第5章 Blanc de Blancs


 ステージの中心で、ガブリエルは微笑んでいた。自らの置かれたこの状況を無邪気に楽しむかのように。落ちつき払った、その物腰には不安や気後れなど全く見られない。
 彼にとって、他人の注目を受けることなど慣れっこなのだろう。しかし、自然な優雅さと高貴さを醸した姿に、高慢さは感じさせず、むしろとびきり純粋で、愛に満ち、魅惑的な微笑に見えた。
(同じ顔した僕が、何見惚れているんだよって思うけれど…顔の造作は似ていても、やっぱり違うんだよねぇ。この人にじっと見つめられ、こんなふうに微笑みかけられて、魅了されずにいられる人間なんているんだろうか…?)
ルネは自分の顔におずおずと触れてみ、それから傍らのローランの様子を横目で確認した。
 うつけたような顔でテレビの中のガブリエルの姿に釘づけになっていたら嫌だなぁと思ったのだが、さすがに一緒に育って見慣れた顔だからか、ローランは割と冷静に番組の進行を見守っている。もっとも、その瞳は、難しい顔で考え込んでいた先程に比べて、ずっと生き生きと輝いていた。
(やっぱり、好きなんだなぁ…僕としてはあんまり面白くないけれど、こんな嬉しそうな顔を見ちゃったら、何だかもう仕方がないような気がしてくるよ)
 番組の方に注意を戻すと、司会者はいきなり最初から、今朝テレビ局の駐車で起きた爆弾騒ぎを話題に取り上げてきた。
『…それにしても、局入りする直前にあんな事件があって、ムッシュ・ロスコーもさぞ驚かれたでしょう?』
 しかし、そんなふうに振られたガブリエルはといえば、警察に出向いて事情を説明しなければならなかった当事者とは思えぬほど、冷静かつ泰然とした態度を崩さなかった。
『ええ、一体何者の犯行なのか見当もつきませんが、随分無駄なことに労力を使うものだと驚き呆れましたねぇ』などと、口ぶりは柔らかなので事情を知らない者は聞き流してしまいそうだが、当の犯人が聞いていたら噴死しそうなくらい、台詞はきっつい。
(うわぁ…虫も殺せないような顔をして、大した度胸だよ。単なる脅し目的とはいえ、下手すれば自分の車に爆弾が仕掛けられていたかもしれないのに、そんなことおくびにも出さないで…)
 ガブリエルにつけいる隙が全くなかったからか、それとも初めから打ち合わせ通りだったのか、事件について、司会者もそれ以上追及することはなかった。
(なるほど、確かにこの人なら、爆弾騒ぎの直後だろうが平気だとローランが判断したのも頷ける。見かけはたおやかだけれど芯はとてもしっかりしていて、他人の支えを必要とすることはなさそうだ)
 ルネがガブリエルの堂々たる受け答えに感心しているうちに、番組は滞りなく進行していった。
 司会者の口から出たのは、しばらく世間から身を隠している間ガブリエルはどこで何をしていたのかなど、大方の視聴者が知りたがるだろう素朴な疑問から、アカデミー・グルマンディーズの後継者争いの内幕、ロスコー家の内紛についての際どい質問にまで及んだ。
 それらの問いかけに、ガブリエルは静かに耳を傾け、ロスコー家の名誉を守るために差し障りのない範囲でだろうが、1つ1つ丁寧に答えていった。
 彼の答えが全て真実なのかどうか、ルネには判別しようがない。しかし、少なくともテレビを通じてガブリエルが語るのを見守った視聴者は信じただろう。
 なぜなら、カメラに向かって微笑んでいる、純真そのものの青年が嘘をつくことなど想像もできないからだ。
ガブリエルに対しては複雑な感情を抱いているルネですら、彼を見守っているうちに奥深い所からこみ上げてくる慕わしさに戸惑うほどなのだ。
さすがにこれには答えられないだろう、ソロモンとの敵対関係について探りを入れられたガブリエルが、ふっくらとした唇に人差し指を押し付けるような仕草をしながら、それは秘密ですとでもいうかの如く、謎めいた嫣然たる表情を見せた時には、思わず鳥肌が立った。
