第5章 Blanc de Blancs
三
翌朝―というにはかなり遅い時間であったが―ルネはふかふかの羽根布団の中からのっそりと起き上がった。
「ふ…あぁっ…」
中途半端な寝方をしたためか、まだ身体の芯にだるさが残っている。
ルネは両腕を伸ばして大あくびをし、首を回してこきこきいわせた。そうして、独りで寝るには無駄に広い、豪華な天蓋付きのベッドの中から、ここがどこなのか確認するかのように、恐る恐る辺りを見渡した。
ローランがルネのために用意してくれた部屋は、細々とした調度品からベッドのリネンに至るまで最高の品質のものが使われており、どんな気のきいたホテルにも負けないくらい贅を尽くしたものでありながら、滞在者がほっとくつろげる空間を醸していた。
そんな賓客待遇にも増してルネを喜ばせたのは、ローランの部屋が隣接していることだったのだが、愛する人との休暇を満喫するためには最高の環境も、昨日の一件でもはや台無しとなってしまった。
「やっぱり夢じゃないんだよねぇ…すると、ああ、昨日僕がやらかしたあれこれも現実なんだぁ」
ローランとの一悶着があってから、ルネは宣言通り、この部屋に一晩中立てこもった。
本当はお腹が空いて死にそうだったにもかかわらず、夕食の誘いも気分が悪いのでと断り、実家から持って帰ったお菓子を食べてしのいだくらい、意地を張り通した。
いつまで経っても姿を現さないルネに痺れを切らしたローランが部屋の前までやってきた時には、心臓が縮み上がったが、彼がどんなに優しく呼びかけても、あるいは乱暴に扉を叩いて脅しつけても、ルネは頑として無視を続けた。
(だって、昨夜はとてもローランの顔をまともに見られるような気分じゃなかったんだもの。だからといって、ドアが開かないよう内側から鍵までかけて徹底的に拒むっていうのは、我ながらやり過ぎだったかな。ローランも今頃きっと呆れ果てているだろうね)
実際、本人に会ってしまえばくどき落とせるでも思ったのか、ローランは、ルネが寝入った頃を見計らって、ドアをこじ開けようと何度も試みていた。それが駄目なら、今度はルネと自分の部屋を仕切る簡易ドアから忍び込もうとしたのだが、いち早くその気配を察したルネは、クローゼットや本棚でパリケードを築いて陣地を守り、最後まで敵の侵入を許さなかった。
今から思い起せば滑稽な図だが、そんな攻防が明け方近くまで続いたがため、おちおち眠ることもできず、ルネは寝坊してしまった訳だ。
「あーあ、ほんとに全く、何をやってるんだろ、僕」
一夜明けて頭が冷えると、さすがに後悔の念がこみ上げてきて、ルネを居たたまれなくさせた。
(ローラン、やっぱり怒っているんだろうな…どんなに我慢強い恋人だって、あそこまで頑なに拒否されたら、頭に来て当然だ。ましてや、プライドの高いローランだもの。こんな侮辱を受けたことはないって激怒していそうだ。今朝はまだ声を聞いてないけど…どうしているんだろう…?)
ルネは昨夜からずっと電源を切りっぱなしだった携帯を恐る恐るオンにして、そこにローランからのメッセージが入ってないか確認した。しかし、期待に反して、履歴には何も残っていなかった。
(とにかく、これ以上妙な意地を張り続けている場合じゃない。このままじゃ、ローランとの甘々な休日計画どころか、彼との関係そのものが壊れてしまう)
執拗に追いかけられれば逃げ続けるが、相手が諦めて身を引いてしまうと急に心配になって後を追ってしまうのは、恋愛にはよくある不条理だ。
ローランに会いたくて急に矢も楯もたまらなくなったルネは、手早く着替えをすませると、思いきって部屋の外に出て行った。
(隣の部屋には、人がいる気配はもうしなかった。ローランはとっくに起き出して、屋敷のどこかで僕をじりじりしながら待っているんだろうな。彼がいそうな場所…ううん、まずはダイニングに行ってみようか)
この馬鹿野郎と開口一番怒鳴りつけられるのを覚悟して、ルネはローランがいるかもしれない場所に足を向けた。
(ローラン…?)
