第5章 Blanc de Blancs


一時はどうなることかと危ぶまれたローランとの関係だったが、その後は、彼との間に寒々とした隙間風が吹くこともなく、穏やかな休日を2人で過ごすことが出来た。
何しろ場所が不穏な空気漂うロスコー家のシャトーだっただけに、ガブリエルとジル会長を筆頭に内紛の渦中にある人間達が出入りしたり、ローラン自身も時々ルネを1人にして親族だけの内密の集まりに出ていったりと、完全に2人きりの世界に浸るという訳にはいかなかったが、一時でもローランと心が通じ合ったと感じられただけで、ルネは概ね満足していた。
唯一心残りがあるとすれば、ローランはああしてルネに、他人には話したことのない真情を打ち明けてくれたのに、ルネは最後まで自分の秘密を明かせなかったことだ。
「私が忠告してから随分経ったはずなのに…まだ肝心なことは何1つ、ローランに打ち明けられていないんですか?」
 休暇の最終日、2人きりで話す機会のあったガブリエルにも、呆れたようにそう言われた。
「もう少し意気地のある人かと思っていましたが、私の買いかぶりだったんでしょうかね。それとも、あなたはローランのことをそれほど本気で考えていた訳ではなかったのですか…?」
 ローランの絶対的主であるガブリエルを前にして気後れしそうになったルネも、挑発するように言われれば、むきになって反論した。
「そんなことないです! 僕だって思い切って打ち明けようとしたことはありました。ただ…その時は、ローランはあなたのことで頭が一杯だったので、言い出せなかったんです」
 こんな個人的でしようもない話に、多忙なガブリエルがよく真面目に耳を傾けてくれたものだ。しかし、ローランが不在で、1人自室で暇を持て余していたルネをわざわざ訪ねてきたくらいだから、ローランとの恋の進展のなさに、ガブリエルも密かに気をもんでいたのだろう。
「ふうん…すると、私があなた方の邪魔をしてしまった訳ですか?」
 ガブリエルが困ったように美しい眉を潜めながら問いかけるのに、ルネは焦って付け加えた。
「そ、そんなつもりで言ったんじゃないですよ。大体ローランの優先順位のトップにいるのがあなただという事実をどうこうするつもりは、僕にはもうありません」
「おや…それはまた一体どういう心境の変化でしょうね? ローランとの間に、何かありましたか…?」
意外そうに瞬きをするガブリエルに、ルネは躊躇いつつも打ち明けてみた。
「別に大したことじゃないですよ…ただ、僕が思っていた以上にローランは僕を信頼してくれてみたいで、うっかり公表できないような本音を漏らしたくれたんです。それを聞いて、我ながら単純だけど、もう細かいことで目くじら立てるやめようって気持ちになったんです」
 その「本音」の対象が自分であることを知らないガブリエルは、ルネの話の意味を推し量るかのようにじっと考え込んでいる。
 ローランの人生を、その言葉一つで変えてしまったことについて、ガブリエル自身はどう考えているのか。ルネはふと聞いてみたくなったが、そこまで深い質問は許されていない気がして、今は自分の気持ちを語り続けるだけにとどめた。
「ローランを愛しているなら、彼が大切にしているものも尊重しなければならない…非常識だとは思うけど、あなたに尽くすローランの気持ちは、僕にも共感できるものなので、色々悩んではみたものの最後には許してあげるしかなかったです」
 ローランの心に触れることで覚えた感慨を思い出しながら、ルネは何かをふっ切ったような清々しい顔で笑った。
「だから、あなたのせいでローランとうまくいかないとか、そんな責任転嫁するつもりもないです。それどころか、こんな不甲斐ない僕のことを気にかけてくださって、ありがとうございます、ムッシュ・ロスコー」
「礼を言ってもらうようなことじゃないですよ、ルネ。ローランの大切な人なら、私が特別な関心を持つのは当然ですからね」
 ガブリエルは優しい口調で言った後、どこまでルネの心が固まっているのか見極めようとするかのごとくすっと目を細めて、付け加えた。
「しかし、ルネ、そこまで思えるようになったなら、過去のトラウマに縛られるのもそろそろやめてしまいなさい。たった一度の苦い経験に足を引っ張られて、現在の恋がうまくいかないなんて馬鹿馬鹿しい。そんなあなたでもローランは信頼してくれている…そうと分かって、嬉しかったんですよね? ならば今度は、あなたが彼に対して心を開いてあげるべきではないですか?」
 真摯な口調で諭されたルネは、神妙な面持ちになって黙りこんだ。
(何故だか、おまえになら別に話してもいいかという気持ちになった。こんな話、他の誰にしても信じてもらえないか、呆れかえって馬鹿にされるかのどっちかだろうが、おまえなら、きっと分かってくれるような気がしたからかな…?)
