花束と犬とヒエラルキー
第4章 愛とスープの法則


 ローランとの『初デート』当日は、ルネの祈りが届いたかのようによく晴れて、この季節にしては暖かかった。
 普通の観光をしたいというルネの希望を考慮したのだろう、待ち合わせはシャイヨー宮の噴水の傍だ。エッフェル塔の写真スポットとして有名な場所で、観光客がそこら中でカメラを構えたり、ポーズを取ったりしている。
 そんな観光客達に混じりながら、ルネも持参したカメラをローランに手渡し、帰省した時に家族に見せるための写真を取ってもらっていた。 
「ベタですねぇ」
「全くだ」と笑うローランは、機嫌良さ気だ。少なくともルネと一緒にいる休日の一時、ガブリエルの不在の寂しさは忘れているように見えた。
「ディナー・クルーズの乗船時間は18時だからな。それまでは徒歩と地下鉄を使って街を歩き回るぞ」
 たっぷり運動することができるからか、やけにはりきっているローランにとっても、ルネに付き合っての街歩きはまんざら悪くない休日のつぶし方のようだ。
「明日はロスコー家のシャトーに連れて行ってやろう。その昔国王が狩りのために用いた別荘だった城で、周辺の景観は素晴らしい。乗馬を楽しむには、もってこいさ」
「それって、でも…ムッシュ・ロスコーの家なんですよね?」
「そして、俺が育った家でもある。使用人達も皆、顔馴染みだ。そんな訳で、主が不在でも、俺は好きな時に自由に使うことができるのさ」
 ガブリエルの名前を出すと一瞬またローランは落ち込むのではないかとルネは案じたが、幸い、そんな気配はなかった。
(ローランが育った家かぁ…ガブリエルが主だというのは引っかかるけど、『実家』に連れて行くなんて、それなりに親しい相手じゃないとしないだろうし、これって喜んでいい状況だよね)
 エッフェル塔とセーヌ川クルーズ以外はローランに任せたきりで当日まで分からなかったのだが、どうやらこれは期待してよさそうだ。幸先のいいスタートに、ルネはともすればにやけそうになった。
「どうした、ルネ、おかしな顔をして…」
 カメラを再び構えたローランが、怪訝そうに聞いてくる。
「いえ、何でもないです。あ、ローラン、ひとつお願いがあるんですが、いいですか?」
「何だ?」
「独りきりで写真に映っても何だか寂しい気がするんで、よかったら一緒に撮りませんか?」
「ああ? 一緒に記念写真だ? …全く、女の子みたいなことを言う奴だなぁ」
 呆れながらもローランは、近くにいた大学生くらいの日本人カップルに頼んでカメラを預けると、素早くルネの傍に来て、その腕を掴んで引き寄せた。
 たちまち、近くの芝生の上に座っていたグループからヒュッと口笛や軽い野次が飛んで来て、ルネは思わず身を固くする。
 うっかり忘れていたが、どこの芸能人かと思うくらいに目立つローランと親密に身を寄せ合いでもしたら、余計な人の注意を引いてしまうのは当然だった。べたべたしている男女カップルならそこら中にいるが、それと同じことを同性相手にできるほど、田舎育ちのルネはさばけていない。
「ちょ…ちょっと近すぎませんか? カメラを頼んだあのカップル、少し引いてるみたいですよ?」
「ふん、どこからどう見ても立派なゲイのカップルだが、それがどうした。大体お前が頼んだんだろうが…面倒だから、さっさとすませるぞ」
 この男の頭の中には『恥』という概念は存在しないのかもしれない。
 ローランはもじもじと後ずさりするルネの肩に手を回して抱き寄せ、今にも頬が触れんばかりに顔を近づけて、困惑顔でカメラを構えている青年に合図を送った。
「笑え、ルネ」
「は、はいっ」
 腹をくくったルネが全開にした笑顔をカメラに向けるや、お馴染みのシャッター音が響き渡った。
「メルシー」
 ローランの腕の力が緩むや、ルネはするりとそこから抜け出し、動揺を鎮めるため噴水の周りをぶらぶら歩いた。
 そこに、若いカップルからカメラを返してもらったローランが追いつく。
「ルネ、ほら、カメラだ」
「あ、はい…」
