花束と犬とヒエラルキー
第4章 愛とスープの法則
二
明くる日からの数日間、ローランが予告したように、あまり行儀のよくないタブロイド紙や雑誌は、名門ロスコー家で発生した身内同士の争いを面白おかしく書きたてた。
どこまでが真実なのかは、所詮三流誌の記事であり疑わしいが、それらを一通りチェックしてみることで、ルネは、この内紛とやらの経緯を大まかに理解できた。
一族を二分して対立しているのは、ロスコー家の長であるジル・ドゥ・ロスコーとその孫ガブリエル、そしてジルの弟のソロモン・ドゥ・ロスコーということらしい。
そもそものきっかけは昨年、ジルがアカデミー・グルマンディーズ主宰の地位をガブリエルに譲ると発表したことだった。
天才の誉は高かったが、弱冠23歳の若者が主宰になることに強硬に反対したのがソロモン。アカデミーの副主宰の要職にあり、ジルの引退宣言の直前まで、次期主宰の呼び声が最も高かっただけに、自分が指名されなかったことに憤懣やるかたない思いを抱いたようだ。
ガブリエルが主宰になった当初、アカデミー内でも若い主宰を危ぶむ声は多く、ソロモンを立てようとする動きがあったという。
しかし、ガブリエルが新主宰として初めてオーガナイズした定例会が、アカデミー史上まれに見る大成功を収めてからは一転、彼を支持する声がソロモン派を上回った。そして実権を握ることを断念せざるを得なくなったソロモンはアカデミーを去り、彼が所有する会社や不動産が多くあり、影響力を行使できるボルドーに引きこもった。
(ボルドーがお膝元ってあたりで、このソロモンって人、何だか怪しいなと思って調べてみたんだよね。そうして、いつだったか、トラブルが発生してローランが直々に出向いて行ったホテルも、この人との関係が深かったことが分かったんだ)
それだけでなく、ガブリエルと共にローランが大改革を行なったルレ・ロスコーにおいても、彼らが乗り込むまで幅をきかせていた役員達の多くが、ソロモン派の親族達だったということも、ルネはアシルから聞き出している。
(つまり、アカデミー・グルマンディーズだけではなく、この会社もロスコー家の権力闘争の渦中にあるってことか。その上ガブリエ本人が名目上とはいえ社長なら、そりゃ、取材の申し込みくらいあるよね)
社員達には、ローランより、これはあくまでロスコー家内でのいざこざであり、社には何の関係もないことだから、動揺せず、通常通り業務を行うよう伝達があった。実際、記者に質問を受けても、何も知らない彼らには答えようがない。
それでも、最初の記事が報道された週は、仕事中にもお構いなしに雑誌や新聞の取材の申し込みの電話がかかってきて、ルネも含めた、社員達を閉口させた。
しかし、それではテレビはどうかというと、出版業界の異常な盛り上がりとは対照的にセンセーショナルな取り上げ方はほとんどされていない。テレビでの露出も多い、今をときめくカリスマ料理評論家ならば、もっと取り上げられてもよさそうなものだ。どうやら、あまり身内の恥を公にはしたくないロスコー家が、公共放送に影響力のある、血縁の政治家を通じて圧力をかけたようだった。
(何だか、雲の上の話みたいだなぁ。ロスコー家って、一体どれだけ権力持っているんだろ。ローランも姓は違うけど、その親戚筋というなら、所詮庶民の僕とは住む世界の違う人なんだろうな)
たかが美食家の道楽でしかない―少なくともルネにはそうとしか思えない―アカデミー・グルマンディーズの主宰の地位を巡って、裕福で、社会的な地位も名誉もある人達が、何故かくも熾烈な争いを繰り広げるのか、一般市民のルネにはどうしても理解できない。
(それに…あるタブロイド紙が特ダネとして大きく取り上げた記事には、新主宰を快く思わない一部のアカデミー関係者が、ガブリエルを主宰の座から引きずり下ろすため、彼が初めて取り仕切った定例会の妨害工作まで行なったと書かれてあった。そのせいで当初予定されていたシェフが辞退して、定例会そのものも危うく中止になりかけた…代わりにと急遽ガブリエルが引っ張ってきたのが、気難しいことで有名な天才シェフで、結局定例会は大成功に終わり、新主宰は拍手喝さいを浴びた訳だけど…ローランがガブリエルをやたら心配して、何かあればすぐに彼のもとに飛んでいくのは、そんなことがかつてあったせいなのかな…?)
