ある双子兄弟の異常な日常 第二部
第1章 危険なゲーム
SCENE7
休み明けの月曜の放課後。
クリスターはカウンセリングの予約を入れていたのだが、あんな秘密を知った今は、アイヴァースの顔を見るのは、何となく気が重かった。できれば、もう少し気持ちが落ち着いてから会いたかったが、自分から約束を破るのもためらわれたし、それに、つい盗み出してしまった写真を、アイヴァースに気づかれないうちに隙を見て元の場所戻したいという思いもあった。
「先生、クリスターです」
ノックをして、クリスターは部屋の中に入った。すると、アイヴァースは手を後ろで軽く組み、クリスターに背中を向けて窓の前に立っていた。
クリスターが入ってきても振り返ろうとしない背中は、いつも以上にとっつきにくく見える。決して溶けることのない氷でできた壁のようだ。
クリスターは視線を動かし、アイヴァースの手前にあるデスクを見た。そこに置かれた本に、クリスターは小さく息を呑んだ。例の写真がはさんであった、古びた心理学の本だったからだ。
「その本は、私が親しくしていた子の持ち物でね。大学で心理学を専攻していたんだよ。分からないところがあったら、私によく質問しにきてね」
クリスターは、汗をかき始めた。心臓が急にせわしなく打ち始めるのを呆然と感じていた。
「ソファにかけたらどうだい、クリスター」
クリスターはすぐにこの場から逃げ出したい気分だったが、それをするには彼のプライドはあまりにも高すぎた。怖気づく自分を鞭打つようにして、クリスターはソファに腰を下ろした。
「コーヒーを煎れてこよう」
クリスターが何をしたのか知っていながら、いつもどおりに振る舞うアイヴァースは、だからこそ、余計に恐かった。
やがてアイヴァースはコーヒーのカップを二つ持って、隣の小部屋から戻ってきた。
アイヴァースがブランデーをコーヒーに入れるのを、クリスターは強張った顔で見守った。
その時、アイヴァースの目がすっと上げられた。
「君も、入れるかい?」
「え?」
「ブランデー」
子供は駄目だと前は言ったくせに。どういうつもりだろうといぶかりながらも、クリスターは頷いた。
アイヴァースはすかさず、クリスターのカップにもブランデーを注いだ。思わずクリスターが止めたくなったくらい、たっぷりと。
「苦い」
湯気に混じってたちのぼるブランデーの香りにむせそうになりながら、クリスターはコーヒーを一口飲んだ。やっぱり入れ過ぎだと思った。馴染みのない苦味が舌を刺す。しかし、まずいと言って飲まないのも、やはり子供だと侮られそうな気がして、クリスターは我慢してその苦いコーヒーを飲んだ。
「さて、クリスター、今日も例のゲームの続きをするのかい?」
先週クリスターが提案した、あのゲームのことだ。一瞬ためらった後、クリスターはこくんと頷いた。
「今回は、私から先に質問するよ」
クリスターは身を固くした。
「どうして、あれを盗んだりなどしたのかな?」
クリスターは、震える瞼を閉じた。
「盗むつもりではありませんでした」
クリスターは再び目を見開くと、自分を奮い立たせるように、はっきりとした口調で答えた。ポケットから写真を取り出し、アイヴァースの前に置いた。
「すぐに返すつもりだったんです。すみませんでした」
アイヴァースは顎に指を添え、クリスターに探るような眼差しを向けている。相変わらず小刻みに震え続ける、その指先を見ながら、込み上げてくる緊張を振り払おうと、クリスターは更に言葉を続けた。
「…あなたの本を眺めている時にその写真を偶然見つけて、とっさに持って帰ってしまったんです。僕は、あなたのことをよく知りたかった。この写真のあなたは今とは別人のように見えたし、一緒に写っているのが誰なのかも気になりました。それに写真の裏に走り書きされたメッセージにも何か深い意味があるようで…あなたが、どうしてこんなにも変わってしまったのか、なぜセラピストの仕事をやめてしまったのか、この写真に隠された秘密を探れば分かるかもしれない、そんなふうに思ったんです」
「秘密を探る?」
アイヴァースの頬が微かに震えた。
「はい」
クリスターは、迷うように、一瞬口ごもった。
「実は先週末、僕はボストンまで出かけました。あなたのクリニックを訪ねて、その周辺で色々聞いてまわったり、調べたりしたんです」
クリスターはうっすらと頬を赤らめた。
「パトリック」
アイヴァースがはっと息を呑む音を、クリスターは聞いた。
