ある双子兄弟の異常な日常 第二部
第1章 危険なゲーム
SCENE4


 アイヴァースに見破られたことを除いては一応成功した身代わり作戦をレイフにバトンタッチした後は、クリスターは子供同士の喧嘩のようなつまらない問題は脇に押しやった。今、彼の頭を占めているのは、アイヴァースのことだった。
 愛読していた本の著者であるということで、アイヴァースには、クリスターはもともと興味を持っていた。下手をすれば親でさえ騙されてしまうクリスターの芝居に、アイヴァースだけが気がついた。何よりも、クリスターが漠然と抱いていたアイヴァースのイメージとは違う、とてもやり手のセラピストには思えない、他人に対して無関心な心を閉ざした態度に腹が立った。
(あれが本当の性格なら、とても子供相手のセラピーなんてできるはずがない。本から受けた印象では、信頼できる専門家で、仕事に対する情熱に溢れていて…それが会ってみたら、あんなふぬけだったなんて、がっかりだ)
 レイフの手前、自分がアイヴァースに軽くあしらわれたなどとは、クリスターは口が裂けても言えなかった。弟ときたら、クリスターが見事に作戦を成功させたのを、やっぱり兄貴はすごいと無邪気に褒めまくるのだから。
「アイヴァース先生、クリスター・オルソンです」
 クリスターがカウンセリングルームに入ると、タバコのにおいが彼の鼻を突いた。
 デスクに座ってゆったりとタバコをふかしていたアイヴァースは、クリスターの顔を見ると、ふっと苦笑いをした。
「本当に来たのか」
「…退屈そうですね」
「ここは、とても平和な学校だからね。昨日起こった喧嘩と苛めくらいだよ、私が赴任してから問題らしい問題が起こったのは。カウンセリング希望の生徒も、まだちらほらと言ったところだ。新任のカウンセラーがどんな人間なのか、まだ様子をうかがっているところなのかな。まあ、どうせ、進路についての相談や、友人関係、恋の悩み、もっと深刻なものでも苛めや両親の離婚など家庭環境の問題、その程度のものだからね、私が扱うのは。それ以上は、学校ではなく、ケースワーカーやもっと専門的な施設の担当だから」
 クリスターがカウンセリングにやってきたのに、まだアイヴァースは悠然とタバコを吹かせている。クリスターは不愉快そうに顔をしかめた。
「学校内は禁煙のはずですが」
「だから?」
 アイヴァースは少しも悪びれず、口からタバコの煙をふっと吐き出した。
 その姿を睨みつけながら、クリスターはふとあることに気がついた。タバコを持つアイヴァースの指先が微かに震えている。別に緊張のためでも意識的にそうしているふうでもない。そう言えば、去年亡くなったクリスターの祖父の手も同じようにいつも震えていた。祖父の場合はパーキンソン病の症状だったが、まだ若いアイヴァースが同じ病気を患っているとは考えにくい。
「そこに座ってもいいよ、クリスター」
 アイヴァースはやっとクリスターにソファに座るよう促すと、タバコを灰皿に押し付けて、立ち上がった。
「コーヒーを飲むかい?」
「お願いします」
 アイヴァースは隣の部屋でコーヒーを煎れて、持ってきた。
「砂糖とミルクは?」
「ブラックで」
 本当はミルクとコーヒーを半々で割って砂糖も少し入れたのが好みなのだが、クリスターはつい大人ぶってしまった。
 アイヴァースはテーブルの上にカップを置くと、デスクの方に戻り、引き出しから小さなブランデーのボトルを取り出した。目を真ん丸くするクリスターの前で、アイヴァースは自分のコーヒーの中にどくどくとブランデーを注いだ。
「学校内でタバコを吸ってお酒も飲む先生なんて、聞いたことがない」
「コーヒーに香り付け程度に入れるだけだよ」
 香り付けという量ではなかった気がするけれど。ブランデー入りのコーヒーをすました顔で飲んでいるアイヴァースに、クリスターは呆れ返った。
「それなら、僕にも少し入れてくれませんか、ブランデー」
「子供には駄目だよ」
 クリスターは正直カチンときたが、ここで怒ってみせるのもそれこそ子供じみていたので、ぐっと堪えた。
 アイヴァースと向き合って黙ってコーヒーを飲みながら、クリスターは己の中で緊張が高まってくるのを意識した。
 アイヴァースは全く落ち着き払っている。クリスターがいようがいまいが、どちらでも構わないといった風情だ。それにしても、アイヴァースは、年のころはクリスターの父親とそれ程変わらないはずだが、タイプは全然違っていた。高い教育を受けたインテリ学者。単純明快な父親のラースと違って、見るからに知性的で、性格も複雑そうだ。どちらかというと母親のヘレナに近い人種かもしれない。