ルネが、警察に出頭するような神妙な顔つきでダイニングに入っていくと、まるで待ち構えていたかのように使用人が現れて、用意されていた席に案内してくれた。
ルネはさっと四方に視線を走らせたが、残念ながら目当ての人の姿は見当たらなかった。
しかし、真っ白なテーブルクロスの敷かれた細長いテーブルの上には、一輪の赤い薔薇と共にルネあてのメッセージカードが残されていた。
「ローランからだ」
ルネは慌ててカードを開き、そこに書き記されていたメッセージを貪るようにして読んだ。
(おはよう、ルネ。お前の寝起きの顔を見られないのは残念だが、今朝、パリに至急戻らなければならない事態が発生した。せっかくの休暇なのに独りにさせてしまって、すまない。夕方には戻るつもりだから、それまでいい子にして待っていてくれ)
昨夜2人の間であったいざこざについては全く触れないもしないで、むしろ拍子抜けするくらいに優しい、気遣いに溢れた文章ではあった。しかし―。
ルネはカードを手にしたまま、怒らせていた肩をがっくりと落として、椅子の背に力なくもたれかかった。
「あーあ、ローランは出かけちゃったのかぁ。せっかく、彼を見つけたら真っ先に謝って昨日の僕の振る舞いを許してもらおう、仲直りして彼との休暇をやり直そうって気持ちになっていたのに、とんだ擦れ違いだ。でも、これも僕の自業自得かな…ローランとちゃんと向き合うどころか、また逃げ出してしまった」
ルネは自嘲のこもった微苦笑を浮かべて、カードをテーブルの上に戻すと、今度は添えてあった赤い薔薇を取り上げた。
(赤い薔薇を添えたカードなんて、気障で芝居じみた真似、並みの男がやったら笑っちゃいそうだけど…それが、あの人は板についてるんだからなぁ)
そう感じるのも惚れた相手だからかもしれないが、ルネは薔薇の馥郁たる香りを吸いこんで、うっとりと目を閉じた。
(昨日のなりゆきを考えれば、愛想を尽かせていても当然なのに、ローランはここで待っていろと僕に書き残していった。目が覚めた時に彼がいなかったは悲しいけれど、無視されて放置とか荷物をまとめて帰れと言われた訳じゃなかっただけ、まだ救われるかな。少なくても、ローランとやり直せる見込みはまだありそうだ)
自分を励ますように胸の奥で呟いて、ルネは再び目を開いた。薔薇の香りには鎮静作用でもあるのだろうか、少し吹っ切れたような気分になっていた。
「ローランを待ってみよう。会ったらやっぱり不愉快な顔をされるかもしれないけど、その時こそちゃんと謝ればいい。初日からいきなり失敗しちゃった僕だけれど、自分から進んで強引にここまで押し掛けてきていながら、あの人との恋をすっぱり諦められるものか」
そうしてルネは、今初めて気づいたかのような物珍しげな目で、手にした大輪の薔薇をしげしげと眺めた。
(でもこれは、あまり僕向けの花とは言えないな、ローラン…ガブリエルなら、ふさわしいんだろうけれどね。大体女の子じゃあるまいし、花をもらって喜ぶ趣味は僕にはないよ。あえて選ぶとしたら、これよりもっと自然な…実家の近くの森によく咲いていたスズランとか水仙みたいな、親しみを感じる花の方が、僕は好きかな)
ルネはしばし薔薇の花を弄びながら、物思いにふけった。
(ローランが緊急にパリにまで出向いていかざるをえなくなった用件というのは…きっとガブリエルがらみなんだろうなぁ)
確かめるまでもない気がしたが、しばらくしてダイニングに挨拶に現れた執事に尋ねてみると、やはりガブリエルからの連絡が入ったがために、ローランは急遽パリに戻ったらしい。
「詳しいことは後ほどローラン様からご説明があるかと存じますが…あなたを独りにさせることを心苦しく感じていらっしゃるようでした。ルネ様が退屈しないよう、くれぐれも頼むと申しつかっておりますので、遠慮せず、私どもに何でもおっしゃってくださいませ」
「いいえ、どうか気を使わないでください。僕なら、1人で大丈夫ですから…そうですね、天気がいいから、後で気分転換にちょっと近くを散歩でもしてきますよ」