アカデミー内部での裏切りだの、定例会の妨害工作だの、確かにマスコミが喜びそうなスキャンダルだ。最近になってローランが以前にも増してピリピリとして、忙しく立ちまわっていたのは、この特ダネに群がってくるだろうマスコミ対策も含めてのことだろう。
(でも、ローランがあんなに警戒しているのは、やっぱりガブリエル本人に何らかの危険が差し迫っているのを察知したからだろうな。これまでは水面下の争いでしかなかったものが本格的な潰し合いになりつつあるって、彼も言ってたし…さすがに、そこまでは今の所記事にはなってないみたいだけど…)
この数日間、ローランは外でロスコー家の関係者と会っているか、パリ郊外にあるガブリエルの邸宅に詰めていることが多く、今日も社には姿を現していない。ガブリエルの片腕と世間的にも認識されている彼がここにいるとマスコミ関係者がうるさいので、不在なのはある意味ありがたいが、主のいないオフィスはとても空虚に感じられ、留守を預かるルネの気分は下降線を辿る一方だった。
「ああ、ローランがいないと仕事をする気にもならないや。書類の整理もとっくに終わったし、昼から何をしようかな…?」
ルネは、中身を確認していた本日発売の雑誌を、デスクの傍らに積み上げている新聞や雑誌の山の上に戻し、溜息をついた。
(ローラン、あなたが今大変な時期なのは理解しますけれど、たまには電話の一本くらい下さいよぉ。いつ帰るかもしれないあなたをここで待ち続けるのは、正直僕は辛いんです)
昼休みに入る前、パソコンのメールをチェックしてローランからの新しいメッセージも届いていないことを確認すると、ルネは気分転換も兼ねたランチに出かけることにした。
(ああ、キアラに連絡して、一緒にランチを取ってもらったらよかったな。ううん、こんな気分の時に会っても、つまらない愚痴ばかり聞かせることになりそうだから、やめた方がいいよね)
同じようにランチに出かける他の社員達に混じって、ルネはエレペーターに乗り込み、一階に下りて行った。
(あれ…?)
一階フロアーに降りた所で、すぐにルネは周囲がざわめいていることに気づき、胡乱そうに足をとめた。
入口の方に視線を向けると、顔なじみの警備員が渋い表情をしてドアの前に立っており、何人かのルレ・ロスコーの社員達と一緒にガラス越しに外の様子を窺っている。
「何かあったんですか?」
近くにアシルの姿が見えたので、ルネは素早く近づいて行き、声をかけてみた。
「ああ、ルネ君」
アシルはちょっと困ったような曖昧な笑顔で、ルネを振り返った。
「外に3人ほど、性質の悪いフリーの記者が待ち伏せしているんだ。ああいうのが所謂パパラッチって呼ばれる連中なんだろうねぇ。外に出てきたうちの社員を捕まえては、社内の様子を聞き出そうとしたり、挙句社長のガブリエルはここにいるんだろう、隠したって無駄だと言いがかりのようなことを言ったりするものだから、特に女の子達が恐がって、外に出られないんだよ」
「何ですか、それ…!」
理不尽なことの大嫌いなルネは、たちまち柳眉を逆立てた。