「さっきの写真、なかなかよく撮れているぞ。おまえはやけに緊張していたから、どうなるかと思ったんだが、意外にいい表情で写っている」
 差し出されたデジカメの画像―内心の葛藤はおくびにも出さず弾けんばかりの笑顔を作っている自分とその傍らで余裕の笑みを見せているローラン―をルネは複雑な気分で見つめた。
「その写真、クリスマスに実家に帰った時、家族に何と言って見せるんだ? 上司か、恋人か?」
「…知りませんっ」
 ルネはぷいっとそっぽを向いて、電源を切ったカメラをコートのポケットに入れた。
 ローランは笑いながら、怒ったように唇を尖らせているルネの頭をひと撫でした。
「さて、写真はもう十分だろう。そろそろエッフェル塔まで歩いて行ってみるか」
「…はい」
 シャイヨー宮からセーヌ川を挟んで対岸にあるエッフェル塔は、離れて見てもよかったが、すぐ下から眺めても壮観だった。そして、やはり観光客であふれていた。
 展望台に登るエレベーターの前には当然のように長蛇の列ができていたが、はなからエレベーターを使う気のなどないローランに連れられて、ルネは階段を使って第二展望台まで上がった。
「ここのレストランでの夜景を眺めながらも食事もなかなかいいから、またの機会に一緒に来ような」
「それじゃあ、その時までは、他の友人に誘われるも断ることにします。楽しみにして待っていますから、絶対誘ってくださいね」
 微笑みながら頷くルネには、どうせその場限り口約束だろうという疑いは微塵も湧いてこない。
(少し前なら適当に聞き流す所だけれど、今は素直にローランの言葉を信じることができる。次の機会がいつになるかは分からなくても、約束したことはこうしてちゃんと守ってくれる人だと見直したから)
 展望台からは、先程記念写真を撮ったシャイヨー宮殿や反対側にはシャン・ド・マルス公園の広々とした緑地帯が見下ろせる。
「…あの公園は、もともと練兵場や閲兵所として用いられていたこともあって『マルスの野』と呼ばれているんだ。近くに今でも陸軍士官学校があるのも、その名残と言えるのかもな」
「向うに見える、高いビルは何でしょうね」
「ああ、あれはモンパルナス・タワーだな。パリ市内では、一番高い建築物だ」
 この日は空気が澄んでいて、パリの美しい街並みを遠くまではっきりと一望することができた。
 普段は別に、高い場所に登ることに食指の動かないルネだが、ローランと2人で眺める景色は、地上を歩きながら見る街とはまた違った印象で、飽きずにいつまでも眺めていられそうだった。
 またローランが、にわかガイドにしてはなかなか優秀で、興味深い解説をして、ルネを飽きさせることがなかった。
(ふふ、もっとも僕は、目の前の公園の由来に特別興味がある訳じゃないけれどね。たぶん、ローランと一緒にいられることが純粋に楽しくて仕方がないだけなんだ)
 こんな幸せな休日を過ごせるなんて夢ではないのかと、ルネがこっそりほっぺたをつねってみた時、ふいにローランの携帯電話が鳴った。
 ローランは夢から覚めたようにはっと息を吸い込んで、ポケットから携帯を取り出す。
「ルネ、ガブリエルからだ」
「……」
 一瞬言葉をなくすルネに頷きかけるや、ローランは素早く背中を向けて、電話に出た。その間、三秒も経ってはいまい。
(仕方ないな…いくらデート中だって、ガブリエルからのコールはローランにとって最優先であることには変わりないもの。それくらいは理解しよう。せっかくの休日を一緒に過ごしてくれただけでも、僕も満足すべきなんだ)
 そう自分に言い聞かせながらも、ルネは胸の奥に何かがつかえたような気分になった。
「すると、お前は今ジュネーブにいるのか。いつまでだ…? 何だ、今夜にはもう移動するのか」
 しばらくローランの背中を眺めていたルネだったが、話が少々込み入ったものになりそうだったので、遠慮して、その場を離れ、展望台の中を1人でゆっくりと回ることにした。
(何だか、いきなり夢から叩き起こされたような気分だ。ほっぺたをつねったりしたのがいけなかったのかな…?)
