第5章 Blanc de Blancs


 ルネがパリ・リヨン駅に降りると、約束通り、ローランが迎えに来てくれていた。
「ムッシュ・ヴェルヌ!」
 大好きな人の姿を見つけるなり、家族から託されたお土産で両手がふさがりながらも、ルネは喜色満面駆け寄り、そんな彼をローランは大げさに腕を広げて待ち受ける。
「休暇中にまでその堅苦しい呼び方はやめろよ、ルネ。うん…? やっぱり少し太ったのかな、おまえ…?」
 ぎゅっと抱きしめられた腕の中、ルネは頭を巡らせてローランを見上げ、恐縮したように言った。
「実家に帰ると毎日ご馳走責めでして…まあ、あなたの下で仕事を始めたらすぐにもとに戻ると思いますけれど、僕はあなた程スタイル・キープに熱心ではありませんので、すみません」
「馬鹿、本気に取るな。太ってなんかいないから安心しろ…ただ、髪は伸びかけて黒い地の色が目立ってきたから、休みの間にトニーに頼んで綺麗に直してもらうことだな」
 ルネの髪の一筋をつんつん引っ張って、ローランは言った。
「やっぱり、このコスプレは続けないといけないんですねぇ…はぁ、面倒くさい」
 ほとんど諦めたように、ルネはぼそりと呟いた。
(ローランの一番タイプなのは、ガブリエルに似せた、この姿…僕がもとの地味な姿に戻ったら、ローランはもう僕に興味をなくしてしまうのだろうか…?)
 愛する人と再会して嬉しいはずなのに、胸をよぎった思いに、ルネは密かに煩悶した。
(少しくらい似ていたって、僕なんか、本物の『大天使』の迫力のある美貌とは比較にならないのにね。そんなこと、ガブリエルの影のように傍についているローランが一番よく分かっているだろうに…)
 ルネは、自分の荷物を半分持って混み合う駅構内をずんずん歩いていく男の背中に向かって、呼びかけた。
「そう言えば、ローラン、ムッシュ・ロスコーは今、帰国されているんですよね。このままパリに残られるんですか、それともマスコミ対策を続けて、また国外に退避されるんですか?」
「いや、あいつはもう、どこにも行く気はないようだ」
ローランは肩越しにちらりとルネを振り返った。その眼差しにふと刃のような鋭さを感じて、ルネはどきりとした。
「ガブリエル・ドゥ・ロスコーが、不要な騒擾を招かないためとはいえ、いつまでも逃げ回るわけにはいかないからな。あいつがパリに戻った以上、当然またマスコミはうるさくなるだろうが…騒ぎが広まる前に、ソロモン一派との決着をつけてしまえばいいんだ」
 ソロモンの名前を口にする際、ローランは汚らわしいものを口にするかのように鼻を皺めた。昨夜のクリスマス・パーティーにおいてガブリエルと衝突したソロモンの言動を、ローランはまだ腹にすえかねているらしい。
 ソロモンはガブリエルの祖父の実の弟だそうだが、アカデミー・グルマンディーズの後継者の地位をガブリエルに奪われ、そのため今は兄とも対立してしまっている。家族親戚が仲良く付き合っているルネにしてみれば、たかが趣味的な集まりの主宰者の地位くらいで、老境に差しかかった兄弟が不仲になるのも大人げない気がする。
「クリスマスに再会した身内同士が大喧嘩というのも、何とも殺伐としていますよね。集まった他の親族の方々も、年に一度のパーティーが台無しになってしまって、がっかりされているでしょう…今日は皆さん、どうされているんですか…?」
 ルネの素朴な気遣いに、ローランは険しくなった表情をすぐに和らげた。
「まっとうな家庭で育ったお前らしい発想だな、ルネ。しかし、それをロスコー家の連中にそのままあてはめて、同情してもらうには及ばないぞ。おまえの家のクリスマスのような和やかで心温まる会でないのは例年通りだから、それが台無しになったところで残念がることはないさ。ガブリエルとソロモンの反目も周知されていたことだから、昨夜のあれを見て動揺はしても、心底うろたえ騒ぐ者はいない。親族達の一部はシャトーにまだ残っているようだが、一夜明けたら、ほとんどが早々に引き揚げていった。自分の家族や関係者に、パーティーでの一件を報告し、今後の対応について相談するのだろう」