 ローランがちょっと照れくさそうにしながらそう語った時、ルネは感激のあまり胸が熱くなるのを覚えた。
(ローランの心が分からないといつも愚痴ってばかりいた僕だけれど、あの瞬間、そんな不満は吹き飛んでしまった。彼が僕を信じてくれていることが嬉しくて…ああ、僕もあんなふうに、ごく自然に自分の気持ちを言葉にできたら、どんなにいいだろう。そう、ローランなら大丈夫、僕が武道の天才でも気にしない、今までと同じように僕を可愛いと思ってくれると信じられたなら、何の抵抗もなく、すんなりと告白できるはずなんだ。それなのに、僕は…)
 明るかったルネの顔が、考えに浸っているうちに瞬く間に曇っていく。
それを訝しく思ったようだ、ガブリエルは、使用人に運ばせた香り高い紅茶を口元に運ぶ手をとめ、問いかけた。
「何を考え込んでいるんですか、ルネ?」
「いえ、その…僕はローランに心を開いてほしいと願っていたはずなんだけれど、本当はちょっと違っていたんだなって、今気付いたんです」
 ルネは碧い瞳を落ちつかなげに揺らしながら、呆然と呟いた。
「本当は僕自身が…ローランに心を開けるようになりたかったんだ。あの人の顔色を窺ったり、不自然に取り繕ったりする必要もなく、素のままの自分で、言いたいことをぶつけられるようになりたい。ちょっとした気持ちのすれ違いや喧嘩があっても大丈夫…あの人との関係はそのくらいのことで壊れてしまうような脆いものじゃないと、自信を持って言い切れるようになりたいんだ」
 そうしてまた黙り込むルネに、ガブリエルはしばし微笑を含んだ眼差しを向けた後、励ますように言った。
「大丈夫、あなたとローランなら、きっと、そんな素敵な恋人同士になれますよ」
 あからさまに応援されたルネは、ちょっと怯んだように首をすくめ、今にも自分をかき抱こうとせんばかりに両手を差しのべてくるガブリエルから身を引いた。
「う…え、ええ…そうですね…ご期待に添えるよう、がんばります」
「ああ、またまた…弱気になってはいけませんよ、ルネ」
 しかし、ガブリエルはルネの気後れなど意に介さず、意外に強い力でその体を引き寄せ、嬉々としながら話を続けた。
「ともかく、その気持ちが萎まないうちにさっさとローランを捕まえて告白することですね。何なら、私がその機会をお膳立てしてあげてもいい…そうだ、私のセラーの中からあなた方のためにとっておきのワインを一本贈りましょうか? IN VINO VERITAS(真実はワインの中にあり)とも言いますし、本音を語る時には、やはりワインですよ」
「あわわ、大天使のセラーからワインをいただくなんて、そんな恐れ多い…プロポーズする訳じゃなし、あなたの得意とするような派手な演出には、僕がついていけません」
「もうっ…身内の恋の成就に力を貸す楽しみを、私に少しくらい味あわせてくれてもいいじゃないですか、ケチですねぇ」
 ガブリエルは困惑しきりのルネの肩を抱きながら、冗談とも本気ともつかぬ口ぶりでそんなことを言い、くすくす笑った。ふいに、何事か思い至ったかのように、口をつぐんだ。
「ムッシュ・ロスコー?」
「急に黙ったりしてすみませんね、ルネ。ちょっとした懸念を思い出したんです」
「懸念…ですか…?」
 ガブリエルは宙の一点を見据えながら、ゆっくりと、噛んで含めるようにルネに言い聞かせた。
「あなたもある程度知っているでしょうが…ローランは今、私のためにあれこれ画策して、自分のことは後回しにしている状況です。そのため、恋人であるあなたにも、時には腹立たしく理不尽な思いをさせるかもしれません。これは私の責任でもあるので、あなたには心からすまなく思っています」
