クルーズ船の停泊所で再会した後、ローランと一緒に、彼のアバルトメンで飲んだジャック・セロスのプラン・ド・プランは噂以上に美味しかった。
「…セロスは、あまり冷やし過ぎない方がいいんだ」と言って、氷を詰めたワインクーラーに突っ込もうとするルネをやんわりたしなめて、ローランが白ワイン用のグラスに注いで勧めてくれたそれを飲んだ途端、ルネはその香りの虜になってしまった。
「でも、ねぇ…このシャンパンが僕に似合うっていうのは、どうしてなんですか?」
 ローランの寝室の1人寝するには広すぎるベッドの端に腰かけて、グラスの中の繊細な泡に見惚れ、その香りの余韻の長さにうっとりしながら、ルネは傍らの愛しい人に甘えた口調で尋ねる。
「ああ、そう言えば、そんなことを話したかな。思いつきで漏らしたことで、それほど深い意味はなかったんだが…」
 ルネの追及に、ローランはちょっと困ったような曖昧な顔をした。
 2人一緒にシャワーを浴びた後のこと。額に落ちかかる濡れた前髪を指先で弄いながら考えこむ彼は、いつもと違って年相応に若く見え、ルネに奇妙な親近感を抱かせた。
「一般的にブレンドを前提として作られるシャンパンの中で、プラン・ド・プランというのは、白葡萄のシャルドネのみで造られたシャンパンのことだ。混じりけのない白の中の白というイメージが、おまえに似あっている気がした。数ある作り手の中から、自分が納得するいい物を作るためには手間を惜しまず、あくまで自然農法にこだわるセロスに惹かれたのも、お前らしいと言えばおまえらしい。まあ、後半は後付けの理由だがな」
「あまりピンときませんけれど、それって、あなたの抱く僕のイメージなんですか…?」
「ああ…清冽で潔癖、混じりけのない純粋さの中に、とても強い芯を持っている」
 ローランが確信のこもった口調でそう言うので、ルネは眉根を寄せながら、神妙な面持ちでもう一口シャンパンを飲んでみた。
「やっぱり、よく分かりません。大体僕には、このシャンパンのような高貴で清冽な印象はないと思いますし…白の中の白と評されるほど、いくら田舎者の僕だって清らかじゃあないですよ?」
 疑い深げなルネの肩に、ローランの手がそっと乗せられた。
「そう感じるのは、おまえが自分の本質に関して無自覚だからさ、ルネ。他人の目などあてにならないなんて、頭から思いこまないことだ。それは時として、自分では気づくことのできない、おまえの別な一面を映し出す鏡の役割を果たしてくれる」
 ローランは戸惑うルネの体を引き寄せて、噛んで含めるように言い聞かせた。その顔は微笑んでいるが、瞳は真剣そのものだった。
「そして俺は、誰よりもおまえのことをよく見ている。おまえの本当の姿を知っている…その俺が言うのだから、間違いないさ。おまえに、このシャンパンはあっている」
 ルネは思わず、彼に何もかも見透かされているような恐れを感じて、目を逸らしてしまった。
 いつもと違う親しみを抱かせても、やはりローランはローランだ。油断をして素に戻り過ぎると、ひた隠してしている秘密や過去を、彼に知られてしまいかねない。
(ああ、やっぱり僕は、この人に自分の本性を知らせる気はないんだ。このままじゃまずいと頭では分かっていても、大の男を簡単にぶん投げる僕を見た時のローランの反応を考えると、そこで思考停止してしまう)
 一瞬、咎めるようなガブリエルの顔が脳裏に浮かんだが、ルネはそのイメージを慌てて打ち消した。 
「ルネ、どうした?」
「い、いえ…軽いプレッシャーを感じただけです。あなたが抱く僕の清らかなイメージを崩さないよう、せいぜい努力しますけれど、どうしても無理なものは無理なんですから、あんまり過大な期待はしないでくださいよ」
