花束と犬とヒエラルキー
第4章 愛とスープの法則
一
ローラン・ヴェルヌは確かにハンサムだ。
俳優かモデルと言っても充分通りそうなほど顔とスタイルは完璧だし、服のセンスもいい。
しかし、映画のトップスターだって、撮影前に徹底的に体を絞り込むことでベストな自分を世間に向けて公開するものの、仕事が終わるとたちまち気持ちと共に体も緩んでしまうのはよくある話だ。
俳優でもモデルでもない一般人が常時このレベルをキープするには、涙ぐましい努力が必要なのだということを、この頃になってルネは思い知らされるようになっていた。
「ムッシュ・ヴェルヌ、急いでください。先方との約束の時間まで後10分です!」
パリ郊外のラ・デファンス。真新しい高層ビルが林立するこの地区は、古い建造物を多く残した、伝統的な風情を残す市内とは違って現代的な景観だ。
その高層ビルの一つに最近引っ越した取引先を訪ねる際、エレベーターではなく階段を使うとローランが言い出したのは、いつもの習慣からくる軽い気持ちだったのだろうが、今は激しく後悔しているに違いない。
35階建てのモダンなビルの27階が目的地だが、20階を超えるとさすがにローランの息も切れ、足元もふらついてきた。
この辺りでそろそろエレベーターを使いませんかと提案したいのは山々だが、変な所で意地っ張りのローランにそれを言ってもますますむきにさせるだけだろう。上司の傾向と対策をわきまえているルネは、タイムリミットを知らせて励ますだけに留めていた。
「…一体どこのどいつが、パリの美観にそぐわない、こんなくそ高いビルなんか建てやがったんだ…ニューヨークや東京じゃあるまいし…」
「35階じゃまだ序の口ですよ。再開発ラッシュのこの地区ですからね。近々建つ予定の商業ビルは92階建てだとか…完成したら、試しに最上階まで階段で登ってみますか? きっといいトレーニングになりますよ?」
ルネは冗談めかして軽い調子で尋ねたが、それに対するローランの返事はなかった。
自分で一度決めたことは最後までやり通す根性は、それでも立派と褒めるべきなのだろうか。ローランはそれ以上弱音も愚痴も吐くこともなく、ついには自分の足で27階まで辿りついた。
「何とか約束の時間には間に合いそうだな…はぁ…」
非常用階段の壁にもたれかかって、ぜいぜい言いながら額の汗を拭っているローランのために、ルネは素早くバッグからタオルとよく冷えたミネラル・ウォーターのボトルを取りだした。
「そんな汗だくの格好で先方のオフィスを訪ねて行ったら、一体何事かと思われますよ。まだ5分ありますから、一息ついてください」
ローランは素直にルネの助言に従って、汗を拭き拭き水分補給。その間ルネは、こんな時のためにと持ち歩いている日本の扇子を使って風を送ってやった。竹材と和紙で作られているため軽くてコンパクトな上、意外と丈夫、この間市内のデパートで開催されていた日本フェアで購入した優れものだ。
「…おまえは、あまり息を乱してないな、ルネ」
27階までローランと一緒に上っても涼しい顔をしているルネに、ローランは怪しむような目を向けてきた。
しかし、所詮一般人のあなたとは鍛え方が違うなどとは口が裂けても言う訳にはいかない。ルネは、目をぐるっと回して、苦し紛れに答えた。
「ええっと…ムッシュより僕の方がまだ若いですからっ」
これも、あまりよくできた回答ではなかったか。
ローランはむっとしたように口をへの字に引き結ぶと、扇子をぱたぱたさせているルネの手を押しのけ、壁から身を起こした。そうして無言のまま、手早く髪の乱れを直し、シャツを整え、ネクタイを締め直した。
(あ、ちょっと不機嫌になっちゃった…普段はいかにもできる大人の男って顔しているくせに、時々子供みたいな怒り方をする人だなぁ)
それでもルネの意見を求めるよう、ちらっと目を向けるローランに、ルネは慎ましく微笑みながら頷き返した。
「大丈夫、どこから見ても完璧です、ムッシュ・ヴェルヌ」
それでやっと安心したらしい、ローランは目の前のドアを開いてフロアーに出ると、とても非常階段を27階踏破したばかりとは思えない涼しげな顔をして、堂々取り先のオフィスへと向かった。
一歩下がってその後ろに忠実につき従いながらも、ルネは、心の中で苦笑混じりに呟いていた。
(ナルシストの意地って、ここまでくると馬鹿馬鹿しいのを通り越して感心するよ。そのフォローに必死で回るのも秘書の務めなんだとすれば、僕はよくやっている方だよね)
ミラが出産のために社を去ったので、今ではルネがただ1人のローラン付きの個人秘書だ。