「それならば、乗馬はいかがですか…? この間いらした時も、ローラン様と2人で楽しまれていましたよね。よろしければ後で厩舎にご案内しますよ」
「そうですねぇ…」
今日の予定について取り留めもなく話しているうちに、温かい料理を乗せたワゴンを押した使用人が再びダイニングに入って来た。
気が抜けた途端猛烈な空腹を覚えていたルネは、ぱっと目を輝かせた。それを見た執事は、どうぞごゆっくりとそつなく言って、素早くダイニングから出て行った。
1人になるなり、早速ルネは、自家製と思しきバゲットやクロワッサン、チョコレート入りの甘いパンだけでなく、ソーセージやバターたっぷりのオムレツなどたっぷりとしたブランチをせっせと食べ始めた。
そうして口と手は休みなく動かしながらも、頭はずっと、ガブリエルのためにパリに飛んで行ったローランのことを考えていた。
(詳しいことは帰ってから話す、か…いつもと同じパターンだよね。ここに来る前に予め断わられていたことだし、僕もそれなりに覚悟していたから、別に文句は言わないけれどさ)
しばらく黙々と食べ続け、やっと人心地ついたところで、ルネはカフェ・オレのカップを手にぼんやりと辺りに視線をさまよわせた。
(ローランが怒っていないことを確認できて、ほっとしたはずなのにね…安心するとまた別の不満が出てくるんだから、僕って人間は全くどうしようもないな)
ルネのアバルトメントとは比べ物にならないほど広々とした部屋の中にぽつんと独りで座っているせいだろうか、ともすれば孤独感に圧し拉がれそうになるのは―。
(ローランは、どんな時でもガブリエルを最優先させる…何があっても、それだけは曲げようとしない。そんなあの人に釈然としないものを覚えながらも、結局僕はいつも従うしかなくて…これも、僕が惚れた弱みでつい許してしまったせいだろうか。もしも、僕が嫌だと言えば、どうなるのかな…?)
ふとローランに反旗を翻してみることを想像したが、その結末も簡単に頭の中に思い描けてしまい、ルネはすぐにぶるぶると頭を振って浮かんだ考えを忘れ去るしかなかった。
(もしもガブリエルと僕のどちらかを選べと迫れば、ローランは迷わず、ガブリエルを取るだろう。その点、あの人の態度も言葉も終始一貫していて迷いがない…そう、今更、わざわざ試してみるまでもないことだよ)
ルネは切なく溜息をついて、クロワッサンをもう1つ、大きな口でかぶりついた。
(別にお前の方が大事だなんて見え透いた嘘をついて欲しい訳じゃないけどさ。少しくらい、僕にも見込みがあるかもしれないと期待させるような、気持ちの揺れを見せてくれたっていいのに…)
そうルネが独りごちた時、脳裏にふと、昨日ローランが見せた不審な言動が蘇った。
(そう言えば、昨日のローランは何だか様子が変だったな。いや、もともと変な人なのかもしれないけど…そういう意味じゃなくて、やけに苛々していたり、本気で怒って見せたり、それにいきなり僕を挑発するような乱暴な扱いをしたり…一体どうしたんだろうって、僕も思ってはいたんだ)
きっかけは、アシルが意味ありげな仄めかしをしたことだ。
(計画がどうのとか、何も知らない僕を巻き込んで迷惑をかけるとか…一族の揉め事にどっぷりつかっているローランの傍にいれば、そのとばっちりを多少受けるくらい、僕も覚悟しているんだけれどなぁ)
それをアシルに指摘されたからと言って、ローランがあんなふうに逆上するのはおかしいとルネは思うのだ。
(それとも、もっと深い意味を込めてアシルさんは言ったんだろうか。確かにローランは僕に必要以上のことは言わない人だ…特に、仕事を離れたプライベートに関しては、今でももどかしいくらいに秘密主義で、僕はほとんど知らないと言ってもいい。そのローランがあんなに怒ったということは、アシルさんが言いかけたのは、よほど僕には知られたくない何かだったんだろうか…?)