「社長はずっと社に姿も見せていない、僕なんか一度も会ったことすらないくらいなのに、全く言いがかりも甚だしい! それに例え社長がここにいらしたとしても、無礼なチンピラ記者に取材なんかさせる訳がないでしょう。アシルさん、あんなヤクザ紛いの連中をこのまま野放しにしていいんですか、あなただって一応幹部の1人なんでしょう? ムッシュ・ヴェルヌの指示を仰ぐまでもありません。社員を脅すような真似をして、これは立派な営業妨害ですよ。警察に通報して、即刻排除してもらいましょう」
興奮気味のルネがうっかり吐いた暴言には気づいているのかいないのか、『一応』幹部の若いアシルは温和な顔を曇らせながら、溜息混じりに答えた。
「警察を呼んだくらいでは懲りないと思うよ、ああいう連中は…それに、ガブリエルがここにいるという誤情報が、どこかから流れて、パパラッチ達の間に広まったようなんだ。ほら、例の記事が出て以来、ガブリエルはテレビからも姿を消して全く所在不明になっているから、取材規定もへったくれもない三流誌に記事になりそうなネタや写真を売り込もうとして、ああいう手合いの動きが活発になっているんだよ。ロスコー家の権力も、パパラッチにまでは及ばないからねぇ」
「全く…一体どこの誰が、あんな野良犬達が喜んで集まりそうな間違った情報を―」
「それがねぇ…誤解を受けても、まあ、仕方がないかなぁという気もしないでもないんだよね、その情報に関しては…」
「は?」
怪訝そうに瞬きするルネに、アシルは一瞬逡巡した後、こそっと打ち明けた。
「実はね、さっき僕は表に出て、カメラを持っているパパラッチの1人と話をしてみたんだ。そうしたら彼、今朝ここの玄関先で撮ったという画像を見せてくれてね。それが、ルネ君、君の姿だったんだよ」
「へっ、僕?」
「僕達ルレ・ロスコーの社員達はもうすっかり君の存在に馴染んでしまって、今では、君と社内で出会っても最初の頃のように動揺することはなくなった。僕も毎日君と顔を合わせているものだから、うっかり忘れそうになっていたんだけれど、君の姿形は、事情を知らない人間ならばまず騙されるくらいムッシュ・ロスコーに瓜二つなんだよ。つまり、あそこにいる連中は出社している君を偶然見かけて、ああ、今ガブリエルは社内にいるんだと確信してしまったわけだ」
ルネはぽかんと口を開けてしばし固まった後、情けない声で反論した。
「そんな…そりや、遠目では分かりづらいかもしれないですけれど、身なりからして、僕はそんなに高級なものを着ている訳じゃないですし、大体ガブリエルが独りきりで地下鉄を乗り継ぎ出社してくるなんて、変じゃないですか!」
「そう思うんだけれどねぇ…外の連中には、口で説明しても分からないみたいだよ?」
アシルは優しい顔立ちに人当たりのいい微笑をうかべて、どこか試すような口ぶりで言いながら、ルネをじいっと眺めた。
「ね、ルネ君、どうしようか?」
ルネはきゅっと唇を引き結んだ。ローランが自ら抜擢しただけあって、この人も、おっとりとして見えるがただの昼行燈ではなさそうだ。
「…分かりました。行ってきます」
ふうと肩で1つ息をついて、ルネは正面玄関の方に向き直った。
この時ばかりは、自分をこんな姿に変えてしまったローランを締め殺してやりたいくらいに恨めしく思った。
「あまり無茶しちゃだめだよ、ルネ君。君の社員証でも見せて納得してもらって、丁重にお帰りいただいたらいいからね」
