ある双子兄弟の異常な日常 第二部
第1章 危険なゲーム
SCENE8
この頃のクリスターはどこか変わったような気がする。レイフは、漠然とした不安を覚えていた。
少し前から、クリスターがレイフに隠れてこそこそと何かしていたのは分かっている。そう、クリスターはレイフに秘密を持っている。アイヴァースが赴任してきた頃からだ。
レイフには、どうしてクリスターがアイヴァースにそれ程興味を抱くのか、それなのにレイフには彼を近づけまいとするのか、さっぱり分からなかった。何でも共有してきた間柄だというのに、この頃のクリスターはレイフから遠いところにいってしまったようで、寂しかった。
態度が余所余所しいだけでない。雰囲気までも何か違う。
もともとクリスターの方がレイフより早熟なのは認めざるを得なかったのだが、ここしばらく、クリスターは一段と大人びてきたようだ。ふとした仕草が大人っぽいというか、それとも、セクシーと言うのだろうか、こういう雰囲気を。
クリスターが現れると、クラスの女の子達の視線が、磁石に引きつけられるように一斉にそちらに向く。レイフは、彼女らの前に立ちはだかって、そんな風にじろじろ見るなと叫びたかった。やきもちだとは自覚していたが、クリスターに対してか、それとも女の子達に対してなのか、レイフ自身にもよく分からなかった。
まるでクリスターだけ先に大人になってしまったようだ。いつものように無邪気にじゃれつくのもためらわれるような、とっつきにくさが漂っている。
それに、気のせいか、クリスターはレイフを避けているようだ。放課後は、相変わらずアイヴァースの所に入り浸っているし、クラブに行くのもレイフとは別々だ。柔道教室だって、何かと理由を付けてさぼっている。
クリスターのレイフに対する接し方や態度の何が変わったという訳ではないが、レイフにはピンときてしまうのだ。クリスターの奥深いところで何かが変わったこと、それを彼がレイフには明かしてはくれないということも。
こんなことがあった。
ある夜、レイフは珍しくも寝苦しくて熟睡できず、うとうとと浅い夢を見ていた。たぶんホラー系の悪夢も入っていたのだろう、軽くうなされて目を開くと、何かが上からぶら下がるようにしてレイフを覗きこんでいた。
逆立った紅い髪、闇の中できらきら光る金色の目をしたお化け。
ひいっと叫んで飛び起きたレイフは、ベッドの天井に頭をしたたかにぶつけ、再び布団の上に沈没した。
「ご、ごめん、おどかしたみたいだね」と囁いたのは、上のベッドから身を乗り出してレイフを眺めていたクリスターだった。
「な、何だよ、コウモリみたいに、何してんだよ、クリスター?」
クリスターはしばし黙ってレイフを見つめた後、もう一度ごめんと謝ってベッドの中に戻っていった。
レイフは心配になって、ベッドから這い出すと、はしごを上ってクリスターを覗き込んだ。
「恐い夢でも見たのかよ?」
「おまえと一緒にするなよ」
レイフはむっとした。しかし、クリスターのことがやはり気になって、少しの間迷った後、彼の布団を引っ張りあげて、中にもぐり込んでいこうとした。
すると、どうしたことか、クリスターはすごく怒り出した。
「バカッ、おまえのベッドは下だろう、勝手に入ってくるなっ」
びっくりするレイフの顔に、クリスターが振り回した手が当たった。
レイフは、しょんぼりと自分の寝床に帰るしかなかった。
やっぱり、クリスターはどこかおかしい。
叩かれてひりひりする頬っぺたをさすりながら、レイフは、一人、哀しい気分でそんなことを考えた。
一体、何が原因なのだろう。
唯一の心当たりは、やはり、あのへっぽこカウンセラー、アイヴァースだ。
(あのインテリ野郎、クリスターに何かしやがったんじゃないだろうな。クリスターに何か吹き込んで、オレに対して余所余所しくなるように仕組んだ訳じゃないだろうな。双子だからって、いつまでもくっ付いているのはおかしいとか何とか、父さん達が言うようなことを。クリスターってば、アイヴァースには一目置いてるみたいだから、奴の言うことなら、案外素直に聞き入れてしまうかも)
半分当たって、後は大間違いの自分勝手な憶測をめぐらせるうちに、レイフは、だんだん本気でアイヴァースに腹が立ってきた。クリスターを取られたような気がして、彼のことは、もともと気に入らなかったのだ。