 思わず頬に手を押し当てて、ふっと苦笑する。強化ガラスの向こうの美しい街並みも、急にその輝きを失ったように思われた。
(大天使は今スイスのジュネーブにいる…パリからだと、会いに行こうと思えば行ける場所だな)
 同じ柔道教室に通っている大学生が、友達とパリからスイスを経由してドイツまでドライブに行ったと話していたことを思い出しながら、ルネは次第に落ち着かない気分になってきた。
「ルネ」
 いきなり背中から声をかけられて、ルネは飛び上がりそうになった。振り返ると、ローランがすまなそうな顔をして立っていた。
「ムッシュ・ロスコーは何とおっしゃってきたんです? 何か問題が発生した訳ではないんですか?」
「いや、いつもの定期報告だ。一応毎日俺に電話をかけてくれることになっているんだ。ただ、旧友を見舞うためにジュネーブまで来ているという話は今聞いたばかりなので、少々驚いたがな。あいつもいきなり気まぐれを起こすから…」
「本当に、それだけですか…?」
「ああ、心配するな、ルネ」
 ローランは何事もなかったかのようにルネに笑いかけ、その肩を優しく抱いて、展望台からの風景を指差しながらまた先程の話の続きを始めた。しかし、彼が別の何かに心を捕らわれていることは明らかだった。
(ガブリエルのことが気になるんだ。ジュネーブはそう遠くない。ローランが会いに行こうと思えば、今からでもすぐに会いに行ける)
 いかにも平気そうなローランの横顔を気遣わしげに横目で何度も見やりながら、ルネの心もまた、このデートとは関係のない別の考えに捕らわれていった。
 結局どちらもが興醒めしたような雰囲気のまま、その後すぐに2人は展望台を下り、シャン・ド・マルス公園の方に向かって歩いて行き、途中見つけたカフェでランチを取った。
 会話はそれなりに弾んだが、ローランの心を半分以上占めているのが誰であるかに気付いてしまった以上、ルネが素直にこのデートを楽しむことはもうできなくなっていた。
 食後のコーヒーを飲みながら、ローランがちらっと腕時計を確認するのに、ルネも同じように時間を確かめてしまう。
 まだ14時を少し回ったところだ。おそらく、今からすぐにローランが自宅に戻って、そこから車を飛ばしてジュネーブに向かったとしても、ガブリエルを捕まえることは可能な時間だ。
「…時間がどうかしたのか、ルネ?」
 考えていることが顔や態度に出やすいルネのことだから、目敏いローランに気付かれても、当然だった。
「あ、いえ…別に…」
 ルネは一瞬、適当に誤魔化そうかと思った。何食わぬ顔をして、このままローランとのデートを続けたって、よかった。
 愛するローランと2人きりで過ごす初めての休日。彼との距離をもっと縮めたいなら、その心を自分のものにしたいなら、このチャンスを逃がすべきではない。しかし―。
(ああ、僕って、本当に馬鹿がつくくらいにお人よしだ)
 思わず、溜息がルネの口をついて出てしまい、ローランはますます怪訝そうに眉を潜めた。
「ね、ローラン、あなたがこの休日を僕と2人きりで過ごすと決めてくださったこと、僕はとても嬉しかったです」
 心を決めたルネは、ローランが口を開くより先に切り出した。
「でも、考えてみたら、そもそも僕はあなたを元気にしたくて、そのためなら何でもするから言って下さいとお願いしたんです。そして、その気持ちは今でも変わっていません」
「ルネ?」
 ローランは、いきなりルネは何を言い出すのかと怪しむような戸惑い顔で、その名を呼ぶ。
「ローラン、僕を相手に気を使ったり遠慮したりするなんて、あなたらしくないですよ」
 ルネはテーブルの下で膝を掴む手に力を入れ、心の中で自分を励ましながら続けた。
「ガブリエルに会いに飛んでいきたいなら、そう言って下さい。いつものように、『悪いが、ルネ、俺はガブリエルが最優先なんだから我慢しろ』と命じられれば、僕は、今からあなたがジュネーブまで素っ飛んでいくとしても、笑って見送りますとも」
 ローランは瞑目し、軽く息を吸い込んだ。
 言うべきことを一息に言ったルネは、むしろ清々としたというように、からっと笑って見せた。
「大体、ガブリエルに会いたくて気もそぞろのあなたを独り占めにして、何も感じずに笑っていられるほど、僕はずるくはなれません。本当はそれくらい狡賢く立ち回れれば良かったんですけれど、そういうタイプではないんですよね、残念ながら」
 軽く肩をすくめて、ルネはカップに残っていたコーヒーを一息に飲み干した。
「…ルネ」
 しばらく何も言わず、食い入るようにルネを見つめた後、ローランはやっと口を開いた。
「そこまで言われたら、俺はもう、言い訳も何もできないな」
