第5章 Blanc de Blancs


 オペラ・ガルニエ。
 パリに暮らすようになって、その有名な劇場の傍を通り過ぎることはルネも何度かあったが、実際中に入るのはこれが初めてだった。
 聞きしに勝る豪華絢爛な内装に、ルネはしばしおのぼりさんと化して、興味津々辺りを見渡しながら、ドレスアップしたご婦人方や粋な紳士達に混じって、ホールに続く大階段を上っていく。
(わぁ…誰が作ったのか知らないけど、お金かかってそうだなぁ)
 美しく彫刻の施された柱、優美な彫像、大階段を上っていく観客達を照らし出す巨大なシャンデリア―つい口をぽかんと開けて見惚れているルネを傍らから伸びてきた手が軽く小突いた。
「おい、ルネ、きょろきょろと他所見ばかりしていると階段から足を踏み外すぞ」
「あ、すみません、ローラン。あんまり見事な内装なので、今度母さん達がパリに遊びに来たらここも見学に連れて来て上げようとか考えて、ぼんやりしてしまいました。駄目ですね、油断するとつい田舎者の地が出てしまう」
 恥ずかしそうに答えるルネに、ローランは柔らかく目を細めた。
「今のお前を見て、垢抜けないとか田舎臭いとか思う奴がいるものか。身なりだけでなく、言葉づかいもマナーも、今ではどこに連れて行っても恥ずかしくないと俺も思っている。全く、僅か数ヶ月の内によくここまで変身できたものだ。おまえを秘書にした俺の目に狂いはなかった訳だが、まずは俺の期待にひたむきに応えようとしてきたお前の努力を褒めるべきだろうな」
「そ、そうですか…あなたに評価してもらえて嬉しいです。今夜は、この間新調したばかりの勝負スーツをおろして、いつも以上に身だしなみにも気を使いましたし…」
 ローランにつき従うようになってそれなりに社交の馬数は踏んできたものの、こうした華やかな場に出るとまだ少しルネは気後れしてしまう。
 そんな彼の緊張を解きほぐそうとしているのか、今夜のローランは優しかった。
「髪もカットしてもらったのか?」
「はい、昨日あなたと話した後で慌ててトニーさんに電話を入れて…無理を言って、仕事帰りに彼のヘアサロンに飛び込んだんです」
 もっとも、別にルネは、オペラ鑑賞のためだけにここまで気合を入れている訳ではない。  
 オペラの後、ルネはローランに2人きりで話せる時間を取ってもらっていた。その時こそ、ローランにこれまで黙っていた秘密を打ち明けるつもりでいた。
 どうかローランが自分の話を聞いて驚きませんように。騙されたと怒ったり、これまでとは違う目で自分を見るようになったり、余所余所しくなったりしませんように―それは、ルネにとって、一世一代の恋の勝負となるはずだ。 
 ルネがそこまで思いつめていることなど知らぬだろうローランは、いつまで経っても初々しさの抜けない、美しい恋人に満足そうに頷きかけた。
「そのタイピンも、つけてきたんだな」
ローランはルネのネクタイに指を滑らせながら、囁いた。
「ええ、あなたから初めてもらったクリスマス・プレゼントですし、大切に使わせてもらいます」
「よく似合っているぞ」
 今夜ルネが身につけている、シルバーに琥珀の入ったタイピンとカフスは、休暇に入る前ローランからクリスマス・プレゼントとしてもらったものだ。よく見れば凝った細工がされているが、若いルネがつけてうかないさり気なくおしゃれなデザインと温かみのある琥珀の色合いが気に入っていた。
 ちなみにルネは、粋なデザインのウォーターマンの限定モデルのペンをローランにプレゼントした。ネクタイやタイピンはルネも考えたが、趣味にうるさいローランに喜んでもらえる装飾品を選ぶほど自分の目に自信はなかったので、実用的な筆記用具なら無難だろうと思った訳だ。