(一度、ガツンと言ってやった方がいいかもしれない。クリスターに変なことを教えるな、オレの兄貴に手を出すなって…クリスターのことは、オレが一番よく知っているんだから、ぽっと出の訳知り顔のカウンセラーになんか負けるものか。そうだ、アイヴァースと勝負するんだ…勝負…)
しばらくは怒りと闘志を燃やしていたものの、レイフの集中力は長持ちしない。やがて彼はとろとろとし始め、二段ベッドの上のクリスターがまだ寝付けずに寝返りを打っているにも気づかず、いつの間にかぐっすり眠り込んでいた。
「ふ…っ…はあ…うっ……」
昼下がりの明るい日差しも、カーテンを引いたこの部屋の中には届かない。
仄暗い部屋の空気はよどんで、胸苦しくなる熱をはらんでいるようにクリスターには感じられた。
「んっ…ん……」
放課後も遅く、学校の中は静まり返っている。少なくとも、この一角には誰も近づかない。
熱くなった耳に届くのは、クリスターと床の上でこうして絡み合っている男かそれともクリスター自身の口から時折漏れる喘ぎや呻き声、汗ばんだ肉体がぶつかりあい、こすれ、密着する音、交接した部分がたてる、湿ったような淫らな音くらいだ。
「クリスター…クリスター…!」
興奮に我を忘れた男が名前を呼びながら、腰を突き上げ、激しく揺するのに、クリスターも抑制を外れた高みに一気に上り詰める。既に慣れ親しみ、おなじみのものになった感覚だ。
クリスターは口を開いて、叫ぼうとする。だが、一瞬、この相手が誰だったのか、呼び違えそうになった。
「…アイヴァース…先生…」
慎重に呼びかけ、アイヴァースの動きに合わせて自らも腰を突き上げ、この交わりの中で生まれる一瞬の快感を、クリスターは貪った。
「あぁーっ」
世界が暗くなり、弾け飛んだ。
アイヴァースが動きをやめ、クリスターの胸の上にぐったりとのしかかってくる。
その重みを味わいながら、クリスターはやはり違和感めいたものを覚えていた。
欲しいものとは、やはり違う。肌の感触や温もりが違う。匂いが違う。それらの全てを超えた何かが、これとは違うのだ。
終わったとたんにすっと冷めた頭の片隅でぼんやりと思いながら、クリスターは無意識に伸ばした腕で『恋人』の体を抱きしめた。
行為の終わった後の重くだるい体を起こして、汗や汚れを拭き取ると、クリスターは脱ぎ散らかした服を身に着けていった。立ち上がろうとして、奥深くに覚えた痛みに一瞬動きを止める。
「辛いのかい?」
声のした方を振り返ると、早々と着衣を直したアイヴァースがクリスターに気遣わしげな目を向けていた。
「心配してくれるんですか?」
クリスターがにこりと笑うと、アイヴァースはすぐに顔を背けた。
一見、以前と変わらぬポーカーフェイスを装ってはいるが、それでも、アイヴァースの自分を見る目が変わってきていることをクリスターは知っている。もはや無関心ではいられなくなったということだ。
クリスターがここを訪れる日は、アイヴァースは他の予約は入れないようにしていた。そうして、クリスターのためだけに、場合によっては時間超過で特別な『セッション』を持つ。
あんな目にあった後もカウンセリング・ルーム通いをやめないクリスターに、アイヴァースは半ば戸惑い半ば恐れに近い感情を抱いているようだ。
初めに強引にクリスターを奪ったのはアイヴァースだったが、二度目以降はクリスターが求めたものだ。クリスターの誘いにアイヴァースが応える形で、いや、むしろクリスターの要求にアイヴァースが従うようにセックスし、その後は、以前と変わらぬスタイルのカウンセリングとなる。
クリスターが提案した、お互いが相手の質問に交互に答えるゲームも相変わらず続いていた。だが、性的な関係も含めて、互いの真意や秘密を推し量り探り出そうという、やり取りの全てが、今や二人の間でなされるゲームだった。
食えない相手だということは互いに知っている。攻略し征服することの難しい敵だからこそ、挑発し、煽り、相手の隙を突いて攻撃しあう、このスリルを楽しめるのだ。
少なくともクリスターはそう思っている。きっとアイヴァースも同じだろうと考えていた。
「先生」