 ローランの顔に痛快そうな笑みが広がっていくのを黙って見守りながら、ルネは満足と共に一抹の寂しさを噛みしめていた。
 ローランが椅子から立ち上がるのに、ルネもつられて立ち上がった。
 ローランは、テーブルを回ってルネのもとにくると、その体を引き寄せて深く抱きしめた。
「ありがとう。この埋め回せは、必ずする」
 ローランの大きな手が頭の後ろに回り、背中に回ったもう片方の手が言葉にできない想いを伝えようとするかのようにぐっと力を込めてくる。ルネはとっさに目を閉じて、こみ上げてきそうになった涙を堪えた。
「気をつけて行ってらっしゃい、ローラン。くれぐれも気が逸り過ぎて、事故を起こしたりしないでくださいよ」
「そんなへまはするものか」
 ローランは喉の奥で笑いながら、ルネから身を離した。コートを椅子から素早く取り上げて、そのまま急ぎ足で店を出て行った。
 自分のもとから去っていく愛しい男を手を振って見送り、その姿が完全に視界から消えた後、ルネは力尽きたように再び椅子に座り込み、頭を抱え込んだ。
(あーあ、話がうますぎると思ったんだよ。まあ、でも、仕方ないかぁ。僕はやっぱりローランが好きなんだもの。あの人が今一番求めているのが大天使なら、会わせてあげないわけにはいかないよ。ジュネーブで大切なご主人様に思う存分頭を撫でてもらって、すっきり爽やか、元気な顔で帰ってきてくれたら、それでいい)
 そうは言うものの、やはり落胆せずにはいられないルネは、しばらくテープルの上に突っ伏したまま、死んだように身動きしなかった。
 カフェの店員が恐る恐る様子を見に来て、やっと顔を上げたルネは、気分を切り替えようとぴしゃりと頬を両手で打った。
「さて、これからどうしようかなぁ」
 せっかくだから、家族へのクリスマス・プレゼントを探しに行こうかと思いながら、コートを着て、何気なしにポケットに手を突っ込んだルネは、そこにローランから預かったクルーズ船のチケットが入っていることに気付いた。
「ああ、そっか…これも、もういらないな」
 一瞬破り棄てようとしたのを思いとどまり、乗船場所と時間を確かめた。
「せっかくだから、1人でも行こうかなぁ。前から一度乗ってみたかったんだし、せっかくフルコースの食事もついてるのに、捨てるのは勿体無いよね」
 ルネは再びそのチケットをポケットに直して、カフェを出た。
 1人で歩くセーヌの河岸は、ついさっきまでローランと歩いていた時に比べると魅力が半減してしまったような気がした。
 ルネは適当な場所で地下鉄に乗って、家族へのクリスマス・プレゼントを探しに、ギャラリー・ラファイエットなど市内の大きなデパートに行って、時間を潰すことにした。せっかくだから観光の続きをしてもよかったのだが、何だかその気も失せてしまったし、教会などの建築に格別興味がある訳でも、美術館でじっくり名画を鑑賞するほど絵に関心がある訳でもなかった。秘書としての教養を身につけるためには、それらも必要なのかもしれないが、今は、ローランにつながる仕事のことも思い出したくはない。
 ギャラリー・ラファイエットは、クリスマス・プレゼントを求める買い物客ややたらと騒がしい中国人観光客らで想像以上に混み合っていた。
 あまり人混みに慣れていないルネは酔いそうになったが、それでも何とか家族へのプレゼントを手に入れることはできた。
(母さんにはカシミヤのセーター、父さんには革の財布、兄さんにはライター…義姉さんには、頼まれてたエルメスのスカーフを買ったから、それでいいよね。あ、ついでにチョコレートやお菓子もお土産として買っておこう)
 買い物をすると気が紛れるというのは、女子にのみ許された特権かと思っていたが、そうでもないようだ。クリスマスの装飾のなされた明るい店内で、予め家族から電話で聞いていたリクエストと照らし合わせながら商品を選んでいると、沈みがちなルネの心もいくらか浮き立った。
 しかし、ついつい財布の紐が緩んで、余計なものまで買ってしまうようだ。
 よせばいいのに、ワイン売り場にも立ち寄って、ネットで調べてかねてから飲んでみたかったレア物のジャック・セロスを見つけた途端、衝動的にレジに走ってしまい、更に荷物を増やすことになった。
 大型デパートを上から下までくまなく練り歩いて、ルネがやっと外に出た時には、外はとっぷり日が暮れていた。 
(ううん、今からアバルトメンに荷物を置きに帰るのも面倒だし時間もないし、いいや、このままクルーズ船に乗り込んじゃえ。どうせ気兼ねする相手もいない、独り飯になるんだしさ)
 一瞬ローランに置き去りにされてしまった我が身に気がついたルネは、寂しさで胸を塞がれそうになる。