「しかし、オペラ鑑賞くらいで別に肩肘張ることはないんだぞ。まあ、確かにこの劇場のエントランスの豪華さには圧倒されるかもしれないが、講演の内容は他所と変わらない。おまえが学生時代に観たというオペラと同じようなものだ。あまり覚えていない所を見ると、おまえの気には入らなかったようだが…今回は少なくとも席はいいから、記憶に残る程度には楽しめるんじゃないか?」
 誘ってもらった手前、別にオペラ鑑賞はどうでもいいとは言えず、ルネはいかにも乗り気な顔をした。
「僕もせっかくだから楽しもうと思って、昨夜ネットで『ラインの黄金』の予習はちゃんとしてきたんですよ。あんまり前衛的な演目だったら困るところですけど、北欧神話なら子供の頃読んだ覚えもありますし、結構面白そうだと期待しています」
 そんなふうにローランとにこやかに言葉を交わして階段を上がっていく途中、ルネは、傍にいた数人の男女がちらちらとこちらに目をやっているのに気がついた。
 初めは、今夜も見事に洗練された容姿で人目を引くローランがいるからだろうと注意を払わなかった。しかし、彼らの視線の理由は別にあることは、やがて明らかになった。
「そうか、今度おまえの両親がパリに遊びに来るのなら、またオペラのチケットを押さえてやってもいいぞ」
「ありがとうございます。そうですね、2人の希望を聞いて…またお願いするかもしれません」
 開演までまだ少し時間があった。
 ルネとローランは、天井からつり下がった凝った造りのシャンデリアや天井画が美しく煌びやかなサロンで、シャンパンを飲んでいた。すると、エレガントな装いの上品なマダムが、2人に声をかけてきた。
「ボンソワール、ムッシュ・ロスコー、ムッシュ・ヴェルヌ…お会いできて嬉しいですわ」
「あ…ボンソワール…?」
 記憶力には自信があるはずのルネだが、どう考えても、このマダムにどこかで会った覚えはない。
(待てよ、今、彼女は僕のことを『ムッシュ・ロスコー』と呼ばなかったか…?)
 案の定、マダムはルネを別の誰かと間違えているようだった。ルネに会えて嬉しくてたまらないというように満面に笑みをたたえながら、更に言葉を継いでくる。
「ムッシュ・ロスコーの麗しい姿がパリから消えてしまって以来、ずっと寂しい思いをしておりましたのよ。ですから、先日久々にテレビ出演なさったあなたを見てどんなにか安堵しましたし、あの堂々たる宣言には、さすがアカデミー・グルマンディーズの新主宰と胸がすくような気持ちになりましたわ。ええ、主人ともども応援しております。来週の定例会、ぜひとも成功させてくださいね」
 今にも自分をかき抱いてキスせんばかりのマダム相手にルネが困惑していると、横合いから、近くにいた老夫婦が同様の挨拶をしてくる。
「ボンソワール、ムッシュ・ロスコー、定例会の模様が発表されるのを今から楽しみにしておりますよ」
 ルネは呆然と立ち尽くしてしまった。
(ああ、やっぱり皆、僕をムッシュ・ロスコーと勘違いしている。自分とローランのことで頭が一杯だったせいで、迂闊なことに、そこまで気が回らなかった…! 今夜は定例会の準備があって来られなかったけれど、もともとムッシュ・ロスコーはオペラ座の常連客なんだろう。そのチケットを譲ってもらって今夜ここに来た僕は、そのムッシュ・ロスコーに外見はそっくりで、おまけに『大天使の影』と言われるローランまで一緒にいる。いつも以上に、間違えられても無理はない状況なんだ)
 即座に状況を理解したものの、自分のことをすっかりガブリエルだと思い込んで、恭しく丁寧な態度で接してくる紳士淑女相手に、どう応えたらいいのだろう。
 その時、曖昧な笑顔を浮かべたまま固まっているルネをさり気なく後ろに庇い、じりじりと周囲を取り囲むよう集まってくる人々の前に進み出たのは、ローランだった。
「ボンソワール、マダム・バロー…確か、サル・プレイルで今年の四月に開かれた、パリ管弦楽団のコンサートでお目にかかって以来ですね。あの時ご一緒だったお嬢さんはお元気ですか? 確か、国立高等音楽院でピアノを学ばれていた」