「それは僕も承知していることですから、謝ってもらう必要はありませんよ、ムッシュ。先程も申しあげたように、ローランを愛しているからこそ、彼が必死になって守ろうとしているあなたのことも大切にしよう…今では僕も思っています。この非常時に、ローランの関心を無理矢理自分に向けさせようとは思いませんし…むしろ少しでも彼の負担を軽くできるよう、僕が積極的にサポートしていきたいと考えています」
「その心意気は大変ありがたいのですが、ローランは、目的のためなら手段を選ばない、マキャベリズムの権化みたいな男ですから…心を許した相手であれば、尚更、このくらいなら許してもらえるだろうと高をくくって、結果としてあなたをひどく傷つけるかも知れせん。その時に、彼を許すことのできる余裕が、あなたにあればいいのですが…」
 ガブリエルは物憂げな眼差しを伏せて、ふっと溜息をついた
「あの…ムッシュ・ロスコー…?」
 さすがに不安になったルネは、ガブリエルの顔を遠慮がちに覗きこみ、もう一度呼びかけた。
「そんな心配そうな顔をしないでください」
ガブリエルは、身内に対するように親しげに、ルネに微笑みかけた。その絹のような指先が、ルネの伸びかけて黒い地の色が目立ってきた金髪を優しく撫でつける。
「可愛いルネ、あなたとローランがうまくいくよう、私も願っていますよ。ローランなんて取り扱いの難しい男を理解し、幸せにしてあげられる人は、この世であなたくらいなものでしょうからね」
 ガブリエルは思い立ったかのように、自分携帯電話の番号をルネに教え、念押しした。
「いいですか、何かあれば、私にすぐに連絡しなさい。決して悪いようにはしませんから…」
「あ、ありがとうございます」
 ガブリエルは、ぱっと赤くなるルネの頭に手を添えて、両のほっぺたに素早くちゅちゅっとキスをした。
(う…わぁ…)
 ガブリエルに体臭はなかった。頬に触れた、その柔らかな唇も、ふんわりと溶けるような蜂蜜色の髪の感触も、何もかも夢のようだった。
「また会いましょうね、ルネ」
そう言い残して部屋を出ていく、ガブリエルの後ろ姿を見送る間、ルネは天使か悪魔に魅了された人のように、声をかけるどころか、しばし息をすることも忘れていたのだった。
(つくづく現実離れ…いや、人間離れした人だなぁ。ガブリエルが生身の男と恋を語るなんて、どうもピンとこないや。ローランなら役者負けしていないと思うけれど、身内に対する以上の感情はないらしいし、似合いの一対に見えても恋愛となるとなかなかうまくいかないものなんだね。でも、大天使が僕とローランのことを認めてくれているということは…強い味方ができたと思っていいのかな…? ガブリエルが守護天使になってくれたなら、何だか、ローランとの恋もうまくいくような気がしてきた)
素直に上に暗示にもかかりやすい性質らしい、ルネは俄然奮い立つのだったが、ガブリエルとじっくり話せたのは、シャトーでの6日に及ぶ滞在期間の中で、このわずかな時間だけだった。
 テレビでぶち上げた定例会の準備に、ソロモンとの駆け引きも加わって、大勢のお供を引きつれて出かけることも多い、忙しい身のガブリエルのこと、ルネを心にかけてくれているとはいえ、頼りにする訳にはいかない。
 それに結局は、ルネの心の問題なのだ。自分で克服するしかないとは、彼にも分かっていた。
(僕は、ローランのことをどこまで信頼できるだろう。素のままの自分を見せても、彼は本当に僕から逃げていかないと信じられるだろうか…?)