(ううん、今更愚痴なんてこぼすもんか。ガブリエルに会いに行ってくださいって、この僕からあの人に言ったことなんだから)
 そう、自ら送りだしたのと置いて行かれたのとでは、天と地ほどにも意味合いが異なる。だから、絶対に認めるものか。
 ルネは顔をぐっと上げ、歯を食い縛った。そして、両手に大荷物を抱えたまま、よたよたと地下鉄の駅を目指した。



 本来ならばローランと2人で楽しむはずだったディナー・クルーズ。
 ほとんど満席の船内で、ルネは今、独りきり、そのテーブルに着いている。
 ローランが予約してくれたのは、一番前方に位置する、テーブルも二つしかない端の席で、こんないい場所を自分だけで陣取っているのは申し訳ない気がしたくらいだった。
 横目でオルセー美術館を見ながら船は出港し、ディナーも始まる。
(あ、ノートルダム寺院だ。ライトアップされてて綺麗だな。やっぱり一度見学に行っておけばよかった)
アントレのフォアグラをちぎったパンに乗せて口に運びながら、ルネは、窓の外を流れていく美しくも荘厳な建物に見惚れていた。
 ワインは白を一本。これもローランが頼んでくれていたようで、ルネの知らない銘柄だったが、なかなか美味しかった。
 周りのテープルはほとんどカップルばかり。やはり、気にならないと言えば嘘になる。
(本当なら、僕もローランと一緒にここに座っているはずだった。もしも彼がここにいたら、僕は、他のテープルの様子なんか全く気にも留めなかったに違いない。川から眺めるパリの夜景は綺麗だけれど、彼と2人で眺めたなら、もっとロマンチックな気分に浸れたんだろうな)
 楽しげに談笑しながら食事をするカップルやグループ客達と違って、独り飯のルネのペースは早くなりがちだ。
 給仕がやってくるのを待つのも面倒なので、そのうち勝手にボトルからグラスにワインを注いで、次の料理が運ばれてくるまでの時間を窓の外の夜景に集中することで何とかやり過ごす。
(駄目だ…後悔なんかしない、愚痴なんかこぼすまいと決めていたのに、ここに座っていると嫌でも自覚してしまう。どんなに格好をつけたって、僕は結局ローランに置き去りにされたんだ。あの人は僕を振り返りもせず、まっすぐガブリエルのもとに飛んで行った)
 ルネは、ふいに込み上げてきた感情を抑えかね、両手で顔を覆った。
 動いた弾みで、テーブルの下に押し込んでいた荷物に足が当たり、デパートの袋が横倒しになる。
「あっ」
 慌ててルネは、椅子を引いて身を屈め、荷物をもとに位置に戻した。
(クリスマス休暇は実家で過ごして、年が明けたらすぐにパリに戻るつもりだったけれど―いっそのこと、もうここには戻らない方がいいかもしれない)
 家族へのクリスマス・プレゼントの包みに触れながら、ルネはふっと考えた。
(何だか、僕、ローランを追い続けられる自信がなくなってきた。あの人が喜ぶ顔が見たくて、尽くすのはいい…でも、永遠に振り返ってくれない人をいつまでもただ追い続けるのも、時に虚しくなる。僕の心は、今はあの人への熱い想いでいっぱいだけれど、このままじゃ、いつか、その熱も冷めてしまいそうだ。愛想が尽きるまで傍にいてやるなんて考えたこともあるけれど、それよりは今、あの人のもとを去った方がいいかもしれない。そうしたら、ローランと一緒に働いたパリでの日々も、いい思い出となって残るから…もっとも、思い出にできるくらい、個人的に親密な時間を過ごしたことは少ししかないんだけれどね)
 ルネはしんみりとなりながら、グラスに残ったワインを一気に飲み干した。
(ローランにとって、僕は何なんだろ…ガブリエルとは比較にならないとしても、少しは大切に思ってくれているんだろうか)
 船の前方に、金色の光に包まれたエッフェル塔が見えてきた。
(ああ、ローランと一緒にあそこに登ったんだなぁ)
 エッフェル塔や隣接するビル群、セーヌ川に映る金色に揺らめくその影は、昼間見た風景とはまた趣を変えて、溜息が洩れそうになるほど美しい。
 次第に、エッフェル塔は船の近くに迫ってくる。
 その姿がふいにぼやけて見えなくなったのに、ルネは自分の目が涙でいっぱいになっているのに気がついた。
(わっ、やば…)
 とっさにナプキンを持ち上げて、人知れず涙をぬぐったその時、ルネの携帯の着信音が鳴り響いた。
「す、すみません」
 近くのテーブルの客からうろんそうな目を向けられたルネは、慌てて鳴りつづける携帯を引っ張り出し、その表示を確かめた。
「えっ…ローラン…?」
 ルネは瞠目した。心臓が一瞬止まったかと思った。
(ガブリエルと一緒にジュネーブの休日を楽しんでいるはずのローランが、今頃どうして…?)