 ローランの笑いを含んだ低い声がルネの頭の後ろでし、その手がルネの手からグラスを取り上げて、ベッド脇のサイド・ボードに置いた。
「馬鹿…無理などしなくても、おまえはいつも、俺の期待以上だ」
 ローランの逞しい腕が深々と抱きしめてくるのに、用心深く身を固くしていたルネはほっと息をつき、目を閉じた。
(成程、ローランは途中ですっぽかしたデートの埋め合わせをする気満々みたいだ。当社比で糖分5割増しくらいかな)
 意地悪くそんなことを思いながらも、ルネが彼との2人きりの甘く熱い夜に溺れていくのに、さほど時間はかからなかった。


第5章 Blanc de Blancs


「ルネ、ルネ、ワインが足りないから、キッチンに行ってもう一本ジャックの手土産の赤を取ってきてくれ」
 ぼうっと物思いにふけっていたルネは、傍らの父親にいきなり声をかけられて、一瞬軽く飛び上がりそうになった。
「う、うん。ついでに、リンゴのブランデーも持ってこようか」
 動揺を押し隠してテーブルから立ちあがるルネに、クリスマスの御馳走とワインをお腹にたらふく詰め込んで上機嫌の父が、赤ら顔を綻ばせながら言った。
「ああ、そりゃあ、いい。うちの自家製のブランデーをきゅっと飲めば、消化がよくなるからな」
 彼と同じく赤い顔でテーブルを囲む家族・親戚一同の中から、ルネを追うように立ちあがったのは、義理の姉のカミーユだ。
「それじゃあ、私はチーズを用意するわね。デザートはもう少し後でいいでしょう?」
 毎年恒例のクリスマス・ディナーの二日目、この夜トリュフォー家のテーブルに集まったのは8人。隣村に住む大叔母夫婦も含めて、子供の頃からよく見知った間柄だが、帰省したルネに再会した時は、皆一様にその変貌ぶりに仰天していた。
「…それにしてもまぁ、ルネはすっかり垢抜けて、綺麗になったねぇ。こんな言い方をしちゃなんだが、カミーユより美人じゃないか」
「都会に出たら、あいつも少しは変わるだろうとは思っていたが、まさかたったの3カ月そこそこで、あんな別人みたいになるとはびっくりしたよな」
 ルネが部屋を出た途端、まだ彼の新しい姿に慣れていない人達が、我慢しきれなくなったかのようにそれぞれ感想をもらし始める。
「馬鹿ね、パリで生活を始めたというだけで、人があそこまで変わるものですか。たぶんルネには、新しい恋人が出来たのよ」
 勘のいい従妹の1人がずばりと言うのに、ルネは反射的に部屋の方を振り返りかけた。その肩を、義姉のカミーユがぱんと叩いた。
「気にしないの、ルネ。皆、単純に、あなたの変身ぶりにびっくりして、興味津々なだけなんだから。三日も一緒にいたら見慣れて、きっと話題にも上らなくなるわよ」
 色づいたリンゴのように丸い頬が可愛らしいカミーユはさばけた性格で、義弟の風変わりな性癖にもこだわらず、仲良く付き合ってくれる。
 ルネがパリで新しい恋を見つけたことをちらっと漏らしたら、「あら、よかったじゃない」と喜んでくれたが、どんな相手だと深く追求してくることはなかった。そんな適度な距離感が心地いいと、いつもルネに感じさせる相手だった。
「それにしても、相変わらず皆よく食べるよね。大叔母さん特製のフォアグラもあっという間になくなったし、あの大きなガチョウもほとんど食べ尽くされてさ。この調子でチーズとデザートまで全部平らげるんだろうね」
「親しい者達でワイワイやりながら美味しいものを囲むと、自然と食が進むのよ。明日は明日で七面鳥がメインの御馳走が控えているけれど、これ以上もう食べられないとか言いながらも、結局例年通り、三日間共全ての御馳走を制覇してしまうんでしょうね」