近頃ローランは、取引先にもルネを頻繁に連れていくようになった。ルネにしてみれば、大好きなローランにべったりくっついている時間が増えた訳で、大いに歓迎すべき状況なはずだが、同時に、これまでは気付かなかった上司の意外な一面を否応もなく目の当たりにし、戸惑うこともしばしばだ。
ローランがスタイル・キープのためにジムに通うなど地道な努力をしていることは知っていたが、忙しい管理職にある彼のこと、過密なスケジュールの中でエクササイズに充分な時間を割くことは難しい。
一方で、これはガブリエルの血縁の業だろうか、美食の快楽はしっかり味わいたいのだから、仕事の合間のちょっとした時間を利用して、とにかく少しでもカロリーを消費しようとする。例えば、徒歩圏内の移動ならばなるべく車は使わないとか、取引先のオフィスが入っている高層ビルに意地でも階段使って登ってみるとか…。
「あるいは、オフィスでも仕事の合間に可愛い秘書を捕まえて、軽いえっちで食べた分のカロリーを使っちゃうとかね…あはは、ルネってば、何真っ赤になってるのよ」
ランチ・タイムに社の近くまで来ていたキアラと待ち合わせ、一緒に昼食を取りながら、ルネはいつものように恋ばなに花を咲かせていた。
「あのね、僕とローランは仕事中におかしなことはしてないから…ミラさんがいなくなったって、その辺りは、きちんとケジメつけてるんだからね」
ルネは、テーブルの上に頬杖をついて悪戯っぽく笑っているキアラを軽く睨みつけながら、唇を尖らせ反論した。
「本当に真面目な子ねぇ…別に、上司と部下で恋人同士だからって、2人とも独身だし、ゲイだって公言もしているなら何も問題ないでしょうに…」
「別に不倫じゃなくても、公私混同、職場で上司とあからさまにべたべたするのは、僕は嫌なんだって…大体えっちしたのだって、パリに出てきてすぐあの人に押し倒されたのも含めて、たったの3回ぽっちだよ、3回 ! これで本当に恋人同士と言い切れるのか、僕には自信ないよっ」
「分かったから、ルネ…興奮しないで…」
つい声が大きくなっていたことに気付いたルネは、慌てて振り上げていた手を下ろし、付近のテーブルから向けられる冷たい視線を避けるよう、身を縮めた。
「それで、他に何か、私に聞かせたいようなローランの奇行ってある?」
キアラは取り繕うようにグラスの水を一口飲んで、ルネに話の続きを促した。
「奇行だなんて、失礼な言い方しないでよ。ちょっと変わってるってだけなんだから…」
そのローランの奇行をいちいち報告して、キアラと一緒に笑ったり嘆いたりしていた張本人はルネのはずだが、他人の口から彼を揶揄されるのは嫌なのだから、どうしようもない。
「そうだねぇ…この間、仕事が終わった後だったんだけれど、どうしてもローランを捕まえて確認しなきゃいけないことがあってね。携帯が繋がらないものだから、きっといつものジムに行っているんだろうって探しに行ったんだ」
ルネは、混み合うテーブル席を忙しく動き回るギャルソン達の動きを目で追いながら、ふっと思い出し笑いをした。
「有名人も利用するような高級クラブで、かなり遅い時間まで営業しているんだけれど…そこで見つけたローランってば、なんとバイクをこぎながら頭を揺らして居眠りしているんだよ」
「あらまあ、あの素敵なハンサムが…それはあまり想像したくない光景だわねぇ」
ルネが入社する前の話だが、女性向けの雑誌などに載ったルレ・ロスコーの広告に、ガブリエルと共にローランもモデルとして起用されたことがあり、『フランスで最も美しい経営者達』と当時話題になったため、キアラもローランの外見のよさについては認知していた。
「まっすぐ起こしに行きたかったんだけれど、そうすると、あの人の変に高いプライドを傷つけそうだし、かと言ってあのまま放置したら、バイクから転がり落ちそうで危ない…どうしたらいいんだろうって真剣に悩んだよ。結局たまたま近くを通りかかったスタッフにさり気なく声をかけてもらって、あの人が完全に目を覚ましたのを見計らってから改めて近づいて行ったんだけれどね。最近ローランがオーバーワーク気味なのは分かっていたけれど、ああいう緩んだ姿を外で見せるなんて、これまでは考えられなかったんだけれどな。ていうか、疲れているなら、無理してジムなんかに行ってないで、とっとと家に帰って寝ればいいじゃないか。いくら醜く腹が出るのは嫌だからって、どうして、あそこまでやらないといけないのかなぁ…ほんと、度を越してるんだからっ」
ルネが高ぶる気持ちを鎮めようと肩を大きく上下させた時、注文の料理がテーブルに運ばれてきた。ルネはサーモンのスパゲッティを、ダイエット中のキアラはサラダを頼んでいた。
