第5章 Blanc de Blancs




 オペラの幕の下りたばかりのホールのドアが開くと共に、ドアというドアから煌びやかな客達が溢れ、興奮と熱気に包まれたまま、今見たばかりの演目の感想を述べあいながらエントランスに向かって大階段を降りていく。
 ルネはまだうっとりと夢覚めやらぬ顔で、その流れに身を任せていた。
「今夜の舞台は、よほどお前の気に入ったようだな、ルネ? だとすれば、誘ったかいがあるというものだが…」
ルネをさり気なく守るように寄り添ったローランが、低い声で囁きかける。
「ああ…ローラン…何か言いました?」
 ルネはぱちぱちと目をしばたたいて、面白そうに自分を覗きこんでいる男を上目遣いで見上げた。
「おまえにとって生涯二度目のオペラ鑑賞は、満足できるものだったのかと聞いたんだが…やれやれ、いい加減現実に帰ってこいよ。ここで終わってしまってどうする? 夜はまだまだ長いんだぞ」
「す、すみません…つい余韻に浸ってしまって…はい、とてもいい演目でした。また、物語の続きを観てみたいくらいに…あの…」
 ルネは逡巡した後、勇気を出して、小さな声で言ってみた。
「できれぱ、いつかあなたと一緒に、このオペラの続きを観たいですね…?」
「…そうだな」
 ローランは曖昧な微笑みを端正な顔に浮かべながら、首肯した
「あ」
 玄関ホールまで降りた所で、自分をガブリエルと勘違いした見知らぬ人々から挨拶を送られたルネは、ふいに思い出した。
「そう言えば…さっき舞台を観ていた時、ボックス席の最前列にいた男が僕をおかしな目つきで見ていたんです」
「おかしな…というのは、どんなふうにだ?」
 ルネの言葉に、ローランはすぐに反応した。
「それが、やけに厳しい…敵意のこもったような視線を僕に送っていたんです。最初は、ただのアンチ・ガブリエルかと思ったんですが、どこかで見た顔のような気もして、引っかかって…」
「一体どんな人相風体の男だったんだ、そいつは?」
「ええっと…そうですねぇ、体はそんなに大きくない、頭の禿げあがった60歳前後の男で、大きなわし鼻をしていました」
「……」
 ローランは俯いて少し考え込んでいたようだが、それ以上何も言わなかった。
 ルネも、これからの算段の方につい頭がいってしまい、大勢の観客達の中で一瞬目にとまっただけの不審な男の正体を究明する意欲は湧かなかった。
 暖房のきいたホールから外に出るとたちまち冬の夜の冷気に包まれたが、火照った体はまだ寒さを感じなかった。
「さて、このまま俺の家に直行してもいいが…この近くに、なかなかいい雰囲気のバーがあるから、立ち寄ってみるか?」
「じゃあ、そのバーに連れて行ってもらえますか? 今ちょっと飲みたい気分なので…」
 ルネは、できるだけさり気なく、そう頼んだ。
アルコールの力を少しだけ借りたいという理由もあったが、もし告白した結果最悪の事態になったとしても、人目のある場所ならみっともなく取り乱したりはしないだろうと思ったからだ。
(ローランを信じてはいるけど…まだ少し恐い…ああ、僕は何て臆病なんだろう)
 オペラ座の傍で渋滞する道路に身を乗り出しタクシーを拾おうとする人達を尻目に、ルネとローランは歩き出した。
 2人とも、しばらく黙りこくっていた。
 ルネはいよいよ腹をくくってローランに打ち明けるべき瞬間だと、頭の中でシミュレーションをするのに必死だった。ローランはローランで、何事か伺い知れぬ深い沈思黙考に浸っている。
 どのくらい、そうして沈黙を保ったまま歩き続けたのか―ふいにルネは、肌が泡立つような嫌な気配を背後に感じて、振り返った。
(まただ…誰かが僕を見ている。それも、あんまり友好的じゃない、嫌な視線だ。こちらの隙を窺っているかのような、油断ならない、執拗な…これもたぶん、僕をムッシュ・ロスコーだと間違えた人間なんだろうな…)
 相手は単独ではなく、2人いるようだ。ルネが足を止めれば、向こうも足をとめ、建物の陰に潜んでじっと息を殺している。そして、ルネが再び歩き出すや、一定の距離を保って後を追ってくる。
(あー、やっぱり…完全に後をつけられているよ。よりによってこんな時に、全くうっとうしいな)
 あからさまな好奇の視線を注がれて辟易したオペラ座での体験の後だけに、熱狂的なガブリエル・フリークか、ネタを狙うパパラッチが劇場から後をつけてきたのかとルネは疑った。