「そして、クリスマスが開けてしばらくは、皆ダイエットと節制に励む訳だ」
 ルネとカミーユは顔を見合わせて、くすくす笑った。
「身近な親戚一同介してのクリスマスなんて、僕にとってずっと当たり前の行事だったけれど、遠く離れた都会での1人暮らしを始めたせいかな、今年はいつもと違って新鮮で、それに、ありがたいことだなぁって感じられるよ」
 ルネはふと、クリスマス休暇の前日にローランと交わした短い会話を思い出しながら、しんみりと呟いた。
 クリスマスは実家で何をして過ごす予定なんだと尋ねるローランに、ルネは、毎年変わらない、トリュフォー家のクリスマスの過ごし方を語って聞かせた。
 身近な親戚が一年に一度、プレゼントやワインを手に同じ屋根の下に集まる。家族による手作りならではの趣向を凝らしたテープル・セッティング。野菜や暖炉にくべるまきを運び込む男達。おしゃべりしながらの食事の準備。やがてキッチンから漂ってくる、何とも言えないいい匂い。
 たくさんのご馳走とたくさんの笑顔に、お腹も心も一杯に満たされて…。
 特別な所は少しもない平凡すぎるルネの一家のクリスマスの過ごし方に、ローランはじっと黙って耳を傾けた後、ぽつりとこう漏らしたのだ。
『俺には経験がないのでよく分からないんだが、クリスマスというのは本来そう過ごすべき、楽しい家族行事なんだろうな。おまえの話し方を聞いていると、そう感じる』
 別に羨んだり僻んだりとしているわけではない、ローランが素直に漏らした感慨に、ルネはその時はっと胸を突かれた。
 ルネとは比較にならないほど裕福な環境で育ったはずのローランだが、肉親にだけは恵まれなかったのだ。
『せっかくのクリスマスだ。仕事のことは綺麗さっぱり忘れて、思う存分楽しんでこい』
 ルネに向かって屈託なく笑いかけるローランの目には、どこか眩しげなものを見るかのような表情があった。
(今頃ローランも、ロスコー家のシャトーで、親戚一同を介した盛大なクリスマスの最中のはずだけれど…それは、僕にとってのクリスマスとは全く違った意味合いのものなんだろう。おまけに今年は、内紛の当事者の敵同士が顔を突き合わせる訳で、ローランも立場上かなり気が張る席となっているはずだ)
 久々の実家でのにぎやかなディナーを楽しみながらも、心優しいルネは、遠く離れたパリにいる大切な人の上に幾度も思いを馳せていた。
 ローランはガブリエルの盾となってソロモン一派と神経を擦り減らせる心理戦を繰り広げているだろうに、自分だけが、こんなに温かい団欒の席にいて心癒されているという現実に、どうにも落ちつかなかった。
(ああ、もしもクリスマス休暇に入る前、ローランが僕に、パリに残って欲しい、一緒にロスコー家のクリスマスに来てくれと言ったなら、僕はせっかくの家族行事も今回ばかりは参加を取りやめて、迷わず彼について行っただろうな。ううん、本当は、彼からの言葉がなくったって、僕はついて行きたかった。ああ、相手が上司だからって、変な遠慮をしちゃったな。正直に、僕もお供させてくださいって、ローランに訴えればよかったんだ)
 そんな想像をしながらほぞをかむ、ルネのジーンズのポケットで携帯電話がころころと鳴り始めた。
 キッチンのテーブルでチーズを盛りつけていたカミーユがその手を止めて、降り返る。
 ルネはびくっと身を震わせた後、とっさに取り落としそうになったワインをテーブルの上に置き、鳴り続ける携帯を素早く引っ張り出した。
「は、はいっ」
 喜び勇む気持ちが声に出ていそうで、ルネは焦ったが、耳に飛び込んできた懐かしい声に、そんな気持ちもすぐに吹き飛んでしまった。
「俺だ」