「あの大学生が原因なんですか? あなたのもと患者で…たぶん恋人だった人…彼に撃たれて殺されかけたことが、その後で彼が自殺したことがショックだったから、パトリックのことを思い出すような仕事にはとても復帰などできなくなったんですか?」
こんな直接的な言い方をしては駄目だと、クリスターは内心思っていた。アイヴァースを傷つけてしまう。けれど、一端口を開くと、クリスターは自分でもとめられなくなっていた。
「あなたは、パトリックを大事に思っていたんですね。あの写真に写っていたあなたの顔を見れば分かります。心から楽しげで、打ち解けて…あなたも、昔はあんなふうに他人に対して心を開いていたんだ。でも、今は…」
アイヴァースは相変わらずのポーカーフェイスだが、ソファの肘掛に乗せられた手は、ふつふつとたぎる感情を押さえ込もうとしているかのごとく、いつの間にか固く握りしめられている。
「今のあなたは、昔とは別人のようです。僕が本を通じて知った優秀で熱意のある精神科医、かつてのあなたを実際に知っていた人が言うような人格者、あの写真の中で温かい笑顔をうかべていた人とも…かつては一流のセラピストと言われたあなたが、他人との接触を固く拒んで、心を完全に閉ざしている」
瞳をふっと揺らしたかと思うと、アイヴァースはクリスターから逃げるように目を逸らした。それを見て、クリスターは、ついかっとなった。
「僕が本気で話しても、あなたは正面から向き合おうとしないで、するりと逃げてしまう。他人の心の中を見ることが、そんなに恐いんですか。あなたは卑怯だ」
気持ちが昂ぶるがまま、クリスターは続けた。
「いつまでも、そうやって昔の傷を引きずるつもりなんですか? 立ち直る気はないんですか?当時の新聞の記事なんかを読んでも、パトリックがあなたを殺そうとしたのは逆恨みで、あなたのせいじゃない…」
「私のせいだよ」
いきなり激しい声に上から被せるようにして言われて、クリスターは黙りこんだ。
「君がこそこそと私の周囲をかぎまわって、何を見聞きしてきたのか知らないが、クリスター、私の過去についての君の勝手な憶測は間違いだらけだよ」
頭ごなしに否定されたクリスターは、思わずソファから身を起こして怒鳴りかえしそうになったが、ぐっと我慢して、座りなおした。
「あなたのせい? どういう意味です?」
それでも、クリスターは怒りに我を忘れることはなかった。用心深く探るような眼差しをアイヴァースの冷たい顔にあてて、鋭く問い返した。
「僕の考えが間違っているのなら、どうしてパトリックは、かつての恩人であり恋人でもある、あなたを殺そうなどとしたんです?」
アイヴァースは、仮面のような無表情のままクリスターを凝視していたが、眼鏡の下の瞳には普段はうかがえない強い光が宿っている。それが怒りや憎しみであっても構うものかとクリスターは思っていた。無関心よりは、よほどましだ。
「君を見ているとパトリックを思い出すよ、クリスター」
ふいにこんなことを言うアイヴァースに、クリスターは戸惑った。
「彼が最初に私のクリニックを訪れたのは、彼が十二才の時だった。君ほど鼻っ柱の強い子ではなかったが、頭がよくて、感受性の強い、大人びた少年だったよ。何かにひどく怯え、緊張して、追い詰められた目をしていたが、それを押し隠すことのできる子だった。実際、学校では何の問題もない優等生で通っていた。しかし、ほとんど無意識に自傷行為を繰り返すのと原因不明の頭痛と発熱を何度も起こすことから、私を紹介されたんだ」
アイヴァースは唇を笑みに形に吊り上げたが、クリスターに向けられた半分閉ざされた目はひどく暗かった。
「およそ半年間セッションを持つうちに、パトリックは私を信頼して、心を開いてくれるようになっていった。両親がうまくいっていないことや、母親の関心が障害を持つ妹にばかり向けられているといった、家庭内の悩みを話してくれるようになった。私はこの母親との関係が彼の問題の主たるものだと判断し、母親も呼び出して一緒にセッションを受けさせるなどして治療を試みた。彼はよくなったように見えたよ。表情も見違えるように明るくなったし、自傷行為もやみ、頭痛の症状も出なくなった。それで、私は彼の治療はひとまず終了したと判断したんだ」
アイヴァースは、一瞬言葉を切った。その端正な顔が、深い痛みを覚えたかのように僅かにしかめられるのを、クリスターは息を詰めて見守っていた。
