ある双子兄弟の異常な日常 第二部
第1章 危険なゲーム
SCENE5
ランチタイム前の三十分は、いつも読書の時間になっていた。図書室から思い思いの本を借りて読む時間は、兄と違ってあまり読書は好きではないレイフにとっては退屈なものだ。しかし、この時は違った。
レイフは机に座って一応形だけは本を広げていたが、実際ページに書かれた文章など読んではいなかった。彼の全神経は、今、机の中に隠してある『プレイボーイ』誌に集中していた。さっきの休み時間、友達から回ってきたものだ。友達が父親の秘密の戸棚から内緒で失敬してきたものだから、今日中に皆で回し見しなければならない。レイフに与えられたのは、この読書タイムだけだ。
レイフは、鋭い目を監督の先生の方に向けた。ミセス・クーパーは、黒板の前の席で、熱心にテストの採点を行っている。よし、今がチャンスだ。
意を決し、レイフは机の中に隠していた大人向け雑誌をそろそろと引っ張り出して、膝の上に置いた。どくどくと心臓の鼓動が鳴り響いている。派手派手しいあおり文句が飛びかう表紙でポーズを決めるビキニ姿の女の人を見ただけで、頭の中がかあっとなってくる。レイフが震える手でページをめくった、次の瞬間、何もつけていない金髪美女のグラビアが目に飛び込んできた。その素晴らしすぎる巨乳は、成人女性の体に免疫のないレイフにとっては、アッパーカットをまともにくらったような衝撃だった。
(うっ)
レイフの頭が爆発した。視界が真っ赤になった。いや、本当にレイフは血の色を見ていた。
ぽとりと金髪巨乳モデルのナイスバディの上に生々しい血が飛び散った。レイフは、とっさに手を上げ、鼻を押さえた。
「ああ、レイフが鼻血を吹いてるーっ」と叫んだのは、誰だったろうか。
怪訝に思ったクーパー先生がやってくるのに、焦りまくったレイフは、雑誌を床の上に落としてしまった。
(もう、最悪)
その後は、クラスメートの笑い声と先生の小言の中で、レイフは頭を抱えるばかりだった。全く、恥ずかしいことこの上ない、読書の時間だった。
「本当に何をやってたんだよ、レイフ。大人向けの雑誌を回し見ているのを見つかっただけならまだしも、巨乳モデルの裸に興奮しすぎて鼻血を吹いたなんて、僕は恥ずかしくて情けなくて…」
ランチタイム。大勢の生徒達で込み合うカフェテリアの片隅で、双子達はサンドイッチを食べながら、先程のちょっとした事件について話し合っている。
「だ、だって…だってさ、本当に…すごかったんだから…あんな…あんな…」
言っているうちに、レイフは思い出してしまった。また顔を赤くして鼻を押さえるレイフに、クリスターはとっさに身構えた。
「本当に、おまえは可愛いね、レイフ」
クリスターはふっと微笑んだ。
「あんな雑誌、今時珍しくも過激でもないのにね。皆、隠れて見ているし、中には古雑誌を学校に持ってきて売っている奴もいる」
「そ、そうなんだ…はぁ…」
皆すごいんだと感心しながら、レイフは胸を手で押さえ、溜め息をついた。
「クリスターは…そういうの平気なのかよ?」
「だって、ただのグラビアじゃないか。本当に裸の女の人に抱きつかれでもしたのなら、ともかく。それに、スタイルがいいだけなら、うちの母さんなんか、今でもそこいらのモデルに負けないと思うよ」
「ば、馬鹿、母さんを巨乳モデルと一緒にするなよ! 家に帰った時に想像したら、どうしてくれるんだっ」
ひいっと叫んで青ざめて、それこそムンクの『叫び』にそっくりなポーズで身をよじるレイフに、クリスターは口をすぼめた。
「そうだ、レイフ、僕は今日も放課後にちょっとだけカウンセリングルームに寄るから、クラブには、おまえ一人で先に行っててくれ」
コーヒーを飲みながら、思い出したようにそう言うクリスターに、レイフは不服そうに眉を寄せた。