にこやかに手をひらひらさせるアシルに見送られながら、ルネは大股で玄関に近づいた。そうして、心配そうな警備員や社員達の視線を浴びながら、ドアを大きく開いた。
「お、本当に出てきたぞ」
「大天使だ、間違いない」
許可も求めずにいきなりカメラを構える男に、すぐさまルネは切れた。もともと虫の居所は極めて悪かったのだ。
まっすぐ男達に歩み寄ったルネは、男の構えるカメラのレンズを片手で押し返し、凄みを含んだ声で言い放った。
「お生憎さま! 僕は、あなた達が探しているガブリエルとは全くの別人ですよ。ほら、その目をよく見開いて、ごらんなさい。鼻の形が微妙に違うでしょ、髪だって金髪に染めてるけど、もとは黒髪なのは根元を見れば分かるでしょう?」
青く光る両目を冷たく細めてじりじりと肉薄するルネに、男達は怯んだように後退りした。
「僕はルネ・トリュフォー、ローラン・ヴェルヌの秘書です。あなた方が探しているムッシュ・ロスコーはここにはおられません。この大騒ぎの中、大天使がわざわざルレ・ロスコーを訪問するはずがないでしょう。分かったなら、どうぞお引き取りいただけますか? 僕も今からランチに出かける所なので、いつまでもあなた方の相手なんかしたくないんです」
まだ疑わしげな男達は、ルネが無造作に突き出した社員証をためつすがめつ眺め、それから、苛々と足を踏み鳴らして待っているルネの姿を無遠慮に見つめた。
「…おかしいな、ガブリエルがパリに向かったって情報は間違いなさそうだったのに…」
「でも、確かにこいつは、ガブリエルじゃないみたいだぞ。なんつーか、物凄く可愛いけど、貴族の気品みたいなのはないじゃん」
男達がひそひそと囁き交わす声を聞いて、ルネはかちんときた。
「き、気品がなくて、悪かったな! さあ、分かったならさっさと帰れ、そこにいられると邪魔なんだ、この野良犬ども!」
ルネは顔を真っ赤にし、手を振り回して怒ったが、抗議を受けるのは慣れているからか、男達はにやにやするばかりだ。
ふいに、その内の1人がルネに向かってカメラを構え、素早くシャッターを切った。
「な、何するんですか!」
「せっかくこんな所で朝っぱらから張り込んでたんだ。ガブリエルの代わりに、せめてあんたの写真をもらっておくぜ」
「僕の写真なんか撮ったって、意味はないでしょう…一体、何に使うつもりなんですか?」
当てが外れたことに対する腹いせかと呆れながら問いただすルネに、カメラの男は意味ありげな嫌な目つきをして、言った。
「なあ、あんた…大方、ローラン・ヴェルヌの愛人かなんかだろう? ガブリエルをターゲットに取材しようとするといつも出ばってきて邪魔しやがる、あの切れ者のおかげで、こっちは思うような取材ができず悔しい思いをしてるんだ。ふん、これもヴェルヌらしいと言うべきかな…秘書にするのも大天使にそっくりな男だなんて、主人に忠義なのを通り越して、ほとんど病気だぜ。ううん、これはこれで書きようによっては面白い記事になるかしれんなぁ」
それを聞いた途端、ルネは体を硬直させた。『愛人』と揶揄されたのも恥ずかしかったが、それより何より、こんな下劣な奴らがローランを嘲笑うことが許せなかったのだ。
(駄目だ、もう我慢できない…!)