「アイヴァース先生」
 ついに沈黙に耐えかねたように、クリスターは口を開いた。
「あなたの本を読んだことがあると、僕は言いましたよね」
「ああ。私は、児童書を書いた覚えはないのだがね」
 クリスターは、奥歯をぐっと噛み締めた。
「心理学に興味があるんです。あなたの本で、初めて手に取ったのは、問題行動繰り返す双子の姉妹について書かれたものでした。それで、他の著作にも興味を抱いて、読み漁って…とても強い印象を覚えました。内容もよかったけれど、あなたのこの分野に対する熱意が伝わってくるようで…」
 アイヴァースは、ちらりとクリスターを見やった。その目は、相変わらず無関心なままだった。
 クリスターは、胸の奥から抑えようのない怒りがせり上がってくるのを感じた。
「どうして、そのあなたが…天職を捨てて、スクールカウンセラーなんかになったんです? あなたの患者達はどうなったんです?」
「クリニックはこの一年ほど開店休業状態でね」
 怒りに燃えた目で睨みつけてくるクリスターに、アイヴァースは軽く肩をすくめてみせた。
「君の期待を裏切って悪いが、私は以前のような情熱を仕事に対して燃やさせなくなってしまったんだ。この仕事をやる者にはよくあることだ。燃え尽き症候群という奴さ。仕事を投げ出して、のらりくらりしていたが、さすがに全く収入を断たれては困るので、この学校のカウンセラーの募集に飛びついたんだ。校長のミスター・プリルは私のかつての名声を知っていたので、学校勤めの経験がなくても私を雇ってくれた。私もここなら、まあ、そこそこやれそうな気がするよ。もう心に傷や病気を抱えた子供に関わるのはごめんなんだ。ここは幸い、荒れてもいない、とても平和な中学校だからね。私も気楽に仕事ができるというものさ」
「退屈じゃないんですか? ここは、あなたのようなプロが能力を発揮できる場所だとは思えない。あなたがこれまで積み上げてきた実績を考えると―」
 アイヴァースの顔に、初めて感情らしいものがうかんだ。ひどく苦いものだった。
「私の仕事や研究はそれなりの成果をあげたんだろうがね。しかし、実際には、皆が思っているような、たいしたものじゃなかったんだよ。親を含めた周りの大人達にはどうしてやることもできず、傷ついた心を抱えて助けを求めている子供達に、私は救いの手を差し伸べ、それなりに成功はした。しかし、全てが成功だったわけじゃない」
 アイヴァースの口調にこもる忌々しげな響きに、クリスターははっと息を呑んだ。
「アイヴァース先生…」
 一瞬気持ちを昂ぶらせたアイヴァースは、クリスターの呼びかけに、我に返ったようだ。その顔は、再びもとの無表情な仮面に戻った。
「幻滅しただろう、クリスター」
 アイヴァースはジャケットのポケットからシガレットケースを取り出すと、クリスターに断りもせずにタバコに火をつけた。
「さて、セッションの時間は終わりだよ」
「カウンセリングらしいこともしなかったくせに」
「君は、別に私のカウンセリングなど受けたかったわけじゃないだろう。ただの冷やかしだった」
 アイヴァースはソファの背にもたれかかるようにして、クリスターを眺めながら、皮肉に口元を歪めた。
「私も、子供相手に無意味なおしゃべりをしたい気分じゃないんだ。それに、校長にも呼ばれている。アルビンに対する苛めの件でね」
 出ていけとのあからさまな意思表示に、クリスターは悔しげに唇を噛み締めた。
「アイヴァース先生、僕は冷やかしのつもりでここに来たわけじゃない」
 クリスターは視線を床の上に落とし、しばし逡巡した後、言った。
「例えば、こんな話をあなたに聞いてもらいたかったんです。以前僕が母親の蔵書の中で見つけた本のことです」
「君の読書感想など聞く時間はないよ、クリスター」
 クリスターは、構わず続けた。
「プラトンの『饗宴』という本なんですが、先生は読まれたことはありますか?」
 古代ギリシャ哲学の本など持ち出すクリスターを、アイヴァースは怪訝そうに見つめた。
「その中に、こんな話があるんです。昔、神々の時代の人間は今のような姿ではなく、倍の大きさと力を持ち、一つの体に男と女、男と男、あるいは女と女と二つの性を持っていた。ところが人間達の驕慢さに怒ったゼウスの神は、罰としてそれら人間達の体を二つに引き裂いてしまう。かくして、人間は今のような一つの性だけを持つ体になったというんです」