 ルネは、母親が持たせてくれた、クリスマスの残りのお菓子の入った包みをそっと撫でながら、難しげに眉を潜めた。
「対応って…つまり、ムッシュ・ロスコーにつくかソロモンに与するか、決断を迫られているってことでしょうか?」
「アカデミー・グルマンディーズの後継者争いくらいで大げさなとおまえは思うかもしれないが、これは、ジル会長が一線から退いた今、誰がロスコー家の長となるかという問題に直結するんでな」
「え、そうなんですか?」
 駅を出、近くの路上に停めてある車を目指してまっすぐ前を見て歩きながら、ローランは深々と頷いた。
「ソロモンは自分が当然ロスコー家を束ねるものと思っているようだが、それを望まない親族は多い。大体、ジル会長より若いとはいえ、ソロモンも立派な年寄りだ。これを機会に隠居して欲しいと言うのが、比較的若い連中の間では共通する願いだ。しかし、頭の固い年寄り連中には、案外ソロモンに与する者も多い」
「うちの会社で、あなたがリストラしまくった幹部達も、もとを正せばソロモンが経営する会社から出向した人が多かったそうですね。アシルさんが担当するボルドー地区で新社長に対するストライキ的な騒動が起こったのも、ソロモンの影響が強い土地柄でしょうか」
 考えに沈み込みながら呟くルネを横目でちらりと見やり、ローランは笑いを含んだ声で言った。
「おまえは賢いな、ルネ」
「からかうのはやめてくださいよ。あなたが直々に出向いて問題の収拾にあたったホテルがソロモンとの関係が深いということを知ってから、何となく気になったもので、僕が入社する前のことを色々調べてみたんです。僕が知らなかったために、何かあった時に対応を誤ったり遅れが出たりしてはいけませんから」
「別に命じられた訳でもないのに、気がかりな点は自ら素早く調査して確かめたか。さすがは、俺が見込んだだけはあるな。おまえは実に優秀な秘書だよ、ルネ」
「…こういう裏事情は、本当はあなたの口から僕に説明があってしかるべきだと思いますけれどね」
 おしゃれな店の立ち並ぶ道の脇、見事なまでに隙間なく縦列駐車している車の中に、ローランの高級なルノー車はあった。
 その後部座席に荷物を押し込み、助手席に身を落ちつけるや、ルネは隣に座ったローランに向けて話を再開させた。
「ね、もしかして―ルレ・ロスコーの再生のために、あなたとガブリエルはタッグを組んでここに乗り込み、それまで幅を利かせていた、役立たずの役員達を追い出した。今から思えば、それ自体、ソロモンとの『後継者争い』の一環だったんじゃないですか?」
「さて、どうだろうな」
 空とぼけたように応えながら、ローランは前後を塞ぐ他の車をものともせずバンパーで軽く押しのけ、ハンドルを滑らかに操って車を発進させた。
「誤解を招かないため断っておくが、別にガブリエルは、ロスコー家の長としての権力とか何かを欲している訳じゃないぞ。あいつは、そういう生臭い話には全く興味がないんだ。その点、ソロモンとは対照的だな。奴には常に、アカデミーの活動すら自分や身内のやっている事業に絡めようとする魂胆が透けて見えるから、ガブリエルは嫌うんだ。時には利害が対立することある一族をうまくまとめ、何かあれば調停する役となるには、公明正大さが求められる。欲得づくで動くような人間が下手に長になんかなったら、身内同士の争いが絶えなくなるぞ」
「確かに、ガブリエルの関心は料理だけ…社長職さえうっちゃって、あなたに会社を任せきりにしてしまう人ですからねぇ」
「全く違う次元で生きている人間だからこそ、中立でいられるんだ。あいつがアカデミー・グルマンディーズの主宰になったのも、味覚の才能は無論、その性格に意味がある。美食外交というのは、昔からフランス人のお家芸みたいなものだが、お互いの腹を探り合いながら微妙な問題を話しあう大事な席で、会食者の心を解きほぐして実りのある会合を演出できる人間は、ソロモンではなく、やはりガブリエルなんだ」
 ルネは、一度会ったきりだが脳裏に鮮烈に焼き付いている、ガブリエルの浮世離れした美貌と人となりを思い浮かべた。