「パトリックは、私と別れるのを嫌がった。だが私は、もう君はよくなったんだからこれ以上のセッションは必要ないと言った。けれど、彼があんまり落胆していたので、話したくなったらいつでも電話をしておいでと付け加えて、彼を帰らせたんだ。本当は、あのまま帰らせるべきではなかったのにね」
アイヴァースが急に立ち上がったので、クリスターはぎくりとした。彼はデスクの上からパトリックの持ち物だったという心理学の本を持ってくると、膝の上において、その表紙をそっと撫でた。
「私は、取り返しのつかない過ちを犯していたんだ。パトリックの問題は、実際何も解決していなかった。私は肝心なことを見過ごしてしまっていた。パトリックを悩ませていたのは、母親とのギクシャクした関係ではなく、父親の方にあったんだ。パトリックの話の中では父親は影が薄かったので、私はつい彼の母親や妹の方にばかり気を取られてしまった。パトリックは、実は父親から性的虐待を受けていたんだよ」
「えっ?」
クリスターは、思わず、小さな声をあげていた。
「そのことを、母親を含めた誰にも打ち明けることができず、追い詰められていたんだね。私のことはかなり信頼できる相手だと思ってはいたものの、そこまで打ち明ける勇気も確信も持てないでいたんだ。パトリックの症状が改善したのは、父親が家を出て別居状態に入っていたからだ。パトリックが治療の終了を告げられた時に不安を示したのは、じきに父親が帰ってくることを知っていたからなんだ。私に助けを求めていたのに、気づいてやれなかった」
アイヴァースは、クリスターがテーブルの上に置いた写真を取り上げ、食い入るように眺めた。
「私がそのことに気がついたのは、九年も経った後だった。パトリック自身の口から真実が語られ、彼の撃った銃弾が腹を貫通して、初めて自分の犯した罪の大きさを思い知らされたよ。結局、私の治療が終了してすぐに家に戻ってきた父親から、彼はその後も虐待を受け続けたんだ。誰にも打ち明けることもできず、母親が離婚を決意して今度こそ父親と離れられるまで、三年間もそんな地獄を味わった。私と出会い、助けてもらえるという希望を抱きかけたのに打ち砕かれた、その後は、彼は本当に絶望してしまって、逃げ出すことをあきらめてしまったんだよ」
パトリックの写真を見つめるアイヴァースの顔にうかんだ苦悩の深さに、クリスターは居たたまれなくなってきた。彼を問い詰める気概も瞬く間にしぼんでいったが、クリスターが黙り込んでも、アイヴァースの懺悔めいた告白は止まらなかった。
「パトリックの治療が終了して九年が経ち、私が彼のことなど思い出すこともなくなった頃、再び彼は私の前に現れた。私の記事を新聞で見たと言ってね。私は児童精神科の分野での功績を認められて、そのことで市から表彰をもらったんだ。その記事を読んで懐かしくなったので、私に会いたくなったと言うんだよ。パトリックは、私の影響を受けて、将来はセラピストになろうと決意し、大学で心理学を学んでいると言った。嬉しかったよ。昔の患者が今は立派な若者になって、私に最高の感謝の言葉を述べてくれたんだ。パトリックは、それからも、私のクリニックをしばしば訪れるようになった。たわいのないおしゃべりをしたり、時には彼が学ぶ専門的な分野についての質問に答えたりすることもあった。私がそんなふうに患者と個人的な関係を持つことはないんだが、治療終了後もう九年も経っているのだし、私にとって彼はもはや患者ではなかった。実際、最初は私にとってパトリックは若い友人でしかなかったが、次第に私は彼に惹かれていった。若く魅力的で、機知に富んだ話をする、明るく笑っているかと思ったらふとした折に憂いのこもった顔も見せる、彼のことが気にかかるようになった。パトリックも、私に対し友情以上のものを期待する素振りを見せるようになった。それで思い切って彼の気持ちを確かめて、つまりは、めでたく恋人として付き合うようになった訳だ。全てが順調であるように思えた。私はとても幸せで満ち足りていたよ。仕事もうまくいっていたし、名声も恋人も手に入れた。あんまり幸せだったから、パトリックが時々見せるアンバランスな言動や私に対する謎めいたほのめかしについては、あまり重要視しなかったか、意味を取り違えていた。他人の心を見抜くプロが、相手が心を許せる恋人となると、全くの盲目になっていたんだ」
アイヴァースの深甚な告白を見守ることしかできないでいたクリスターは、その時、いきなり妖しいめまいのような感覚に襲われた。視界がぼやけ、アイヴァースの姿が二重に見える。震える手を上げ、とっさに額を押さえた。
