいかもしれないと思った。しかし、アイヴァースが向けてくる眼差しのあまりの真摯さに、その態度の真剣さに、『実は弟の方なんだよ』と打ち明けるタイミングを見つけられないでいた。
 アイヴァースは、レイフが抱いていた嫌味なインテリ男のイメージとは、かなり違っていた。クリスターが一目置くのも納得できそうな、高い知性と教養を感じさせる、落ち着いた物腰の大人の男だ。父親のラースとは全くタイプが違うので、レイフは、彼の深い含みを感じさせる言葉や態度にどう対応すればいいのか分からなかった。
「クリスター…今日は、いつもと違ってだんまりなんだね」
 アイヴァースは幾分不審そうに囁く。
 それを聞いて、レイフは脇の下に汗をかき始めた。口を開いたら、絶対にばれる。
 レイフは、膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめ、再び視線をテーブルの上に落とした。
 外見はそっくりでも、レイフにとってクリスターの芝居をするのは実際困難だった。もの思わしげな表情を作って黙ってさえいれば、レイフにも兄のふりをすることは可能だ。しかし、クリスターのような『賢そうな』話し方をすることなど、レイフには土台無理なのだ。
(どうしよう、いつまでも黙りとおす訳にもいかないし、やっぱり、ここで潔く正体をばらした方がいいじゃないだろうか。でも、どうしよう、やりにくいや…アイヴァースってば、何でこんな真剣な顔つきでオレのことを見やがるんだろう)
 レイフの沈黙を、アイヴァースは何やら違う意味に受け取ったらしい。その顔に、微かな不安感がうかびあがった。
「クリスター、私がこの間した話を、君はまだ…受け止められないでいるのかい? 自分自身のうちである程度消化でき、納得できたから、私と再び話す気になってここを訪れた、という訳ではないんだね…」 
 アイヴァースの声が何故か哀しそうに聞こえたので、レイフは、慌てて顔を上げた。
「君にはまだ自分の心の真実を受け止められる準備ができていなかった…私も、そんな気はしていたんだ。だが、君が認めない限り、君の悩みも問題も一向に解決には向かわない。私は少し焦っていたのかな…君を救いたいと、どうやら自分で思っていた以上に私は本気で考え始めていたらしい…どうやら君に感情移入しすぎたようだ…」
 アイヴァースは微苦笑めいた吐息を漏らした。その端正な顔に漂う苦渋に、レイフはただ戸惑うばかりだ。
 アイヴァースがふいにソファを立ち上がるのに、レイフはびくっとなって、彼を見上げた。
「クリスター」
 アイヴァースは一瞬躊躇うような素振りをした後、テーブルを回って、レイフの隣に腰を下ろした。
 レイフは何だか居心地が悪くなって、ソファの端に移動しようとした。
 その腕をアイヴァースが捕らえた。
「先生?」
 やっと『クリスター』が口をきいたことに、アイヴァースはむしろほっとした顔になった。
「君があんなふうに部屋を飛び出していったあの日以来、私はずっと君のことばかり考えていたよ。あんなふうに君の心の一番デリケートな部分に直接触れるようなアプローチは避けるべきだった。せっかく本気で取り組む気になったセラピーに失敗したという後悔や口惜しさのせいだけじゃない…君がこの先どうなっていくのか、純粋に気がかりだったんだ」
 アイヴァースの骨ばった手がレイフの頬を包み込むように、触れた。
「認めたくはないが…私は、クリスター、君に惹かれているようだ」
 レイフは何を言われたのか意味が分からず、まばたきした。
「え…?」
 問いかけるかのように首を傾げるレイフに、アイヴァースは複雑な感情に揺れる眼差しを向け、ふっと笑った。
「君は本当に恐い子だよ、クリスター」
 レイフの視界が暗くなった。
(え…えぇっ?)
 アイヴァースの体がレイフの上に覆いかぶさった。
 頭の後ろに手を回され、唇をアイヴァースの唇にふさがれても、レイフには、何が起こったのか、一瞬分からなかった。
 思考停止。
「クリスター…」
 アイヴァースの濡れた唇が頬を掠め、耳元で熱く囁くのに、レイフの中で何かが弾けた。
「違うっ!」
 レイフは絶叫した。
 ひるんで身を引くアイヴァースの腹を膝で蹴り上げて、レイフはソファから勢い良く立ち上がった。
「な、な、何しやがるんだっ、こ、この変態野郎っ…!」
 腹を押さえて退くアイヴァースの顔が衝撃に震えた。
「クリスターじゃない…レイフかっ!」
 ここに至って、アイヴァースもようやく気がついたが、後の祭りだった。
