花束と犬とヒエラルキー
第4章 愛とスープの法則

(この人が『大天使』ことガブリエル・ドゥ・ロスコー…アカデミー・グルマンディーズの主宰であり、ここの社長、そして、ローランの最愛の人)
 ずっとその存在を意識してきたガブリエルと初めて直接真見えたルネは、混乱と衝撃のあまり、しばし石と化したかのように固まっていた。
(僕にそっくりだと聞いていたけれど…嘘だ、ちっとも似ていない。この人に比べたら、少しくらい綺麗だと言われたって、僕なんかあまりにも平凡でつまらなく見えてくるはずだ)
 確かに顔の造作は一部を除いてよく似ているのだろうが、滑らかなクリームのような肌といい、淡い薔薇色のふっくらとした唇も、根元から混じりけのない金色に輝いている髪も、ここまで綺麗な生き物が存在するなんて奇跡のような、ほとんど人間離れした美しさだ。
(こんな顔を間近でしょっちゅう見てきたわけだから、自然とローランの目も肥えているんだろうな。ああ、今更だけど、僕、あの人を振り返らせる自信なんかなくなってきた)
 ガブリエルは、話で聞く限り、ルネより1才年上のはずだが、あどけないと言っていいほど無邪気な微笑みを浮かべた顔は少年のようにも見えたし、同時に実年齢を遥かに超越した老成した雰囲気もまとっていた。
(実は百年や二百年生きていたとしても少しも不思議でないような…確かに『大天使』と渾名されるのも頷ける。こんな人の身代りになんか、この僕がなれるはずがない…あれ…? おかしいな、それなら、どうしてローランは、わざわざ僕に髪の色まで変えさせて、ガブリエルを真似た恰好なんかさせたんだろ…?)
 ふいに湧きあがった疑問をルネが斟酌しようとしていると、彼とのにらめっこに飽きたのだろう、ガブリエルが小さな欠伸をした。そして、おもむろに手を伸ばしてきて、ルネのころっとした鼻を白い指先でつまんだ。
「可愛らしい鼻ですね」
 にっこり笑う天使に鼻をつままれたまま、ルネは目をぐるっと回した。
「ハ…ハァッ…??!!」
 素っ頓狂な声をあげて、ルネはガブリエルの手を振り払いざま、後ろに飛びのいた。
「ななな、何をするんですか?!」
 真っ赤になって鼻を手で押さえ、動揺のあまり震える声で訴えるルネを、ガブリエルはつまらなそうに唇を尖らせ、見返した。
「本気で可愛いと思ったから、つい触ってみたくなったんですよ。怒ることはないでしょう、私は褒めているんです」
「褒めてって…初対面の人にいきなりあんな突拍子もないことされたら、誰だってびっくりしますよ」
 ガブリエルは悪びれもせず、おっとり首を傾げ、言った。
「ああ、では、あなたは別に怒っている訳ではないんですね。それを聞いて安心しましたよ。ローランのお気に入りの秘書に、出会いがしらから嫌われたくはないですからね」
 ルネは何やら毒気を抜かれた気分で、恋敵であるはずの人が砂糖菓子のような甘い笑みを浮かべるのを見守った。
「…失礼しました、ムッシュ・ロスコー。まさかあなたが今日突然社にお越しになるとは夢にも思っていなかったものですから―申し遅れましたが、僕はルネ・トリュフォー…ムッシュ・ヴェルヌの秘書です」
 軽い頭痛とめまいを覚えながらも、ルネは姿勢を正して、ガブリエルに丁寧な挨拶をした。
「ふふ、言わずもがなな気もしますがね。あなたのことはローランからよく聞いているので、何だか初めて会った気がしませんよ」
 ガブリエルの台詞に胸がざわめくのを覚えたが、ルネは問い返したくなる衝動をぐっと堪えた。
「さっきはあなたを驚かせてしまって、すみませんでしたね、ルネ。最初は奥の社長室に行ってみたのですが、久しぶりに中を覗いてみたら、私には身に覚えのないガラクタが色々置かれていて物置みたいなことになっていたので、仕方なくここで待たせてもらっていたんです」
 ルネは、額が薄っすらと汗ばんでくるのを覚えた。
「あまり社の業務には関係なさそうな、健康器具みたいなものもありましたねぇ…あれはたぶん、ローランが通販番組か何かで見かけて衝動買いしたものでしょう。彼の家にも似たようなものが転がっていましたが、軽い気持ちで取り寄せてもいざ使ってみると気に入らなくて、すぐ放置ということになるんですよ。これ以上ガラクタを増やしても邪魔になるだけだから、よく考えてから買えと言い聞かせるんですがね」
「す…すいません、僕がいけないんです。あんなものを副社長室に置くと目障りだし邪魔になるだけから、独断で社長室に片付けてしまいました」
 恐縮するルネに向かって、ガブリエルは鷹揚に頷いて見せた。
「別に構わないですよ。あんな広い部屋を遊ばせるのも、確かにもったいないですからね」
「そ、そう言えば、他の社員達は一体何をしていたんでしょう。社長を独りきりでお待たせして、コーヒーの一つもお出しせずに…?」