ルネの体がふいに沈み、カメラを構えた男の懐にすっと吸いこまれた。
次の瞬間、鋭く空を切った手刀が、男のカメラを高々と弾き飛ばしていた。
「あっ?!」
ルネの動きがあまりに速かったため、男達には、何が起こったのか理解できなかったようだ。
ぼかんとなった彼らが見たものは、落ちてくるカメラをうまくキャッチするルネの姿だった。
「パパラッチでも、仕事道具となれば、さすがにいいカメラを使ってますね。これ、高かったでしょう? 壊されたら、さぞ困るでしょうねぇ」
天使のように軽やかに言い放つルネに、カメラを奪われた男はさっと青ざめた。
「おい、やめろ! ついこの間買ったばかりのカメラなんだぞ」
「ああ、何とかに真珠って奴ですね。あなたも記者のはしくれなら、せっかくの高性能のカメラを下らないゴシップのためにではなく、もっとまともな記事を作るために使ったらどうです?」
新品同然のカメラを本当に壊されるのではと泣きそうな顔をする男に向かって、ルネは片目を瞑って意地悪く笑った。そして、メモリーを素早く抜き取るや、カメラ本体は男の胸に素っ気なく突き返した。
男は慌てて、彼の手から大事なカメラを奪い返した。
「迷惑料として、中のメモリーだけいただいておきます。僕の肖像権を勝手に侵害したことは許せませんが、このまま大人しく帰ってくれたなら、僕もこれ以上あなた方をどうこうするつもりはありません」
ルネのつけつけとした態度に、他の2人のパパラッチが逆上した。
「こ、この野郎っ!」
怒りのあまり顔を真っ赤にした男達が突っ込んでくるのを、横目で確認しながら、ルネは滑らかに体を移動させた。
「わぁ、危ないっ」
のんびりとした口調で言いながら、ルネは初めの1人との衝突をかわし、もう1人が繰り出してきた拳も危うい所でよけた。
「うおっ?!」
ルネが逃げたことで体のバランスを崩したらしい、最初の男はがくんと前につんのめって倒れ込み、もう1人も足も滑らせて石畳の上に転がった。
「ああ、危ない、危ない。気をつけてくださいよ、勝手に転んで怪我をされても迷惑ですからね」
男達は、一体何が起こったのか、どうして自分達が地面に倒れているのか、訳が分からないといったように呆然としている。
オフィス・ビルの玄関から怖々様子を窺っている社員達の目にも、単に間抜けな男達が勝手につまづいて転んだだけとしか映っていなかっただろう。
しかし、実際はルネが、突っ込んでくる男達の勢いを利用して、彼らが自分から転倒したかに見せかけたのだ。柔道というより、これも多少心得のある合気道の技に近かった。
「さあ、別に怪我なんかどこにもしていないんだから、いつまでもそんな所に寝っ転がってないで、さっさと帰ってくれませんか? さもないと、今度はもっと痛い目を見ることになるかもしれませんよ?」
やんわりとした口調に棘を潜ませて脅すルネを、男達は不安そうに振り仰いだ。自分達に何が起こったのか、いまだによく分からなかったが、これ以上ルネを怒らせるのはまずいということは直感したようだ。
「お、おい、帰るぞ」
カメラを庇うようにして後ろの方で立ちつくしている男に声をかけ、地面からよろよろと起き上がると、パパラッチ達は捨て台詞も残さず、すごすごとルレ・ロスコーの玄関先から退散していった。
「ルネ君!」
「大丈夫か、ルネ!」
たちまち、手に汗握ってことの成行きを見守っていた社員達が外に飛び出してきて、ルネの周りを取り囲んだ。
「あんな柄の悪そうな記者を相手にするなんて、可愛い顔に似合わず、勇気あるのねぇ」
「殴りかかられそうになっていたけど、本当に怪我はしてないのかい?」
興奮気味に声をかけてくる社員達に、ルネはいささか閉口しながら、人垣の向こうで穏やかな笑顔を浮かべて頷いているアシルに、困ったような視線を投げかけた。