「でもさ、最初の頃は、あなたのローランって全方位から見て隙一つない完璧ないい男だったのに、あなたの話を聞く限り、最近になって化けの皮が剥がれてきたというか、突っ込みどころが続々出てきた印象ね。まあ、ローラン・ヴェルヌも所詮は生身の男だったということかしら。ねえ、ローランにぞっこん夢中なあなたでも、さすがに幻滅して、恋の熱も冷めてきたんじゃない…?」
「ううん…それが意外とそうでもないんだよね」
ちょっとゆで過ぎた感じのスパゲッティをフォークに絡めたものの、すぐには口に運ばないまま、ルネは言った。
「天敵に等しいミラさんがいなくなって、傍にいるのが僕だけだとつい気が緩むんだろうかって苛々することはあるけれど、逆に僕だとローランは安心するのかなと思えば、嬉しいような気もしないでもないし…たぶん、最初の頃のイメージそのままの完全無欠なローランなら、そもそも他人の助けなど必要とすることもなく、僕はいつか無力感に捕らわれて、自分の仕事に対する熱意を失ってしまいそうな気がする。そのくらいなら、少しくらい抜けていて、僕がフォローできる余地がある方がいいんじゃないか…尽くしがいがある相手の方が、どうやら僕には合ってるみたいなんだよね」
キアラは呆れたような目つきで、照れくさそうに笑いながら、スパゲッティをフォークの先でつついているルネを見た。
「あなたって、どうやら自分から苦労を引き受けたがる性分みたいねぇ。それとも、ローランのためだと思えば、どんなに馬鹿馬鹿しくて面倒なことでも、苦にならないのかしらね…?」
「うん、それはあるだろうね。他の人のために、同じ苦労はできないよ。やっぱりローランじゃなきゃ、僕は駄目なんだ」
「はあ…それはそれは御馳走様」
「恋人としてならまたちょっと話は変わってくるけれど…少なくとも上司としてのローランに僕が求めるのは、大所高所に立って物事を見据え、僕達社員を牽引していって欲しいということで、その点概ねあの人は満足できる上司だから、他の面で多少のあらが目についても許せるんだよ」
白々とした表情のキアラの前で、堂々胸を張って上司自慢するルネだったが、ふいに、その顔が心もとなげに曇った。
「ただ、まあ…それも限度というものは確かにあるんだけれど…」
ルネは一口スパゲッティを食べたものの、やはりあまり美味しくなかったので、残念そうに顔をしかめた。
(そうだ、きちんと仕事さえこなしてくれれば、もともとローランに甘い僕は、彼が何をしても大目に見てあげようという優しい気持ちは持っている。しかし、いくらなんでも限度というものがあるよ。特にこの一週間は、僕が見てもひどいと思うくらい、ローランってば、集中力が途切れることが多い。会議とか取引先の人と会っている時には出さないけれど、ちょっと緊張が緩むとぼんやりしたり、書類に目を通しながら眠そうに目を擦っていたり…何だかとても疲れているみたいだ。おかしいな、ローランの仕事のスケジュールは僕が管理しているけれど、以前と比べて今がものすごく忙しい訳でもないのに…すると、プライベートで何か時間を取られることがあって、ちゃんと休むことができていないんだろうか…? ローランが休日にどこで何をしているのか、僕はいまだによく知らないけれど、仕事に支障をきたすほど一体何にそんなにかかずらって…)
ルネは頭に浮かんだ不愉快な考えに眉を潜め、フォークを持ち直すと、あまり口に合わないスパゲッティを意地になったようにかき込んだ。
「…ごめんね、キアラ、僕ちょっと気になることがあるから、そろそろオフィスに戻るよ」
そわそわと落ちつかない様子でテーブルから立ち上がりかけるルネに、キアラは意味深なウインクを送った。
「ローランと喧嘩なんかしないでね」
ルネは椅子の背に手をかけたまま、はっと息を吸い込み、固まった。
「ど、どうして、そう思ったの、キアラ?」
「ふふ、あなたってば、すぐ顔に出るんだもの。それに、あなたとローランの恋とも言えない恋の経緯をずっと聞かされてきた私だからね。ああ、これからローランと一悶着やらかすつもりなんだなぁって、分かるわよ」
「参ったな、もう…」
ルネは困ったように、手で頭をくしゃくしゃとかき回した。
「別に何も、ローランといきなり正面切って喧嘩を始めるつもりはないよ。ただ、最近のあの人はやっぱり様子がおかしいから、これ以上黙って放置はできないなって思ったんだ。確認すべきことはうやむやにせずきちんと確認するし、間違っていると思ったら率直に意見もする…どんなに煙たがられても、それができなきゃ、僕があの人の秘書でいる意味はないもの」