 クリスターは、寒気を覚えたように、己の体に腕を回した。
「ところが、本来一つの体を断ち割られた人間達は、皆自分の半身を求めて一緒になってしまうんです。そうして、再び己が半身と一心同体になろうとしてかき抱きまつわりあって、他のことは何一つしなくなってしまう。相手と抱き合うこと以外はしたくなくなっていつまでも離れようとはせず、生きるために必要なことも放棄して、ついには飢えて死んでしまうんです」
 語りながら、クリスターは、額にうっすらと冷たい汗がうかんでくるのを意識した。どうしようもない震えが足元からじわじわと全身に広がっていくのを、必死で抑えていた。
「その話を読んだ時、僕はとても恐くなったんです。何度も夢に見て、うなされて…忘れようとはしたけれど、この恐怖感からは逃げられなくて…だって、まるで僕達のことが書かれているみたいだったから…」
 込み上げてきた吐き気を堪えるように、クリスターは口元を押さえた。実際、彼は真っ青になっていた。
 クリスターが顔を上げると、アイヴァースが彼を正面からじっと見つめていた。先程までの投げやりな感じは影を潜め、眼鏡の下で僅かにみはられた瞳は鋭く、真剣そのものだ。しかし、クリスターがそう思ったのも束の間、アイヴァースは自嘲するように笑うと、これ以上クリスターの話を聞くことを恐れるかのごとく顔を背けた。
「時間だよ、クリスター」
 アイヴァースは顎をしゃくって、後ろのデスクの上にある予約表を示した。
「その話以外にも何かあるのなら、次の機会に聞こう」
 クリスターは失望感を隠し切れずに溜め息をつくと、立ち上がった。それでも、アイヴァースに言われたように次のセッションの予約を取ると、短く礼を言ってカウンセリングルームを出て行った。
 アイヴァースの注視が背中に注がれているのを意識したが、振り返って確かめたい衝動を、クリスターは最後まで抑え続けた。



 クリスターが家に着いた頃には、もう夕方に差し掛かっていた。
「レイフ?」
 テレビの音声が聞こえてくるリビングを覗き込むと、案の定、レイフがテレビをつけっぱなしにして、ソファの上でうたた寝をしていた。足元には柔道の胴着の入ったリュックが二つ。今日は近くの柔道教室に行く日で、クリスターを待ちながら寝入ってしまったのだろう。
「先に行ったらいいのに、今からじゃ間に合わないよ」
 クリスターは溜め息をつくが、本当は少し嬉しかった。
 レイフの眠るソファの前に膝をつくと、彼は弟の寝顔を覗き込んだ。レイフの眠りはいつも深い。悪夢にうなされて起きてしまうなんてことも、彼にはないのだろう。
(僕は、アイヴァース先生に、今まで誰にも話したことのない、あの秘密を打ち明けたけれど、それでも、一つだけ彼にも黙っていたことがあるよ)
 幸せで健康そのものの弟の寝顔を見つめながら、クリスターは胸のうちで囁きかけた。
(あの神話めいた話は僕をとても恐がらせたけれど、半身と抱き合って一つになったまま飢えて死んでしまった人間達を哀れとも思ったけれど…同時にこんなふうにも感じたんだ。それでも、彼らはたぶん幸せだった、失われた半身を探して世界中をさ迷い歩くよりかは、ずっと満ち足りた人生だったんだって)
 レイフが小さく寝言を言ったので、それを聞き取ろうとクリスターは顔を近づけた。暖かいレイフの吐息がかかるのに、クリスターは目を細めた。ふと、レイフの濡れた唇や血色のいいつやつやした頬に、触れてみたくなった。幼い頃は、クリスターとレイフはよくくっついて眠っていたのだ。レイフの肌の感触や匂いは、今よりもっと近かった。
 クリスターが弟の上にそっと身を屈めようとした、その時、玄関で鍵をあける音がした。
「クリスター、レイフ?」
 仕事から帰ってきた母親のヘレナの声だった。
「今日は柔道教室のある日でしょう、まだ家にいるの?」
 クリスターは、慌ててレイフの眠るソファから飛びのいた。ひどく後ろめたい気分で呆然とクリスターが立ち尽くしていると、レイフがうーんと伸びをして目を覚ました。
「あ、あれ…クリスター、帰ってたんだ…ああっ、もうこんな時間だ! 柔道教室、早く行かないと!」
 レイフは、瞬時にソファから飛び起きた。
「もう、クリスターの帰りが遅いからだよっ。今まで何してたんだよっ」
 慌てふためいて上着とリュックを引っつかみ、早く早くと急かす弟に、クリスターは動揺を押し隠しつつ、黙って従った。 


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