画面の端に視線を移せば、やり取りを見守るオーディエンスは陶然となり、シニカルなキャラで知られる司会者ですら、ガブリエルを見つめる眼差しは熱っぽく、その態度は憧れの人に対しているかのように恭しい。
(単にテレビ映えするってだけじゃない…万人の心を掴む、名状しがたい魅力に放つ、こういう存在をカリスマって呼ぶんだろうな)
 実物のガブリエルに会った時にもその存在感に圧倒されそうになったことを思い出しながら、ルネはまた傍らのローランに目をやった。
「…いいんですか、あたりかまわず魅力を振りまきすぎると、あなたの天使に恋焦がれて付け回す厄介なストーカーがまた現れるかもしれませんよ?」
 丁度番組はCMのために中断された所だった。
新しい煙草に火をつけたばかりのローランは、ルネの方に顔を向け、にっと笑った。
「ストーカーの一人や二人、別にどうってことはないさ。あいつのことは俺が体を張ってでも守る。そのために、俺は存在しているんだからな」
 ローランが臆面もなく言った台詞に、ルネはなぜか胸を突かれて、一瞬何も言い返せなくなった。
(他の何より大切なあなただから、いざとなれば体を張ってでも守り抜いてみせる。そのために僕は存在しているんだ)
 自分に置き換えてみた台詞を頭の中でぼんやりと呟いているルネに、ローランは訝しげに眉を潜めた。
「どうした、ルネ、そんなぽかんとした顔をして…」
 ルネは水を浴びせられたかのようにびくっと身を震わせると、慌てて取り繕った。
「い、いえ、あなたにそこまで言わせるムッシュ・ロスコーが羨ましいなって思っただけです。年がら年中、あなたに大事に守ってもらえるなんて、はは…」
 いや、どう考えたって僕がローランに守ってもらう必要なんて、ないんだけどさ―自分で自分に突っ込みを入れながら、ルネは笑って誤魔化した。
「ふうん、おまえでも、そんなこと思うんだな」
「ど、どういう意味ですかっ」
 面白そうに眦を下げるローランを軽く睨みつけて、ルネは言い返すが、その時再び番組が始まったので、2人の会話はそこで途切れた。
(ローランに守ってもらったことなら、僕だって、ワイン・バーでアメリカ男達に絡まれていた時、ちょっとそういう雰囲気にはなったっけ…確かに感動したけれど、あれは僕の本当の姿じゃない。現実には、僕はローランに守られることはないだろう…むしろ、僕の才能や力は、彼を守るためになら活かすことができる)
先程、ローランの口から出た台詞にルネが反応してしまったのは、胸の奥に秘めていた思いとそっくり同じだったため、驚いたからだろう。
(ああ…どうしよう、ついローランに共感してしまった。この人の非常識な忠誠心なんか理解できない、受け入れるなんて真っ平だと公言してきた僕だけれど、やっぱり僕とこの人はおかしな所でよく似ている。だから、ガブリエルに体を張って尽くし続けるこの人を、僕は嫌々ながらも許してきてしまったのか…)
 まだ抵抗を覚えながらも、どうしても認めざるを得なかった事実を飲み下してルネが顔を上げると、テレビの中では、晴れやかな笑みを浮かべたガブリエルが何か言おうとしていた。
『…私の不在のため、延期になっていたアカデミー・グルマンディーズの定例会ですが、年が明けて一月中旬の開催に向けて、最後の調整に入っています』
 ルネは半ば虚脱状態で、ガブリエルがアカデミー・グルマンディーズ主宰として重大発表をするのを見守った。
 本来ならば、12月のクリスマス間近に開催しされるはずだった定例会はロスコー家のスキャンダルの影響で延期となり、当日料理を提供するはずだった有名シェフは怒って辞退してしまった。主宰であるガブリエルの責任を問う声もアカデミー内では出ていたそうだが、それを仕切り直して開催するのだという。
『私はしばらくフランスを離れていました。それは、マスコミ対策だけではなく、アカデミーの定例会において腕をふるってもらう、新しいシェフを探すことが目的でした。私の胸の中では候補者は決まっていたのですが、その人は国内にはいなかったからです。どうやらスイスにいることは分かっていたので、スイス国内を探し続け、やっとジュネーブのあるホテルで働いているその人を見つけました)