「実物と会うまでは、ただの食道楽の趣味人としか思っていませんでしたけれど…僕とほとんど変わらない年なのに、それだけのものを背負わされて自分を見失わずに泰然自若としていられるなんて、ムッシュ・ロスコーは大した人物ですね」
「当たり前だ。この俺が、一生を捧げている相手だぞ」
自慢そうに言うローランに、一瞬ルネはイラッとしたが、その盲目的忠誠は無視して受け流すことにした。
「ローラン、これからムッシュ・ロスコーのシャトーに戻るんですか? 今更ですけれど、せっかくの休暇中に部外者の僕が押しかけてしまって、大丈夫でしょうか?」
 パリ市街から出る幹線道路に乗って走っていく車の進行方向を道路上の表示で確認しながら、ルネはちょっと心配そうに言った。
「そんな遠慮をすることはないぞ。おまえは俺の秘書なんだから、俺のいる所にいて当然だ。おまえのことはガブリエルも気に入っているようだし…今朝がた、おまえがシャトーに来ると話したら、自分の家だと思ってくつろいで過ごしてくれて言っていた。入れ違いで、あいつは所用のために出かけなければならず、おまえに会えないのを残念がっていたくらいだ」
「そ、そうですか…あ、でも、ローラン、それなら、あなたはムッシュ・ロスコーのお供をしなくてよかったんですか?」
「そんな気遣いも必要はなしだ、ルネ。俺は今日おまえの迎えに行くつもりだったし、ガブリエルはジル爺さんのお供でアカデミー関係者を引きつれて出かけているから、俺の出番はない。そういう訳で、残りの休暇を俺は基本的におまえと一緒に過ごすつもりだ。昨日の電話でも、そう話したろう?」
 帰ってきたら片時も離さず傍に置くつもりだと、この人の艶のある低い声で囁かれたことを思い出し、ルネは赤くなって俯いた。
「ただ、俺が出て行く必要のある火急の用件が入ったら、その間構ってやれなくなるが、そこは我慢してくれよ?」
「いえ、傍にいさせてくださいなんて無理を言い出したのは僕なんですから、あなたこそ、僕に対して余計な気遣いはしないでください」
 今日を入れて後一週間もローランにべったりできるなどと、想像を絶する幸運だ。素直に喜べばいいものを、真面目で控え目なルネはつい気後れしてしまった。
「うん、何だ、せっかく俺がおまえと2人で過ごす気満々でいるのに、おまえは喜ばないのか? 大体オフィスだと、おまえも俺も仕事モードになっていて、それに他の社員達の目もあるから、なかなか親密な雰囲気にはなれないじゃないか。いいんだぞ、休暇中くらい素に戻って、俺にもっと甘えかかってきても?」
 ルネがなかなか乗ってこないので、ローランはどこか不満そうな口調で煽るように言った。
「もちろん、仕事中と違ってあなたが優しいのは嬉しいですけれど…慣れてないので、何だか照れます」
 今更のように、ルネはローランが傍らに恋人のように寄り添っていることを意識した。たちまち体が熱くなり、心臓がどきどきしだすのに、本当にどうしたらいいのか分からなくなった。
「俺が冷たければ不満なくせに、優しいと今度は居心地が悪いなんて、おまえもなかなか難儀な奴だな」
「はぁ…性分でして、すみません」
 火照った頬を懸命に手で冷やしているルネに、ローランは優しい目を投げかけながら、ごくさり気なく、車のエンジン音に紛れてほとんど聞き取れないような低い声で呟いた。
「まあ、おまえがどう感じようと構わんが…俺としては、おまえがここに来てくれて嬉しいぞ、ルネ」
「え、何かおっしゃいましたか、ローラン?」
 ローランは車の前方に視線を戻し、一瞬仕事モードの厳しい上司の口調に戻って言った。
「そのすぐに顔を赤らめる癖は、いい加減改めろと言ったんだ。いつまで経っても田舎臭さが抜けきらん奴め。秘書がそう簡単に感情を顔に出してどうする!」
「はい、すみませんっ」
 反射的に答えるルネに、ローランは堪え切れなくなったように吹きだす。
 2人を乗せた車は、パリ市街を離れ、ガブリエルの居城のある郊外へとまっすぐに走っていった。



 一度ローランに連れてきてもらったことのある、ロスコー家のシャトーに到着した時、日は大分傾きかけていて、広い城の中には昨夜盛大なパーティーが催されていたとは思えないほど静かで落ちついた空気が流れていた。