「パトリックが私に近づいたのは、初めから意図的なものだったんだ。私の記事を読み、自分を救えなかったセラピストが世間では名声を得ていることに改めて怒りをかきたてられたんだろうね。私が幸福なのに対し、パトリックが子供の頃に受けた傷は、ずっと彼を苦しめ続けた。父親から逃れられた後も、彼は悪夢に取り付かれたままだった。人に対して心を開くことができず、いつも何かに怯え続け、自分を愛することもできない。パトリックは、精神科のクリニックに通い続けていたが、そのことすら私は知らなかった」
クリスターは頭をはっきりさせようと激しくかぶりを振ったが、めまいはやむどころかますますひどくなってきた。語り続けるアイヴァースも声も、さっきから遠くなったり近くなったりを繰り返している。
「ある日、私の家で二人きりでいる時に、パトリックは私がかつて彼に施した治療のことを話題にした。自分のやり方は正しかったと今でも思うかとパトリックは私に尋ねた。私は、正しい治療判断を下したと思うと答えた。だからこそ君はよくなったのだろうと。すると、パトリックはいきなり興奮しだして、私を罵り、喚き散らした末、家を飛び出していった。それからしばらくパトリックは姿を見せなかった。私は心配になって探し回ったが、彼は住んでいるアパートにも、他のどこにもいなかった。それが、半月程経ったあの日、パトリックは前触れもなく私のクリニックを訪れた。ひどくやつれ疲れきった様子でね。その狂おしげにさ迷う目を見て、さすがの私もこれはただ事ではないと悟った。正直、危険を感じないわけではなかったのだが、私は彼を救いたかったし、救えるとも思っていた。まさか、パトリックが銃を隠し持っていて、私を道連れに自殺する覚悟だったとまでは予想できなかったんだ」
クリスターは、体から急速に力が抜けていくことに慄然となった。ソファの上にずるずると崩れていきながら、助けを求めるようにアイヴァースを見た。
「二人きりになるなりいきなり銃を向けるパトリックに、私はショックを受けたよ。そうして彼は、私が知らなかった真実を、私の犯した過ちと罪を語った。パトリックは幼い子供のように泣いたよ。私を罵ったかと思えば、また泣いて…その姿は助けてくれと訴えているようにも見えた。私は、もう一度チャンスをくれと彼に訴えかけた。今度こそ、君を救ってみせる、君を治してあげると…だが、パトリックは冷ややかに笑いながら首を横に振ったんだ。私には救うことなどできないと言って、私に向かって発砲した。私は…撃たれた瞬間、それも仕方がないと思った。当然の報いだと思った。だが、パトリックは…私にとどめを刺すことはなく、代わりに自分の頭を吹き飛ばしてしまった。もしかしたら、初めから私を殺すつもりではなかったのかもしれない。一命を取りとめ退院した私が、パトリックが私の蔵書の中に紛らせるようにして残した、この本を見つけた時、その中に挟まれた写真の裏のメッセージを読んだ時、これがパトリックの復讐なんだと絶望的に悟ったよ。罪の償いをしたくても、もう彼は取り戻せず、役立たずの私だけがこの世に残されてしまった」
クリスターは息苦しさに喘ぎながら、何とか身を起こそうとするが力が入らず、またずるずると崩れ落ちてしまう。ふと、彼は目の前のテーブルに置かれたコーヒーのカップを見た。舌を刺す苦い味を思い出した。まさかと思いつつ、顔を上げると、己を冷ややかに見下ろすアイヴァースと目があった。
「これが、君の知りたかったことの全てだよ、クリスター。満足かい、詮索好きの探偵君?」
クリスターは、呆然とアイヴァースを見上げた。
「アイヴァース先生…一体、何を…僕に…?」
アイヴァースは、クリスターが飲んだコーヒーのカップにちらりと視線を投げかけた。
「私が常用している薬を君のコーヒーの中に少しね。私にとってはどうということはないけれど、慣れていない君にはきついだろう。ましてや、アルコールと併用するなんて、最悪だ」
クリスターは一瞬、目の前が真っ暗になったような気がした。
「信じられない…生徒に薬を盛るカウンセラーなんて…知らない…」
悪徳カウンセラーは、冷たい笑いで答えた。
「先入観というものはくせものだと、私は前にも言ったはずだよ、クリスター」
アイヴァースはおもむろにソファから立ち上がると、窓の方に歩いていって、カーテンを引いた。外から差し込む光が遮られ、部屋に暗い影が下りた。