 ガブリエルが定例会の料理長として発表したシェフの名前に、業界の話に疎いルネは、聞き覚えはなかった。
しかし、司会者がガブリエルに確認した話の内容を要約すると、こういうことだと理解できた。
 シェフ・クレマン・オベールは、もともとガブリエルが新主宰として取りしきる記念すべき第一回目の定例会を取りしきる料理長として内定していた人物だった。しかし、定例会の直前で彼の自宅兼レストランが出火して全焼。自身も怪我を追う羽目となり、料理長の役を辞退せざるをえなくなった。
 定例会自体は代理のシェフを立てることで大成功をおさめ、ガブリエルは無事にデビューできたが、全てを失ったオベールは失意のままフランスを出奔、行方不明になっていたのだという。 
 ちなみに、オベールを見舞ったこの不幸は何者かの妨害工作だったという噂が後々まで囁かれたが、確たる証拠は未だに見つかっていない。
 ただ、ガブリエルにとっては、ずっと気がかりな存在だったようだ。
「…スイスのジュネーブって、僕とのデートの日、あなたがガブリエルに会いたさで飛んで行った場所ですよね。するとあの日、大天使はやっと見つけたシェフ・オベールに、定例会でのリベンジを依頼していた最中だった訳ですか」
「そういうことだな。初めシェフはあまり乗り気でなかったそうだが…何しろアカデミーに関わってからの彼はずっと不幸続きだったんだ。やっと軌道に乗りかけていた自分の店を失っただけじゃない。自身もしばらく入院生活を余儀なくされたために借金が嵩み、ついには逃げるようにフランスを出て行った。それを、ガブリエルは辛抱強く説得し、ついに口説き落としてパリに連れ帰った」
「料理の天使に本気で口説かれたら、落ちないシェフはいなさそうですが…ムッシュ・ロスコーはどうして、そこまでシェフ・オベールに執心されたんでしょうね?」
 ルネの口から出た素朴な疑問に、その時丁度番組の中で司会者から同じ質問を受けていたガブリエルが、絶妙なタイミングで答えてくれた。
『…なぜなら、私はアカデミー・グルマンディーズの主宰だからです。定例会に招かれたゲストはもちろん、そこに関わる料理人、その他のスタッフの全てに忘れ難い幸せな体験を提供することが、私の役目…この重責を先代から託された者として、シェフ・オベールの置かれた苦境を見過ごすことはできませんでした。だから、彼にもう一度、その才能を思う存分奮ってもらう機会を設け、再起するきっかけとしてもらおうと思ったのです』
 厳かな口調で告げるガブリエルは、無邪気な天使から一変、堂々たる威厳に包まれたアカデミーの最高指導者の顔になっている。
『そして、シェフ・オベールのフランス料理界の復帰は、我がアカデミーが憂慮すべき全ての問題を払拭して迎える、新しい年の門出にふさわしい吉事となるでしょう』
 ガブリエルは嫣然と微笑んだが、今度の笑みは、あらゆる人を魅惑する甘さを含んだものと異なっていた。挑戦的にして不敵、見ている者の胸を騒がせる危険なものだ。
(そうか、これは視聴者向けのメッセージじゃない…ガブリエルは、敵に対して、もう誰にも自分を止めることはできないのだから、おとなしく降参しろと言っているんだ)
 緊張感に身が引き締まるのを覚えながら、ルネは頭を巡らせて、先程からじっと黙りこんでいるローランに話しかけた。
「ソロモン側の人間が今夜のガブリエルのテレビ出演を荒っぽい方法を使ってでもとめようとしたのは、この発表を阻止しようとしたからなんですか…?」