照れ隠しにつんとした口調で言い返したルネは、おやおやというような顔をするキアラに向かっておざなりに手を振ると、そのまま足早に店を出て行った。
(ローランにも言われたけれど、考えていることが顔に出るっていうのは、秘書としてはやっぱりまずいよね。自分の心は表に出さず、如才なく仕事ができるようにして、取引先などでローランの足を引っ張ることがないよう気をつけないと)
キアラに指摘されたことを気にして、ルネは信号待ちをしている間、歩道に面した店のショーウィンドウに映る自分の顔をチェックしてみた。
大丈夫。別にもう不機嫌な顔はしていない。
(さて、オフィスに戻ったら、まずローランに美味しいコーヒーを淹れてあげよう。あの人ったら最近、外で飲むより僕が淹れたコーヒーの方がおいしいって、ランチの後には必ず頼んでくるから…その後、タイミングを見計らって思い切って聞いてみよう。この頃随分お疲れのようですけれど、仕事を離れたプライベートで、一体何をなさっているんですって)
そんなことを思い巡らせながら、ルネはいそいそとオフィスに向かった。
「…ムッシュ・ヴェルヌ?」
ルネが秘書室に戻った時、隣接する副社長室はしんと静まり返っていた。
壁の時計を横目でちらっと見やり、もしかしたらローランはまだ帰っていないのだろうかと思いながらも、ルネは確認のため部屋のドアをノックした。
「ムッシュ・ヴェルヌ、おられませんか?」
応えはなかったが、何となく気になったルネは、そのままそっとドアを開けてみた。
「ひっ…」
副社長室を覗きこんだ途端、目に飛び込んできた光景に、ルネは瞬間的に凍りついた。
「ローラン?!」
ルネが見たのは、愛用のデスクの黒い革張りの椅子に沈み込むように座ったまま、がっくりと仰向けにのけぞり、腕をだらりと垂らして、ぴくりとも動かないローランの姿だったのだ。
その時ルネの頭に閃いたのは、心臓発作とか過労死とかいう縁起でもないキー・ワードだ。
「ロロロロロ、ローラン!!」
ルネは携えていたスケジュール帳を取り落とし、両手で顔を挟んで悲鳴をあげるや、よろめくようにローランのデスクに駆け寄った。
「ローラン、し、しっかりしてください…駄目、僕を置いて死なないで…あれ…?」
思わず涙ながらにすがりつこうとした、その手を、ルネはローランの肩にかける寸前で止めた。
もしかしたら既に死んでいるのではと疑ったローランの口から、規則正しい呼吸が洩れていることに気がついたからだ。
「寝てる…」
椅子の背もたれにだらしなくもたれかかり、頭を大きく後ろにのけぞらせ、そうなると必然的に口も開いたまま、魂を飛ばしたルネが大声をあげて走り寄っても気づきもしないで、ローラン・ヴェルヌは爆睡中だった。
「全く、もう…驚かせないでくださいよぉ。眠いなら、ソファに横になってください。こんな紛らわしい恰好されたら、僕の方こそ、心臓が止まるかと思った」
脱力したルネは、その場についへたり込みそうになる体をデスクに手を突いて支えた。
(それにしても、よく寝ているな。僕がこれだけ大騒ぎしても起きないなんて…)
やっと気持ちを鎮めると、ルネは改めて、熟睡しているローランの無防備な姿を見下ろした。
(あああ…こんなアングルで見ちゃったら、せっかくのハンサムが台無しですよ、ローラン…ナルシストが、他人に鼻の穴まで見せちゃ駄目でしょう)
しかし、こんな間の抜けた顔すらも、一抹の情けなさと共に無性に可愛く思っている自分がまたおかしいやら悲しいやら。ルネはぐっと奥歯を噛みしめながら、ポケットから取り出したハンカチで、ローランの口元で光っているもの拭いてやろうとした。
その時、秘書室の方から物音がし、誰かがルネを呼ばわる声が聞こえてきた。
「ルネ君、ルネ…何だ、いないのか。ううん、約束の時間には少し早いが、さて、ムッシュ・ヴェルヌはいらっしゃるかな…?」
ルネの心臓が、胸の中で大きく跳ねた。
(あっ)
そう言えば午後から面談の予定が一件入っていたことを思い出したルネは、引きつった顔で副社長室の入口を振り返った。
ローランの有様にすっかり動転していたため、ドアは開けっぱなしにしている。今から戻って閉じようにも、間に合わない。
「ムッシュ・ヴェルヌ、そこにおられますか?」
何も知らない男性社員の声が、まっすぐこちらに近づいてくる。
ルネは、この期に及んでもすやすやと眠り続けているローランの緩みきった顔を見下ろし、大きく深呼吸した。
(駄目だ。こんな顔、絶対他の社員達には見せられない!)