昨日のルネは、弾みとはいえローランに暴力をふるってしまったせいで動揺が激しく、彼の態度の裏に隠された心情を推し量るような余裕はなかった。
(そう言えばローラン、あの時、僕に何か言いたそうにしていたな。それなのに僕は、あの人の口からどんな言葉が飛び出すか聞くのが恐くて、耳を塞いで逃げ出ししまった…あそこで踏みとどまって、彼の話をちゃんと聞いていたら、今頃僕はこんなふうに悶々と悩むことはなかったのかもしれない。ローランは僕のことを本当はどう思っているのか―ただの部下には個人的なことは教えまいとしているようでいて、仕事を離れた場所でもこうして僕を傍に呼んでくれたりするのはどうしてなのか―はっきりさせることができただろうか)
ルネはまた一つ胸の奥から絞り出すような長い溜息をついて、カップに残っていたカフェ・オレを飲みほした。
せっかくのチャンスをまたしてもふいにしてしまったことにルネは臍をかんだが、これも今更後悔しても遅い話だった。
「とにかく、ローランが戻ってくるまで、どうにかして時間を潰さなきゃ。このままじっとしていると、どんどん気持ちが下がる一方だよ」
何かに追われるようにルネは席を立ち、先程の執事が勧めてくれた乗馬もいいかもしれないなと思いながら、足早にダイニングを出て行った。
結局、気の早い冬の太陽が西の空に大きく傾き、日が陰りだすまで、ルネは、シャトーの周辺に広がる森を馬に乗って散策しながら時間を潰した。
外の空気に触れた方が確かに気は紛れたが、以前ローランと一緒に同じ場所で乗馬を楽しんだ時ほど心が浮き立つはずもない。
日暮れぎりぎりになって、もしかしてローランはもう戻っているかもと期待しながらシャトーに戻ってみるが、車庫の傍を通り過ぎた時、そこに見慣れたローランの車はなかった。
(ガブリエルが絡む緊急事態となると、あの人がそう簡単にパリを離れられるとは思えない…もしかしたら、今夜は帰らないってこともありうるかなぁ)
昨夜ローランを拒否したことへの仕返しということはないだろうが、このまま放置では辛すぎるとルネが祈るような思いで待ち続けていると、七時を過ぎた頃、ようやくローランが戻ってきたとの知らせを執事が部屋に持ってきた。
「ローラン!」
ルネは、喜びのあまり声を弾ませながら、ダイニングの隣にある広い居間に飛び込んだ。
「…ルネか」
ローランはクリーム色の革張りのソファに長い脚を組んで座り、正面に据えられた最新型のワイドテレビの画面に顔を向けて物思いにふけっていたが、頬を紅潮させて入ってきたルネの姿を部屋の入口に認めると、ほっと安堵したような目をした。
「お、お帰りなさい…」
「もっと早く戻るつもりだったのに、すまなかったな。夕食には何とか間に合ったから、許してくれ」
ローランは穏やか過ぎるくらい穏やかな、むしろ淡々とした口ぶりで、緊張のあまり身を固くしているルネに語りかけた。
「許すだなんて、そんな…僕の方こそ、昨夜はあなたの気遣いをないがしろにするような失礼な真似をしてしまって、申し訳ありませんでした」
しゅんとうなだれるルネに、ローランはちょっと困ったような曖昧な微笑をうかべた。
「昨日のことならお互い様だし、いずれにしろ、もう終わったことだ。俺は怒ってなどいないから、おまえも気にするな」
「えっ…?」
てっきりローランに怒鳴りつけられるか、嫌みの一つも言われるかと思ったのに、あまりにもあっさりとこの話を打ち切られて、ルネは拍子抜けした。
(ローランの言う通り、確かに終わったことには違いないんだけれど…そんなに簡単に済ませられる出来事じゃなかった気がするよ。このまま何もなかったかのように忘れてしまって、いいものなんだろうか)