 極めて上品な物腰の執事の出迎えを受け、案内された部屋でひとまず荷物をほどいて楽な服装に着替えたルネは、ローランが待っている一階の庭に面したサロンに下りていった。
「…あなたがわざわざ駅まで迎えに行くなんて、一体誰だろうと思っていたら、ルネ君だったんですね」
「ああ、あいつが、俺と一緒にいたいと言うのでな。パリに出てきてから仕事ばかりでろくにかまってやれなかったから、丁度いい機会だと俺も思っている」
「ふうん…あなたは、案外ルネ君を大事にしているんですよねぇ。初めは、あんな無邪気な子を捕まえて、こちらの事情はろくに教えず、あんなふうに強引に外見まで変えさせて傍に置くなんて、相変わらず目的のためなら手段を選ばない酷い人だと思っていたけれど…ふふ、一緒にいたかったのは、果たしてルネ君だけなのかなぁ…?」
 少し開いたサロンの扉の向こうからは、ローランのむっつりとした声と共にのんびりと間延びした声が聞こえてきた。何やら聞き覚えがあるなと思いながら、ルネは扉をノックし、開いてみた。
 サロンの中、古風な暖炉の前に並べられたソファセットには、ローランと共にもう一人、金髪の若い男が座っていた。
 その男が頭をぐるっと回し、こちらに向かって微笑みかけてくるのに、ルネは目をまん丸く見開いた。
「やあ、ルネ君、実家でのクリスマスは楽しかったそうだね? こんなに早くパリになんか戻ってきちゃって、よかったのかい?」
「あれ、アシル…さん…?」
 そこにいたのはボルドー地区の担当マネージャーのアシルだった。
 人当たりのよさそうな、なかなか整った顔立ちの青年は、おっとりと微笑みながら席を立ち、戸惑うルネを歓迎するかのように両手を広げ近づいてきた。
「どうしたんですか、あなたの方こそ、せっかくの休暇中なのに、まさかローランの命令でここに呼び出されたんですか?」
 アシルはルネの前で立ち止まり、困ったように首を傾げた。
「うーん、そうだね、君にはまだちゃんと話していなかったね。ローランからも、やっぱり何も聞いてないんだ?」
 アシルは、確認するかのように、ソファの上でふんぞり返っているローランを振り返る。すると彼は、面倒くさそうに肩をすくめた。
「僕の現在の名前は、アシル・クロード・リュリだけれど…母が離婚する前、子供の頃はロスコーを名乗っていたんだ」
「ロスコー…? す、するとアシルさん、あなたもロスコー家の関係者だったんですか?」
「関係者も何も…今ジル会長とガブリエルに散々迷惑をかけているソロモン・ドゥ・ロスコーは、遺伝子上は紛れもない僕の父親だよ。…全く遺憾ながらね」
 どこか苦々しげに、悲しそうに打ち明けるアシルの顔を、ルネは愕然となって見つめた。
 そう言えば、アシルの青い瞳と髪の色はガブリエルに少し似ているような気もするが、しかしあの人間離れした美しい人ととっさに結びつけることはできなかった。
「ついでに言うなら、アシルの母方の実家リュリもロスコー家とは親戚関係で、プロバンス地方を中心に展開する銀行を経営している名家だ」
ローランが、ポケットから取り出した煙草に火をつけながら、付け加えた。
「そうだったんですか。まさかロスコー家の方とは存じあげず、年が近いこともあって、僕、幹部だというのに時々タメ口叩いていました。すみません」
「あはは、いいんだよ、そんなこと…大体僕は、父親とはとっくに縁を切っているし、今はルレ・ロスコーで働く1人の社員に過ぎない。そんなふうに改まった態度を取られると困るよ」
 アシルに導かれるままローランの隣に座らされたルネは、まだ少し信じられないような気分で、穏やかで人当たりのよさ気なアシルから、口元に皮肉っぽい笑みを浮かべているローランへと視線を移した。
(ソロモンがアシルさんの父親…するとアシルさんは、ローランやガブリエルにとって敵の息子でありながら、ルレ・ロスコーの幹部として抜擢されたということかぁ。絶縁状態とはいえ、父親とあからさまに敵対する人が経営する会社の中にいるんだもの、この人の立場は結構微妙なものなんじゃないのかな…?)