 戸惑いながらも、ルネは通話に出た。すると、耳に馴染んだ、ローランの艶のある低い声が聞こえてきた。
(ルネ、今、どこにいる?)
 ルネはしゃきんと背筋を伸ばし、おろおろと周囲を見渡しながら、携帯を半分手で隠し、こっそり囁いた。
「あ、あの…今、例のクルーズ船に乗ってて、ディナーの最中なんですが…」
(何だ、おまえ、独りでディナー・クルーズ船になんか乗ったのか)
 誰のせいだと一瞬噛みつきそうになるのを堪えながら、ルネは言い訳した
「どうしようかと思ったんですが、せっかくあなたに予約してもらったチケットがもったいなかったので…」
 ローランは、電話の向こうで苦笑とも溜息ともつかぬ息を漏らした。
「あのローラン…あなたは今、どこに…ムッシュ・ロスコーと一緒じゃ…」
 おずおずと確かめようとするルネの声を遮るよう、ローランは問うてきた。
「クルーズが終わるのは何時だ?」
「ええっと…確か、21時15分着です。オルセー美術館の傍の船着き場です」
「分かった。それに間に合うよう、迎えに行く」
「ハ…ハァッ?!」
 素っ頓狂な声を発し、電話を掴んだまま思わずテーブルから立ちあがってしまうルネに、またしても多くの視線が突き刺さる。ルネは焦りながら、椅子に座りなおした。
「ロ、ローラン、それって一体…?」
 ルネは気を取り直して携帯に向かって問い直すが、せっかちなローランは既に一方的に通話を切っていた。
(迎えに来るって、どういうこと…? まさか、ローランはパリに戻ってきているのか…?)
 キツネにつままれたような気分で、ルネはしばし携帯電話を睨みつけていたが、やがて諦めたようにそれを再びジャケットのポケットになおしこんだ。
 いつの間にかディナー・クルーズは終盤に差し掛かっていた。
 テープルの上にほとんど手つかずで残していたショコラのムースを再び口に運んで、ルネがぼんやり考え込んでいるうちに、夜景の向こうに再びライトアップされたオルセー美術館が見えてきた。
 


 クルーズ船から降りたルネは半信半疑、辺りを見渡した。
 クルーズ客達がそれぞれ帰路に着く中、ルネがゆっくりとオルセー美術館に向かって歩いていくと、斜め脇から車のクラクションが鳴り響いた。
 反射的に振り返るルネの視線の先には、見たことのある、濃い緑のルノー車が止まっている。
 ルネは大荷物を両脇に抱えながらも、全速力でその車に駆け寄った。
「ローラン!」 
 ルネが見る前で、車のドアが開き、粋な黒のスーツに身を包んだ男の姿が現れる。
「ルネ、ディナー・クルーズはそれなりに楽しめたのか?」
 顎をしゃくって、河岸に停船しているクルーズ船を示しながら横柄な口調で尋ねるのは、正真正銘ローラン・ヴェルヌだった。
「しかし、大荷物だな、ルネ…クリスマスの買い物か…?」
「ど…どうして、あなたがここにいるんです、ローラン?!」
 まだ目の前の現実が信じられなくて、上ずった声で問いただすルネに、ローランはうるさそうに手を上げた。
「俺がパリに戻ってきたことに、何か文句でもあるのか、ルネ?」
「だ、だって…あなたはムッシュ・ロスコーに会うため、ジュネーブに行ったはずでしょう?」
「ジュネーブには行ったぞ。ガブリエルにも会った」
「そ、それなら、なぜ…?」
 ローランはやれやれというように肩をすくめ、呆然と立ち尽くしているルネに歩み寄り、その顔をじっと見下ろしながら囁いた。
「なぜなら、俺はおまえと約束したからだ、ルネ。せっかくのデートを途中で中断してしまったし、楽しみにしていたディナー・クルーズにも間に合わなかったのは悪く思っている。しかし、今夜から明日の1日をかけて、その埋め合わせは十二分にするつもりだ」
 ルネは問い返す代わりに、ぱちぱちと瞬きした。
「言ったはずだ、ルネ、俺は約束を守る男だ」
 驚きのあまり声も出せないでいるルネに向かってローランは微笑みかけ、その腰に手を回して深々と抱き寄せると、とびきり甘い声で付け加えた。
「俺にとって、価値ある相手と交わした約束ならば、尚更な」
「ローラン…」
 ローランの胸に頬を押し付けられたルネは、彼の愛用のコロンの甘くセクシーな香りを吸い込みながら、うっとりと囁いた。
(ローランは戻ってきてくれた。僕との約束を守るため…僕のために…!)