「また、カウンセリングルームかよ。ここの所、しょっちゅうじゃないか。そんなに、あのアイヴァースって先生が気に入ったのかよ。前のジーン先生の時は、一度もカウンセリングになんか行かなかったのに。大体、あのインテリ先生相手に、何を話してるんだよ」
「レイフには興味のないだろう話だよ。心理学とかセラピーとか、先生の専門の分野ことを色々聞かせてもらっているんだ」
「ちぇっ、クリスターは、セラピストにでもなる気かよ。オレと一緒にフットボールの選手になるんじゃないのかよっ」
ぽっと出の新任カウンセラーなんかに兄を取られたようで、レイフは悔しかった。しかし、そんなレイフをクリスターは慰めるふうもなく、椅子から立ち上がった。
「さあ、そろそろ午後の授業が始まるよ、レイフ」
午後は選択授業で、レイフとクリスターは別になる。それに、能力別クラスでトップの成績を独走中のクリスターは、数学と語学では既に高校生レベルのものを学んでいて、年を追うごとに、彼ら双子兄弟が共有できるものはどんどん少なくなっていた。
「やだな」
「えっ?」
楽天的なレイフも、時には不安で落ち込んだ気分になる。兄に置いていかれると思った時だ。
「何でもない。クリスターのことなんか、知るもんか。勝手にアイヴァースのところでカウンセリングでも何でも受けたらいいんだっ」
癇癪玉を爆発させて、椅子からいきなり立ち上がると、レイフはクリスターをその場に残して駆け出した。これが小学生の頃なら、こんな時、クリスターは慌ててレイフを追いかけてきた。
しかし、クリスターがレイフの後を追ってくることは、もうなかった。
双子ももう十三才の大きな中学生になっていたのだから、仕方がなかった。
放課後、クリスターがカウンセリングルームを訪れた時、アイヴーァスはそこにいなかった。約束の時間だというのに、どこに行ったのだろう。扉の鍵は開いていたので、クリスターは、勝手に中に入って待たせてもらうことにした。
クリスターがここを度々訪れるようになって、もう半月以上になる。しかし、アイヴァースの態度は、相変わらず事務的で、いっかな打ち解けてはこない。だからと言って、クリスターの訪問を拒むわけではなく、彼が思いつくまま話すのに耳を傾けてはくれた。もっとも、それは、大抵たわいのない雑談ではあったのだが。
(全く、あのやる気のないカウンセラーは、どこに行ったんだろう)
クリスターは、ちょっとイライラしてきた。初めはソファにおとなしく座って待っていたのだが、退屈だったので、立ち上がって本棚にずらりと並んでいるアイヴァースの蔵書を物色し始めた。
(こんなにすごい専門書をただ飾っておくだけで、実際にはセラピストとしての仕事などとっくに放棄しているくせに…)
それとも、こんな本を傍に置いておくということは、自分がかつて情熱を燃やした仕事に対して未練なりこだわりなりが残っているからだろうか。
クリスターは、それらの本を取り出してはぱらぱらとめくってみながら、頻繁に会って話すようになっても未だに本心の見えてこないアイヴァースについて、思いをめぐらせていた。
「あっ…」
一冊の古びた心理学の本を何気なく紐解いていた時、クリスターはページにはさまれていた一枚の写真を見つけた。アイヴァースが一人の若者と一緒に写っている。一体誰だろう。とても親しげに寄り添いあって。しかも、アイヴァースの顔には、クリスターが見たことのない明るい笑みがたたえられていた。
クリスターは写真を取り上げて見つめながら、ゆっくりと息をした。何気なく裏返してみて、彼ははっとなった。写真の裏には、乱れた字体で一つのメッセージが走り書きされていたのだ。
『僕は、あなたにとって、悲しむべき失敗例だったのかな、デイビッド』
失敗例?