 じっと考えに沈んでいるルネの頭の中を読んだかのように、ローランが口を開いた。
「俺もガブリエルも、アシルの父親があのソロモンだからと言って、こいつに対する見方や態度を変えたりはしない。俺達がルレ・ロスコーに乗り込んだ時、最も協力的なのがアシルだったから、他の親族の首は切っても、こいつだけは残したんだ」
「ふふ、その後で僕をボルドー地区の担当に据えたのは父に対する牽制でしょうけれど、僕をそれほどまで深く信頼してくれたことには感謝していますよ。残念ながら、例のホテルの件では僕の力が及ばず、返ってあなたに迷惑をかけてしまったのが悔やまれますが…」
「過ぎたことは忘れろよ、アシル・クロード…親戚だからと言って慣れ合うつもりはないが、俺もおまえも、たまたま父親には恵まれなかったというだけだ。今いる地位は、俺達が自分の能力や才覚、それを生かす努力によって手に入れたもので、遺伝子上の親達には関係ない」
 ルネが後で教えてもらったことだが、アシルはソロモンの二番目の妻との間にできた子供であり、ソロモンが若い愛人と暮らし始めたことが名門出身の妻には耐えがたく、離婚に至ったそうだ。
 現在は四人目の妻と暮らしているソロモンだが、老年期に入って、後継者にふさわしい年頃の優秀な子供はアシル以外に見つからず、今更ながら、関係を修復したがっているらしい。それを逆手にとって、ローランとガブリエルは、アシルをソロモンに対する交渉の窓口にすることに決めたのだという。
 敵側の人間として自分の親相手に交渉だなんて、親子関係の円満なルネには想像できない話だ。板挟みになって、さぞかしストレスだろうとアシルを案ずるも、彼は意外にさばさばしていた。
「僕には、母を泣かせて苦労させた人でなしとしての記憶しかないから、父親だからといって甘い顔をする気にはならないよ。大体、今まで家庭なんか顧みず個人主義で散々やり放題してきた男が、年を取ったら、やっぱり子供とは仲良くしたいなんて、虫がよすぎるんだよ。あ、もしもあの人が心を入れ替えて、ボルドーの屋敷に素直に隠居してくれるなら、感謝の言葉くらいかけてあげてもいいけれどね」
 にっこりと春のお日様のような笑顔で心が冷える台詞を吐くアシルは、見かけに寄らず、やはり曲者揃いのロスコー家に連なるものと言えた。
 それとも、これくらい図太くなければ、今の時代ふしわしからぬ熾烈な権力闘争を続ける貴種の中で生き残れないということだろうか。
「さて、そろそろ僕はパリに戻るよ。今からなら、父と約束したディナーの時間に間に合いそうだからね」
 午後の一時をしばらく歓談した後、アシルはそう言って、おもむろに席を立った。
「え、これからまたソロモン氏に会いに行かれるんですか?」
「うん。父は今朝からパリ市内の某ホテルの移っているんだけれど、このままボルドーに帰ることは思い留まらせて、何とかガブリエルとの話し合いの席に着いてもらおうと思ってね。僕はその説得役を仰せつかったという訳。残りの休暇は、父子としてソロモンにべったりついて、昨日の言い争いで硬化した心を和らげる努力をしてみるよ」
「それって、ちっとも休暇らしい休暇になってないですよね」
 ローランと共に過ごす休暇に心をときめかせている今の自分と引き比べて、ルネは同情的に言った。
「あはは、休暇なら、僕らの計画通りに事がなった後にまとめてもらうつもりだから、御心配なく。そうだよね、ローラン?」
 意味ありげに笑いかけるアシルと、それに対して無言のまま頷くローランとを見比べて、ルネは屈託なく問い返した。
「計画って?」
「ああ、それはね…」
 アシルは一瞬何か言いかけるも、相手が誰なのかを思い出したかのように口をつぐみ、苦笑混じりにルネを見返した。
「参ったな」と、彼は頭をかきながら小さく呟いた。
「ほんとに君は素直で純真な、いい子だよね、ルネ。やっぱり育った環境が違うからかなぁ。可憐な野の白百合のようだ。僕達のつまらない身内同士の争いに関わらせるなんて、気の毒な気がしてくるよ」
「のの…しらゆり…」
 一体どの口がそんな薄ら寒い言葉を吐くのかと呆れ返るルネの傍らで、ローランが軽く舌打ちをした。
「アシル」
 凄みのきいた低い声に呼びかけられて、アシルはまだ何か言いたそうにしていたものの、諦めたように首を振った。
「ごめんね、ルネ君…それじゃ、僕はもう行くからね。休暇中は、ローランを困らせるくらい、思い切り我が侭放題を言ってやったらいい。君には、そのくらいする権利があると思うよ」
 アシルが意味深な言葉を付け加えるのを、ローランは不機嫌そうに見守っていた。
「え、いえ、僕は…ただローランの傍にいられたら、それだけで十分嬉しいですから…」
