花束と犬とヒエラルキー
第4章 愛とスープの法則
五
ガブリエルがあれからパリを離れてどこに向かったのか、ルネは知らない。
マスコミは、しばらくの間、消えてしまった『大天使』の行方を血眼になって探したようだが、その消息はようとして知れず、ロスコー家の『お家騒動』の動静について関係者から新しい情報が得られることもなかったため、この所報道は落ちついている。
おかげでルレ・ロスコーのオフィスにも、再び平和な日常が戻ってきていた。
もともとガブリエルはほとんど社には姿を現さない象徴的な存在でしかなかったため、別に行方不明であっても業務には一切支障はなかったのだ。
(あれ以来、おかしなパパラッチ達の姿を見かけることもなくなったし…一時はどうなることかと心配したけれど、ガブリエルが身を隠してくれたおかげで普通に仕事ができる状態に戻れて、本当によかったな)
外の雑音に邪魔されることなく仕事に集中できる幸せを噛みしめながら、ルネは鼻歌混じりに書類の山を手早く片付けていた。
ちらと壁の時計を見上げると、いつの間にか三時過ぎだ。
ルネはしばらく閉ざされたきりの副社長室の扉に目をやった。
(ビジネス・ランチから戻ってきたきり、何も言ってこないけれど…そろそろコーヒーを持っていってあげようかな)
約束していた訪問客が急病で来られなくなったため、午後からしばらくこれといった予定はないのだが、じっと部屋にこもっているなど活動的なローランにしては珍しいことだ。
(ガブリエルがパリからいなくなってもう10日も経ったのか…僕の場合、むしろ落ちついて仕事ができるようになったくらいけれど、影と呼ばれるほどガブリエルにべったりだったローランだもの、きっと生活が激変しちゃったんだろうなぁ)
ガブリエルがルネに会いに来た、あの日から三日ほど経って、ローランは以前と同じように社に出てくるようになった。
ガブリエルの代わりに、マスコミ対策やロスコー家の親族間の話し合いなどに忙殺されていた彼だが、やるべきことはやり尽くしてひと段落ついたのだろう。
(肝心のお家騒動がどうなったのか…最近は記事にも出ないし、ローランも何も言わないから、分からないけれど、ガブリエルがまだ戻ってこられないということは、決して万事解決したわけじゃないんだろうな)
ルネは、正直ロスコー家のいざこざなどどうでもよかったが、それにローランが巻き込まれて危険に晒されるのは嫌だった。だから、彼がこうして自分の目の届く範囲にいてくれることに、心からの安堵を覚えている。
(それに僕は、やっぱりローランが傍にいてくれないと仕事にも張り合いがないし、元気が出なくて、いけないみたいだ。ローランの心は今ガブリエルのことで一杯だと分かっていても、まあ、ここにいてくれさえしたらいいかと思ってしまうくらい、ローランが戻ってきてくれて嬉しい。ああ、これって、まさに正しい忠犬の姿だよね…僕もローランのこと非難できないなぁ)
半ば自嘲しながらも、ルネはローラン好みのコーヒーを用意し、いそいそと副社長室に運んで行った。
「ムッシュ・ヴェルヌ、コーヒーをお持ちしました」
ノックの後の短い応えを待ってルネが入室すると、ローランは自分のデスクの革張りの椅子を窓の方に向け、そこに深く身を預けて、ぼんやりと物思いに浸っているようだった。
肩の方に僅かに傾げられた、その端正な横顔は、窓から差し込む弱い冬の光の悪戯か、妙に青白く生気が感じられなくて、ルネは思わず眉を潜めた。
「ムッシュ…どこか具合でも悪いんですか…?」
心配になったルネは、コーヒーをデスクに置きながら、思わず尋ねた。
するとローランは、茫洋とした顔でルネを振り返った。
「いや、別に…」
暗く沈んだ緑の双眸が、不思議そうに瞬きをした。人を射抜くような、いつもの鋭い輝きはそこにはない。
デスクの上で温かい湯気を上らせているコーヒー・カップに気がついたローランは、椅子を回して体ごとこちらを向いた。
「体調が悪い訳でも、疲れている訳でもないさ。つい一週間程前までは、例の記事の影響を受けて立ち回らなければならず散々だったが、今はそれも落ちついている。仕事の方でも、俺の不在中これといった問題は起きていなかったし、どこにも俺を参らせる要因はない」
まるで自分に言い聞かせるように呟くローランは、しかしルネの目から見ると明らかに元気がなかった。
いつも全身から放射されている力強いオーラが消滅してしまったローランは、まるで別人のようだ。
「本当に大丈夫なんですか、ムッシュ…? 無理を続けた疲れが後から出てきたのかもしれませんし、念のため医者にかかった方がよくはありませんか?」
こんなに存在感の薄いローランを見たことなど未だかつてなかったルネが、不安を抑えきれずに訴えると、ローランは幾分煩わしそうに手を上げた。
「病気じゃないから、心配するな、ルネ…ただ単に気分が塞ぐだけだ。大体、この気鬱の原因なら、俺にはちゃんと分かっているんだ」
聞き咎めたルネは、眉をはね上げた。
「原因って、何なんですか?」
ローランは、気のなさそうな溜息をついて、また窓の方に視線を投げかける。
業を煮やしたルネは怒りを買うのを承知で、そんな彼の前に回り込み、俯きがちなその顔を間近で覗きこんだ。
物思いを妨げられたローランは不快そうに眉を潜めるが、いつものようにルネを怒鳴りつけたり、自分の上に屈みこんでいるその体を力づくで押しのけようとしたりしない。
(やっぱり、おかしい。僕に対して遠慮や躊躇をするような人じゃないのに、怒る気にすらならないなんて…本当に何もしたくなるなるほど精神的に参ってるんだ。そんなにやわな神経の持ち主じゃないはずだけれど、こんなにがっくりくるなんて、一体何があったんだろう…?)