「陰謀の証拠はなくても、シェフ・オベールはアカデミーの後継者争いに巻き込まれた犠牲者だという見方は、会員達の間に根強く残っているからな。ガブリエルを声に出して責める者はいなかったが…不幸な境遇に陥った才能ある料理人を救うことは、一種の試験として新主宰である、あいつに課せられていた。それを果たすことで、ガブリエルは今度こそ、アカデミーの幹部やその会員達の心を掌握するだろうな。そうなると、ソロモンがアカデミーに返り咲く可能性は完全に失われる」
 ローランは酷薄な光をたたえた目を細めて、さも愉快そうに喉の奥で笑った。
「アカデミーの関係者ばかりか、今夜の放送によって世論の支持もしっかり掴み取るでしょうしね。これだけ派手な演出で自分の言い分を広く公言すれば、誰もがアカデミーの顔はガブリエルと認識する訳で…一端既成事実となったものを覆すことは至難の業ですものね。ムッシュ・ロスコーは大した戦略家です」
 ルネが感心しながらしきりに頷いているうちに、番組はやがてエンディングを迎え、満腹した猫のように薄く目を細めて微笑んでいるガブリエルの顔をアップで映し出して、終わった。
「ああ…何だか変な力が入っていたようで、たった30分の番組なのに、見ているだけでえらく疲れました」
 ソファの背もたれにくたっと身を預け、天井に視線を向けてふうっと息を吐くルネを、ローランが意外そうに振り返った。
「俺があいつのテレビ出演の様子をチェックするのは当然だが、おまえも結構真剣に番組を見ていたな。ふふ、ガブリエルに魅入られでもしたか…?」
「自分と同じ姿をした人に、恋をしたりはしませんよ。ただ…」
「ただ?」
 ルネは悩ましげに眉根を寄せると、ちょっと言いにくそうに口ごもりながら囁いた。
「あなたが…その生涯を捧げるほどムッシュ・ロスコーに心酔する理由は少し…分かった気はします」
 ローランは驚いたように眉を上げ、複雑そうに顔をしかめて黙りこんでいるルネをじっと見つめた。
「…そうか」
 ローランはテーブルの上に置いた煙草の箱に手を伸ばしかけたが、気を変えたらしく、ソファに深く座りなおした。
「なあ、ルネ」
「はい?」
 ルネが問いかけるかのごとく顔を向けると、ローランは、まるでガブリエルの残像を追うかの如くテレビの方に視線を固定したまま、ゆっくりと語り始めた。
「ガブリエルを守り、その望みを叶えることは昔も今も俺の喜びだが…ガブリエルがそんな俺の力を心底必要としたことは、これまで一度もなかったんだ」
「え?」
 一体ローランは何を言い出すのかと、ルネは戸惑った。ガブリエルの傍に影のように寄り添い、いつも彼のことを一番に考えて全力で尽くしているローランなのに、必要とされたことはないなんて…?
「あいつと俺は確かに肉親同然に育ったし、それゆえお互いのこともよく分かり合っている。それでも俺達は、根本的に生きている世界が違う。俺はどうしても現実的なものにしか価値を見いだせないが、ガブリルエルは真逆で、己の感性しか信じない。味覚の天才に生れついたあいつにとって、最も価値あるものが料理の世界になるのは仕方がないことだ。あいつの居場所は、今やアカデミー・グルマンディーズだし、そのスタッフならばあいつの手足となって働くことで役に立てるだろう。定例会のため招かれるシェフには、あいつはまるで恋でもするかのように、いつも夢中になっている…きっと、あいつがいつか自分の生涯のパートナーとして選ぶのも、そういう才能ある料理人の一人になるんだろうな」
 ローランは言いづらいことを口にしようとするかのように唇を引き結んだ後、ひっそりと呟いた。
「料理を通じて人を幸せにすることが、あいつの一生の夢なんだそうだ。しかし、残念ながら、俺にはその夢を共有することも叶えてやることもできないんだ」
「ローラン、そんな…こと…」
 ルネは何と言えばいいのか分からず、とっさに口ごもってしまった。
 そんなことはない、ガブリエルはローランを必要としているはずだと言ってあげたかったが、彼ら以上に2人のことを知っているはずもなく、安易な慰めなら口にしない方がまだましだった。