 ルネはぱっと頬を赤らめて、ローランをちらりと横目で窺った。するとローランは軽く眉をはね上げて、ルネの伸びかけの金髪を指先で優しく撫でつけてくれた。
「君は、心の底からローランを愛しているんだね。まっすぐに、純真に…彼ほど君にふさわしくない男もいないと思うけれどな」
 ローランに可愛がってもらって嬉しそうなルネを前に、アシルは呆れたような憐れむような表情をした。そして、無言のままポケットから新しい煙草を取り出すローランに向き直り、やおら忠告めいた口調で言った。
「ね、この子には、やっぱり君の口からちゃんと話すべきことは全部話してあげた方がいいんじゃないか、ローラン? 何の関係もないのに、こちらの都合で巻き込んで、迷惑をかけるんだからさ…君の部下だというけれど、恋人でもあるんだろ? それなら、自分のやり方で押し通すだけじゃなく、この子の気持ちをもっと考えてやらないと…さもないと君自身、後悔する羽目になるよ?」
 それを聞いたルネは、訝しげに眉を潜めた。
「アシルさん、それ、一体どういう意味ですか…?」
 ローランがまた舌打ちをした。
「おかしな仄めかしでこいつを混乱させるのはよせよ、アシル・クロード、おまえには関係ないことだろう? そう、ルネは俺のものだからな…どう扱おうが俺の勝手だ」
 その言い草にはさすがに異論を唱えたくなるルネだったが、ローランに肩を引き寄せられて、とっさに黙りこんでしまう。
「とにかく、俺達2人のことで余計な口出しはするな!」
 吠えるように言うローランに、アシルはちょっとびっくりしたように瞬きした。
(あれ、ローランってば、本気で怒ってる。珍しいな…短気そうに見えても、実際自分をコントロールする術を心得ているこの人は、そう簡単に他人の前で自分の心をさらけ出さないもの)
 ルネは肩を掴む手に入った力にちょっと顔をしかめながら、いつになく腹立たしげなローランの横顔を凝視していた。
(ローランは、一体どうして、何に対して怒っているんだろう…? 部下なのか恋人なのか、中途半端な関係を続けている僕とのことをアシルさんに指摘されたせい…? ううん、そんな単純な理由で、ローランはここまで怒ったりしない)
 胸の奥で漣立つ不安と疑念を押し殺してじっと様子を窺っているルネを見下ろしながら、アシルは肩をすくめた。
「口出しなんかしないさ、ローラン…どこまでも身勝手な君を一途に愛し続けるか、それとも愛想を尽かせて君の下を立ち去るか、決めるのは結局、ルネ君だからね」
「え、僕…?」
 ローランが喉の奥で低く唸ったのが聞こえたが、彼が何か言い返す前に、アシルは素早く身を引き、片手をひらひらさせながら部屋を出て行った。
「ったく、あいつめ…自分だけ善人面して、余計なことをべらべらとしゃべりやがって、無責任な…」
 アシルがいなくなっても憤懣やるかたないローランは、口の中でぶつぶつ文句を言っていたが、ルネが物言いたげな視線をひたすら向けているので、さすがに無視しきれなくなったようだ。
「何だ、ルネ、俺に対して言いたいことがあるのか?」
 ローランらしくない、どことなく投げやりな口調だった。
「あ、あの…僕は、ローラン…」
「アシルの言ったことが気になるなら、この際俺を追求してみたらどうだ? ここならおまえがどんなに怒鳴り散らしても、気にする人目はないからな」
 挑戦的に言うローランの目がすうっと細くなり、深い緑の瞳は石のように固く感情の読めないものになった。しかしルネは、彼の胸に押し当てた手の下で、その筋肉が緊張のあまり微かに強張るのを感じ取った。
「あ…の…」
 ルネからの質問の矢の雨を正面から受け止める構えのローランを前に、ルネはしきりに唇を舐めながら、どうしようかと迷った。
「アシルさんが、僕とあなたに対して何を言おうとしていたのか…追求したい気持ちがあることは否定しませんよ、でも…」
 ルネは、躊躇うよう、言葉を切った。訝しげに眉を潜めるローランから視線を逸らし、俯きながら続けた。
「でも、あなたの気持ちをいつも量りかねている僕にとって、一度追求なんか始めたら、それこそきりがなくなる気もするんですよねぇ」
 もっと親密な関係を築いていきたいなら、いつかは、とことん本音で話し合うべきだと頭では分かっているルネだが、いざ、こういう場面に直面すると避けてしまう。たぶん、ルネはルネで、ローランに隠している個人的な秘密があるからだろう。
「だから、別にいいです…無理矢理あなたの口を割らせようとは思いませんから、どうぞ御心配なく」
「…えっ?」
 ルネがこんなにあっさり引き下がるとは思っていなかったらしい、ローランはぱちぱちと目を瞬いた。
(ああ、我ながら不甲斐ないというか情けないというか…どうしてこう、肝心な場面で、思い切った一歩を踏み出すことができないんだろう)