(どうしようか…ストーカーや煩い記者に邪魔されて、ローランに告白するチャンスを逃したりしたらしゃれにならない。ローランにもこのことを知らせて、一緒に駆けだして相手をまこうか。でも…) 
 いつの間にか2人は、街灯や車の光に溢れた大通りを外れ、人通りの少ない街路を歩いていた。
ルネはまたしても足をとめて、胡乱そうな目で後方を眺めやった。
「どうした?」
 ローランが、自分の後ろで唐突に立ち止まったまま動こうとしないルネに、不審そうな声をかけてくる。
(本当に、ただのファンとか記者だろうか。気のせいかもしれないけど、ただならない悪意を向けられているようで、何だか背中のあたりがむずむずするんだけれど…)
 敵意を感じれば、いつでも反撃できるよう身構えてしまうのは、格闘家の本能だ。
(そう言えば…そもそも僕が、今夜ローランについていこうと決めた最初の動悸は、ずっと傍に貼りついていれば、不測の事態が起こっても、僕の手でこの人を守れるからだった。定例会を間近に控えたガブリエル…そして、彼のために動いているローランの身辺には常に危険が潜んでいる)
 ルネは、はたとなった。
(そうだ、もしかしたら…今、僕とローランをつけているのは、定例会の妨害を画策するソロモン派の息のかかった人間だったりして…)
 そんな可能性が頭の中で閃いた途端、控え目でおとなしげなルネの顔つきが一変した。
優しげな唇はきつく引き結ばれ、激しい炎の灯った碧い双眸が、通りから伸びる細い路地の向こうの濃い闇を厳しく見据える。
ルネが睨みつけてくるのに気がついたのだろう、追跡者達の間に緊張が走った。
「すみません、ローラン、ここでしばらく待っていてください!」
「ルネ? お、おい、ちょっと待て…!」
 引き止めようとするかのごとく手を伸ばしかけるローランを振りきって、ルネは駆けだした。路地の暗がりに息を潜めて、自分達の様子を窺っていた何者か目がけて―。
 案の定、ルネの突然の行動に泡を喰ったように、物影に隠れていた男達が1人と2人と飛びだし、逃げていく。
「ルネ、この馬鹿、勝手な行動を取るな! 戻ってこいっ」
 ローランの切迫した声を背中に聞きながらも、ルネは足をとめなかった。
(ごめんなさい、ローラン…だって、あいつらをこのまま放っておくわけにはいかない。何の目的で僕とローランをつけていたのか、この手で確かめてやる。もしも僕の読みがあたっていたら…定例会を目前にして焦ったソロモン派の人間が荒っぽい手段に出ようとして、ガブリエルを狙ったのだとしたら―そう、あいつらを捕まえて、白状するまでとっちめてやるんだ。そこから爆弾騒ぎも含めた陰謀の首謀者がソロモンだってことが明らかになれば、この内紛はガブリエルの勝利で終わる。もうこれ以上、ローランが彼の盾となって危険を犯したり、過労死しそうなほどの無理を重ねたりする必要もなくなる)
 ローランと2人きりで過ごすはずの夜、それまで胸を占めていた一世一代の恋の勝負のことも、今のルネはすっかり忘れ果てていた。
 とにかくローランのため、その身に危害を及ぼす全てのものから彼を守りたい一心で、ルネは暗い裏通りを億することなく突き進んだ。
 逃げていく男達との距離は、じりじりと狭まっていく。
 ふいに、彼らは脇道に逸れた。
 ルネも続いて角を曲がり、小道の向こうから洩れていく淡い光を頼りに、なおも執拗に男達を追う。
「絶対逃がすものか…待てっ!」
 ルネは脇道を抜け、小さな広場に飛び出した。
 瞬間、ルネの視界は真っ白になった。
(わ、眩しいっ)
 待ち構えるように広場に停車していた車のヘッドライトが、ルネの全身を照らしだしていた。とっさに光を遮るよう、彼は腕を上げた。
「間違いないな…ガブリエル・ドゥ・ロスコーだ」
「ああ…えらい迫力で俺達を追ってくるのには肝をつぶしたが…」
 自分達の陣地に獲物を引き込んで安心したのだろう。ルネが捕まえようと追ってきた2人の男達が、肩で息をしながらも、車のライトを背に、彼に向き直った。
「やっぱりガブリエル―いえ、私が狙いだったんですか…?」
 ルネは用心深く身構えながら、相手の様子を窺った。
 目の前にいるのは、とてもロスコー家と直接関係はなさそうな町のチンピラ風の若い男達だが、彼らの後ろに止まっている高級車の運転席に、もう一人誰かがいる。
「あなた方は何者です…? この私に一体どんな用があるというんです?」
 男の1人が、指示を求めるよう、背後に止まっている車の方を振り返った。それに対して、運転席の男が手振りで何か示す。