 やはりローランからだった。どうしてだか、ルネには、電話の主が彼だった場合、直感的にそうと分かる。
「ムッシュ・ヴェルヌ…どうされたんですか…?」
 万が一にもローランから連絡があった場合に備えて、肌身離さず携帯電話を持ち歩いていて正解だった。ルネは、感激のあまり声が詰まりそうになりながら、そっと囁きかけた。
「いや、特に用事があった訳じゃない。単にお前の声を聞きたくなっただけだ。せっかくの休暇中に電話をかけてしまって、すまないな」
 ローランらしくない優しい台詞に、ルネは一瞬胸をときめかせるも、すぐに我に返った。
「すまないなんて、とんでもない…ローラン、そちらの状況はどうなんですか? あなたの方こそ、今頃はロスコー家のクリスマス・パーティーの最中のはずでしょう? それをうっちゃって、僕に電話をかけたくなるような問題が発生した訳じゃないですよね…?」
 ローランは電話の向こうで黙り込んだ。おそらく真面目に考え込んでいるのだろう、ルネが不安になるほど長い間沈黙した後、ようやく彼は口を開いた。
「問題ならそれなりに発生しているが、全て折り込み済みのものだから、別段俺が動揺するようなことじゃない。すると、俺はやはり、単にお前の声が聞きたかっただけなんだな」
 まるで、今初めて気がついて驚いたというかのごとく、新鮮そうな口調でローランは言う。
「ローラン」
 ルネの胸がきゅんとなった。
「お前の所のクリスマス・ディナーは、どうなんだ?」
「ええ、今夜は八人の家族親戚が集って、わいわいと楽しんでますよ。明日はもう二人従兄弟が増えるので、十名になりますね。うちのダイニングが一杯になりそうです。これでもかというくらいの御馳走が出て、それを何時間もかけて、皆と一緒におしゃべりしながら食べて…僕、確実にちょっと太って帰ると思います」
 携帯の向こうで、ローランが心から楽しそうな笑い声をたてた。
「俺の下で仕事を再開したら、心労のあまり、すぐに痩せるから心配するな」
トレイの上にチーズとワインのボトルをのせたカミーユが傍らをすり抜けていきざま、ルネに向かって目配せをした。
ルネはぱっと頬を赤らめながら、彼女に向かって唇でメルシーと形作った。
「あの、ローラン…実は、僕も丁度、あなたの声を聞きたいと思っていた所だったんです」
 独りきりとなったキッチンの片隅に立ちつくしたまま、ルネは握り締めた携帯に向かって、ぽつりぽつりと語りかけた。
「あなたの顔が瞼の裏にちらついたり、あなたが2人きりの時に僕に囁いた言葉を思い出したり…家族との楽しい団欒の最中に、度々顔が緩みそうになって困りました」
「そりゃあ、聞き捨てならんな、ルネ。家族そろっての理想的なクリスマスを過ごしていながら、心ここにあらずだなんて、けしからん話だ」
「そうは言っても、今頃あなたはどうしているのだろうと考えだすととまらなくて…ねえ、ローラン、そちらのクリスマスは、僕に電話をかけて現実逃避したくなるほど、最悪なものなんですか?」
 ルネの追及に数瞬の間また黙りこむと、ローランは苦笑混じりに答えた。
「いつもの仕事以上にストレスになることは間違いないな。詳しいことは、休暇明けにまた話すが…ガブリエルの奴が、皆の見る前でソロモン相手に口論をエスカレートさせて、激高したソロモンは物凄い剣幕でジル会長共々ガブリエルを罵ったんだ。今まで公の席では和やかに振舞っていた2人だが、今夜を限りに、宣戦布告したようなものだな。集まった親族達は色めき立って、事態の収拾をつけるのに苦労したぞ。おかげで、今夜の会食は予定よりも早く終わった。今頃親族達はそれぞれ、ソロモンとガブリエル、どちらの側に着くか頭を悩ませ、顔色をうかがい合っていることだろうさ」