「何だい?」
アイヴァースが煎れてくれたコーヒーを、ソファに彼と向かい合って座って飲みながら、クリスターは二人の間に流れるどこか緊張をはらんだ長い沈黙を味わっていた。アイヴァースが己に向けてくる眼差しの強さを味わっていた。
「そんな風に熱心に見られると、何だか居心地が悪くなります」
アイヴァースはコーヒーを口に運ぶ素振りで視線をはずす。
「僕はそんなに似ていますか?」
クリスターは、少しアイヴァースの弱みをつついてやりたくなった。
「あなたのパトリック。憎らしくなるくらいだと、あなたは言いましたよね」
アイヴァースは一瞬刺すような目つきでクリスターを見やった。薄い唇に、温みには欠ける笑みが広がった。
「いや、今はそうは思わないな。私の勘違いだったよ。君は彼とは似ても似つかない」
「よかった。昔の恋人に似ているなんて、また言われたら、僕はきっと笑ってしまったでしょうね」
クリスターは軽く肩をすくめた。
「あんまり陳腐で」
アイヴァースはソファの背もたれに身を預け、嘆息した。
「そんな毒舌を誰彼となく向けていたら、君の周りから友達は一人もいなくなってしまうよ、クリスター」
「もちろん、話す相手によりますよ。でも、あなたに対しては、これくらいきつい本音を言ってやっても構わないと思うから」
「レイフに対しては、どうなのかな?」
クリスターは口を閉ざした。
「何でも分かち合い、理解し合える相棒にも、やっぱり、そんな調子で傷つくことを平気で言うのかい?」
「まさか」
クリスターは居心地悪げに身じろぎした。
「レイフは、他の誰とも、あなたとも違う…あの子が傷つくようなひどいことを言ったりしたりしない…」
「それじゃあ君も、レイフに対して何でもかんでも本心を言える訳じゃないんだね。例えば、私とのことなんか、君は口が裂けても弟には言いたくないと思っている」
「あなたとのことは、レイフには何の関係もないじゃないですか」
「そうだね。では、君が前に話してくれた、あの女の子、アリスの場合はどうなんだい。君は、彼女との初めての体験をレイフにも共有して欲しかったんだろう? それができなくて、残念だった」
クリスターは少し落ち着かなくなってきた。
どうして、アイヴァースにアリスのことなどを話してしまったのだろう。この部屋で抱き合うようになってしばらく経った頃、行為の後の気だるさにぼんやりしている時に尋ねられたのだ。同性とはともかく、誰かと性交渉を持ったことは以前にもあったのだろうと聞かれて、うっかり打ち明けてしまった。確かに、アイヴァースは人の心の秘密を聞き出すことにかけては、プロなのかも知れない。
「それを聞いて、私はちょっと考え込んでしまったよ。もしかしたら、君はここにも弟を連れてくる気ではないだろうか、とね」
クリスターは本気で焦って、言い返した。
「どうして、僕がレイフをここになど連れてくるはずがあるんです! あなたみたいな人を、大事な弟に近づかせたくなんかありません」
頬を紅くして、不愉快そうに睨みつけるクリスターに、アイヴァースは目を細めた。
「成る程。すべてを弟と共有することなどできないということは、君ももう分かっているんだね。弟に対して、秘密も持っていれば、嘘をつくこともある」
「だって…仕方がないじゃないですか…こんなことにレイフを引き込む訳にはいかないし…知ったら、レイフは傷つくだろうから…」
クリスターは言いよどみ、うつむいた。
心配そうな問いかけるような目をした弟の顔が思い出されて、クリスターの胸は痛んだ。
「僕は、レイフを大事に守って、幸せにしたいと思っています。そのためになら、多少の嘘や黙っていることの後ろめたさも我慢しないといけないんです」
「君はレイフのためそうすることが正しいと考えているとしても、レイフの方はどうなのかな?」
アイヴァースの穏やかな問いかけに、クリスターははっと顔を上げた。
「君が私の元に通うことをレイフは面白く思っていないだろう。君が、彼の知らないところで自分だけの世界を持つことに不安を覚えているはずだよ。そのことを、君はどこまで思いやっているのかな」
クリスターは何かしら呆然となりながら、大きく息をついた。胸の鼓動が早くなり、体が汗ばんでくるのを覚えた。