 ルネの心臓は、その胸の奥で感動のあまり打ち震えている。
(ああ、畜生畜生、好きだ…僕はローランが大好きだー!!)
 エッフェル塔の天辺から世界中に向かって叫んでいる自分の姿を想像しているルネの顔をローランの手が上げさせ、素早く下りてきた唇がルネのそれを覆った。
(ローラン、あなたを愛してる)
 ルネはローランのキスに応えるよう、彼の唇を夢中になって吸った。
 力の抜けたその手から、デパートで買った荷物がどさりと地面に落ちる。
「ああっ、奮発して買ったジャック・セロスが!」
 ルネは一瞬で我に返った。自分を熱烈にかき抱こうとするローランを突き飛ばして、地面に座り込み、血相を変えて荷物の中から取り出したシャンパンを確かめる。
「大丈夫…ああ、瓶は割れてないみたいだ…よかった…」
 高級シャンパンのボトルを嬉々として抱きしめているルネを見て、ローランはちょっと寂しそうな顔をした。
「それにしても、ローラン…ムッシュ・ロスコーとはちゃんと話をすることはできたんですか…? 僕との約束をこうして守ってくれたことは嬉しいですけれど、ガブリエルと一緒に休日を過ごした方が、あなたはよかたんじゃないですか?」
「俺は、一目あいつに会って、その声を直接聞いて、それで満足できたからいいんだ。スイスに留まって休日をあいつと過ごすつもりは、初めからなかった。あいつにとっても、まさか俺がジュネーブにやってくるなんて予定外のことだからな。一体何しに来たんだと呆れられたどころか、俺が、おまえとのデートを途中ですっぽかして飛んできたと知って激怒していた。全く、あいつに殴られたのは久しぶりだぞ」
「ムッシュ・ロスコーにな、殴られたんですか?! パ…パーでですか、それともグー?」
「容赦なく拳で殴られた。あいつのパンチは結構効くぞ…今でもちょっと顎が痛い」
 ルネは慌てて、ローランのハンサムな顔に傷が残っていないか確かめた。
「よかった、痣にはなっていません。しかし、ムッシュ・ロスコーって、きつい方なんですね…そうは見えないのに…」
「仕方ないさ。ガブリエルがしばらく身を隠すことは俺も了承してしたはずなのに、実際会えなくなると我慢できなくなったなんて、情けない話だ。ルネ、おまえにも余計な心配をかけて、すまなかった」
「い、いえ、僕は別にいいんです。あなたが、元気を取り戻してくれさえしたら、それで…」
 ルネは、ガブリエルに会えたものの、その叱責を受けたことでローランが返ってダメージを受けていないか心配したが、昨日までとは打って変わって、彼は生気を取り戻していた。
「本当に、ムッシュ・ロスコーは、あなたにとって必要不可欠な方なんですね。一目会って、ぶん殴られて帰ってきただけでも、満足だなんて…」
 半ば呆れ、半ば悔しいような腹立たしいような気分になりながら、ルネは言った。
(本当は認めたくないけれど、ローランのそんな気持ちは、僕には理解できる。僕だって、ローランがいない間、仕事も何もする気にならなくて、毎日が虚しかった。ローランが傍にいてくれれば、それだけで、僕は…)
 我ながら、全く現金なくらい、一人ぼっちにされた恨みつらみも綺麗さっぱり忘れさって、今のルネは幸せだった。
「まあ、いずれにせよ、クリスマスにはあいつはパリに戻ってくるからな。それまでの辛抱だと思えば、俺も、あいつの不在の物足りなさをやり過ごすことができそうだ」
「クリスマスは、あなたはムッシュ・ロスコーと一緒に過ごされるんですね?」
 肉親とは縁の薄いローランにとって、最も家族に近いのがガブリエルなのだとすれば、それも仕方ないのかなと、ルネはこっそり自分に言い聞かせた。