「今回の訪問は極秘のものですから、あえて誰にも知らせなかったんです。社員達が騒ぎ立てて、もしも外で張り込んでいるマスコミ関係者に知られたら、うるさいでしょう? だから私も、大げさなことは抜きにして、正面玄関から普通に目立たぬよう入ってきたんですよ」
「普通に、目立たぬよう…あなたが、ですか…?」
 ルネは怪しむような顔をして、思わず問い返した。
「ふふ、実際、社内ですれ違った社員達は誰も、私が何者なのか気付かなかったようですよ? あなたのおかげですね、ルネ…彼らにとって、今ここにいるのは、ガブリエルによく似た姿のルネ・トリュフォーだという先入観が強烈にあるものだから、本物のガブリエルが目の前を通り過ぎても気付かなかったんです。そんな訳で、誰にも不審に思われることなく、私はここまで辿りつくことができました」
顔を引きつらせるルネに向かって、ガブリエルは悪戯っぽく片目を瞑って、付け加えた。
「ああ、途中社員に呼び止められて、後で会議室にコーヒーを持ってきてくれないかと頼まれましたが、私は自分でコーヒーを淹れたことなどないので、それは無視しましたよ。あしからず」
「うわぁ、申し訳ありませんっ。だ、誰だ、社長を捕まえてコーヒーを淹れろだなんて失礼な頼みごとをしたのは―」
「別に謝る必要はないですよ、ルネ。あなたが私を見誤った訳ではないでしょうに…それに、私自身、この状況を楽しんでもいます。何しろ、最近私の身辺では皆ぴりぴりしていて、常に誰かに見守られ、独りきりでほっとくつろぐこともできなかったものですから、ここでしばらくあなたのふりをしながらのんびりできたことは幸運でした。ああ、でも―」
 ガブリエルはふいに思いついたかのように、軽く両手を打ち鳴らした。
「ね、ルネ、お願いがあるんですが、聞いてもらえますか?」
「は…僕にできることであれば善処しますが、何でしょう…?」
「コーヒーを一杯もらえませんか? あなたの淹れたコーヒーは格別に美味しいとローランが褒めていたものですから、是非一度飲んでみたいと思っていたんです」
「は…あ…」
 ローランはガブリエル相手に、ルネのコーヒーは美味しいと自慢していたのか。何となくくすぐったいような気分になりながら、ルネは指先で頬のあたりを引っ掻いた。
「ムッシュ・ヴェルヌのコーヒーの好みなら心得ていますけれど…普通にコーヒー・メーカーで作ったものですから、アカデミー・グルマンディーズ主宰の口にあうものか、保証はできませんよ…?」
「構いません」
 ガブリエルは膝の上で両手をピラミッドのような形で組み合わせながら、謎めいたきらめきを放つ青い瞳をルネに向け、ゆるゆると眦を下げていった。
(それにしても、ローランはてっきりガブリエルの傍についているものかと思っていたけれど、今日は違ったんだろうか…? ローランがいたら、大切なあの人に単独行動なんかさせるはずがない。実際、あの柄の悪いパパラッチ達とも危ういところでニアミスだったわけだし…今ガブリエルがここにいることをローランが知っているかも、怪しいな。一応知らせておくべきだろうか…?)
 コーヒーを用意する間、ルネはデスクの上のパソコンと電話をちらちら見やりながら考えていたが、ローランに知らせるのは後回しにして、取りあえずガブリエルの相手をすることにした。
「お待たせしました」
 ルネは、いつもの手順で淹れたコーヒーをガブリエルの前に置き、彼がそれを手に取って口元に運ぶのを見守った。
「オフィスで出すものにしては、なかなかいい豆を使っていますね。鮮度も申し分ないし、ブレンドや焙煎の度合いは、まさにローランの好み通り…これなら、彼が気に入るはずですよ。ここまで細やかな気遣いができるなんて、ローランはいい秘書を持ちましたね」
「恐れ入ります」
 アカデミー・グルマンディーズの大天使に褒められて、ルネは嬉しそうに綻びそうになる唇をきゅっと引き締め、慎ましく目を伏せた。
「ところで、ムッシュ・ロスコー…あなたが今日こちらにおいでになることを、ムッシュ・ヴェルヌは御存知なのでしょうか?」
 後でローランに報告することも考えて、ルネは用心深く問いかけた。
「たぶん知らないと思いますよ。別にローランにまで内緒にするつもりはないんですが、うっかり話すと自分も付いてくると言い出しそうですし、ただでさえ私の代わりに表に立って、今回のスキャンダルの火消しに回って忙しい、彼の仕事をこれ以上増やしたくはないですからね」
 成程、ローランはガブリエルの今回の行動を承知している訳ではない。社員に知らせることもなく、不意打ちのようにここを訪問したのは、ガブリエルの個人的な用件が何かあってのことか。
「あの…ここの社長であるムッシュ・ロスコーにこんなことをお尋ねするのは不適切かもしれませんが、よりによって今この時期に、あなたがわざわざ極秘で社を訪問されたのは、一体どのような理由からなのでしょうか?」
 ルネの生真面目な顔に含みのある眼差しを向けながら、ガブリエルは至ってシンプルに言った。