 レイフは真っ赤な顔をして、わなわなと震えながら、ようよう身を起こすアイヴァースを睨みつけた。
「よ、よくも…オ、オレに…あんな…あんな…キ、キス…」
 レイフの目に涙がにじんだ。怒りと恥ずかしさと悔しさに、目の前が真っ暗になった。さっきのあれは、百パーセント、レイフのファースト・キスだった。
「レイフ…君をここに差し向けたのは、クリスターか?」
 アイヴァースははっとなって、そんなことを尋ねるが、レイフは聞いていない。
「畜生、畜生…許さねぇ、許さねぇぞ!」
 レイフは激情に駆られて身悶えし、激しく足を踏み鳴らし、頭をかきむしった。ぎらりとつりあがった目で、呆然となっているアイヴァースを睨みつけた。
「ブチ殺す!」
 放課後の静かな校舎の片隅に、何かかが壊れる大きな物音と人の悲鳴があがった。
 身の危険に感じて逃げようとするアイヴァースに、レイフは素早く追いつき、その体を捕まえると、必殺の背負い投げをかけてやったのだ。アイヴァースの細身の体は呆気なく投げ飛ばされ、丁度がたのついていた扉をぶち壊して、廊下に転がり出た。
「レイフ…やめろ…!」
 痛みに顔をしかめたアイヴァースは起き上がりつつ訴えるが、激昂したレイフを止めることはできなかった。
「この野郎…よくも…よくも…!」
 ひくひくと泣きながらまたも拳を振り上げて追ってくるレイフから、アイヴァースは慌てて逃げた。
「逃がすか、この野郎! 待ちやがれっ!」
 逃げるアイヴァースを追いかけ、レイフは喚き散らしながら校舎を駆け回った。彼の大声に、そのうち学校に残っていた教師やクラブに参加していた他の生徒達も気がついて、何の騒ぎだと様子を見に来た。
「レイフ・オルソン、何をしているんだっ!」
 校舎からグラウンドに出たところで再びアイヴァースを捕まえたレイフに向かって、血相を変えた教師達が駆け寄ってきた。
 アイヴァースの胸倉をつかみ、拳を振り上げるレイフに、決死の教師達は三人がかりで飛びかかった。
「こらっ、レイフ、アイヴァース先生になんてことをするんだっ」
「畜生、離せ! こいつだけは絶対に許さないっ! 絶対もうに三発くらいは見舞ってやらないと、腹の虫がおさまるもんかっ」
「アイヴァース先生を離すんだ、レイフ!」
 怒り狂うレイフを押さえ込むのは、大人が三人がかりでも大変な仕事だった。それでも、教師達は何とか、既に散々殴られ蹴られてぼろぼろのアイヴァースからレイフを引き離すことに成功した。
「レイフ、落ち着くんだっ!」
 担任のロスが耳元で怒鳴るように訴えるのに、レイフは泣きじゃくりながら、激しく頭を振りたてた。
「畜生…畜生…」
 レイフは肩で大きく息をしながら、ぐったりと地面にうずくまり教師達に介抱されているアイヴァースを、火のような目でしばらく睨みつけていた。
「許すもんか…よくも…」
 言った先から、またぽろぽろと涙がこぼれた。そんなレイフとアイヴァースを、ロスも他の教師達も困惑して見比べている。
 ふいにレイフは、これ以上アイヴァースを見ていることが我慢ならないというように彼に背を向けた。校舎の方を振り返ったレイフは、興味津々この騒ぎを遠巻きにして見守っている他の生徒達の様子に顔をしかめた。
 次の瞬間、レイフははっと息をのんだ。
「あっ?」
 野次馬達の後ろの方、校舎の入り口前にたたずんでいるクリスターの姿を見つけたのだ。
 瞬間、レイフは兄に駆け寄りたい衝動に駆られた。クリスターに抱きつき、その胸にすがっておいおい泣いて、傷ついた心を慰められたかった。しかし―。
(クリスター?)
 校舎の傍に佇んだまま、レイフと彼に叩きのめされたアイヴァースの様子を冷然と眺めているクリスターに、レイフの胸は凍りついた。
 クリスターは、レイフをというよりもむしろアイヴァースの方を食い入るように見ていた。その顔の酷薄さに、レイフは激しく打っていた心臓が一瞬とまったかと思った。それは、レイフが初めて見るような、近寄りがたく、氷そのものに冷たい兄の姿だったのだ。
(どうして…?)
 レイフは、何かしらはっとなって、背後のアイヴァースを振り返り、またクリスターの方を見た。
 レイフは、頭がくらくらしてくるのを感じた。
(クリスター、まさか、おまえ…)
 クリスターは、ちらりとレイフを見やったかと思うと、すぐに背中を向けて、校舎の中に姿を消した。
 レイフは愕然として、やがて怪我をしたアイヴァースがどこかに連れて行かれ、自分も担任のロスに肩を叩かれて校長室に行くよう促されるまで、兄が消えていった方を睨みすえていた。


NEXT

BACK

INDEX