「クリスター、君は心理学に興味があると言ったね。だが、もしセラピストや精神科医になりたいなら、やめておくことだ。君には向かないよ。君は、他人の心になど何の興味も持ってはいないし、敬意も払っていない。君が関心を覚えるのは、自分自身と、せいぜいもう一人の心だけだ」
アイヴァースの声音は低く、感情の抑えられたものだったが、何かしら刺すような響きがこもっていた。
「他人の心の中に土足で入り込んできて、触れて欲しくない傷にあえて触って、傷口を開いた。君の身勝手な好奇心や欲求を満足させるために、何故私がまたこんな痛みを覚えなければならないのかな」
平静を装った声に時折混じる不協和音。狂気の影。逃げなければとクリスターはもがくが、体は完全に自由を失っていた。
「君は、自分がしたことの代償を私に払わなければならないよ。クリスター、今度は、君が傷つく番だ」
アイヴァースはソファの上で何とか起き上がろうともがいているクリスターの脇を悠然と歩きすぎると、部屋の扉の鍵をかけた。
「何を…する気なんです…?」
クリスターは威嚇をこめて問いかけたつもりだが、その声は震え、アイヴァースには彼が恐がっていることが分かってしまっただろう。
アイヴァースはクリスターの質問には答えず、ゆっくりと近づいてきた。ソファの前に膝を着き、必死になって睨みつけているクリスターの顔を覗き込んだ。
「君は、どうしても私にパトリックを思い出させるよ、クリスター。憎らしくなるくらいにね」
アイヴァースはシルバーフレームの眼鏡をはずし、テーブルの上に置いた。
「あっ…」
クリスターは喫驚して思わず悲鳴をあげた。いきなりソファの上に押さえつけられたかと思うと、アイヴァースの体が覆いかぶさってきたからだ。
「な、何を…う…」
のしかかってくる相手の胸を押し返そうとするが、今のクリスターに抵抗できる力は残っていなかった。なす術もなく組み敷かれ、抗議の声をあげようとする口も覆いかぶさってくる唇にふさがれた。
クリスターは、衝撃のあまり、束の間硬直した。
(嘘…だ…こんな…僕がこんな目にあうなんて…)
これが普段だったら、細身のアイヴァース相手にクリスターがそう簡単に負けるはずはなかった。まんまと罠にはめられたことを知り、恐怖も吹き飛ばすほどの怒りに満たされ、クリスターは低く唸った。
「つっ…」
アイヴァースがクリスターの上からとっさに身を引いた。噛み付かれた唇を押さえ、彼はつくづくとクリスターを眺めた。怒りに打ち震え、獰猛な山猫のように歯をむき、爛々と瞳を燃やしている少年の姿に、アイヴァースはふっと笑った。そうして首からネクタイを解いた。
アイヴァースは再びクリスターの体を捕まえると、うつ伏せに押さえつけた。手を背中に回してネクタイで縛ると、彼はクリスターをまた仰向けにした。
「口もふさがれたいかい、クリスター?」
アイヴァースを睨み上げるクリスターの顔が、屈辱に真っ赤になった。アイヴァースはどうあってもクリスターを許すつもりはないらしい。クリスターには彼に逆らって逃げ出す力はないし、助けを求めて叫びたくても声もろくに出ない。それに、カウンセリングの約束でもない限り、放課後、生徒や教師がこの部屋の付近に立ち寄ることはない。これ以上の抵抗は無駄と悟り、クリスターは怒りに身を震わせながら、ぷいっと顔を背けた。
「おとなしくしていれば、それ程ひどい目にはあわせないよ」
アイヴァースの低い含み笑いに、クリスターはきつく目を閉ざした。
アイヴァースは噛み付かれることを恐れてか、クリスターの唇に再び触れようとはしなかった。
シャツの中に忍び込んでくる、彼の手の冷たさにクリスターは一瞬身をすくめた。
突発的な怒りに紛れてかけていたが、薬物の作用による妖しい酩酊感が再びクリスターを圧倒していた。胸苦しく、ともすれば暗い奈落の底に引き込まれていきそうな不安感。半ば麻痺したように体の自由はきかないが、どうしたことか、肌に触れられる感触だけはいやに鮮明だった。
むき出しにされた胸を滑るアイヴァースの骨ばった手。その乾いた感触に肌が泡立つ。怖気とも快感ともつかぬ震えが触れられた部分から全身に広がっていく。滑らかな指先にいきなり乳首をつねり上げられて、クリスターはとっさに出かかった悲鳴を、歯を食いしばって堪えた。
「本当に君は強情だな、クリスター。泣いて許しを請えば、私を止められるかもしれないのに」