「あら、あなたに覚えてもらっていたと知ったら、娘は喜びますわ。生憎、今夜は同行しておりませんが…ムッシュ・ヴェルヌとムッシュ・ロスコーの2人にお目にかかれたなんて知ったら、きっと羨ましがるでしょうね!」
 ローランは真正の同性愛者だが、その魅力は女性に対しても有効なようだ。恭しく手を取られ、強い光を放つ緑の瞳に見つめられた婦人は一瞬でルネの存在を忘れ、淑女の嗜みを超えない範囲でだが、嫣然とローランに微笑み返した。
「ガブリエルは、何しろ定例会が間近なため、今夜の観劇は控えるつもりでいたんですが…少しは気分転換も必要だろうと俺が強引に引っ張りだしたんですよ。ガブリエルがいかに天才とは言え、いい仕事をするには張りつめた神経を緩める時間も必要ですからね」
 ローランはルネに口をはさむ暇も与えず、低いがよく通る声で、夫人だけでなく好奇心を露わに眺めている人々も聞こえるよう、はっきりと言い放った。
「アカデミーの関係者にも知らせず、半分お忍びのような外出なので、今宵一時社交は抜きで純粋に音楽を楽しむだけにするつもりです。お守り役の俺としては、大事なイベントを控えた大切な天使を疲れさせるわけにはいかない」
 非の打ちどころのない堂々たる紳士ぷりのローランだが、言外に、『大天使』に馴れ馴れしく近づいて煩わせることは許さないと威嚇している。
  誰が相手であれ、その絶対不可侵の領域を無遠慮に侵そうものなら、この男はたちまち手のつけられない猛犬と化すだろう。
 そんな予感がしたのか、野次馬達は怯んだように足をとめた。
「さあ、そろそろ行こうか、ガブリエル…?」
 人の悪い、しかしとびきり魅力的な笑みをうかべたローランにそう呼びかけられ、ルネは目をむいた。
「ガブリエルって…ちょっ…」
 ローランは動転するルネの腰に手を回して引き寄せ、黙っているよう、目配せした。
「定例会が目前に迫っていますものね。さすがの大天使も気が張ることでしょう。そういうことなら、これ以上うるさくお引き留めはしませんわ。ごきげんよう、お二人とも」
 名残惜しげな顔をしながらも素直に引き下がってくれた婦人に愛想よく別れを告げ、ローランは戸惑うルネの腕を引っ張って、足早にその場を後にした。
 傍若無人の態でまっすぐ突き進んでいくローランの前で、人垣は面白いようにさっと二つに割れていく。
「あ、あの…ローラン、いいんですか…? 僕をムッシュ・ロスコーだと勘違いされたままで…」
「いちいち誤解を解いて回るのも面倒だ。大体おまえが別人なら別人で、一層興味をかきたてられた奴らがしつこく絡んでくるぞ。何故そんな姿をしているのか、俺やガブリエルとは一体どういう関係なのか…ガブリエル相手なら多少遠慮はしても、ただのそっくりさんなら話は別だからな」
「それは確かに…面倒くさいですね…」
 悩ましげに眉根を寄せるルネと共に、煌めくシャンデリアの下社交に余念のない客達で混み合う三階のグラン・サロンを離れ、ガブリエルの名前で押さえていたバルコニー席のドアに滑り込んだ途端、ローランは堪えかねたかのように吹きだした。
「はははっ、あんな大勢がまんまと騙されるものだな! あそこでマダム・パローにばったり出くわした時は、ひょっとしたらおまえはガブリエルとは別人だと見抜かれるかと思ったんだが…ガブリエルの私設ファンクラブ会長を公言しておきながら、あんなに簡単に引っかかるとはな。しかし、後で本当のことがばれたら煩いご婦人だから、今夜の経緯はガブリエルにも報告して口裏を合わせておくとしよう」
 ルネも、まだドキドキしている胸を手で押さえ、何だかローランと一緒に悪戯をしたような気分になって、くすりと笑った。
「別に、ムッシュ・ロスコーのふりをして誰かを騙すつもりは、僕にはなかったんですが…」