ルネの方は、独り、馬に乗って森をさ迷ううちにようやく決心がついたのに、肝心のローランは昨日の続きをするつもりはもうないという。
(いや、よくなんかない。僕は、昨日ローランに拳を振るってしまったことを謝るだけで終わらせてしまうのではなく、この機会に本当の自分の姿を知らせるべきなんだ)
ルネは萎みかけた勇気を奮い起し、決然とした顔でローランに向かって歩いて行った。
「あ、あの、ローラン」
ルネは衝動的に口を開きかけたが、その時目に入ってきたローランの表情に、出かかった言葉を飲み込んだ。
ローランはこれでルネとの間の問題は解決したと考えたのか、既に視線をルネから逸らしており、気難しげな顔で何か深い思案に暮れている。
(駄目だ…今、ローランに僕の個人的な話なんかしても、煩わしがられるだけで、ちゃんと聞いてはもらえない)
ローランは、確かに約束通りルネの傍に戻ってきたが、その心はここではない別の場所に―パリに残してきている。
(今のローランは、昨日僕に何か打ち明けたがっていたローランと同じ人じゃない…昨日なら、僕が逃げずに正面からぶつかっていけば、彼は本当の心情を包み隠さず僕に明かしてくれたかもしれない。けれど、もうそんなことはしないだろう。僕の過去のトラウマやずっと隠していた秘密なんか、もっと大切な案件を抱えているローランに打ち明けても、意味はない)
聡いルネは、ローランの状態を正しく分析し、今どんなふうに彼に接するべきか素早く結論を出していた。
つまり、2人が互いに分かりあい、本当の恋人同士になるチャンスはまた遠のいてしまったということだ。
「僕達って、本当にタイミングが悪いや」
ひっそりと呟いて、ルネは、ローランの思考の妨げにならないよう足音を忍ばせて近付き、彼の傍らに静かに腰を下ろした。
大丈夫、こういうモードの時のローランの取り扱い方なら、秘書としてルネは慣れている。ある意味、特別な人として彼の関心を独占し、ちやほやもてなされ、甘やかされている時よりもしっくりと来る。
(ローランが今、他の人のことで頭がいっぱいで僕にまで注意を向けられないっていうのは、寂しい状況のはずなんだけれどなぁ)
しかし、それ以上に、大きな悩みを抱えているらしいローランの力になりたい、傍に寄り添って支えになりたいというような、我ながらどうしようもない欲求が込み上げてくる。
(二律背反っていうのかな、これ…僕はローランの特別な人になりたくて悶々としている。けれど、別に恋人としてでなくても、彼を支えられることに特別な喜びを感じられる)
思いつめたようなローランの横顔を冷静に観察しながら、ルネはそっと伸ばした手を彼の膝の上に置いた。
「…ムッシュ・ロスコーに、何かあったんですか?」
抑制の利いた声で囁きかけられたローランは、姿勢はそのままに、瞼だけを微かに震わせた。その喉がゆっくりと上下し、努めて気持ちを鎮めようとしているかのような、低い声で語った。
「…実は、あいつが出演する予定だったテレビ局の地下駐車場で今朝、爆弾騒ぎがあってな」
「爆弾…?」
ルネは喫驚の叫びが洩れそうになるのを懸命に抑えながら、膝の上で固く握りしめられたローランの手を宥めるようにさすった。
「時限式の爆発物が、駐車していた高級車に仕掛けられていたんだ。爆発の規模自体は子供の悪戯程度のもので、幸い怪我人は1人も出なかったが、非常ベルが鳴り響き、慌てたテレビ局員が外に避難して、警察や消防が駆けつける大騒ぎになった」
「それって…まさか、ムッシュ・ロスコーを狙っての犯行だったんですか?」
しばし唖然となった後、さすがに動揺を抑えかねたルネが幾分声を高くすると、ローランは重々しく頷いた。