アイヴァースの揶揄に、クリスターは、最後の意地とばかりに、冷ややかに返した。
「やめる気など…ないくせに…」
「確かに、そうだな」
アイヴァースの頭がクリスターの胸の上に下りてきた。温かい吐息がかかるのにさえ、敏感になった肌は反応してしまう。鎖骨の上に唇が押し当てられきつく吸われるのに、クリスターは、たまらず、身をよじって逃げようとしたが、すぐに引き戻された。
アイヴァースは、濡れた唇と舌で、クリスターの胸から腹にかけて正中線をつけるように慎重に愛撫していった。
クリスターの体は次第に熱くなってきた。息が上がって、ついには堪えきれずに、彼は小さな声を漏らした。
「あ…っ…」
慄いたようにクリスターは唇を引き結んだ。羞恥心が、余計に体を熱くする。こんなことなら、いっそ口も塞いでもらった方がよかったかもしれない。
他人の体なのに勝手を知ったようなアイヴァースの愛撫に、下腹部にもとっくに熱がともってしまっていることが、クリスターは情けなかった。クリスターの意思に反して、体はしっかり快楽を覚えている。しかも、十一才の夏休みに訪れたキャンプ場でのアリスとの初体験よりも、もしかしたら、こちらの方が気持ちいいかもしれないのだ。
(最悪)
苦い敗北感を味わいながら、クリスターはアイヴァースがズボンに手をかけ、下着ごと手際よく下ろしてしまうのを意識した。
(ひっ…)
見なくても立ち上がっていることが分かる、その部分をいきなり強く握りこまれて、クリスターは声なき悲鳴をあげて、のけぞった。
アイヴァースの体がクリスターにのしかかってきた。今度は押し返すことはできない。背中に回されて縛められている手首を何とか自由にしようと悪戦苦闘しながら、顔を背け、クリスターは下腹部から突き上げてくる快感に必死で耐えていた。今にも弾けてしまいそうなそこを包み込まれ、扱きあげられる感触に気が狂いそうだ。それでも、ついにクリスターは手首に巻きつけられていたネクタイを解いた。瞬間、彼はアイヴァースの体に打ちかかった。
しかし、その手は掴まれ、呆気なくソファの上に押しつけられた。クリスターは、きっとなって目を見開き、己を見下ろす男の顔を睨みつけた。
クリスターははっと息を飲んだ。残酷な揶揄や皮肉を含んだ、勝ち誇った顔がそこにあると思っていたのだが、クリスターにひたとあてられたアイヴァースのブルーグレーの瞳は何かしら真摯で思いつめた表情をうかべていた。だが、そう思ったのも一瞬のこと、クリスターは悲鳴を上げて、背中を弓なりにそらせた。クリスターの後ろに回され、腰から尻を撫で下ろした、アイヴァースの指が彼の秘所を探り当て、内部に押し入ったのだ。
「やっ…嫌だ…やめろ…!」
クリスターの意地も誇りも、この一瞬消し飛んだ。精一杯の力を込めて抵抗し、アイヴァースの胸に腕を突っ張り逃れようとしたが、再び両手とも押さえつけられてしまう。もう一本指を増やしたのだろう、内部に押し入る異物感が増すのに、クリスターは怖気をふるい、嫌々をするように激しく頭を振った。
「嫌だ、こんな…離せ…痛…っく…」
その声にこもった自分のものではないかのような淫らな震えに、クリスターは愕然とした。固い蕾を押し広げほぐしながら内部を探り、ぐるりとかき回す指の感触に、ぞくりとした快感の炎が背筋に走る。
唐突に指が引き抜かれ、クリスターはほっと全身の力を抜いた。
「あっ!」
クリスターは目を見開いた。
アイヴァースはクリスターの脚を持ち上げ一杯に開かせると、先程指で蹂躙した箇所に露出した己自身を押し当て、一気に貫いた。
クリスターは絶叫した。目から涙が迸った。アイヴァースのワイシャツに爪を立て引き裂かんばかりに引っ張るのが、彼が示せる最大の抵抗だった。
更に奥深く体の内部を突かれて、再び彼は叫んだが、体に回った薬のせいか、それは弱々しくかすれた悲鳴にしかならなかった。
「あっ…や…あぁ…!」
細身の割に力のあるアイヴァースはクリスターの腰を手で支え固定して、何度も責めたてた。深く突き上げては退き、更に深く強く突き上げてはゆっくりと退き、また突き上げる。クリスターの頭はぐらぐらと揺れ、貫かれる度、体は痙攣を起こしたように反り返った。力をなくし、振り回されるだけとなったクリスターは、ソファからずり落ちそうになったが、アイヴァースの手が彼の腕をつかんで引きずり起こした。
アイヴァースはクリスターを抱えあげ、体を回してソファに座ると、己の上に少年を跨らせるようにした。