次の瞬間、ルネの頭にピンと閃くものがあった。
(あ、もしかして―ガブリエルがいなくなったせいで、落ち込んでいるんじゃ…?)
自らの思いつきをまさかと笑い飛ばしたかったルネだが、目の前でしょげかえっているローランを見ているうちに、直感は確信に変わっていく。
(ああ、大の男が、好きな人とたったの十日会えないくらいで小娘のように鬱になるなんて、あまりにも馬鹿馬鹿しくて考えたくもないよ。でも、病気でも疲労のせいでもなく、ローランがここまで落ち込む原因を僕は他に見つけられない)
ルネは奥歯をぐっと噛みしめて泣きたくなるのを堪えながら、目を閉じた。
(私の姿が見えないとローランは気分的にどっと落ち込みそうなので、心配です。もしも彼が鬱になっていたら、あなたが私の代わりに慰めてあげてくださいね)
あの美しい天使がパリから姿を消す前に言い残した言葉が、鐘の音のように脳裏に響き渡る。
(ああ、ムッシュ・ロスコー、あなたの見越した通り…さすがに、御自分の『愛犬』のことなら、よく分かってらっしゃる)
何とか気を取り直したルネは、再びローランに注意を向け、遠慮がちに確認してみた。
「あの…ムッシュ・ヴェルヌ、差しでがましいようですが、行方知れずとなっているムッシュ・ロスコーとは今でもちゃんと連絡は取り合っているんですよね…?」
「うん…? 電話なら、報告も兼ねて、ほとんど毎日しているぞ。あいつは今スイスの某所にいるんだが、その行動を把握している人間はこの俺だけだ」
まさか、自らの影とまで呼ぶ、この人にまで何も知らせずに行方をくらましたのかと一瞬ガブリエルを恨みそうになったルネだが、それは誤解だったようだ。
(でも、それなら尚更、この人のガブリエルに対する依存ぶりは相当なものだな。電話で声を聞くだけでは、主人の不在の寂しさは紛らせないなんて…ああ、本当に飼い主に置いていかれた犬みたいだ)
呆れるのを通り越して哀れを催しながら、ルネは思わず手を伸ばして、手入れが行き届かずに寝癖のついた黒い髪を指先で撫でつけ、艶のない頬を愛おしげに手の平で包みこみ、微妙に乾いていそうな鼻先にちゅっと唇を押し付けた。
どうしよう。可哀想過ぎて、可愛くて、いても立ってもいられない。
「ルネ…?」
職場にべたついた関係を持ちこむことを嫌うルネにしては珍しい、親密な接触に、ローランは少々面食らったようだ。
ルネはローランの顔を見下ろしながら、慈母のように微笑んだ。
「あなたの不調の原因なら、僕には分かったような気がします。それについて意見することは差し控えますが、病気であろうとなかろうと、そんなふうに打ちしおれたあなたを見ていると、やっぱり心配で仕方がありません」
ルネは再びローランの肩に手を回し、愛しくてならないというようにかき抱いた。
「ね、僕に何をして欲しいのか、言って下さい、ローラン。あなたが元気になるためなら、僕はどんなことでもしますよ…?」
こんな甘い台詞を普段うっかり漏らそうものなら、付け込まれてえらい目にあわされそうだが、今は特別、どんな我儘でも無理難題でも許してあげようとルネは思った。
「うーん…何をして欲しいかといきなり聞かれても、困るな」
お世話をしたいモードのスイッチが入ったルネの溢れんばかりの愛情を前に、しかしローランは視線を逸らして、幾分戸惑ったように頭をかいた。
「おまえはいつも気が利くし、仕事では文句のつけようのないくらいよくやってくれている。ミラの代わりとしてそこそこやれるどころか、期待以上だ。そんなおまえに今更新たな要求をしようにも、すぐには思いつかんが…」
「そうですか…? いつもなら、思いつくまま、どんな無茶な要求でも平気な顔で僕に命じるくせに…あなたらしくないですね、ローラン。せっかく僕が自ら進んで、何でもしますから命じてくださいなんて殊勝な申し出をしているんですよ?」
「俺はへそ曲がりなんでな。嫌がる相手を力で屈服させて従わせるのは好きだが、命じてくださいなんて跪かれると、返って興醒めして、その気がなくなるのさ」