「…そんな大変なことがあった直後なら、あなたはガブリエルの傍についていたいんじゃないんですか?」
「おまえが、そんな心配をするのか? 俺がガブリエルの世話ばかりに明け暮れるのに、常々不満を抱いているものとばかり思っていたが…?」
 ルネの気遣わしげに問いかけに、ローランはちょっと呆れたような、不思議そうな声を出した。
「だって…仕方ないですよ、あなたがどんなにガブリエルを大切にしているのか、僕は散々思い知られていますから。ガブリエルとソロモンの口論に、あなたが乱入しなかったことだけでも意外なくらいです。かなり我慢なさったんでしょう?」
「全く、おまえの洞察力には恐れ入るな。まあ、もともとソロモンという男は鼻もちならない嫌な人間だが、いくら俺だって、それをあからさまに表に出すことはしないさ。それでも、あの陰険な男がガブリエルに暴言を吐くのをすぐ傍で聞きながら、殴りかかりたくなる衝動を堪えるのには結構な努力を要した、ということは認めよう」
「ふふ、どこかの政治家みたいな言い回しをしますねぇ。そういう回りくどい表現はENA仕込みですか?」
「ん、そうか…? 今、周囲にいる親戚達は、それこそ所謂エナルクと称されるような政治家や実業家、高級官僚といった連中ばかりだから、その言い回しがちょっと移ったんだろう。俺自身は普段、回りくどい話は好まん」
 ローランは心外そうに言って、軽い咳払いをした。
「ガブリエルは今、ジル会長の部屋に呼び出されて、2人きりで話し合いの最中だ。そんな訳で突然1人になる時間が出来たら、お前のことが思い出されて、電話をかけたくなった。家族団欒に水を差すのも悪いかと思ったが、とにかく声だけでも聞きたかったんだ」
 ルネに指摘されて意識したのかもしれないが、ローランは、今度は極めて率直に、そう言った。
「ローラン…」
 仕事で傍にいる時は滅多にこんな優しい言葉をかけてくれないローランなのに、今はまるで、遠い場所にいる恋人に語りかけるかのような甘い囁きで、ルネの心をぐらぐらと揺さぶってくる。
(あなたは今、自分の秘書としての僕に話しているんですか、それとも…仕事を離れたプライベートな時に声を聞きたくなるくらい、僕個人を求めてくれているんですか…?)
 そう尋ねて確認してみたいような誘惑にルネは駆られたが、それを口に出すにはまだ勇気が足りなかった。代わりに、彼はこう言った
「あの…僕、年が明けまで実家でゆっくりするつもりでしたが、予定を早めて、明日パリに戻ろうと思います」
「…何故? 俺に遠慮することはないんだぞ。休暇をもらうのはおまえの正当な権利なんだ。おまえは自由に、何でも自分の好きなことをして過ごせばいい」
「電話で話していたら、あなたの顔が見たくて、矢も盾もたまらなくなったんです。家族団らんはもう充分味わいました。自分の好きなことをして過ごすのが休暇の正しい使い方なら、僕はあなたの傍にいたいと猛烈に思ったんです」
「……」
 ルネは携帯電話の向こうの気配や息遣いに耳を澄まし、ローランが今どんな顔をしているのか想像した。
おそらく、目をぱちぱちさせて、どう応えたらいいものかと考えあぐねるかのように、指先で顎のあたりを引っ掻いていそうだ。
「でも、あなたがせっかくの休暇中にまで僕の顔なんか見たくないというなら、強引に押し掛けたりはしませんよ?」
「いや、そんなことはないぞ」
 即答した後、ローランは押し黙った。
「あなたのお傍に戻ってもいいですか、ローラン?」
 ルネが控え目な口調ながらも懸命に囁きかけると、ローランはやれやれというような溜息を漏らした。