「いっ…つ…」
アイヴァースのペニスをくわえ込んだまま、己の重みで沈んでいく体が更に深くそれを飲み込んでいきそうになるのに、クリスターはとっさにアイヴァースの肩に手をかけ、脚を突っ張ってずり上がろうとする。アイヴァースはクリスターの腰に手をかけると接合が外れそうなほど体をずらしたが、すぐに彼を引きずり戻し再び体を密着させた。
クリスターは叫び、固めた拳をアイヴァースの肩に叩きつけた。
「こんなこと…よくも…よくも……あぁっ」
アイヴァースの腰が再び力強くうねり始めるのに、クリスターは激しく打ち震え、滑り落ちないよう彼の体にしがみ付いた。
クリスターは汗びっしょりになっていた。引き裂かれる痛みと自分の意思に反して蹂躙される屈辱に、どうしようもなく涙が溢れてくる。
「クリスター…」
鉄面皮のアイヴァースも、さすがにここまで来ると冷静さを保っていることなどできないらしい。クリスターの耳元でなされる囁きは欲情に濡れている。
首筋に押し付けられる唇から逃れようと、クリスターは頭をずらした。そこで、ふいに目に入ってきたものに、はっと息を飲んだ。
「あ…」
クリスターの目が、張り裂けんばかりに見開かれた。彼が見つけたのは、壁にかけられた大きな鏡だった。鏡は、アイヴァースに抱かれているクリスターの姿を映している。
クリスターは慄いたように目を閉ざし、また開いた。彼の瞳は、吸い付けられるように鏡に映る自分の顔に行った。男の肩越しにこちらに向けられている、その顔は上気し、体を駆け抜ける快感に我を忘れ、目には濡れたような光をたたえている。とても自分の顔だとは思えなかった。だとすれば、誰のものなのか。クリスターをそっくりそのまま写し取ったような、この顔は。
突然、理由の分からない異様な昂ぶりがクリスターを襲った。内側からはぜてしまいそうな、凄まじい興奮だ。アイヴァースに深々とえぐられて、のけぞる彼の口からあがったのは、紛うかたない悦びの叫びだった。クリスターはアイヴァースの頭を抱きしめ、もっとと要求するように腰を揺すった。そうしながらも、その目は鏡に映し出された己の姿から離れなかった。
アイヴァースはいぶかるように一瞬動きを止めたが、怒った猫のような呻き声をクリスターが発し、髪を引きむしろうとするのに、再び腰を使い始めた。
「はあ…あぁ…あっ……!」
クリスターはもう逃げようとはしなかった。積極的にアイヴァースの上に跨り、肩に手を置いてぐらつく体を支えながら、男が突き上げてくるのにあわせて自らも腰を沈め、相手の全てを飲みこみ食い尽くそうするかのように貪欲に求めた。
アイヴァースは戸惑いつつも、感極まったような叫びを漏らした。彼は、一瞬、クリスターがおかしな薬のせいでハイの状態にぶっ飛んだのかと疑ったかも知れない。しかし、腰を酷使しながら、アイヴァースは、己の上で乱れ狂う少年が、何かをひたと見つめていること、その口から低い呟きが漏れていることに気づいた。
「…ふっ…レイ…く……レイ…フ……」
クリスターは、鏡の中のもう1人に向かって、陶然と呼びかけていた。心臓が、破裂しそうなほど高鳴っている。こんな悦びは、他には知らない。肌までもが歓喜に震え、ちくちくと疼いている。
「レイフ」
熱い息と一緒に、クリスターはその名前を胸の奥から押し出した。
アイヴァースは、数瞬の間凍りついたように動きをとめ、それから一転怒りに駆られたような激しさでクリスターを責めたて、解放を迎えるための最後のステップを一気にのぼりつめた。
「クリスター」
車の助手席の窓から、夕闇に沈み始めた校舎の方をぼんやりと眺めていたクリスターは、その呼びかけにゆっくりと振り返った。
「はい、アイヴァース先生?」
ハンドルに手をかけたまま、アイヴァースは深い思案に暮れている様子だった。
クリスターは首を傾げて、そんな彼を眺めた。
「もしかして、後悔しているんですか?」
アイヴァースは、皮肉っぽく笑った。
「さあ、どうかな」
そう言いながら、アイヴァースはクリスターの言ったことについて考えを巡らせている。ポケットからタバコを取り出すと、ライターで火をつけた。
「あなたが僕にしたことを、僕は誰にも言うつもりはありませんから、その点では安心してください」
アイヴァースのライターの火が微かに震えた。
「だからと言って、許した訳ではありません。あなたは僕に半殺しの目に合わされても文句の言えないようなことをしたんですからね」