 ドアと客席を仕切る重たげなカーテンの向こうからは、そろそろ席につき始めている観客達のたてる物音や話し声がひそやかな波のようにざわめきたち、その合間にオーケストラの音合わせが聞こえていた。
「でも、僕が偽物だとばれなかったのは、ぼろを出さないうちにあなたが素早くフォローしてくれたからですよ。うっかり言葉を交わしたら最後、これは『大天使』じゃないとあそこにいた誰もが気付いたでしょう。ガブリエルはこの世に二つと存在しない貴重な宝石ですからね。いくら外見を取り繕っても、僕のような馬の骨が真似しきれるものではありません」
 ルネの何気なく漏らした台詞を聞き咎めたローランは、くすくす笑いを引っ込め、たしなめるようなしかめ面をした。
「相も変わらず、その自己評価の低さはおまえの欠点だな、ルネ。ガブリエルと引き比べてでも、馬の骨だなんて、自分の事を無暗に卑下するのはよせ」
 バルコニー席のドアに背中を押しつけているルネの両脇に手をつき、その顔を覗きこむようにしながら、ローランは真剣な口調で言い聞かせた。
「うーん、僕が多少なりとも洗練されてきたのは、あなたの薫陶の賜物であって、僕の手柄じゃないです。大体、このコスプレを維持するだけで、普通人の僕にはけっこうな負担なんですよ? 定期的にトニーさんに髪を直してもらわなきゃならないし、服や身につけるものにも気を配らなきゃならない…昔の僕なら、自分の外見になんか全く頓着しなかったことでしょう。でも、素の姿に戻ったら、あなたはたちまち僕に興味を失ってしまいそうだから、無理しているんです」
 つい日頃の鬱憤が思い出され、ルネは唇を尖らせ、ローランを軽くなじった。
 こんな恨み節くらい、いつものローランなら歯牙にもかけずに笑い飛ばす所だろう。しかし、意外なことに、彼はばつの悪そうな顔になった。
「それは分かっているさ…いつもいつも俺は、しなくてもいい無理をおまえに強いて、苦労させてきた。そうする必要もじきになくなるだろうが…今まですまなかったな、ルネ」
「え…?」
 ローランがしんみりと漏らした、その言葉に、ルネは何かしら不安な胸騒ぎをかきたてられた。
(必要なくなるって、一体何のこと…?)
 ローランは、気持ちを切り替えようとするかのごとく頭を振った。そして、心もとなげな面持ちでじっと自分の動きを見ているルネの上に、再び身を屈めた。
「いや、つまりだな…俺がさっきから言おうとしているのは、おまえの外見の話じゃない。おまえは、何かと言うとそればかり気にするようだがな。いいか、これでも本物を見抜く目は確かなんだ。象牙をその紛いものと見間違えるようなことはない…最初に会った時から、俺の目には、おまえは馬の骨どころか本物の象牙として映っていたぞ」
「嘘」
 ルネは大きく息を吸い込んだ。冗談として軽く受け流せればよかったのだが、言い返す声は動揺のあまり上ずっていた。
「嘘じゃない。お前自身が頑なに自分を地味でつまらない人間だと思いこんで、人前では目立たぬよう振舞っていたから、周りの誰もお前の魅力に気がつかなかったんだ」
「ぼ、僕をおだてて持ち上げたって、これ以上何も出ませんよ、ローラン。今でもぎりぎり限界までがんばってるんですから」
「本当に、おかしな所で強情な奴だな。さっき褒めた時は素直に喜んでいたくせに…惚れた男の言うことが、そんなに信じられないか?」
 ローランはいささか不機嫌になって、呆れたような口調で言った。
「だって、いくらあなたの言葉でも…ううん、あなただからこそ、僕を励ましてもっと上を目指させようとしていると考えてしまう…信じろなんて、無理です」
「俺が上司だから、そう思うのか…? まあ、単なる部下なら、仕事で結果を出させるために、そういう操縦方法も試みるかも知れんが、おまえはただの部下じゃないだろう…?」