 成程、車の中にいるのが、この男達のボスのようだ。
「おとなしくしてくれれば、別に危害は加えないさ、ムッシュ・ロスコー。車の中の御仁が、別の場所であんたと2人きりで話したがっている。だからさ、このまま俺達と一緒に来てくれないか?」
 男達は左右に分かれ、ルネを逃がさぬ構えでじりじりと近づいてきた。
「嫌だというなら、無理矢理車に押しこむけどさ。できれば、その綺麗な顔に怪我はさせたくないから、いい子にしてくれよ?」
 そう凄んで見せる男の手には、いつに間にか、バタフライ・ナイフが握られている。
「私を連れて行って…そのまま、しばらく人知れぬ場所に監禁でもするつもりですか? ここに至って、定例会をどうしても中止させたいなら、主宰者であるガブリエルを拉致するしかないというわけですね。全く、馬鹿なことを考えつくものだと呆れます」
 ルネは、ガブリエルのその人の口調を思い出しながら、白々と冷たい目をして言い放った。
「生憎ですが、『大天使』は、そう簡単にあなた方の思い通りにはなりませんよ? 力づくで自由にできると思うなら、さあ、試して御覧なさい!」
 風にも耐えぬ花のような、見るからに華奢で優雅な青年の口から出た、思わぬ挑発に男達は呆気に取られ、顔を見合わせて吹き出した。
「強がりはよしなよ、ムッシュ…まあ、力づくで好きにしてみろっていうのなら、おっしゃるとおりにしますがねっ」
 ルネの右側にいた大柄な男が、彼の首に無造作に手を伸ばしてきた。
 捕まえられる前に、ルネは素早く身を屈めた。転瞬、男の腕を捕え、バランスを崩してよたつくその足を足でなぎ払った。
「わぁっ?」
 男は、くるりと大きな体を反転させるようにして、ルネの足元に落ちた。
「へっ?」
 ナイフを持った男は何が起こったのか分からず、きょとんとする。
「おい、何やってんだよ、おまえ…!」
 ルネは男に技をかけた体勢から滑らかに移動し、ナイフの男相手に、ゆったりと力を抜きながらも隙のない構えを取った。
「この野郎、ふざけやがって!」
 訳が分からないままに、かっとなった男はバタフライ・ナイフを振り回し、ルネに迫ろうとした。
 ルネはひらりとひらりと身をかわしつつ、冷静に攻撃のチャンスを窺う。
 一気に緊張が高まった広場に、車のクラクションが鳴り響いた。 
「馬鹿者、大天使に怪我などさせてはならんぞ」
 車の窓を開いて、男達の雇い主と思しき者が釘をさす。
「チッ」
 ナイフ男は忌々しげにルネを睨みつけ、悪態をつきながら、路上から起き上がろうとしている仲間に近づき、手を貸してやった。
 ルネは目を眇めて、車の窓から身を乗り出している男の顔を確認しようとしたが、ヘッドライトが邪魔になって、よく見えない。
(あの男の正体を暴くため、顔だけでも確認しておかなきゃ)
 さり気なく車に近づこうとした時、ルネは、こちらに向かって近づいてくる車のエンジン音に気がついた。
 次の瞬間、二台の車が、この狭い広場に凄い勢いで突っ込んできた。
「ルネ君!」
 その車のうちの一台から血相を変えて飛び出してきた者の姿に、ルネは目を見開いた。
「えっ…アシルさん、どうしてこんな所に…?」
 いつもおっとりと人のよさそうな空気をまとった青年は、今は珍しくも緊張感に顔を強張らせて、ルネの無事な姿を確認した。
「ああ、間にあってよかった…まだ何もされてないようだね」
 ほっとした表情を浮かべると、彼は同乗者に向かって素早く何事か命じた。
 新手の登場に、ナイフ男は舌打ちをし、投げ飛ばされたもう一人の男は、アシルの率いる二台の車から出てきた屈強な黒服の男達の方に不安そうな目を投げかける。
「おい、マジでちょっとヤバいぞ、こいつら…プロみたいだ」
 所謂SPとかプロのボディーガード風の男達は、拳銃こそ見せなかったが、ルネと彼をさらおうとした者達を取り囲むよう、慣れた動きで広場に展開した。
(一体どういうこと…どうしてアシルさんは、僕がこの連中を追いかけてきたことを知っているんだ…? それにボディーガードみたいな男達まで連れて…これじゃあ、まるで僕の身に危険が及ぶことを予め想定していたみたいじゃないか)
初めは事の成り行きに戸惑うばかりだったルネの頭の中で、やがて釈然としない思いが頭をもたげてきた。
(もしかしたらアシルさんは…今夜、僕がローランと一緒にオペラ座に観劇に出かけていることを知っていたんだろうか…? だとしたら、ローランが手を回して、アシルさんをこの付近に待機させていたとか…? にわかには信じられない話だけど、そうでなきゃ、こんなタイミングでこの場面に駆けつけることなんかできやしない)