「ええっと、僕は本当に大丈夫ですから、皆さん、どうかご心配なく。さあ、邪魔なパパラッチはいなくなったんですから、早くランチを取りに行きましょう。ああ、僕も、あの人達と言い争ったら、お腹すいちゃった!」
さっと腕時計を確認したルネは、まだ物言いたげな社員達をかき分けて人垣の外に出ると、これ以上引き留められる前にぱっと駈け出した。
「…ねえ、シュアン、どう思いますか、今の?」
大通りの方に向かって慌てて駈け出していくルネを見送りながら、ひっそりと囁く者があった。
騒ぎのあったルレ・ロスコーのエントランスを眺められる、道路脇に駐車していた黒い車の中でのことだ。
「先程パパラッチ達が転倒したことをおっしゃっているなら、あれは、あの秘書が仕掛けたことですよ。近くで見た訳ではないのではっきりとはしませんが、おそらく日本の合気道…それも、かなりの達人のようですね」
運転席に座っていた若者が、後ろの座席を振り返りながら、答えた。
「そうですか。ローランが自分で引っ張ってきた人ですから、秘書としてももちろん有能なんでしょうが…それだけではないようですね」
ふふっと楽しげに笑う声を聞きながら、運転手は控え目に尋ねた。
「それで、これからどうなさいますか? あの厄介なパパラッチ達は取りあえず退散したようですけれど、またここに戻ってこないとも限らないですし、あの秘書はランチを取りに出かけて行ってしまったようですし…?」
「そうですねぇ」
どこか他人事めいた、それでいてこの状況を楽しんでいるかのような無邪気な声で、後部座席にゆったりと身を預けていた青年は言った。
「それでは、ローランの秘書が戻ってくるまで、しばらくオフィスで待たせてもらいましょう。どうも、この車は乗り慣れない上に狭くて窮屈ですから、長い間じっと座っていると疲れます」
「いつものリムジンじゃ目立ち過ぎますから、それは我慢していただかないと…て、駄目ですよ、オフィスの中で待つなんて。もしさっきの記者達が戻ってきて見つかったら、またしても一悶着起きますよ」
「大丈夫ですって、あの秘書が脅しつけてくれたおかげで、当分この辺りは平和になるでしょうからね」
運転席の若者がとめる間もなく、その人は自らドアを開いて、ふわりと車外に降り立った。慌てて運転席から出てくる若者に向かって、悪戯っぽく微笑んで見せながら、付け加えた。
「あなたは外で待っていてください、シュアン。私1人で行って、久しぶりに訪れる社内の様子を確かめてみたいんです」
何か言いたげに唇を動かす若者の口元に指先を突きつけてそっと黙らせると、その人はくるりと背中を向けて、折しもそこに集っていた他の社員達もそれぞれ食事を取りに出かけていくオフィスへと優雅な足取りで歩いていった。
そして、約1時間後。
不機嫌そうな面持ちのルネが、秘書室に戻ってきた。
彼は、外で買ってきたチョコレートの包みをデスクに無造作に放り投げ、早速メールをチェックした。しかし、ずっと待っているローランからのメッセージは未だに届いていない。
「全く、どこで何をしているのやら…ローラン、あなたが宣言した通り、あなたのおかげで僕はパパラッチどもにガブリエルに間違えられて、大迷惑を被ったんですよ」
ランチの間中、そのことを考えているうちに、ルネは次第に本気で腹が立ってきたのだ。
(そうだ、ガブリエルがスキャンダルを起こしたって、僕個人は何の関係もないはずなのに、どうしてあんな嫌な連中に付きまとわれたり、絡まれたりしなきゃならないんだ! あなたのためなら、僕はどんな苦労をしてもきっと許してしまうのだろうけれど、どうして、あなたの好きな人のために、この僕が―)
いらいらと爪を噛みながら、しばしパソコンの画面を睨みつけていたルネだったが、ついに我慢しきれなくなったように携帯電話を取り出し、ローランの緊急用の携帯番号をかけてみた。
しかし、それでもローランが応対に出ることはなく、留守録の無機質な自動音声が、余計にルネの神経を逆なでするばかりだった。