「ターゲットになった車は、ガブリエルもよく使う、アカデミー・グルマンディーズの公用車と同タイプのものだったそうだ。しかし、幸いガブリエルが巻き込まれることはなかった。あいつが局入りするのは午後の予定だったからな…つまり、犯人はガブリエルの車と勘違いして、他人の車に爆発物をしかけた訳だ。あいつがテレビ出演するのは極秘だったんだが、どこからか情報が漏れたんだろう」
「それでは、ムッシュ・ロスコーはご無事なんですね…?」
「ああ、もちろんだ」
ローランは一瞬腹立たしさを抑えかねたような強い口調で言った後、黙り込んだ。
「今回犯人が使ったのが殺傷能力のない小型の爆発物だったことからすると…ガブリエルを本当に傷つけるつもりはなく、脅しか警告のつもりだったんだろうな」
しばらくして再び語り始めた時には、ローランはまた冷静さを取り戻していた。
「警告、ですか…」
ルネは首を捻って、考え込んだ。アカデミー・グルマンディーズの若き新主宰として一躍マスコミの寵児となったガブリエルだが、ここしばらくはロスコー家の内紛の当事者というスキャンダラスな注目のされ方を嫌い、テレビからも姿を消していた。それが、パリに戻ってきて最初にする公の活動が今回のテレビ出演ならば、世間だけでなく、彼の敵も注目しそうだ。
「わざわざテレビ局なんて目立つ場所で狙われたということは、ムッシュ・ロスコーの出演する番組の放送を中止させようとか、そういう目的でしょうか?」
「おまえの推理は、核心に近い所を突いていると思うぞ、ルネ。実際アカデミーやガブリエル宛に犯行メッセージが送りつけられた訳ではないが…状況からするとやはりガブリエルを狙った可能性が高いということで、警察に事情を説明しなければならなくなった。俺がパリに呼び出されたのも、そういうわけだ」
「ムッシュ・ロスコーは、確か以前、悪質なストーカーに脅迫文を送りつけられたことがありましたね? それと同様の事件である可能性もあるんじゃないですか?」
「警察はその線からも同時に捜査するようだが、俺達の見方は違っている。何しろ、大きな心当たりがあるからな。ガブリエルは今夜放送予定のテレビ番組で、今まで内密に進めていたアカデミー・グルマンディーズの計画について発表するつもりでいる。それを面白く思わない人間が、我らが親族の中にはいるということだ」
ローランは皮肉っぽく呟いて、おもむろにポケットから煙草を取り出し、火をつけた。
「とち狂った年寄りめ…単なる脅しとはいえ爆弾騒ぎまで引き起こすとはな。それだけ向こうも追いつめられているということだろうが―」
「あの…これがロスコー家の内紛絡みの事件だとすれば、やり方が随分と荒っぽい気がするんですが。社会的地位のある立派な方々が、こういうマフィア紛いの犯罪行為に手を出すことなんてあるんでしょうか…?」
ルネが控え目に自分の意見を述べると、ローランは眉根に皺をよせて考え込みながら、煙草の煙をふっと吹き出した。
「本当の頂点にいるやんごとない方々が直接そんな命令を下すことはないだろうが、下の方には色んな人間がいるからなぁ。この俺だって、目的のためには手段を選ばないが信条だから、ガブリエルを守るために必要なら、犯罪すれすれのことくらいやるだろうしな」
「ちょっ…やめてくださいよ、ローラン。冗談でも、あなたが言うと本気に聞こえてしまいます」
これには思わず青ざめたルネが焦って訴えかけるのを、ローランは横目でちらりと見やり、ふんと鼻先で笑った。
「今更うろたえるなよ、ルネ…おまえも俺の秘書なら、俺のやり方にいい加減慣れろ。綺麗事を言ったって、結果を出せなければ話にもならん。もっとも俺なら、もっとうまく立ち回って、本当に警察を敵に回すような馬鹿なやり方はしないがな」
「はぁ、僕としては、あなたの良識と理性がちゃんと機能し続けることを祈るしかありませんが…あなたは大天使が絡むこととなると逆上しそうで、心配です。いざとなれば、僕は全力であなたの無茶をとめるつもりですが…」