 今まで散々、キアラにもじれったいだの臆病だのと言われた。弱気の原因となった過去の傷を知られたガブリエルには、それを克服して、早くローランに秘密を打ち明けるよう勧められた。
(それなのに、僕は何1つ変えられないでいる…こんな僕だから、ローランの不実さを責めることも、彼に正面からぶつかって本心を確かめることもできないんだ)
 ローランに嫌われたくないあまり、いつまでこんな無理を続けるのか。本当の自分を隠して、害のない、可愛い恋人を演じるつもりか。
(普通に考えたら、無理だろうなぁ…いつかぼろが出てしまうよ。たとえ隠しおおせたとしても、僕が疲れ切ってしまいそうだ)
 今更のように、ルネはこの恋の先行きに自信がなくなってきた。もともと一方的にルネが熱を上げて、ローランの下に押しかけてきたようなものなのだ。やっぱり片思いは片思いのままで終わってしまうかもしれない。
「ルネ…」
 ローランはしばらくルネの俯いた白い顔を探るように見つめていたが、ついに、黙っていられなくなったかのように口を開いた。
「おまえ、本当にそれでいいのか?」
 その言葉には、安堵と失望、そして微かな苛立ちが混じったような響きがあった。
「そんな…こと…!」
 反射的に、ルネは顔を上げた。苦虫を噛み潰したような表情で自分を見ているローランと目があった瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
「いい訳ないでしょう…誰のために、無理してると思っているんですかっ」
 かっとなるまま、なじるような口調で言った後、ルネはぷいと顔を背けた。
 無性に腹が立って仕方がなかった。身近にいるのに一向に本心を明かしてくれないローランに、そして、やはり彼に対して本当の姿をさらす勇気のない自分に―。
 一方的に怒鳴ったきり黙りこみ、相手の一切を拒む構えのルネをしばし見守った後、ローランは皮肉混じりの低い声で呟いた。 
「惚れた男相手に言いたいことも言えず、いつも自分を抑えて、嫌なことでも我慢して…そんな無理をしろと言った覚えは別にないが、ふん、確かにお前の言う通り、俺のせいなんだろうさ」
 ルネの頭がぴくりと震えた。
(違う、そんなことを言いたいんじゃない。半分はあなたのせいだけど、僕だって悪い…だから、余計に腹が立つんだってばっ)
 ローランの手が無遠慮に伸びてきて、ルネの肩にかかった。そう思った途端、強く引き寄せられて、仰天したルネは小さな叫び声をあげた。
「ちょっ…ローラン…?」
 反射的に身を固くするルネを強引に抱きかかえ、顎を上げさせて、ローランはその唇にかみつくようにキスをした。
「んっ…ん…」
 とっさのことに反応できず、逃れようともがくルネの体をローランは我がもののようにまさぐり、きつく締め付ける。
「…待って…ください、こんな…」
 今までになく荒っぽい扱いに、ルネは息をつぐ間に抗議の言葉を投げかけるが、それは再び覆ってきた唇によって封じられてしまう。
 ローランに強引なキスや抱擁を浴びせられて、その勢いに流されてしまったことなら、これまでに幾度もあった。しかし、どんな時でもいつも、そこにはローランの自分に対する紛れもない優しさや気遣いが感じられたから、ルネは安心して身を委ねることができた。
 しかし、今のこれは怒りにまかせた衝動的なもので、ルネの心をほぐすどころか、ますます反発させるだけだ。
「やめてください。いきなり、こんなことをされても困ります。今の僕は、とてもじゃないけど、そんな気分になれませんっ」
 やっとの思いで攻撃的なキスの嵐から逃れ、息を乱しながら訴えるルネを、ローランは冷やかな口調で嘲笑った。
「ふん、この期に及んで俺に逆らうつもりか、ルネ。大体、俺とこうすることを期待して、帰省先から飛んで帰ってきたのはお前の方じゃなかったのか…?」
「ローラン…!」
 酷い言い草に、ルネは顔をこわばらせた。束の間抵抗することも忘れて、暗い火を孕んだローランの緑色の瞳を見返した。
「俺を責める気も、心底の怒りをぶつけて問いただす意気地もないなら、何をされても黙っていろ…!」
 叩きつけるように言うなり、ローランは再びルネの体を引き寄せ、幅のあるソファの上に押さえ込もうとした。
「ええっ、まさか本気…ちょ、ちょっとやめてくださいよ、ローラン!」
 焦ったルネは上ずった声で懇願するが、ローランは聞かず、セーターをたくしあげて露わになった肌に乱暴に手を這わせてきた。
 ひっと息を飲んだ、次の瞬間、ルネは切れた。
「この、いい加減に…やめてくださいって言ってるでしょう!!」
 覆いかぶさってくる体を押し返すつもりで、ルネが軽く打ち込んだ拳は、予想外にうまくローランのみぞおち辺りに入った。 
「うっ…」