「別に、2人きりで過ごすって訳じゃないぞ」と、ルネの胸の内のもやもやと見抜いたかのように、ローランは言った。
「年に一度、クリスマスに一族の主だった人間が集まるのが、ロスコー家の慣例なんだ。国中のロスコーやヴェルヌ、リュリとかが一堂に会し、親睦を深め、一族の発展のため結束を誓い合う。もちろん、ガブリエルの爺さん…ジル・ドゥ・ロスコーも一族の長として、隠居していたブルゴーニュからパリにやってくることになっている」
「へぇ…なかなか盛大な催しになりそうですね」
「しかし、今年のクリスマスは親睦を深めるどころか、荒れるかもしれないぞ。ガブリエルがホスト役として会を取りしきることになっているし、それに、ボルドーに引きこもっている、あの男も恒例のクリスマスの集まりだけはどうしても出席しないわけにはいかないからな」
「つまり、ジル会長の弟のソロモン・ドゥ・ロスコーのことですね…?」
 ルネは考え深げに首を傾げながら、ローランの腕を心配そうに指先でそっと擦った。
「敵対している者同士が、クリスマスを名目に直に顔を合わせて…何事もなく、終わればいいですけれど…?」
 できるものなら、ローランを守るために自分もついていきたいと思いながら、ルネは囁いた。
「心配するな。ジル爺さんや他の親族の目もある…ソロモンが、どれほどガブリエルのことを疎ましく思っていても、あいつの懐の中ではおとなしくしている他ない。むしろ、この機会に心理戦を仕掛けて追いつめられるだけ追いつめてやるさ」
 ローランは一瞬酷薄な光を緑の瞳の奥底に閃かせたが、再びルネに顔を向けた時、その表情は穏やかなものに戻っていた。
「さて、そろそろ行こうか、ルネ。こんな河岸でいつまでも話しこんでいたら、体が冷えるだけだ」
「は、はい…でも、行くって、どこに…?」
「食事はもう終わったなら、俺のアパルトメンに直行するか…? 明日は少し早起きして、約束通りロスコー家のシャトーに連れて行ってやる」
「ああ、それなら丁度よかった。このシャンパン…あなたの家で、2人で飲みませんか?」
「ジャック・セロスのプラン・ド・プランか。ふうん…おまえに似合いそうなシャンパンだな」
「飲んだことないので分かりませんが、それ、僕に似合いそうなんですか…?」
 首を傾げて素直に問い返すルネの髪をくしゃりと撫でて、ローランは笑った。
「それは、一緒に飲みながら、確かめればいいだろう? 時間が惜しいから、もう行くぞ、ルネ…俺は、早くお前と2人きりになりたい。それとも、お前は違うのか?」
 揶揄するようにローランに言われて、ルネはちぎれんばかりに首を左右に振った。
「もちろん、僕だって、そう思っていますとも。というか、クルーズ船の中では、どうしてあなたはここにいないんだろうって、周りのテーブルのカップルを羨ましげに眺めては、独り寂しく手酌でワインを飲んでいたんですからっ」
「…独りでディナー・クルーズ船になんか乗るからだ。しかし、それも俺の責任だな。寂しい思いをさせた分、今夜はたっぷり可愛がってやるから、もう許せ」
 赤くなって俯くルネの手を取り、ローランはきゅっと握り締めた。
「は…はい」
 ルネもまた、ありったけの思いを込めてローランの手を握り返した。
 寒いはずのセーヌの河岸にいても、ルネはもう少しも寒いとは思わなかった。
顔を上げれば、愛する人が今はちゃんと傍にいて、ルネだけを見つめて優しく微笑んでいる。
胸の奥が、火が灯ったかのように暖かくなり、体中にそれが広がっていくのを覚えながら、ルネはローランと2人きりのとびきり甘い休日の続きを始めるのだった。


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