ルネは密かに拳を握りしめ、本当にいざとなれば、どつき回してでもローランの暴走を止めなければと思ったが、昨日の今日ではちょっと自信がなかった。
「俺達は、今回のことはおそらく、ソロモンの側の人間でも下っ端がしかけたものだと思っている。ガブリエルがテレビ出演することを聞きつけたが、阻止しようにも時が迫っていて、こういう乱暴な手段に出たんだろう。しかし、生憎だが、ガブリエルは脅しに屈するような玉じゃない」
「すると、番組はちゃんと放送されるんですね。爆弾騒ぎの影響はなかったということですか…?」
「騒ぎのあった直後、局の人間は緊急の会議を開いて、中止することも検討したが、結局社長の鶴の一声でゴー・サインを出した。実をと言うと、TV7の社長もロスコー家に連なる人間なんだ」
「テレビ局まで、ロスコー家の傘下にあるんですか…」
「ああ、彼はもともと中立の立場を取っていたんだが、身内同士のスキャンダルが長引くのは困ると、この内紛に早々に終止符を打つという条件でガブリエルのテレビ復帰をサポートしてくれたんだ。ガブリエル自身はもともとやる気満々だし、俺と一緒に警察に出向いて話をした、その足でまたテレビ局に戻っていったぞ」
「あの…よかったんですか、ローラン、そんな騒ぎの後、あなたの天使を1人でテレビ局に行かせて…? ずっと付き添っていたかったんじゃないですか?」
変に義理堅い所のあるローランのことだ。もしかして自分との約束を気にかけて、無理をして戻ってきたのではないかと気遣うルネに、ローランは目元を和らげ、言った。
「ガブリエルなら1人でも大丈夫だと思ったから、俺はここに戻ってきたんだ。それに、あいつの傍にはアカデミーの関係者も揃っていれば、ホディガードならシュアンがついているから問題ない。お前が余計な気を使うことはないんだぞ、ルネ、俺の出る幕はもうなかったから帰ってきたまでだ」
「でも、ムッシュ・ロスコーは爆弾で狙われた直後なんですよ。平気そうな顔をしていても、やっぱりあなたを必要としていたかもしれません。子供の頃からずっと兄弟同然に育ってきて、誰より近しいあなたは、やはり頼りになる存在じゃないんですか?」
ルネの言葉に、ローランは唇で薄く微笑むだけで答えなかった。
何だかその表情が少し寂しげに見えて、ルネは不思議に思ったのだが、すぐにローランが話題を強引に元に戻したため、追及はできなかった。
「…ともかく、ガブリエルはこのテレビ出演を皮切りに公の活動を再開する。爆弾騒ぎのおかげで、打ち合わせは予定より大幅にずれ込んだが、何とか今夜の生放送には間に合いそうだ」
「え、今夜って…生放送なんですか、その番組?」
ルネは何かしらはっとして、吸い寄せせられるように、つけっぱなしのテレビの方に視線を移した。
「ああ…そろそろ始まる時間だな」
ローランはやおら身を起こして、煙草をテーブルの上の灰皿でもみ消し、待ち受けるかのようにテレビ画面を見据えた。
そして、その問題の番組は始まった。
(ああ、この番組なら、僕も時々見るかなぁ)
それは、鋭い切り口が人気の司会者が、その時期話題を集める著名人を招いて繰り広げるトーク番組だった。
華々しいオープニングの音楽が流れる中、会場に拍手と共に迎えられたのは、一度会ったら決して忘れられない印象的なオーラに包まれた、ほっそりと優雅な容姿の青年―大天使ことガブリエル・ドゥ・ロスコーだ。
彼は、司会者と向かい合う形で椅子に腰を下ろし、顔を上げて、その無垢そのままの碧い瞳でカメラの方をまっすぐに見返した。
瞬間、固唾を飲んでガブリエルの一挙手一投足を見守っていたルネの胸の内で、その心臓が跳ねた。