ルネは両手でローランの顔を挟んで固定すると、えいやとばかり身を屈め、その唇に自分の唇をくっつけた。
丁度ドアの向こうに立った社員の目には、ルネの背中に隠れて、ローランの情けない顔は捉えられない。それどころか、全く意味合いの違う光景が映ることになった。
ひっそりと静まり返った昼下がりの副社長室で、ローランとその秘書が身を寄せ合い、甘い口付けを交わし合っているというような―。
社員ははっと息をのみ、何かに躓いたように立ち止った。しばらく絶句した後、彼は足音を殺して後じさりし、そのまま秘書室を抜けて、外に飛び出していった。
きっとあの社員は、自分が今見た光景を同僚達に興奮気味に吹聴しまくることだろう。
(ああ、これでもう、言い訳も取り繕ろいようもなく、僕はこの人の『愛人』に決定だ)
これまで、そういう浮いた噂がたたないよう、慎重に行動してきた苦労が一瞬で無に帰してしまったルネだったが、それでも、間抜け面で居眠りこいているローランという不名誉な噂が社内で駆け廻るよりかは、まだましなような気がした。
(本当に僕は、この人には甘いんだな)
ローランの頭を抱きかかえたまま、ルネがしみじみと感慨に浸っていると、いきなりその腰に人の手が触れた。
「わーっ」
びっくりして悲鳴をあげるルネの手を、また別の手が捕まえた。
「ルネ…どうした、今日はおまえらしくもなく、随分と大胆なことをするんだな」
やっと目を覚ましたらしいローランが、欠伸を噛み殺しながら、まだ少しとろんとした緑の目をルネに向けていた。
「ム、ムッシュ…」
ルネはとっさにどう応えたらいいのか分からず、口ごもった。
(確かに寝込みを襲ったみたいな状況だけれど、別に僕は、好き好んであなたのキスを盗んだ訳じゃない)
しかし、真実を明らかにして、この格好つけのナルシストを恥じ入らせるのもまた哀れ―などと、余計な心配だろうか。
「オフィスでのこういう行為は厳禁じゃなかったのか? 別に俺は、おまえがいいと言うのなら、いつでもどこでも構わないどころか、大歓迎だが…?」
ローランは動揺するルネの体を自分の方に引き寄せ、その唇を求めて顔を近づけてきた。
(あなたね、自分の評判がたった今危機的状況にさらされていて、それを僕が救ったんですよ! 分かってるんですか?!)