「ムッシュ・ヴェルヌ、僕です。ルネです。電話下さい」
地の底から響くようなどんよりと暗い声で短いメッセージを残し、ルネは携帯を切った。
「ああぁっ、もう、本当に腹が立つっ!」
苛々をぶつける相手もなく憤懣やるかたないルネは、両手で激しく頭をかきむしると、いきなり隣接する副社長室に向かって突進した。
「ローランの馬鹿!」
怒りを爆発させながら、ルネは副社長室のドアを蹴破った。丈夫な樫材でできた重厚な扉だからこそ壊れはしなかったが、作りつけの甘い薄っぺらなドアだったら、今の一撃で蝶番ごと吹っ飛んでいただろう。
「一体、あなたは何なんなんだっ! 僕があなたに惚れているのをいいことに、当たり前のように迷惑のかけ放題! ガブリエルのことなら心配して細かく気を使うくせに、あなたを心配して待っている僕には電話の一本もくれないで…どこをほっつき歩いているんだ、いい加減にしろ!」
もちろんローラン本人は今ここにいないが、まるで彼が座っているかのように、ルネは黒を基調にしたどっしりとしたデスクに歩み寄り、その上にばんと両手を突いた。
「僕はあなたを愛しているけれど、あなたの言うことなら何でも従う、あなたが戻ってくるのをいつまでも忠実に待ち続けているなんて思わないでください。僕のことなんかきっと綺麗に忘れ去って、他の人のために今も必死で働いている、あなたの不在にいつまでも耐えられるほど、僕は忍耐強くもお人よしでもない。あんまり僕の気持ちをないがしろにして、いつまでも放置し続けたら、さすがにあなたに対する愛情も冷めてしまいますよ、ローラン。そうなってから再び僕の心を取り戻そうとしたって、もう遅いんですからねっ」
頭にかっと血が上るがまま、この数日間で胸に溜まりに溜まった嫌な気持ちを吐き出したルネだったが、言葉にした途端、ひどい虚しさに駆られてがくりと肩を落とした。
(ああ、何をやっているんだろう、僕…こんなことをしたって、何の意味もないのに―)
自分の今の有様がひどく滑稽に思われて、くっと喉の奥で苦い笑いを漏らしたルネの耳に、その時、まるで今の彼の心情を読み取ったかのような声が聞こえた。
「…そういうことは、あの男に直接叩きつけてやらなければ、何の意味もないでしょう。あなたが言いたいことをいつも胸に秘めたまま我慢していると、そこまでは許してもらえるのだと判断して、ローランはいつまでも図に乗り続けますよ?」
心臓をわしづかみにされたようなショックと共に、ルネは声のした方を勢いよく振り返った。
「恋人とスープは待たせてはいけない、さもないと冷たくなる…確かそんなようなことわざがありましたね」
来客用の幅の広いソファの上だ。
そこに横になっていた何者かが、ルネに向かって語りかけ、それから、両手を上にあげてうーんと伸びをした。
「丁度一時間くらいですね…いい気持ちで眠っていましたが、あなたの怒鳴り声ではっきり目が覚めましたよ」
ルネが呆然と見守る中、ソファの背もたれに捕まって、その人は上体を起こした。柔らかなウェーブのかかった金髪が、ほっそりとした白い指先によってかき上げられ、ふわりと肩に落ちかかる。
「あ、あなた…は…」
ルネは喉をごくりと鳴らした。まさかという思いを胸に恐る恐るソファに近づき、座りなおして服を整えている金髪の青年の前に回り込んだ。
「あのもしかして、あなたは…?」
ルネの呼びかけに、その人は顔を上げた。蒼穹を思わせる、澄みきった青い瞳が、ルネの戸惑い顔を中心に映してきらりと輝いた。
「はい、お察しのとおり、私です。ガブリエル・ドゥ・ロスコー、ここの社長ですよ」
まるで、ルネとこうして出会えたことが心から嬉しくて仕方がないかのように、大天使は美しくも無邪気な微笑みを、ルネによく似た、しかしよく見れば全く違う、神々しいばかりの美貌に浮かべて、言った。