 低い呻き声と共にローランの大きな体が退くのに、ルネははっと瞠目した。顔を上げると、ローランはソファの背もたれの方に顔を背けて、げほげほと咳込んでいる。
「ロ、ローラン、大丈夫ですか?!」
 青ざめたルネは、慌ててソファから飛び起き、苦しそうに咳込んでいるローランの様子を窺った。
(うわっ、急所に入ったのかな…そんなに力を入れたつもりはないけど、頭にきたせいでとっさに加減ができなかったのかも…ああ、どうしよう)
 傍若無人な言動にむかついてたまにどついてやろうかと思うことはあっても、武道の修行を積んだ自分がローランに暴力をふるうことなど、ルネにとってありえなかった。むしろ、彼を威嚇しない、か弱くおとなしい人物を必死で演じてきたのに、とっさに我慢が利かなくなったがために秘密を知られてしまうなんて、大失態だ。 
 泣きそうになりながら、ルネは、微かに波打っているローランの背中を手で擦り、ひたすら謝りまくった。
「ごめんなさい、ローラン、ごめんなさい…」
 動揺するルネの脳裏を、高校時代、強くなりすぎた自分から離れて行った初恋の人の面影が一瞬よぎる。
(ごめん、もう俺は、おまえのことを以前のように可愛いとは感じられなくなってしまったんだ。だっておまえ…強すぎるよ…)
 何年も前に失った恋人のことが、今でも好きな訳ではない。しかし、彼が残した言葉だけは、今でも胸の奥深くに棘のように突き刺さって、ルネは忘れたくても忘れられないのだ。
「もう、いい…大丈夫だ、ルネ、一瞬息がとまっただけだから、心配するな」
 一生懸命背中をさすっているルネの手を捕まえ、ローランは体をこちらに向けた。
「ふう、おまえのパンチもガブリエルに劣らず、結構効くな…げほ…」 
 神経質に震えるルネの手を、ローランはきゅっと握り締めながら、笑った。つい先ほど暗い熾火にも似た怒りをルネにぶつけてきた男とは別人のような穏やかさだったが、その優しい口調も柔らかな眼差しも混乱するルネの心を鎮めることはできなかった。
「何だ、その気になればちゃんと俺に逆らうこともできるじゃないか、ルネ」
 ローランは捕えこんでルネの手を広げ、その掌にしばらく見入って何事か考え込んだ後、おもむろに顔を上げた。
「なあ、ルネ、俺は…」
 ローランの唇が、決然とした意思を込めて何か言おうとするのを見た瞬間、ルネは怯えたように彼の手から自分の手を引っ込めた。
「ルネ?」
 訝しげに眉を寄せるローランを見ながら、ルネはよろよろと立ちあがった。
「ごめんなさい、ごめんなさい…ごめんなさいっ…!」
 ルネは上げた両手で耳を覆い、顔を歪めて、ぽろぽろと涙を流し始めた。
「あなたに手を上げたりして、ごめんなさい…もう二度としないから、忘れてくださいっ」
「どうした、ルネ、そんな大げさに言うほどのことじゃない…無理を強要した俺に、ちょっと抵抗しただけじゃないか…? 謝るとすれば、おまえではなくむしろ俺の方だ」
 ルネの様子がおかしいことに気付いたローランは優しい口ぶりで根気強くなだめようとするが、ルネは耳をふさいだまま聞こうともせず、頭を振った。
「ごめんなさい、ローラン…お願いだから、それ以上何も聞かないで…!」
 ローランは別にルネを追求する言葉1つ発してはいなかったが、ひた隠しにしてきた自分の力の片鱗を発揮してしまったことで、ルネは完全にパニックに陥っていた。
「僕、部屋に引きこもって反省しますから、今日はもう、そのままそっとしておいてくださいっ」
 これ以上ローランの顔をまともに見ていられなくなったルネは、くるりと背を向け、そのまま脱兎のごとく逃げ出した。
「部屋にこもるって…え、本気か…? ちょ、ちょっと待てよ、ルネ…!」
 一瞬呆気に取られたローランが引き留めようと身を起こした時には、ルネは勢いよく扉から飛び出して、自分に与えられた部屋に向かって一目散に駆け上っていった。
 ちなみに、ルネの部屋はローランがいつも使っている部屋の続きにあって、休暇の間自由に行き来が出来るように開放しておくつもりだったのだが、あの様子だとローランが勝手に入ってくることなど受け付けないだろう。
「そっとしておいてくれって、おまえ…それこそ、一体何しにここまで来たんだ…? 俺だって楽しみにしていたのに…いきなり放置かよ…」
 1人残されたローランはしばらくルネが消えていった扉を呆然と見つめていたが、やがて力が抜けたようにソファに座り込んだ。
「全く、お前の扱いにはほとほと困り果てるぞ…この俺が…!」
 両手で頭を抱え込み、がっくりとうなだれたまま落ち込むローランだったが、その口から洩れた口惜しげな呟きは、無論ルネには知る由もなかった。


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