軽く切れたルネは、固めた拳をローランの頭に振り下ろした。無論、かなり手加減をして。
「やめてください!」
「あいたっ」
ローランは、前に大きくつんのめった。どうして?とでも言いたげに殴られた所を押さえつつ、ルネを振り仰いだ。
「目が覚めましたか、ムッシュ・ヴェルヌ?」
怒りのオーラを発散しながら腕を組んで仁王立ちしているルネに、ローランは一瞬怯んだようだ。
「ああ」
ぼそりと答えて、居心地悪そうに椅子に座り直し、指先でネクタイを整えた。
「…ムッシュ・ヴェルヌ、近頃あなた、仕事中に少々気が緩んでいませんか?」
こういう話は、まずコーヒーを淹れてあげて、ローランが機嫌よく話を聞いてくれるモードになってから切り出すつもりだったのだが、ルネはもう黙っていられなくなった。
「別に、休憩中に仮眠を取るなとは言っている訳ではありません。若くて精力的な経営者と言ったって、人間なんだから、時には疲れがたまることもあるでしょう。けれど、ここしばらくのあなたのたるみようは、度を越していますよ。今の所気づいているのは僕くらいなものだと思いますけれど、皆を率いる立場にあるあなたが、あんまりだらしない姿を部下に見せるのはどうかと思います。経営者なら、プライベートに何があろうがうまく調整して、自己管理をきっちり行なっていただかなくては」
ルネが口を酸っぱくして言い聞かせるのを、ローランは何やら物珍しそうにじっと見守っていた。そのまま、しばし黙り込んだ。
「ムッシュ、何とかおっしゃってください」
ルネが組んだ腕を苛々と指先で叩きながら追求すると、ローランはやっと、苦笑にも似た表情を口元に浮かべ、言った。
「成程、おまえがそこまで言うのなら、近頃の俺の職場での態度には見過ごせないものがあったんだろうな。そうか…我ながら余裕がなくなっているのは感じていたが、まだ大丈夫だろうと高をくくっていた。こういうことは、自分よりも、身近にある他人の目の方がよほど信頼できるな」
ローランはスーツのポケットから煙草を取り出して火をつけ、深々と吸いこんだ。
「そう言えば、あなたが消費する煙草の本数も日ごと増えていますよね…?」
ルネが眉を潜めて指摘すると、ローランは皮肉を込めた口調で答えた。
「知っているか、ルネ、喫煙によって肺から吸収されたニコチンが脳に到達するのには、4秒とかからんそうだ。疲れ過ぎて反応の鈍くなった人間が緊張感を取り戻すには、手っ取り早い劇薬だな」
「そんなものに頼ると体を悪くしますよ。眠気覚ましなら、僕がコーヒーを淹れますから、煙草は控え目にしてください」
ローランはルネの心配そうな顔を見ながら少し考え込んでいたが、やがて、吸いかけの煙草を灰皿でもみ消した。
それを見てほっとしたルネは、自分が不機嫌になっていた理由も忘れて、にこっと笑った。
「ありがとうございます。すぐにコーヒーをご用意しますので、お待ちください」
ルネが慣れた手順で素早く丁寧に淹れたコーヒーをトレイに乗せて戻ってくると、ローランは、デスクの傍らにあった、本日発売の雑誌をぱらぱらとめくりながら、何やら難しい顔をしていた。ルネが今朝用意して、そこに置いたものだ。
ルネの姿を認めると、ローランは雑誌をもとあった場所に戻し、デスクの上で両手を組むようにして、彼が近づいてくるのを待ち受けた。
「どうぞ」
ルネが目の前にそっと置いたコーヒー・カップを、ローランは待ちかねていたかのようにすぐに持ち上げ、唇に運んだ。
一口飲んでほっと息をつき、目を閉じる彼は、やっぱり心身ともに疲れているように見えた。
「…ムッシュ、よろしければ肩や背中を少しマッサージでもしましょうか?」
「そこまでしてもらうには、及ばないさ、ルネ…それに、午後から早速面談の予定が一件入っていただろう?」
「それなら、キャンセルにしておきましたから、御心配なく」
もう遅いかもしれないが、先程飛び出していった男性社員に、余計なことは言うなと後で釘を刺しておこう。そんなことを考えながら、ルネはローランに向かって優しく頷き返した。
「全く、おまえは気がきくな。それとも、おまえにあれこれ気を回されるほど、俺の不調が傍から見ていて明らかだったのか」
別に、面談のキャンセルはルネが気を回してのことではなかったが、ローランがそれを知る必要はない。だからルネは肯定も否定もせず、黙って微笑んでいた。
「さて」
ルネが辛抱強く待っていると、ローランはくるりと椅子を回して、彼の方に体を向けた。
「おまえも薄々察しているように、俺はここ最近、プライベートな時間に問題を抱えて、忙殺されている。おまえに何をどこまで話すべきかな、ルネ…?」