クリスターは再び写真を表にして、そこに写っている2人、アイヴァースと謎のメッセージを残したと思しき若者を凝視した。若者もアイヴァースと同じように笑みをうかべているが、その表情は、どことなくぎこちないもののようにクリスターの目には映った。カメラに向かって作り笑いをしているような。
その時、この部屋に向かって近づいてくる足音が聞こえた。クリスターは、一瞬迷ったが、写真をポケットの中に入れ、アイヴァースの本はもとの場所に戻した。
「クリスター、来ているのか?」
アイヴァースの声がし、扉が開かれた。クリスターは、本棚の前で固い表情で立ち尽くしていた。
「どうした、そんな恐い顔をして」
「…約束の時間はとっくに過ぎていますよ」
時間に遅れたことを怒っているのだということにして、クリスターは己の動揺を押し隠した。
「それは、失礼なことをしたね、クリスター」
謝るのは口先だけで、本当は少しもすまなくなど思っていないくせに。クリスターは、くっきりと形の綺麗な眉を僅かに吊り上げた。
アイヴァースはいつものようにコーヒーを煎れて持ってきた。クリスターにはブラックで、自分のものにはブランデーをたっぷり注いで。
めったに話を振ってきたり自分から質問したりしないアイヴァース相手に話しかけるのは、もっぱらクリスターの方だった。さもないと、セッションの間中、気の重い沈黙が流れることになってしまうだろう。
そして今日の話題は、なぜかクリスターの家族のことになっていた。
「…だから、父さんは僕達兄弟がフットボールをやるのをすごく喜ぶんです。昔から、試合がある時には、仕事も放り出して応援に駆けつけてくれて…レイフが将来はプロになるなんて言うと涙ぐまんばかりにまた喜んで、いつまでも子供みたいなところがある人なんですよ。レイフの性格は、そんな父さんに似たんでしょうね。僕も父さんのことは好きですよ。ただ、物事を単純に表面的にしか捉えられない人だから、何でもかんでも父さんに打ち明けて相談するわけにはいかないけれど。父さんは僕達を宝物みたいに大事に思って愛してくれるけれど、理解してくれているかというと、そうじゃないんです」
「成る程ね。では、君のお母さんも、やっぱり君のことを理解できないのかな」
「いえ、母さんは、その点、口には出さないけれど分かってくれていると思います。僕らの母さんは、時々どうして結婚したんだろうって思うくらい、父とは対照的に物静かで、聡明な、目から鼻にぬけるような人なんです。結婚と出産のために大学での研究をあきらめることになったけれど、もともと、とても優秀な化学者の卵だったんです。そのせいか、僕らに高い教育を受けさせることには熱心ですよ。僕はどちらかと言うと、母さんとうまがあう気がします」
「そのお母さんになら、では、君は何でも相談できるのではないのかな?」
「僕が話せば、どんな悩みでも母さんはびっくりもせずに聞いてくれるし、分かってくれるだろうと思います。でも、僕自身が、そんな弱くて情けない姿を母さんに見せるのが、たぶん嫌なんです。僕はいつもしっかりしているし、大丈夫なんだって、思っていて欲しい」
「父親には分かってもらえない、母親にはよく見られたい、か。それでは、弟のことは、どう思っているんだい、クリスター?」
「大好きです」
思わず即答してしまった後、クリスターは口をつぐんだ。珍しくもクリスターに自分から質問らしい質問をしてきたアイヴァースを、探るように見つめた。
「どうした?」
クリスターは、何となく面白くなかった。アイヴァースに対して、クリスターだけが自分のことを打ち明ける、質問されたらそれに素直に答える。一方で、アイヴァースは少しも自分のことを話さないし、心も開こうとしないのに。
「ゲームをしませんか、先生」
クリスターの琥珀色の瞳が、挑戦的な光をたたえて、くるめいた。
「ゲーム?」
「ええ、まず僕が先生の質問に答える。その後で、今度は先生が僕の質問に答える。答えるのが嫌なら答えなくてもいい。でも、自分が知りたい秘密を相手から聞き出すには、自分も相手の好奇心を満足させなくてはならないんです」
アイヴァースの顔がふっと翳った。彼はたぶんこんな子供じみた提案など拒否するだろうとクリスターは思った。しかし―。
「分かったよ、クリスター。ただし、答えたくない質問については、お互い答える必要はないということだね」