 ルネの胸の内に未解決の大きな課題を残したまま、やがて束の間の休暇は終わり、またローランの秘書として忙しく働く日々が戻ってきた。
プライベートでは優しい顔を見せてくれていたローランも、そうなるとたちまち仕事モードに切り替わり、オフィスでは厳しい上司としてしかルネに接してこない。それに、仕事を離れても相変わらず多忙な日々が続いているようで、試しにルネがデートに誘ってみても、すまなげな顔をして断わられてしまった。
アカデミー・グルマンディーズの活動には、ローランは直接関わっていないはずだから、爆弾事件以来表向きはおとなしいソロモン派への対策のためだろうか。
ガブリエルが巻き込まれかけたその事件について、警察の捜査がどこまで進んでいるのかルネは知らないが、ソロモンはもちろん関与を否定している。最後までしらを切り通して、今度も逃げ切るつもりなのだろう。
アカデミーに招かれた、シェフ・オベールは、ガブリエルの庇護のもと厳重に守られており、仮にソロモン派がシェフに何かしようとしても今回ばかりは不可能だ。
(そうすると、ソロモン派の人間達はどう動くんだろう…? このまま、ガブリエルが定例会を成功させて、アカデミー・グルマンディーズの指導者として承認されるのをただ見ているだけってことはないんじゃないかなぁ。警察に目をつけられるのを分かって、あんな過激な手段に出たくらいだし、そう簡単にガブリエルの軍門に下るとは思えない…。ガブリエルさえいなければ、今からでもソロモンはアカデミーを掌握し、ロスコー家での影響力を取り戻すことが出来るんだろうか…?)
 本来なら全く関心などないだろう、やんごとない人々の権力争いの行方にルネが神経を傾けるのも、その渦中にローランがいるがゆえだ。
(もしもまたガブリエルが狙われるようなことがあったら、ローランは許さないだろう。ガブリエルは命がけで守るといつも言っている人だもの、自分の身は顧みず、危険なことにでも平気で手を出しそうだ。もし、それでローラン自身が怪我でもしたら…)
 縁起でもない想像をしてしまったルネは、ぞっとしたように身をすくめ、ふるふると頭を振った。
(ううん、ローランが危ない目にあわないようにするのが僕の役目だ。そのためにも、片時も離れず、彼の行く所ならばどこでも付き従って、いざとなれば僕が守る…)
 恋の成就のためにはマイナス要因にしかならないとずっと思いこんでいた武道の才だが、ようやっと、それに対してルネは肯定的に考えられるようになってきていた。
(僕がお守りしますから安心してくださいと、堂々と胸を張って宣言したり、自分の強さを誇示したりすることまではとてもできそうにないけど…愛する人の役に立てる、この手で守ることができるのなら、この力もあながち捨てたものではないかもしれないな)
 そうして、ふと、ガブリエルのために全てを投げ打って、ルレ・ロスコーにやって来た経緯を話してくれた時のローランの晴れやかな顔を思い出した。
(ガブリエルに必要されている…そのことだけで、ローランはあんなに満ち足りた顔になれるんだ。僕もいつか…おまえが必要だとローランに言ってもらえるだろうか。あの人を支えられるのは僕だけなんだと確信できたなら、ローランの目が他に向いていても不安にはならないし、どんなにか僕は幸せだろう)
ローランの前ではひたすら猫を被り続けているルネにとって、今の所、それは、いつかこうなりたいという願望に過ぎない。
 それでも、自分が何を望んでいるのかはっきり気がついた今、それは少しの努力を払えば実現可能な夢に思われた。
 そんな訳で、ローランに半ば忘れられたような日々が過ぎても、ルネは割合落ち着いていた。
 いずれローランが自分を思い出すことは分かっていたから、彼のすることに口出しはせず、ただ目と耳だけはしっかり働かせて、必要な時はすぐに対応できるよう、心がけていた。
 だから、ローランから声をかけられた時、それが予想外に早かったことと、その内容が今の時期にそぐわなかったことにむしろ戸惑いを覚えたのだ。