ルネの顔をまっすぐ見据えるローランは、いつもの明晰さを取り戻していて、あんまり舐めた態度を取ると深々と切り返されそうな緊張感を覚えさせた。
「確認させていただきますが、それは、ルレ・ロスコーのトップにあるあなたが、仕事に差し障りが出てもやむなしと考えるほど重要度の高い問題なんですか…?」
用心深く、しかし小さな反発を込めて、ルネは問い返す。
「棘のある言い方をするなよ、ルネ…だが、まあ、そうだな。俺の優先順位のつけ方は、いつも極めてはっきりしている。自分の職務を疎かにする気はないが、今回のケースに関しては、そっちの重要度が高いということだ」
大方予想はしていたことだが、微塵も躊躇や後ろめたさを感じさせないローランの返答を聞いて、ルネは溜息をつきそうになった。
「あなたの優先順位の中で何がというか、誰が一番上にあるのかなら、僕もよく存じあげています。つまり、あの方絡みのことなんですか、あなたがかかりっきりにならざるを得ない問題というのは…?」
そうだ、ローランを追求しなくても、少し考えてみれば分かることだ。彼が仕事も、自分の身も顧みなくなるほど、全身全霊を捧げて尽くす相手と言えば、ガブリエルしか考えられない。
(全くもう、忠犬なんだからっ…呆れるくらい、腹が立つくらい、悔しいくらい、ガブリエル一途なんだから―)
湧き上がったほろ苦い感情を振り払うよう、ルネは軽く痛み出した頭を片手で小突いた。
「大天使の単なる気まぐれや我が侭に、あなたが一方的に振り回されている訳じゃないですよね。それじゃあ、あなただけじゃなく、僕も含めた、あなたを敬慕する部下達の立つ瀬がないです…泣きますよ、ほんとに?」
涙の滲んだ声で訴えるルネを、ローランは穏やかな口調でなだめにかかった。
「あいつは確かに我が侭だが、俺に任せたこの会社の業務を意図的に妨害するような馬鹿な真似はしない。あれでも一応ルレ・ロスコーの社長だぞ。もう少し信頼してやれ」
「一度も会ったことのない社長を、どうして信頼なんかできるんですか?」
「確かに、それもそうだな」
ルネが食ってかかると、ローランは降参したように両手を上げた。その顔は、どこか楽しげに微笑んでいる。
「どうして笑うんですか、僕は真面目に話をしているんですよ」
「ああ、うん…分かっているさ、ルネ」
ルネが手を振り回し怒ってみせても、ローランは嬉しそうに眦を下げるだけで、その微笑の理由は明かしてくれなかった。
「もう、いいです…時間が惜しいので、僕が分かるよう、状況の説明をお願いします」
諦めたルネが先を促すと、ローランも顔を真面目に引き締めた。
「込み入った話なので詳細を説明すると長くなるんだが…要するにこれは、ロスコー家の中で起こった身内同士の争い…一種のお家騒動みたいなものだ。敵も味方も血縁同士だから、大っぴらにするには憚るものがあったが、ちょっと前から表に出ない所では前哨戦みたいな揉め事や駆け引きが続いていた。それがいよいよなりふり構わない本格的な闘争になりつつある…そして、その中心にガブリエルがいる」
淡々と事実を並べるように語っていたローランが、ガブリエルの名前を口にする時だけ、一瞬火のように感情的になるのをルネは認めた。
「俺はあいつの影だから、全力を尽くしてあいつを助け、いざという時には盾となって守らなければならない。これは公の立場云々を超えて、俺にとって最も重要な使命だ。仕方ないが、他の雑務は二の次ということになるな」
「影だからって…そんな当たり前のように―」
黙って耳を傾けていたルネだったが、ついに、込み上げてくる、どうにもならない感情を抑えかねた。
「ど、どうして、あなたはそこまでガブリエルに尽くそうとするんですか? 傲岸不遜で強引で、いつも他人を振り回してやりたい放題やっている、あなたは一体どこに行ったんです! 自分から進んで他人の影に徹するなんて、全くあなたらしくない…そんなことで満足できるなんて、僕には理解できません!」
叫ぶようにぶちまけたルネの台詞に、ローランは眉を寄せた。
「どうしてなんて、おまえが俺に尋ねるのか、ルネ? お前なら、俺の気持ちを理解できるはずだと思うがな」
「いいえ、分かりませんっ…分かりたくもないです」
ルネは頑強に否定するが、率直に問いかけるようなローランの目をなぜかまともに見返すことができなくて、ぱっと顔を背けた。
白々とした沈黙がしばし2人の間に流れた。そして、頑なに会話を拒んでいるルネよりも、やはりローランが先に口を開いた。