「君はレイフを幸せにしたいと言う。だが、もしも君が望む幸せをレイフが望まなかった場合、君は一体どうする気なんだい?」
クリスターは、ソファから荒々しく立ち上がっていた。瞬時に噴出した怒りに、手は拳となり、歯は剥き出されていた。
「僕は…僕は…!」
「クリスター?」
クリスターはしばし火を噴くような激しい目でアイヴァースを睨んでいたが、やがて、どうにか気持ちを落ち着けると、再び腰を下ろした。
「話したくない」
アイヴァースは肩をすくめた。
「言いたくないなら仕方ないさ。それがルールだったね」
クリスターは唇を舌で湿すと、用心深く言った。
「僕はあなたにパトリックのことを聞いていたのに、話をすりかえるなんて、ずるいですよ」
「そもそも、君はここに自分の話を聞いてもらうために通いだしたんじゃないか。君に私の個人的な話を聞かせる必要はあまりないと思うがね。私が君のセラピストであり、このセッションは君のためのものだ」
クリスターは目をしばたたいた。
「セラピストは廃業したんじゃなかったんですか、アイヴァース先生?」
アイヴァースは苦笑し、ポケットからシガレットケースを取り出した。
「気の進まない私を、無理やり引きずり込んだくせに」
タバコを一本くわえかけたが、思い直したようにケースに戻し、テーブルの上に置いた。
「君が、私を本気にさせたんだよ、クリスター」
クリスターは、とっさに何と応えればいいのか分からなかった。
「僕を…治してやろうとでも言うつもりですか?」
「さあ、どうだろうね。君が、本当に私の助けを求めているのなら、私もそれに真剣に応えようと今は思っているよ。けれど、実際のところはどうなのか、私は疑っている」
シルバーフレームの眼鏡の下からクリスターを観察しているアイヴァースの眼差しの鋭利さに、クリスターは寒気を覚えた。
「どういう意味です?」
アイヴァースには自分の心の奥深くまで見通されてしまうかも知れない。クリスターが知らないことまで、もしかしたら、彼は知っているのかもしれない。そんな不安感に、クリスターは身がすくんだ。
「君が最後まで聞くつもりがあるのなら、話すよ、クリスター」
クリスターは眉根を深く寄せて、アイヴァースをつくづくと眺めた。
「話してください」
すると、アイヴァースはどう切り出すべきか迷うように沈黙した。クリスターが意外に思うほど真摯な顔でクリスターを見つめ、顎にそっと指を添えるようにしながら、しばし考えを巡らせていた。
「レイフのことを」
クリスターは、ぎゅっと手を握りしめた。
「君は、まるで自分の一部のように考えている。彼の体も心も意志も、全て自分の延長であるかのようにね。君達が子供のうちは、それでもよかったんだろう。君達のうち優位にあるのは、明らかにクリスター、君だ。弟もそれを感じていて、兄の言うことを正しいと思い、唯々として受け入れ、従ってきた。だが、これから先もずっとそんな関係を維持できるとは保証できない。二人がいつまでも同じ考えを持ち、同じ幸せを一緒に追求していけるとは限らないんだ。君達は別個の人間であり、それぞれが自立した大人になっていく運命は避けられないからね」
ここで、アイヴァースは、ためらうかのように言葉を切った。まるで、自分が発する一言が相手にどんな影響をもたらすのか、恐れているかのようだった。
「多分これは、君を悩ませている、これからも悩ますだろう究極の問いだよ、クリスター。もしもレイフが君と共にいることを望まず、君から離れていこうとしたら、その時一体君はどうするんだい? レイフが自分自身の幸福を追求しようとすることを認め、彼を手放すことができるかい?それとも―」
「やめろっ!」
クリスターは、吼えるようにアイヴァースの言葉をさえぎった。
「あなたの言っていることは、みんな嘘っぱちだ! あなたは、僕を混乱させ、惑わせようとしている。もっともらしい分析などして、それによって僕を思い通りに支配しようとしているんだ」
これ以上アイヴァースの言葉など聞きたくなかった。もしもアイヴァースがなおも話し続けようとしたら、クリスターは怒りに駆られて、彼に殴りかかってしまうかもしれない。
「クリスター…」