「は…? オペラ、ですか?」
「そうだ。今まで見に行ったことはあるのかと、俺はおまえに聞いたんだ」
 その日は朝からずっと難しい顔で何かを考え込んでいて、ルネが話しかけても心ここにあらずのローランだったのに、夕方遅く、副社長室にコーヒーを運んでいくといきなり、そんな話をし始めた。
「あ…はい、学生の頃、一、二度…演目は、ちょっと忘れましたが…」
 シーズン真っ最中のオペラの話などを振ってくるローランの意図が読めず、ルネは戸惑うばかり。友達に誘われて安い立ち見席で見ただけで、別にオペラもバレエも好きな訳ではなく、内容を必死に思い出そうとしているうちに、ローランは更に続けた。
「急な話なんだが、明日の夜オペラ・ガルニエで上演される『ラインの黄金』のチケットが二枚俺の手元にある。ガブリエルのために数ヶ月前からバルコニー席を予約していたんだが、定例会が間近なこともあり、あいつはやはり都合が悪くなって行けなくなった。せっかくだから、おまえの予定が何もなければ、一緒に…と思ったんだ」
「デート…に誘ってくれているんですか…?」
 ルネは目をぱちぱちさせて、信じられないように聞き返した。平時であれば喜んで飛び付く申し出だが、何となく引っかかったため、即座に応えられなかった。
「まぁ、そういうことだな…オペラは好きじゃないとか、ガブリエルの代わりというのが気になるのなら、無理に誘わないが…?」
「もう、意地悪を言わないでくださいよ、ローラン…あなたのせっかく誘いを、僕が断わるはずがないじゃないですか」
 ルネが普段の素の表情に切り替わり、打ち解けた口調で返すのに、ローランも安堵したらしい、にっと笑って、ルネを自分の方に引き寄せた。
「だが、あまり嬉しそうな顔をしていないぞ?」
 ローランに鋭く追求されて、ルネは困ったように眉を寄せながら、弁解した。
「嬉しいですよ…ただ、今この時期に、あなたが僕とのデートなんて思いついたことが意外だったんです。アカデミー・グルマンディーズの定例会は来週でしたよね。いいんですか、こんな大事な時期に、僕に構ったりして…?」
「俺は、別にアカデミーの人間という訳じゃないからな。ガブリエルの願いもあって、定例会の当日にはほとんど毎回駆けつけているが、その準備には全く関わっていない。別に、おまえのために時間を割けないほど忙しい訳ではないさ」
 ルネはローランの頭にそっと手を添え、艶々した黒い髪を指先で優しく撫でつけながら、真率な口ぶりで言い募った。
「そうは言っても、ソロモン派の妨害がいつあるともしれませんし、せめて定例会が無事に終わるまでは、あなたは僕よりもムッシュ・ロスコーの傍にいたいんじゃないですか?」
 どこかルネを困らせて楽しんでいるようだったローランの顔から、瞬間、全ての表情が消えた。
「ローラン、どうかしましたか? 僕、何かおかしなことを言ったでしょうか?」
 不思議に思ってルネが問いかけると、ローランは我に返ったように瞬きをした。
「いや、違う…何でもない、ただ…少し驚いただけだ」
 ルネは、自分の何がローランを驚かせたのだろうといぶかりながら、手の平で彼の肩を優しく撫でている。
「全く、ルネ、お前という奴は…」
 ローランは愛しさと哀れみが綯い交ぜになったような、複雑な眼差しをルネに注いだ。
「自分よりもガブリエルの傍にいたんじゃないかなんて、わざわざ聞かなくてもいいだろうに…それで、もしも俺がそうだと言ったら、おまえ、どうするつもりだ? また、俺の身勝手を許して、好きにさせるのか…つくづく馬鹿な奴だな」
「自分でも損な性格だと思いますけど…僕のためにあなたに無理をさせるよりは、あなたの一番いいようにしてあげたいんだから、仕方ないですよ。あなただって、自分のことは後回しにして、いつもガブリエルを一番にして尽くしているでしょう? それと同じです」
「そう切り返してきたか…くそっ、参ったな」
 ローランは、ふわりと微笑むルネから顔を背け、途方に暮れたように呟いた。
「しかし、おまえはもう少し自分本位になるべきだな、ルネ…そうしてくれた方がありがたい時だってある」
「それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」
 困惑顔のローラン相手に嬉々と目を輝かせながら、ルネは言った。
「本当にあなたが無理をしているのでなければ…明日のオペラ鑑賞、僕は喜んでお供しますよ。別にデートじゃなくても、あなたの行く所なら、僕はどこでもついていきたいんですから…」
 ローランの膝に半ば乗りかかって、甘えた口調で言いながら、ルネは、仏頂面のまま目を逸らしている彼の視線を捕えようとする。
(そう、プライベートでもずっとローランに寄り添っていれば、いつ何が起こっても、僕が守ることが出来るから、安心だもの)
 頭の中でそんな計算を働かせているルネを、ふいに、ローランが振り返った。
「ルネ、おまえ、そんなに俺が好きか?」
 苛立たしげな光を潜めた緑の瞳に射すくめられて、ルネは身を強張らせた。
「ど…どうしたんですか、いきなり…?」
 ローランは、戸惑うルネの顎に指をかけ、今にも唇が触れんばかりに顔を近づけてきた。
「俺を愛しているのか、どうなんだ?」
はぐらかすことなど許さないような性急な口調で追求されて、ルネは焦った。一体ローランはどうしたんだろうと怪しんだが、他に人目もない2人きりの密室の中でのことでもあり、つかえながらも正直に答えた。
「は、はい…あ…愛しています。無理矢理白状させなくったって、そんなこと、あなたが一番よく知っているでしょうに…」
 最後の方の恨めしげな訴えは、覆いかぶさってきたローランの唇によって、強引に封じられた。
 ローランの口調は不機嫌そうだったが、それとは裏腹に触れてくる唇は優しく、頬を撫でる大きな手は温かくて、ルネはほっとした。
(よかった…ローランはちょっと苛々しているようだけれど、僕に怒っている訳ではないみたいだ)
 ルネの緊張がほどけたのを感じ取ったかのように、ローランは更に体を密着させてくる。
 ふわりと、彼の愛用のコロンが香り立った。
(ああ、いい匂いだな…甘く、刺激的で、セクシーな…僕をいつもうっとりとさせる…大好きなローランの匂いだ)
ローランの体と触れ合っている所がじわりと熱を帯び、それが全身に広がっていくのをルネは意識した。
「ふ…ぅ…ひゃっ」
 空気を求めて唇を離した瞬間、力の抜けた体が滑り落ちそうになり、ルネは慌ててローランの体にしがみついた。そんな彼の腰をローランの手がしっかりと支え、膝の上に座り直させる。
「気をつけろ」
 ルネの額にくすぐるように唇で触れながら、ローランは低い声でたしなめた。
「はい…」
 再びローランの唇が下りてくるのを認め、ルネは微かに赤みを帯びた唇を素直に開いて、それを迎えた。
(あ…まだ定時にもなっていないのに、オフィスでこんないちゃいちゃ、いいのかなぁ)
真面目な頭の片隅にそんな思いが一瞬過るも、ローランにキスをされれば、たちまち霧散した。
(ううん、そんなこと、どうでもいい…この人のキスが欲しい)
重なり合う唇と唇の合間で、舌が動いている。優しく歯列を割って口腔を嬲るローランの舌に、遠慮がちにルネは己の舌を絡めていく。
背中に回ったローランの腕に強く締め付けられて、のけぞったルネの喉が鳴った。
「ローラン…好き…大好き…」
「そうか…おまえは俺を愛しているんだな…?」
 キスの合間に掠れた声で囁くルネを更に追いつめるよう、ローランは執拗に問いかけてくる。
「ならば、ルネ…お前は、俺が望めば、どんなことでも出来るか…? おまえの気性におよそ合わないような…必要なら嘘をついたり、自分を信じる人間を騙したり裏切ったりすることも、俺のためなら仕方がないと簡単に割り切れるのか…?」
「え…?」
 半ば心を蕩かされながらも、ローランが苦々しく漏らした言葉を聞き咎めたルネは、彼の腕を掴んでいた指先に力を込めて押し返した。
「ローラン、それ…どういう意味ですか…あっ…ん…」
 ルネは鋭く追求しようとするが、首筋に回ったローランの唇に敏感な部分を甘噛みされ、また力が抜けそうになった。