「…なあ、ルネ、予め断っておくが、俺は目的のためには手段を選ばない男だから、おまえには、この先散々苦労や迷惑をかけることになるかもしれない。悪いが、俺に惚れた時点でそれは運命なんだと思って、諦めろ」
「ハ…ハァッ?!」
瞬間的にかっとなったルネは、椅子に深々と身を預けたまま悪びれもせずに自分の反応を窺っているローランを、勢いよく振り返った。
「何それ、今から僕に苦労をかける気満々のくせして、謝っているつもりなんですか?! ええ、あなたからかけられる苦労なら、僕は大抵我慢できるつもりですとも…どうせ僕は、あなたに心底甘いですからねっ。けれど、それが全てガブリエルのためというのは、かなり引っかかりますよ…ええ、大いに不満ですとも! 大体僕は、あなたには全身全霊捧げていますけれど、あなたのガブリエルに対しては、一ミリたりとも恩義も愛情も感じてないんですからねっ」
物凄い剣幕でまくしたてるルネに、ローランは軽い頭痛を覚えたかのように天を仰いで、額をそっと押さえた。
「俺に忠義なのは嬉しいが―その俺が忠誠を尽くしている、ガブリエルにも同じようにはできんのか?」
「嫌です、絶対無理無理…僕は一度に1人の人しか見えないんです。だから、あなた以外の人に浮気なんかできません」
眉を吊り上げ徹底抗戦の構えで言いきるルネを前に、ローランは困ったように頭をかいた。
「そういう浮気とこれはまた違うだろう…やれやれ、融通のきかん奴め…」
ローランは視線を床の上に落としたまま、しばし何事か考え込んでいたが、ふいに、思い切ったように顔を上げた。
「俺には心底甘いと言うおまえだが、どこまでなら許せるんだろうな。なあ、ルネ、もし俺がおまえを―」
「ローラン…?」
ローランは何を言い出すつもりなのだろうとルネは身構えたが、その言葉を口にする前に、彼の携帯電話が鳴った。
ローランは間が悪そうに顔をしかめると、ポケットから携帯を取り出した。その表示を確認した彼の顔が、厳しく引き締まる。
(あ、ガブリエルからの緊急コールだ。この人の反応も、ガブリエルに関する限り、全く分かりやすいなぁ)
電話の相手が大天使では太刀打ちできないなと、ルネはしょんぼり肩を落とした。
「では、僕はこれで失礼します、ムッシュ・ヴェルヌ…」
「あ、ルネ、ちょっと待て」
諦めモードに入ったルネが空になったコーヒー・カップをトレイに戻して退出しようとするのを、意外なことにローランが呼びとめた。
「取りあえず、この雑誌に目を通しておけ。ロスコー家のいざこざについて分かりやすく書かれているぞ。こんなものはまだ序の口で、明日辺りからタブロイド紙がもっと散々な暴露記事をかきたてるだろうがな。きっとオフィスの方にも問い合わせや取材の申し込みの電話がかかってくるだろうから、今からおまえも覚悟しておくことだ」
「えっ…え…?」
ローランは、先程めくっていた雑誌を当惑するルネの手に押し付け、意味ありげに片目を瞑ってみせると、鳴り続ける携帯電話に出た。
「ああ、すまない、ガブリエル…大丈夫だ、こちらは今の所、何の問題もない…」
問い返そうにもローランは既にルネに背中を向けていて、彼の絶対的主との会話に集中している。
いきなりとても遠くなってしまったローランの背中に切ない眼差しを投げかけた後、ルネは大人しく副社長室を退出していった。
そして、秘書室の自分のデスクに戻るや、早速ローランから手渡された雑誌を開いて問題の記事を調べてみた。
「ああ、ローランが言ったお家騒動って、これのこと…?」
特ダネとして、まだ疑問符つきながらも、センセーショナルな見出しはこううたっていた。
『アカデミー・グルマンディーズ主宰の地位を巡って、ロスコー家に内紛が勃発か?』
ルネは戸惑うように額にかかる柔らかなウェーブのかかった髪を指先でいらいながら、すうっと息を吸い込んだ。
(雑誌の電話取材とかって、ほんとにあるんだろうか…業務に差し支えないか、ちょっと心配だな。他の社員達にも、動揺しないよう言い含めていた方がいいだろうし…はぁ、ローランじゃないけど、僕も安定剤代わりにコーヒーの消費量が増えるかもしれないや)
この記事に書かれた内容からは、ルレ・ロスコーはこの内紛とやらに直接関係なさそうに思えるが、アカデミー・グルマンディーズ主宰のガブリエルは同時にここの社長でもあるのだ。
先程のローランの言葉を思い起しても、この騒ぎに、ルレ・ロスコーが無縁でいられるはずもなく、自分もじきに巻き込まれていくことをルネははっきり感じ取っていた。