クリスターは、正直びっくりして、信じられないように、アイヴァースのどことなく楽しげな表情に見入った。
「君が質問してもいいよ、クリスター。今まで君は私に色んな話を聞かせてくれたからね」
クリスターは、不覚にも頬が赤らむのを覚えた。気を取り直し、呼吸を整えると、ずっと胸の中に抱え込んでいた問いをアイヴァースに投げかけた。
「どうしてセラピストの仕事をやめたんです?」
息を詰めて待ち受けるクリスターの前で、アイヴァースは愛用のシガレットケースからタバコを取り出して、火をつけた。煙草の煙を深く吸い込み、しばし己の思索にふける様子だった。
そのしなやかな手に、クリスターは注意を引かれた。これもずっと気になっていることなのだが、老人のような無意識の震えを示す指先は、病的なものでないとしたら、何なのだろう。確か、ある種の薬物の副作用にもパーキンソン病に似た症状を示すものがあったはずだ。
「私も、かつて理想に燃えた精神科医だった」
アイヴァースが淡々と語り始めるのに、クリスターの考えは中断された。
「病み、傷つき、悩んで助けを求めている子供達を救うことが私の使命だと考え、この道に入った。がむしゃらにやってきて、少しずつだが私の仕事が世間に認められるようになった。たくさんの子供達を診てきたよ。どの子に対しても、私はやれるだけのことをやった。それなりの成果をあげ、小児専門のセラピストとして表彰も受けた。大勢の子供達はよくなった。しかし、すべてが成功だった訳じゃない。私の手にも負えない、重い精神疾患にかかっていた不幸な子供も中にはいた。一番口惜しいのは、私が治療の継続を望んでも、親がそれを望まなかった場合だ。それに、私自身も完璧ではない。時には治療の仕方や判断を過つこともあった。そんな子供達の悲惨な姿を私は忘れることができない。はるかに多くの成功例に目を向け、忘れようとしても、どうしても、それら哀しい失敗例の子供達の存在は、私の心に亡霊のように取り付いて、離れてはくれない。重くて、重くて…他人の心を癒すセラピストとしてはもう限界にきてしまったのだと思うよ」
「失敗例…」
クリスターは、ポケットに隠した、あの写真を思い出した。アイヴァースを『デイビット』と呼んだ、あの若者は何者なのだろう。
「クリスター」
名を呼ばれて、クリスターは慌ててアイヴァースの方を振り返った。
「今度は、私が君に質問する番だよ。いいね?」
「は、はい」
クリスターは、つい緊張して、身構えた。アイヴァースはタバコを灰皿に押し付けると、ソファの背にゆったりと身を預けるようにした。
「クリスター、君は、生まれてからこれまで、弟と離れ離れになったことはあるのかい?」
ちょっと予想外の質問に、クリスターは目をぱちぱちさせた。
「僕達が離れ離れになったことですか?」
クリスターは首を傾げて、考え込んだ。
「僕達は…小さい時からいつも一緒で片時も離れたなどなかったけれど、そうですね、それでも、一度だけ離れて生活をしたことがありました。ほんの半月足らずのことだけれど、弟なしで暮らしたことは、あれが初めてで…とても辛くて不自由なものでしたよ」
「どうして、そんなことになったのかな?」
「父さんと母さんが大喧嘩をしたんです。いつもはすごく仲のいい夫婦なのに、父さんの馬鹿が一度だけ浮気をして、それがばれて…怒った母さんは、僕を連れてコネティカット州の実家に帰ってしまったんです。でも、レイフのことは、父さんが離してくれませんでした。僕達が十一才の冬休みでした」
クリスターは、ふっと遠い目になって続けた。
「別に祖父母の家で暮らすことは初めてじゃなかったし、母さんもいてくれたわけだけれど、レイフがいないことに、僕はどうしても慣れることができなくて落ち着かなくて…それどころかどんどん精神的に不安定になっていったんです。心と体の半分をどこかに置き去りにしてきたようで、何を見ても聞いても、分厚い硝子越しに接しているようで実感が沸いてこなくて…僕は一体どうしてしまったんだろうって恐くなりました。それが、ある日電話をかけてきたレイフの声を聞いた時に、分かったんです。レイフを取り戻さないといけない、でないと、僕は本当におかしくなってしまうって。その後すぐに、僕は家出をしました」
「家出?」
「ええ、母の実家を逃げ出して、一人で長距離バスに乗って、レイフがいる家に戻ろうとしたんです」
クリスターはにっこりした。