「僕のことは僕自身が一番よく知っています。一生懸命努力して自分を磨いて、全くの別人に変身して…ええ、僕が他人から綺麗だと言われたりナンパされたりしたのは、この姿に化けてからです。素のままの僕を受け入れて、ましてや可愛いなんて言ってくれた人は今まで1人もいませんでしたからっ」
 心臓に刺さったままの古い棘から小さな痛みが発するのを覚え、ルネは思わず、叩きつけるように言った。
「ルネ…」
 めったに見せないルネの激しさに、ローランは驚いたように目を見開く。
「あ…すみません、ローラン、大きな声を出して…ちょっと嫌なことを思い出しちゃったみたいで…」
 胸の奥に拭いても拭いても消えない染みのように残っている初恋の人の面影―ローランと2人でいる時に、どうして、こんな嫌なことを思い出してしまうのだろうと、ルネは自分が悲しくなった。
(ああ、嫌だ嫌だ…一体いつまで僕はあんな薄情な人とのことを引きずるんだろう。今更だけど、あの時、振られてまでいい子の顔なんかしないで、怒りにまかせて先輩を投げ飛ばしてやればよかった。これが、あなたのために必死になって磨きをかけた僕の技ですよって…そうしたら、もっと簡単に吹っ切れていたかも…)
 心を鎮めようと深呼吸した時、ルネは突然、ローランの腕の中に引き寄せられた。
「ロ、ローラン…?」
 反射的に顔を上げようとするルネの後頭部に手を添え、表情を覗きこまれないようにするかの如く自分の胸にギュッと押し付けて、ローランは怒ったような口調で言った。
「くそっ、これ以上黙って見ておられん…おい、二度と言わないからちゃんと聞いておけよ、ルネ。俺はガブリエルに少しくらい外見が似ているからと言って、おまえをその代用品にして傍に置こうなんて考えたことは一度もない。秘書としておまえは俺の予想以上に優秀だったが、それが理由でもない。俺のエゴでおまえに理不尽な苦労を強いているのは分かっている。それでも片時も離したくないと思うのは…潔癖で清冽な俺のブラン・ド・ブラン―よく気が回って賢いかと思えば、自分のことに関しては時々馬鹿じゃないかと疑うくらいに鈍感で不器用な、可愛いルネ・トリュフォーに惚れているからだ」
 先程から耳障りだった観客達の話し声や咳払い、オーケストラの発する音という音が、全て聞こえなくなった。
 自分の反応を辛抱強く待つかのように黙しているローランの微かな息遣いやその胸の奥で鳴り響く心臓の鼓動だけが、ルネの耳に入ってくる。
 これは夢だろうか。そうに違いない。ルネは震える瞼をゆっくり下ろしていこうとした。しかし、
「おい、聞いているのか?」
「は、はいっ」
 ローランが焦れたように問いかけるのに、ルネは反射的に顔を上げた。目の周りがじんわりと火照ってくるのを覚える。
「よし、それならいい」
 ルネの表情を覗きこみ、ちゃんと自分の言葉が届いていることを確認したローランは、短くそうだけと呟いてルネの体を解放した。
「ローラン…」
 ここで何か言うべきなのかもしれないが、まだ頭が動いてくれず、ルネは呆けたように立ち尽くしている。
 そんなルネをローランはじっと見つめている。ただ漫然と見ているというのではない、その目でルネに触れ、愛撫するかのような熱い眼差しだった。
 ルネは急に息苦しさを覚え、無意識に上げた手で己の喉元に触れた。
「本当…に…僕のこと…?」
 たどたどしくも口にしようとした時、開演を告げるベルが鳴った。
「そろそろ席に着こう」
 ローランはちらっと肩越しに後ろを見、促すようルネの肩に触れたかと思うと先にカーテンの陰から出て行った。
 それを追うよう、ルネも、舞台を見下ろすバルコニー席を歩いて行き、ローランの隣に腰を下ろした。
 照明が落ち、オーケストラの華々しい演奏と共にオペラの幕が上がった。
(ローラン、ローラン…本当に、あなたは僕を愛してくれていたんですか? ガブリエルの手近な代用品として傍に置いたわけでもなく、僕が努力して磨き上げた外見が気にいった訳でもなく、ちゃんと僕自身を見ていてくれた…?)