アイヴァースの顔には、失望の色がうかんでいた。決定的なミスを犯したと後悔しているのだ。先程の言葉はアイヴァースにとっては、一種の賭けのようなものだった。クリスターが素直に聞き入れるか否かで、このセッションの今後が決まる。
だが、クリスターは受け入れるどころか、最後まで耳を傾けることすらできなかった。
クリスターは普段の彼からは想像もできないほど気持ちを昂ぶらせ、目をらんらんと輝かせながら、憎い敵に飛び掛る機会を狙うかのようにアイヴァースに対して身構えていた。
抑えようもなく溢れ出す怒りのあまりこめかみの辺りがずきずきする。アイヴァースに言い返す毒の言葉を探し回るうちにも、クリスターは拳を握りしめて、何度も振り上げそうになった。
「そうだ、僕はずっとあなたに聞いてみたかったんだ」
口元を震わせて、クリスターはアイヴァースに向かって囁きかけた。
「他人のセラピーをして、患者達の心の中を探りまわって、秘密を知って…それによって彼らが問題を克服できるよう導く、それって一体どんな気分なんです?」
アイヴァースは眉をひそめ、問いかけるかのごとく首をかしげた。
「他人の心を治療している時、あなたは優越感を覚えたことがあるんじゃないですか? その患者はあなたに頼りきり、依存している。あなたの意のままだ。そんな時、自分こそが、相手の心を操り、支配し、コントロールしているのだという心地よさを、あなたは感じたんじゃないですか?」
アイヴァースは、深い嘆息でクリスターの悪意に満ちた追求に応えた。
「クリスター…」
アイヴァースは、哀しげに首を振った。それから、改めて、クリスターを正面からじっと見据えた。以前のような冷ややかさや無関心さは、確かにアイヴァースの態度から払拭されていた。しかし、その目が真摯で真率であるからこそ、クリスターは余計に反発を覚えずにはいられなかった。
「他人の心を支配し、コントロールする」
アイヴァースは、危うげなものを見つめるようにクリスターを見守りながら、真剣に語りかけた。
「そんなことを考え付く君は、一体、『誰』のことを、そんなにも支配したいと思っているんだい?」
クリスターの体が、雷にでも打たれたかのように大きく震え、硬直した。
「誰…のこと…?」
クリスターは愕然と目を見開いていた。体から力が抜け、胸の前まで上げられていた手もだらりと垂れ下がった。
「僕…は…」
クリスターの中で、激しい二つの感情がせめぎあっていた。生きながら引き裂かれてしまいそうだった。
「違う、支配しようなんて…僕は、ただ…あの子が…」
呆然となっていたクリスターの顔が、苦しげに引き歪んだ。
「クリスター」
アイヴァースは、たまりかねたかのようにソファから身を起こし、クリスターに向かって手を差し伸べた。
だが、クリスターはその手を振り払うと、慄いたようにソファから跳ね起き、アイヴァースから退いた。
「クリスター…行くんじゃない…」
アイヴァースの必死の懇願をはねつけるように、クリスターは激しくかぶりを振った。
「あなたの言うことなど、僕は信じない」
アイヴァースに対してよりも、自分自身に言い聞かせるように、クリスターは言った。
瞬間、クリスターはアイヴァースの制止も聞かずに、部屋から飛び出していった。
クリスターはアイヴァースから逃げた。
アイヴァースが突きつけた自らの心の秘密に恐れおののき、打ち震え、傷ついて、そうすれば逃げ切れるというかのごとく、クリスターは走った。
校舎を飛び出し、学校の門の傍まで来て、ようやくクリスターは足を止めた。アイヴァースが追ってこないことを確認するかのように、後ろを振り返った。
(アイヴァースの言うことなんか、間違っているに決まっている)
思い出し、ぞっとしたように、クリスターは我が身をかき抱いた。
(僕は、あの子を幸せにしたいと思っている。あの子が不幸になって傷ついたり哀しんだりするようなことは、絶対しない)
その時、クリスターは己の両目から涙が溢れていることを自覚した。震える手で、目元を押さえた。
ああ、神様。
クリスターは、泣いていることを誰かに見咎められるのを恐れるように、すぐにその場を後にした。
(アイヴァースとのゲームは、もう終わりだ)
深い憤りを込めて、クリスターは心の中でそう宣言した。