(好きな人を幸せにしてあげたくて一生懸命尽くしても、結局その人は僕など必要とはしない、僕では何の役にも立たないのだと悟ってしまったら…それは相当ショックだろうな…立ち直れないかもしれない)
自分のことのように胸を痛めてうなだれているルネに気がついたらしい、ローランは苦笑しながら、その頭に手を伸ばして、ぐりぐり撫でた。
「おい、おかしな同情はしてくれるなよ、ルネ…俺は現実主義者だから、悩んだ所でどうしようもないことにいつまでも拘りはしないんだ」
「は、はい…すみません…」
 ルネはじわりと目に浮かんできた涙を手の甲で拭い、呆れたように自分を覗きこんでいるローランの顔を見上げた。
「他人の事情にそこまで感情移入するなよ、全く…」
 ローランはどこまでこの話を続けるべきか迷ったようだが、忠実に待ち続ける構えのルネに根負けしたかのように、再び口を開いた。
「俺が、本社でのキャリアを途中で投げ出して、副社長としてつぶれかかったルレ・ロスコーを建て直すなんてしんどいだけの役目を引き受けたのは、ガブリエルのたっての頼みだったからだ」
ふと遠い目になって、それほど昔のことではない過去を懐かしげに語り出すローランを、ルネは息を詰めて見守った。
「ガブリエルは気まぐれな我が侭でしょっちゅう俺を振り回して楽しんではいたが…それでも心の底から俺に頼みごとをしたことはなかった。自分の作りだす夢の世界に住んでいるあいつは、そういう必要に駆られたことなどなかったからだ。それが、アカデミーの後継者争いがロスコー家の生臭い身内同士の争いに発展して、状況が変わった。どうしても、自分が出て行って解決しなければならない現実的な難題に直面することになって初めて…あいつの夢は理解できなくとも、こういう実際的な問題の処理なら得意とする、俺の価値に気がついてくれた」
 ローランの口調はどことなく誇らしげになり、その唇には薄っすらと笑みが浮かんできていた。
「手始めとしてルレ・ロスコーの社長に就任してその再建に手をつけるにあたり、あいつは俺を呼びつけて、どうか一緒に来てほしい、片腕として自分を助けて欲しいと懇願した。本社で進行中のプロジェクトの責任者だった俺に、いきなりそんなことを頼まれても困るというものだが…あいつにあんなふうに求められたら、断れるはずがなかった。当時の部下には無責任だとか裏切り者だと罵られたし、ジル会長にも無理をしなくてもいいんだぞと諭されたが、結局俺は周囲の反対を押し切って、火中の栗を拾いに行くことに決めた」
 ふと苦い記憶がよみがえったかのようにローランは一瞬顔をしかめたが、すぐに全てを達観したような穏やかさを取り戻した。
「あいつのおかげで、俺が失ったものは決して少なくはなかったし、人生設計も若干狂ったような気はするが…後悔はしていない」
 そう言いきるローランの口調に、迷いは微塵もなかった。
「ガブリエルはあの時、俺が必要なんだと言ってくれた。そうとも、俺の力で、あいつを助けられる…こんなに嬉しいことはない」
 ローランは笑っていた。心の底から幸せそうに、満足げに、その魔法の言葉だけで、全ての労苦は報われるのだというかの如く―。
「ローラン…」
 ローランがガブリエルに対する思いを吐露するのに黙って耳を傾けたルネは、不思議な感動に胸を揺さぶられていた。
秘密主義のローランは、ルネがどんなにつついても、なかなか本心を明かしてはくれなかった。そのローランが思いがけなくも漏らした、今の言葉こそ、彼が胸の奥にしまっていた嘘偽りのない真情だったに違いない。
(ローランがこんなふうに胸の内を僕に明かしてくれたのは、たぶん初めてだ)
 残念ながら、ルネが一番知りたい、自分に対するローランの思いは聞けなかったが、それでも一向に構わなかった。
(どうしてだろう、これだけガブリエル一途に語られても、僕は今、恋敵に対する嫉妬なんか感じないし、失恋したような気もしない…ただ、ローランが僕に本心を語ってくれたことがたまらなく嬉しい。それにしても…)