「最悪ですね、その性格。でも、とにかく、何でもいいから言ってみてくださいよ。今の状態のあなたを放っておくことなんて、僕にはどうしたってできないんですから」
なかなか乗ってこないローランに、ルネは焦れたように鼻を鳴らし、拳を握ったり開いたりしながら一生懸命訴えた。
「お前の気持ちは嬉しいが…それなら、もしも俺が今は独りにしておいてくれと頼んだら、おまえは素直に引き下がってくれるのか?」
「あ…す、すみません、ローラン…1人で勝手に盛り上がって、あなたの気持ちも考えず、押しつけがましかったですね」
自分の熱意が余計にローランを疲れさせてしまったのだろうか。たちまちしょんぼりうなだれるルネに、ローランは口元をふっとほころばせた。
「おまえの気遣いは、俺も嬉しく思っているとも、ルネ…だから、そんなに悲しそうな顔をするな」
ローランは言葉を切って、しばし何事か考えを巡らせながら、後悔の念を全身から漂わせているルネを見つめた。
「ルネ、今度の土日の予定はもう決まっているのか…?」
ルネはゆっくりと顔を上げて、ローランはいきなり何を言い出すのだろうと訝しみながらも、正直に答えた。
「え…いえ、家族へのクリスマスのプレゼントを探しに行こうかと考えているくらいで、特にこれといった予定はありませんが…」
「それなら、俺と一緒に過ごさないか…? 休日にどこかに連れて行ってやると一度口約束をしたきり、実際にはおまえをまだどこにも誘ってやっていないし、俺の方もたまたま体が空いている。予定のない休日を独りでどうやって過ごそうかと、ちょっと悩んでいたところだったんだ」
「えっ…ええっ?!」
ルネはとっさに何を言われたのか分からず、ぽかんと口を開けて立ちつくした。
「ローラン…もしかして、ぼ、僕を誘ってくれてるんですか…? あなたと一緒にどこかに出かけるって…本当に…?」
動揺のあまりどもってしまうルネに向けられるローランの眼差しは恋人に向けられるもののように温かくて、ルネの胸を甘く切なく締め付けた。
「おまえと約束したからな…別に、これまで忘れていた訳じゃないんだぞ。ただ、俺が休日らしい休日をなかなか持てなかったというだけで…おまえは誤解しているかもしれないが、俺は、約束は守る男だからな」
「ローラン…」
パリに出てきて間もない頃、心身ともに参っていたルネに対して何気なく言った言葉など、てっきりローランは忘れていると思っていたのに、ちゃんと覚えていてくれたのか。
感動のあまり、声をなくしているルネの手を取り、ローランは笑いを含んだ、甘い声で囁いた。
「あの時は確か、乗馬にでも連れて行ってやろうと提案したが…おまえの希望があるなら聞いておこうか、ルネ…?」
「え…僕の希望ですか…? あ、でも、いいんですか…そもそも僕が、あなたの気晴らしになることをしてあげたくて申し出たはずなのに、これじゃ逆ですよ…?」
ローランは捕まえたルネの手を広げて、そこに指を押し当てながら、優しく頷き返した。
「俺がお前を誘いたいんだから、別にいいんだ。お前は素直に喜んで、普段は俺に対して言えない我儘を思う存分言えばいい」
「そ…それじゃあ、ええっと…僕って、パリで生活を始めてからまだ観光らしい名所巡りもしてないんですよねぇ。クリスマス休暇に実家に帰った時、家族に聞かれて困らない程度に、お勧めスポットは押さえておきたいんですけれど…」
ルネはひとしきり頭を悩ました後、はたと思いついたように言った。
「あ、そう言えば、セーヌ川のクルーズ船って評判がいいそうですね。僕も一度乗ってみたいと思っていたんですけど、どうですか…?」
「ふうん、いかにも観光客向けで、ベタだが…まあ、おまえが乗ってみたいと言うなら、別にいいぞ。しかし、おまえ、パリに出てきて今まで、休日に一体何をして過ごしていたんだ…?」
「へ、部屋の掃除とか洗濯とか…仕事絡みの勉強に費やすことも初めの頃は多かったですよ。後は、こっちで知り合った友達と買い物や映画に出かけるくらいですね」