「俺の下に帰ってくれば、また俺の身勝手に振り回されることは分かっているだろうに、物好きな奴だな、お前も…いいぞ、帰ってこい。俺はたぶん、ロスコー家のシャトーにまだ留まっていると思うが、おまえがパリに着いたなら、迎えに行こう」
「は、はい。ありがとうございます」
 携帯を通じてライターの音が聞こえ、ローランが煙草に火をつけて、深く吸い込むのが分かった。
 煙草をふかせながら何事か思案を巡らせているローランを、ルネは辛抱強く待ち続けた。
「なあ、ルネ、おまえが俺に甘いのは俺に惚れているからだが、生憎俺は、おまえが寄せてくれる純粋な好意に値する人間ではない。一体どこまでなら、おまえは俺を許すことが出来るのかな」
 半ば独り言のようなローランの呟きに、ルネは眉を潜めた。
「えっと…ローラン、何をおっしゃっているのか、よく意味が分からないんですが…」
 不安のさざ波が胸の奥深くに立つのを覚えながら、ルネは問いかけ、ローランは口をつぐんだ。
 奇妙な緊張をはらんだ静寂が、しばし流れた。
「パリに戻って来い、ルネ」
 ふいに、今までとはどこか違う、決然としたものを秘めた口調で、ローランは言った。
「帰ってきたら、俺はお前を片時も離さず、傍に置くつもりだから、そのつもりでいろ。俺に対するおまえの気持ちが変わらない限り、な」
 ルネは息を飲んだ。片時も離さず傍に置くとか、これはまるで愛の告白のように聞こえるが、そうなのか、何かの間違いではないのか…?
「は…はぁ…」
 あまりに唐突過ぎるローランの告白に、ルネはどんな反応をしたらいいのか分からず、戸惑うばかり。よって、ローランの口調に込められた、どこか諦めにも似た虚無的に響きにも気付くことはなかった。
「Je vous aime」
 返事に窮して固まっているルネの耳に、ローランの艶のある低い声が囁きかけ、ちゅっと唇を鳴らす音が届いた。
(愛しているって…あー、ローランの口から聞いたの初めてだなぁ。あれ、今、ちゅっとか聞こえなかったっけ?)
 しばし魂を飛ばしていたルネはかっと目を見開き、慌てて携帯を掴み直した。
「ちょっ、ちょっとローラン、今、なんて言いました?! ていうか、キス…」
 今聞いたあれこれが信じられなくて、ルネは血相を変えて確認しようとしたが、こんな時までせっかちなローランは既に通話を一方的に切ってしまっていた。
「あああっ、今のあれがキスだったなんて、うかつだった!! 僕も返す気満々なのに、なんで勝手に電話を切っちゃうんだよ、ローランの馬鹿!」
 頭を抱え、地団駄踏んで悔しがった後、不穏な気配を感じてルネが後ろを振り向くと、いつまで経ってもキッチンから戻ってこないルネの様子を見に来たのだろう、おませな中学生の従妹が顔を覗かせていた。
「彼氏からの電話?」
「はは、まあね。僕に会いたいから、早く帰ってこいだってさ」
「まー、らぶらぶじゃないの、すっごーい。ねえねえ、皆、ルネったらねぇ…」
 興奮に顔を輝かせてダイニングに飛んでいく従妹の後ろ姿を見送りながら、ルネはほっと肩で息をついた。
「ローラン、僕に応える時間くらい、くれたっていいのに…」
 ルネは白い頬を上気させながら、とっくに通話の切れた携帯を顔まで持ち上げて、ここにはいない人にこっそり耳打ちするかのように言った。
「僕も、あなたを愛していますよ。だから決して、あなたの傍を離れはしません…ずっと一緒にいさせてください」
 そして、その翌日、ルネはローランとの約束通り、彼の傍にいるため再びパリに戻っていった。




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