「ロ、ローラン…ちょっと待って下さいってば…ひゃっ…」
 何とか頭をしっかりさせようと懸命に努力しながら、ルネはローランの胸を叩いてみるが、その手には甘えているくらいの力しか入らず、彼の膝の上から転がり落ちないようにするだけで精いっぱいだった。
「俺は、大切なものを守るためなら、何だってやれてしまう男だ。俺とおまえは確かによく似ているが、決定的に違う部分があるとすれば、その一点に尽きるだろうな。潔癖なおまえに、俺のようなあざとい真似ができるか…?」
 ローランは苦々しげに独りごちると、ルネの腰が弓なりになるほど一際強い力で抱きすくめ、それから、ふいに引き離した。
「ローラン…?」
 息を弾ませ、潤んだ目で呆然とローランを見上げるルネの顔には、優しいかと思えば突然理解できない言動で自分を振り回す恋人に対する不安と疑念、与えられる快感にすっかり取り乱した自分を見られることの恥ずかしさや腹立たしさなど、せめぎ合うすべての感情が透けて見えるようだった。
 そんなルネをしげしげと見下ろした後、ローランは否定するかのごとく頭を振った。
「いや、おまえにはやはり無理だよ、ルネ」
 やけに納得したように呟いて、ローランはよろよろと身を起こすルネから顔を背けた。
(な、何、今の…僕には無理とか、どういう意味…?)
 ルネはローランに背を向け、服の乱れを震える手で直した。その耳に、ローランの小さな舌打ちが聞こえた。
「全く、何をやっているんだ、俺は…」
 ルネはおずおずと振り返り、ローランの様子を窺った。
ローランは忌々しげに手で髪をかき回した後、所在なげに肩を落として佇んでいるルネの方に体を向けた。
「ルネ、今のはただの戯言だ。大した意味などないんだ…どうか忘れてくれ」
 ルネが唇をきゅっと引き結んで黙っていると、ローランは椅子から立ち上がり、その俯いた頭に手を伸ばした。
「…怒っているのか?」
 ルネは一瞬、その手を振り払ってやろうかと思った。しかし、迷っているうちに体ごと引き寄せられ、頭にこつんと押し付けられた彼の額を感じた。
「お前を混乱させて、すまない、ルネ…俺が今、腹がたって仕方ないのは自分に対してだ。それをお前にぶつけてしまうなんて、全くどうかしているな」
 心底後悔したようなローランの声。
ルネは気持ちがほだされるのを覚え、そろそろと顔を上げた。
「あなたを苛立たせている原因は…僕ではないのですか…? 僕はあなたを愛していると口では言うけれど、態度では充分示すことが出来ていないから…」
 ローランに伝えるべきことをまだ伝えられていない後ろめたさから、ルネはつい尋ねてみた。
「違う。それは違うぞ、ルネ、おまえが原因だなんて、馬鹿なことを考えるな」
ローランは一瞬瞠目した後、真顔になってきっぱりと否定した。
「でも…僕は…」
 自信なげに瞳を揺らせるルネに、ローランは急いた口調で、畳みかけるように言い聞かせた。
「おまえが、俺を愛してくれていることはよく分かっている。そんなお前の心が、プラン・ド・プランのように混じりっ気のない純粋なものだということもな…俺はおまえを信じているから、心配するな」
「ジャック・セロスのプラン・ド・プラン…僕のイメージだといつかあなたは言いましたね。でも僕は、あなたが思っているほど純真という訳ではないですよ」
 ルネはローランの腕からそっと身を引き、切ない目をして微笑んだ。
 それを見てローランは何か言いかけたが、結局諦めたように口をつぐんだ。
 2人とも黙りこんでしまったため、部屋には束の間、張りつめたような静寂が下りた。
(どうしよう…気まずい雰囲気になっちゃった。どうにかして、この空気を和ませないと…)
 うまい方法はないものかと探し求めるかのように、ルネは視線をさ迷わせ、ローランの後ろのある大きな窓の外を眺めやった。そろそろ街灯の灯りだした時刻、宵闇に沈みつつある見慣れた街並みがそこにある。