 何やら無性におかしいような気分がこみ上げて来て、ふっと、ルネの唇に小さな笑みがこぼれた。
 全く、この男、忠犬なのも程がある。決して自分のものにはならない人を、それでも忠実に愛し抜き、決して裏切らず、どんな犠牲を払ってでも、その期待に全力で応えようとする。
(本当に、何て馬鹿な人だろう…その報われなさが、僕にとってはちょっと身につまされそうになるくらい可哀想で可愛くて…愛おしい…)
 ルネはソファの上を滑らかに移動してローランにぴたりと寄り添い、その手の上に自らの手を重ねた。
「ねぇ、ローラン…どうして、そんな大切なことを僕に話してくれたんですか…?」
「うん…?」
 ローランは夢から覚めたように瞬きをして、自分に向かって柔らかく微笑んでいるルネの顔を戸惑いながら見下ろした。
「いつか過労死するんじゃないかとはらはらするくらい、がむしゃらに仕事に打ち込んでいるあなたの心の拠り所が、ムッシュ・ロスコーがくれた、たった一つの言葉だったなんて…今まで誰にも打ち明けたことはなかったでしょう…?」
 ルネの言葉に、ローランは半分照れたような困ったような顔になって、頬のあたりを指先で引っ掻いた。
「確かにそうだな…何故だか、おまえになら別に話してもいいかという気持ちになった。こんな話、他の誰にしても信じてもらえないか、呆れかえって馬鹿にされるかのどっちかだろうが、おまえなら、きっと分かってくれるような気がしたからかな…?」
「何しろ、僕はあなたにそっくりですものね…大好きな人に尽くすことが生きがいで、相手が喜ぶ顔さえ見られれば、自分は報われなくても構わないだなんて…全く笑っちゃいます」
 ちょっと意地悪な口調で言われたローランは、一瞬神妙な面持ちで考え込んだかと思うと破顔した。
「ああ、全く、大した笑い話だ。救いようがない馬鹿者だな、おまえも…俺も…」
「でも、少なくとも、あなたも僕も不幸ではないんですよね。自分の力で大切な人を守れて尽くせて、そのおかげで自分も喜びを感じられるなら…」
 自分に言い聞かせるように呟くルネをローランはしばし何か言いたげな目で見守っていたが、おもむろに手を伸ばして、そっとその肩を捉えこんだ。
「…ローラン」
 ルネは素直にローランの抱擁に身を任せた。大好きな人の広い胸に頭を擦り寄せて目を瞑ると、おさまるべき所におさまったような安心感がこみ上げて来て、ほっと力を抜くことが出来た。
「今日は逃げないのか、ルネ?」
ローランはまだ少し躊躇いがちに、確認するかのごとく問うてくる。ルネの神経を逆立てぬよう、優しく背筋を辿る手の感触が何とも心地いい。
「まさか」
ルネはばつが悪そうに笑って、言い返した。
「昨日の悪夢の再現は、僕だってもう真っ平ごめんですよ」
ルネは自らローランの首に腕を巻き付けて引き寄せ、軽く唇を突き出して、甘えるよう誘うよう、キスをねだった。
 それに応えるよう、ローランは深々とルネをかき抱いて、その唇に唇を重ねる。
「僕はもう逃げません…あなたが、僕を遠ざけようとしない限り、ずっと傍にいます」
「そうか」
 擦り合わせた唇の上に直に言葉を注ぎ込む合間に、2人は漏らした吐息を絡めあう。
「傍にいて、僕があなたを守ります…僕の力をあなたのために…」
 ルネがうっとりとつむいだ誓いの言葉も全て、重なり合った唇から、彼の中に吸い込まれていった。
 抱擁はこの上もなくあまやかで、ともすれば都合のいい夢か性質の悪い冗談か、それとも何かの罠のような気さえしてくる。
 それでも、やっとローランと心が通じ合ったという喜びに包まれて、夢中になって彼とのキスにのめり込んでいく、この一時、ルネは確かに幸福だった。
「Je vous aime…あなたを愛しています、ローラン」
 この幸福をずっと手離さないでいるためなら、どんなことでもしてみせると心の底から思えるほどに―。
 


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