 もやもやとした疑念が次第にはっきりと形をなし、それが今夜甘い一時を過ごしている人に向けられようとした、その時―。
「ルネ、無事か?!」
 自分を探し求める切迫した声を聞いた途端、ルネは大きく身を震わせた。
 振り返れば、携帯電話を片手に握り締め、長いコートの裾を翻しながら、暗い路地から息を切らしたローランが現れた。
こんなにも動揺したローランをルネが見るのは初めてかもしれない。取り乱した顔が、ルネの無傷な姿を認めた瞬間、安堵の表情を浮かべる。
「俺の傍から離れるなと怒鳴ったのに、こうと思いこんで走り出したらとまらないんだからな…全く冷や冷やしたぞ…!」
 ローランは、足早に近づいてきたアシルをちらりと見やると、彼が何事か囁くのに耳を傾け、分かったというかのごとく小さく頷いた。
(やっぱり、ローランが連絡して、僕を助けるためアシルさんをここに向かわせたんだ。つまり、ローランはアシルさんがこの付近にいることを知っていた訳で…)
 何だか頭の中がこんがらがって、うまく考えがまとまらない。いや、深く追求するのが恐いのかもしれない。
 凍りついたように立ちつくしていたルネを、ローランが振り返った。その端正な顔がはっと強張る。
「ルネ!」
 警告を含んだ叫びに瞬きするルネの腕を何者かが強い力で掴んで、引き寄せた。
「動くな!」
 ルネを背中から羽交い絞めにし、さっと身構えるローランとアシル達に向かって恫喝したのは、ナイフをちらつかせていた、あの男だった。
「いいか、こいつの綺麗な顔に傷をつけたくなかったら、動くんじゃないぞ」
 男がナイフの刃をルネの頬の近くでちらつかせるのに、とっさに前に出ようとしたローランが歯ぎしりせんばかりの顔をして、立ち止った。
 束の間抵抗を忘れていたルネだが、自分を人質に取られて葛藤するローランを見て、我に返った。
(ローラン…あなたにそんな顔、似合いませんよ)
彼はいきなり背後にいる男の胸に肘を打ち込み、同時にその手からナイフを叩き落とした。
「こ、この野郎…!」
 気色ばんで飛びかかってくる男の攻撃を身軽にかわし、ルネがひとつ飛び膝蹴りを食らわしてやろうと構えた時、またローランの姿が視界に入った。
(あ、しまった…ローランが僕を見ている)
 うっかり忘れそうになったが、ルネはまだ自分の正体を彼に明かしていないのだ。
 躊躇うルネの隙をついて、男はルネの顔を殴りつけた。
「あ…!」
 とっさに体を少しずらしたため、まともに入ってはいなかったが、それでも、初めて受けた攻撃に頭がくらっとした。
「ルネ!」
 怒りの形相になったローランが、アシルの腕を振り払い、突進してくる。
しかし、その時、背後で静観していた謎の男の車がクラクションを鳴らしながら、ローランを近づけまいとするかの如く突っ込んできて、ルネとチンピラ風の男達の傍で止まった。
「早く乗れ!」
 車のドアが開き、運転席から顔を覗かせた初老の男が叫ぶ。
(ローラン…!)
 一瞬、車と接触したのではないかと案じたが、幸いローランは無事のようだった。車体の向こうで、必死の顔で駆けよってきたアシルとボディーガード風の男によって引き止められている。
「ルネ!」
 ルネがほっとした瞬間、大柄な男がその体を抱きかかえるようにして、有無を言わさず車の中に引きずり込んだ。
「ロ、ローラン!」
 2人の男達に挟まれるように後ろの座席に座らされたルネは、窓の外にローランの姿を確認しようと身を乗り出し、またナイフ男に顔を殴られた。
「おとなしくしていろっ!」
 苛々と殺気立った声が警告するのに、さすがのルネも抵抗するのをやめた。もっとも、運転席にいる男が乱暴にハンドルを切ったため、後部座席に詰め込まれた2人の男達と共に振り回されて、反撃どころではなかったのだが。
「その車を止めろっ! 逃がすんじゃないっ」と甲高い声で叫んでいるのはアシルだろうか。
 車は派手なエンジン音をたてて、追い縋ってくる黒服の男達を振り払うよう旋回していたが、やがて広場から外へ伸びる道路に出、勢いよく走り出した。 
「ルネー!!」
 ローランが吠えるように自分の名前を呼ぶのを、ルネは最後に聞いたように思ったが、猛スピードで逃走する車の中、すぐに遠くなっていった。


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