 ローランに誘われてここで働き始めてまだ四カ月程度しか経っていないのだが、ずっと前からここにいるかのような錯覚さえ覚えさせられるほど、目に馴染んだ光景だ。
(最初はいつまで続けられるかどうか不安だった、ルレ・ロスコーでの仕事だけれど、いつの間にかすっかり慣れて、今ではここにいることが当たり前のように感じられるようになった。今更故郷に帰りたいとは思わない。そう、ローランがいる、このルレ・ロスコーが、僕の居場所なんだ…手放すことなんか、考えられない)
 ルネがぼんやりと物思いにふけっている間、ローランは再び椅子に座りなおして、彼とは別の物思いにふけっていたようだ。
 ふいに、目の前に置かれた、まだ手をつけていないコーヒー・カップに気付いて、彼は呟いた。
「せっかく、お前が淹れてくれたコーヒーがすっかり冷めてしまったな」
 ルネは夢から覚めたかのように瞬きをし、自分をじっと見つめているローランを振り返った。
「新しいものに入れ直してきましょうか?」
 ルネがいつもそうしているように、ごく自然に言葉は唇からこぼれた。
「いや、これでいい」
 ローランは優しく目を細め、ルネが彼のために用意したコーヒーをゆっくりとうまそうに飲みほした。
 こんな会話は2人にとってお馴染みのもの。こんな情景も、ルネがここで何度も見た覚えがあるものだった。
 部屋の空気は、2人の心を反映して、いつのまにか凪いでいた。
「お願いがあります、ローラン」
椅子の背に泰然と身を持たせかけて自分を見守っているローランの前に立った時、ルネは普段通り落ち着いていた。
「あの…明日のデートの後、2人きりで話す時間をいただけませんか。あなたに、どうしても聞いてもらいたい話があるんです」
 今まで頭の中で何度もシミュレーションしていたものの、なかなか切り出せなかった言葉なのに、案外簡単に口にすることが出来た。
 ローランはその頼みをしばし吟味するかのように考え込んだ後、ルネの顔を正面から見据えて確認した。
「それは、今話した方がよくはないのか…?」
 一瞬ルネは迷った。今なら冷静に自分の抱えた事情を説明し、これまでローランを騙していたことを謝れそうな気がしたが、大事な仕事の場に、どんな結果をもたらすかもしれぬ私事を持ちこむことは躊躇われた。
「いえ…できれば、オフィスでするよりも、2人だけのプライベートな時間で話したい内容なので…」
「そうか」
 ルネの意志が固いのを見て取ったのだろう、ローランはすぐに引き下がった。
「それでは、明日…楽しみにしていますね、ローラン」
 ルネはにこりと笑って、腕を込んで物思わしげに黙りこんでいるローランの前から、空になったカップを引き上げ、部屋を出て行こうとした。
「ああ、そうだ、ルネ、言い忘れていた」
 ドアを開きかけたルネの背中に、思い出したかのように、ごくさり気ない調子でローラン声をかけた。
「はい?」
 素直に振り返るルネに向かって、ローランはポケットから取り出した煙草に火をつけながら、ぶっきら棒に言った。
「さっきは、しつこく絡んで、お前にばかり言わせてしまったが…俺も、お前のことは好きだからな。信じる信じないは、まあ…おまえの勝手にしろ」
 真剣なのかふざけているのかは、そのむっつりとした仏頂面からは読み取れない。
「あ…う…ど、どうも…」
ルネは口の中でごにょごにょ誤魔化して、慌てて、その場から立ち去った。
(僕のことが好き…かぁ…愛しているって言葉くらい、顔色一つ変えずにムードたっぷり言える人なのに…どうしたんだろ…まるで初心な高校生みたいに、ぎこちなかった…)
 ローランが胸の内は、ルネにとって、相も変わらず謎なままだ。
しかし、いずれにしろ明日、ルネがこれまでひた隠してきた秘密をぶつけてみた時のローランの反応を見れば、彼の自分に対する気持ちの程が分かるはずだ。
そればかりか、自分達がこれから先もずっとここで同じ時間を紡いでいけるか、それとも明日を最後に終わらせるしかないのかも、きっと―。
 


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