「僕は年の割に体も大きかったから、別に一人でバスに乗っていても、昼間ならそれ程不自然じゃなかったけれど、さすがに長距離を移動するバスとなると家出少年だと疑われそうで冷や冷やしましたよ。でも、やらないわけにはいかなかったんです」
アイヴァースは、もはや口を挟むこともなく、クリスターにじっと見入ったまま、彼が語ることに耳を傾けている。
「あの場所はどこだったんだろう、距離的には半分くらい過ぎていたと思う。冬のことだから、日が暮れるのも早くて、もう真っ暗になっていました。バスがサービスエリアでとまっていた時のことです。窓の外には同じようなバスが一台とまっていました。僕は窓際に座っていたんだけれど、その時、何かにくいっと引っ張られたような感じがして、窓の外を見たんです。すると、そこにとまっているバスの窓に、僕の方を同じように振り返ってびっくりした顔をしている男の子がいたんです。見つけた瞬間に、僕は荷物を引っつかんで、バスの外に飛び出しました。隣のバスからも、やっぱりその男の子が血相を変えて飛び出してきて…レイフだったんですよ。レイフも僕と同じことを考えて、実行に移していたんです。僕に会うために家出をして、祖父母の家に向かう途中だったんです」
勝利を告げるラッパのような誇らしげ声で、クリスターは言った。
「僕達は抱き合って、サービスエリアの駐車場でわんわん泣いて再会を喜びました。あの時の感動はちょっと言葉にできないくらいで…割れてしまった皿の半分がぴたりと継ぎ目なくあわさった、そんな感じで…父さんや母さんが何をしようが、僕達はもう離れないって誓い合ったんです。それで、これからどうしようかって話になって…家に帰ったら、また引き離されるかもしれない。二人でどこかに逃げようって決めました。僕達はしばらくサービスエリアのカフェにいたんだけれど、夜遅くだというのに子供達だけでいることを怪しまれて、捕まえられそうになったところをまた逃げ出しました。それで、ハイウェイ沿いの野原を一晩さ迷って…早朝、疲れきって動けなくなったところをパトロール中の警官に保護されたんです」
クリスターは、何か激しいものが胸の奥から込み上げてきたかのように言葉を切った。
「君達は、どこに行くつもりだったんだい?」
どことなく呆然としたアイヴァースの問いかけに、クリスターは半ば夢見るように呟いた。
「それは分からないけれど、たぶん…」
「たぶん?」
「行けるところまで行ってみようと…二人一緒にいられる場所が見つかるまで…世界の果てまでも…」
クリスターは黙り込んだ。彼の心は、レイフと一緒にさ迷った冷たい冬の夜に引き戻されていた。寒くて凍えそうになりながらも、心は温かい幸福感に満たされていた。世界から隔絶された、どこまでも広がるかに見えた平原のただ中で立ち尽くしながら、しっかり手をつなぎ合った弟の存在だけをクリスターは感じていた。
アイヴァースがライターでタバコに火をつける音に、クリスターはやっと現実に戻った。
「アイヴァース先生…」
アイヴァースが自分の告白について何と言うのか、クリスターは息を詰めて待ち受けた。
アイヴァースはタバコをふかしながら、しばし考え込んでいたが、やがてふっと笑って、軽くかぶりを振った。
「もう時間だよ、クリスター」
クリスターの顔に激しい落胆がうかんだ。アイヴァースは、とことん彼に対して無関心を通す気らしい。今の話にはかなり心を動かされたはずなのに、関わりを持つことを恐れている。
(この卑怯者…!)
クリスターはぎりっと歯噛みをした。
だが、アイヴァースは素知らぬふうを装ってタバコを吹かすばかりで、クリスターを見ようともしない。
クリスターは、腹立たしげに立ち上がった。そして、アイヴァースのデスクに近づくと、そこにあった予約表に、いつもどおり自分の名前を書き込んだ。
「子供相手に、何をそんなに恐がっているんです?」
クリスターの挑発にも、アイヴァースは乗ってこなかった。
クリスターはついに諦め、カウンセリングルームを出て行った。
部屋の外で、ほっと息をついたクリスターは、ポケットの中から、例の写真を取り出した。謎めいたメッセージを残した若者の顔を、問いかけるかのごとく見つめた。
(ここに写っているアイヴァース先生は、今とは全く違って見える。どうして、彼があんなふぬけになってしまったのか、この写真に隠された秘密を探れば何か分かるかもしれない)
そうして、クリスターは、探偵をすることを決意した。