 胸の奥から溢れ出してくる何とも言えない高揚と幸福感に、体中が隙間なく満たされていくのを覚えながら、ルネは傍らのローランをちらっと横目で見やった。
 ローランはわざとのようにルネから視線を逸らし、眼下の舞台で歌い始めた3人のノルンに注意を向けている様子だ。
(言いっぱなしで後は無視なんて、酷いですよ、ローラン)
 しかし、こんな衆人環視のパルコニー席であからさまにいちゃいちゃしては、また口さがない人々に何を言われるかしれない。
 仕方ないので、ルネも大人しく座席に座って、ガブリエルを真似た澄ました顔でオペラ鑑賞をしていた。そうしながら、こっそり手を伸ばして、膝の上に無造作に置かれたローランの手に触れようとした。
(あっ)
 ローランが、伸ばしたルネの手を捕まえて、ぎゅっと握りしめてきた。
(大丈夫…ローランはちゃんと僕の気持ちを分かっている。ローラン、あなたが、自分では冴えないとばかり思っていた素のままの僕を可愛いと…愛していると言ってくれて、嬉しい)
 ルネは、喜びのあまりともすれば笑み崩れそうになるのを抑えるのに必死だ。
(僕にはまだあなたに伝えなければならないことがあるけれど、あなたならきっと…先輩のように、僕の正体を知った途端に変心して逃げ去ることはないですよね。僕はあなたを信じたい…ううん、今こそ信じてみよう)
 ルネは期待感に高鳴る胸を持て余しながら、そのうっとりと潤んだ目で舞台から客席を漫然と見渡した。
 丁度このパルコニー席を眺められる位置にある客席からは、『大天使』の姿を一目見ようという人達の視線がちらちらと投げかけられてくる。
 しかし、今のルネは、そんな好奇の視線にさらされても、ほとんど意識しなかった。
(あなたが僕を愛してくれるなら、僕はもう、あなたのための苦労も苦労とは思わない。片時も離れずずっとあなたの傍にいて、とことん尽くしぬきます、ローラン)
 そんなことを半ば夢見心地に考えていたルネの心を、次の瞬間、ひやりとしたものが通り抜けて行った。
(え…何…?)
 いきなり現実に引き戻されたルネは、不愉快そうに柳眉を逆立てた。
(ひどく冷たい、突き刺すような視線を感じる…こんなあからさまな悪意を僕に向けてくるなんて、一体誰だろう…?)
 絡みついてくる嫌なものを振り払おうとするかの如く頭を振り立てて、ルネは、その視線の主を探してみた。すると、二階席の最前列にいる、1人の初老の男が目についた。
 ルネと視線が合った途端慌てたように顔を背けた、その男をルネはどこかで見た覚えがあったが、この時は思い出せなかった。
(何者だろう…? まるで殺してやりたいというような嫌な目で僕を見ていたな。僕を…ううん、この場合、僕ではなくムッシュ・ロスコーを見ていたのか。圧倒的なカリスマ性を誇るガブリエルだけれど、だからこそ、反発を覚える人もいるのかもしれないな。しかし、どこかで見た覚えもある顔なんだよねぇ)
 ルネが首を捻って考えに耽っていると、ローランがそっと体を傾けてきた。
「どうした、気分でも悪いのか?」
「い、いえ…何でもありません、大丈夫です」
 気遣わしげに覗きこんでくるローランに、ルネはぱっと顔を向け、彼が怯むくらい嬉しそうに笑いかけた。
「あ…そうか…」
 ローランはどことなく居心地悪そうに咳払いをし、椅子に深く座りなおした。その横顔を、ルネはしばらく熱心に眺めていた。
 愛を捨てる者だけが世界を支配することができる指輪を造ることができるという話が舞台では展開していたが、ルネは何を引き換えにしても彼の愛を捨て去ることなどできるものかと思っていた。
 実際、ルネがその不審な男に注意を向けたのはほんの一瞬のことだった。
夢のような綺羅と豪奢に囲まれた、この一夜、思いがけなくもローランがかけてくれた幸せな魔法からまだ覚めたくはなかったのだ。  



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