「半殺しか。過激だね」
アイヴァースは軽く肩をすくめてみせた。
「でも、僕が先にあなたの心を傷つけたのも本当だから、その分は差し引いて、これからあなたとどう付き合うか考慮するつもりなんです」
アイヴァースは、思わずクリスターの方に顔を向けて、まじまじと彼を見た。
「あなたが僕を騙して薬を盛ったことも、力づくでレイプしたことも許せないけれど、どうやら、僕は同性愛自体にはそれ程嫌悪を覚えていないらしい」
意外な発見をしたというように、クリスターはクスッと笑った。
「それにね」
クリスターの声に、一瞬険がこもった。
「僕は惨めな被害者ぶるのは好きじゃない。それなら、いっそ共犯者になった方が、僕のプライドは痛まないし、たぶん性にあっているんです」
車のハンドルをきつく握っているアイヴァースの手の上に、クリスターは自らの手を重ねた。
「次のセッションはいつ予約したらいいのかな、先生?」
にっこりと無邪気な子供の顔を演じてクリスターは問いかけるが、その眼差しは鋭く、容赦がなかった。
「クリスター」
アイヴァースの瞳に不安の翳りが過ぎった。恐れているのかもしれなかった。
「君は…まだそんなことを言っているのか。今の私は、薬の力を借りなければ自らをコントロールすることもできない。他人の悩みを聞いて解決するセラピーなどできるはずもないんだ。君の悩みが何なのか問題がどこにあるのか分かる気はするが…解決方法を教えてあげることも助けてあげることもできないよ」
「あなたがそう思い込んでいるだけではないのかな、先生?」
アイヴァースは嘆息した。
「そんなに僕が恐いですか?」
クリスターが手を撫でるのに、アイヴァースはさりげなくハンドルから手を離し、タバコを吹かしている口元に持っていった。
その肩が軽く揺れた。アイヴァースは、ハンドルの上に顔を伏せるようにして、低く笑った。
「クリスター」
アイヴァースは頬杖をついて、クリスターの顔を下から覗き込んだ。顔は笑っているが、その目は真剣そのものだった。
「君は、悪魔か?」
タバコを灰皿に押しつけると、アイヴァースは観念したように言った。
「木曜の放課後、カウンセリングルームに来なさい。その日は他の予約は入れないようにするよ。君のための特別セッションだ。これで満足かい?」
「ありがとうございます」
アイヴァースは助手席に行儀よく座っているクリスターを、何か言いたげな目で見つめた。
「クリスター…覚えているのか…分かっているのか?あの時、君は…」
「ああ、そうだ、アイヴァース先生」
ふいに思いついたようにぽんと両手を打ち鳴らすクリスターに、アイヴァースは続く言葉を飲み込んだ。
「差し引き分、こういうことにしませんか。口止め料として、やっぱり僕は欲しいものがあるんです」
アイヴァースは呆れたような顔をした。
「それは恐喝という犯罪行為だよ」
「あなたが僕にしたことも立派な犯罪ですよ」
さらりと切り返すクリスターにアイヴァースは軽く片方の眉を跳ね上げると、あきらめたような吐息をもらし、車のエンジンをかけた。
「分かったよ、クリスター。それで、一体何が欲しいんだい?」
「レイフ!」
夕方遅くに帰ってきた双子の兄が、大きな段ボール箱を抱えて部屋に入ってくるのに、レイフは目を真ん丸くした。
「何だよ、それ?」
クリスターは箱を床の上に置くと、何でもないことのようににっこり笑った。
「アルバイト料代わりに買ってもらったんだよ、アイヴァース先生に。今日は先生の蔵書の整理を手伝っていてね、それで遅くなったんだ」
ダンボール箱を開けると、レイフがコレクションをしている、NFLのトレーディングカードの箱が出てきた。その数、ざっと一ダース。
「す、すごい、大人買いかよっ」
興奮して鼻をぴくぴく動かす弟の横顔を、傍らにしゃがみこむようにしてじっと眺めながら、クリスターは尋ねた。
「嬉しい?」
レイフは喜色満面振り返ると、クリスターに体ごとぶつかるように抱きついてきた。
クリスターはちょっとよろけたが、何とかその場に踏みとどまった。
「うん、うん、ありがとう、兄ちゃん!」
レイフはクリスターの顔にぐいぐい頬を擦り付け、ついでに唇も押し付けてきた。クリスターは、小さく息を飲んだが、レイフが気づくことはない。
「そ、それは…よかったね」
クリスターの心臓は、ドキドキと高鳴っていた。
無邪気にはしゃぐ弟の体をなだめるように叩きながら、腰に覚えた鈍い痛みに、クリスターは密かに顔をしかめていた。