柔道教室に通っているとは口が裂けても言えないルネは、適当に誤魔化して、ローランの追及を回避した。
「それじゃあ、おまえの暮らしていたクレルモン・フェランでの生活と大差なさそうだな。やれやれ、パリにいながら未だその楽しみ方を知らないとは哀れというか、鈍くさい奴だな」
「ど、鈍くさくて悪かったですね。どこで暮らそうが、僕は僕なんですから、わざわざ生活スタイルを変える気もなければ、都会の楽しみをガツガツ追求する気にもならなかっただけです」
ルネは、面白そうに口元をほころばせているローランの顔をちらっと見ながら、付け加えた。
「でも、あなたが指南してくれると言うなら、もちろん話は別ですよ…?」
「ふん、可愛いことを言ってくれるな…!」
ローランは心底楽しそうな笑い声をたてながら、ルネの手を引き寄せ、その甲に唇を押し当てた。
「ローラン」
ルネが電流にでも触れたかのように身を震わせるのに、悪戯っ子のような目をしたローランは満足そうに微笑み、手を離した。
「ベタでも、クルーズ船から見る夜景は一見の価値はあるらしいから、適当なディナー・クルーズを探して、予約を入れておこう。まあ、料理の方は、所詮観光客向けだからあまり期待はするなよ…下船した後で、気のきいたバーにでも行くか、俺の家で飲み直してもいいな」
「は、はい…ありがとうございます、ローラン。何だか夢みたいです、あなたと一緒に休日を過ごせるなんて…」
目元を赤らめ声を弾ませながら答えるルネは、いかにも擦れていない純な少年のように初心で可愛かった。パリでの生活にすっかり慣れ、仕事上でのマナーも完璧に身につけて、もうあまり素に戻ることも少なくなったルネだが、ローランが相手だとつい無防備になってしまうようだ。
「大げさな奴だな」
鷹揚に頷き返すローランは、もう先程までのように鬱に捕らわれてはおらず、いつもの生気の八割方は戻ってきたようだ。
ルネはもう一度ぺこりと頭を下げながら礼を言い、これ以上彼につつきまくられる前にくるりと踵を返して、副社長室を後にした。
こちらはこちらで、その足取りは軽く、必死に堪えてはいるもの、唇は微笑んでいる。
(ローランとデートだなんて、うわぁっ、どうしよう、凄く嬉しい!)
初めは突然降ってわいた話に実感がわかず、喜びより戸惑いの方が大きかったが、時間が経つにつれ、幸福感がじわじわ胸の奥から広がってくる。
(それに、あの人が、何カ月も前の僕との約束をちゃんと覚えていたくれたことも嬉しい…どうせ、その場限りの軽い思いつきで言ったことだからと僕はもう諦めてたのに、意外と義理がたいところがあるんだ。ああ、ローランのこと、僕は誤解していたのかなぁ)
次の休日ローランとどう過ごすか、想像するだけで楽しくて、ルネは有頂天になりそうだったが、ふっと、その心に迷いが差した。
(でも、ガブリエルの不在のどさくさに紛れて、こんないい思いをさせてもらっていいのかな。本当なら僕が、ローランを慰めてあげるはずだったのに…あんな可哀想なローランを見たら心が動いてしまって、全力で彼のお世話をしようと決めていた。別に、下心があった訳じゃない)
結果としてローランの弱点に付け込んでしまったようで、真面目で潔癖なルネは、一抹の後ろめたさを覚えてしまう。
(キアラにこんなこと話したら、また馬鹿にされるかなぁ。遠慮なんかしないで、恋敵のいないこの隙にローランの心をしっかり自分のものにしてしまいなさいって…ううん、確かに、チャンスと言えばチャンスなんだろうね。本当にあの人が欲しいなら、僕はもっと狡賢くなって、うまく立ち回るべきなのかもしれない)
しかし、そんな考え方に馴染めないルネは、休日に入るまでの続く数日を喜びと期待の中にも、小さな煩悶を抱えて過ごした。
そして、約束の土曜日―それはルネが頭の中で幾通りもシミュレーションした、どんなデートとも違う展開をすることになる。