「ほとんど名のみの社長の私ですから、別に仕事がらみの理由ではありませんよ。私は今日、あなたに会うためにここに来たんです、ルネ」
「え、僕…?」
「ローランの自慢の秘書と一度直接会って、話をしてみたくなったんです。何しろ、あの人があんなふうに他人のことを褒めるのは珍しいものですから」 
 ルネはぽかんと口を開けたまま、しばし絶句した。
「ムッシュ・ヴェルヌは、そんなにしょっちゅう、あなたに僕のことを話していたということですか…?」
「ええ、それはもう…特定の恋人のいない私に対する当てつけかと思うくらい、大変なのろけっぷりですよ。そこで、ルネ・トリュフォーとはどんな人物なのか、どうしても知りたくなった。本当にローランが語るような素晴らしい人なのか、この目で確かめようと思ったんです」
 ルネは何だかもう色々信じられなくて、混乱を鎮めようと額に手を置いた。コーヒーが美味しいというくらいの自慢なら聞き流してもよかったが、ローランとガブリエルが自分をネタに楽しげに語らっている図など想像してしまっては、彼が冷静でいられるはずがない。
「ムッシュ・ロスコー、ロ、ローランは…教えてください、あの人は僕のことを一体どんなふうにあなたに話しているんですか―あ、失礼…」
 うっかり素に戻ってガブリエルを鋭く追求しかけたルネは、ぱっと顔を赤らめ、俯いた。
「別に隠すことはないですよ、ルネ。あなたがローランを愛していることは、先程のあなたの絶叫を聞くまでもなく、私もよく知っています。あなた方の間であったことは、おそらくほぼ百パーセント、私には筒抜けだと思ってもらっていいくらいですから」
「え…う…っ…まさか…?」
 ルネが目を白黒させながらガブリエルを見返すと、彼はいかにも当然というかのような平静さで深々と頷いた。
「つ…筒抜けって…僕にとっては誰より一番あなたには知られたくないプライバシーを…どうして、あの人は軽々と話すんだ…信じられないっ…!」
 込み上げてくる羞恥心と怒りに身悶えして、ルネが頭を抱えて低く呻くのに、ガブリエルはしまったというような素振りで口元を押さえた。
「ああ、あなたにしてみたら、これは恥ずかしいことでしたか。気がつかなくてすみません、ルネ…私とローランの間に基本的に秘密は存在しないので、それがお互いの恋愛に関することでも、ついいつもの癖で右から左へと情報が伝達されてしまうんです。それが原因で恋人が離れていったことも今までないでもないんですが、こればかりは昔からの習慣なので、なかなか改められないんですよね」
 そよ風のような軽やかさで言い放つガブリエルに、真面目なルネは、相手が社長だということも忘れて本気で切れた。
「習慣だから改められないって、それで終わりですませるようなことですか! その習慣が非常識だということくらい、あなた方だって立派な大人なんだから分かるでしょう! 変ですよ…熱々の恋人同士だって長年連れ添った夫婦だって、そこまで仲良くできるものじゃありません。そう言えば、ミラさんもあなた方は一心同体だと評していた。ローランは、自分をあなたの影だと躊躇いもなく言いきるし…一体、あなた方はどういう関係なのか、僕は常々頭を悩ませていたんです。そうだ、この際だから、あなたにも聞かせてもらいますよ、ムッシュ・ロスコー。あなたにとって、ローランは一体何なんです?」
 真っ向から投げ込まれた直球の質問に、ガブリエルは悩ましげに眉を寄せて考え込んだ。
「私にとってのローラン? さあ、何なんでしょうね、うーん…あえて言うなら、愛犬…?」
「うわぁ…マジ…?」
 ガブリエルの飼い犬みたいだとローランが示す忠誠ぶりを常々冷たい目で見ていたルネは、たちまち頭を抱えてうずくまった。
「あ、嘘です、冗談です。すみません、あなたが、ローランが絡むことだとあんまりむきになるものですから、ついからかいたくなったんです」
 何なの、この人? 真っ赤な顔をして咳込みながら、涙目でルネが見上げると、ソファから立ち上がったガブリエルが、心底すまなそうに彼を覗きこんでいた。
「あなたは、本当にローランのことが好きなんですねぇ、ルネ」
 ガブリエルは、複雑な思いを噛みしめているルネの手を取り、自分の座っているソファの向かいに座らせた。
「あなたは、私とローランの関係を知りたいんですよね?」
 打って変わって真摯で誠実な態度で切り出すガブリエルを前に、ルネは思わず姿勢を正した。
「は、はい…あなた方が親戚関係にあることや、お母さんを亡くしたローランが、ロスコー家であなたと兄弟同然に育てられたことなら、僕も知ってはいますけれど…」
「その通り、私達は、幼い頃からずっと一緒に生きてきました。ローランの母が亡くなった直後、彼の父親はと言えば、子育てには興味のない親権失格者で、早々に別の女性と暮らし始めてしまい、事実上遺棄された彼を引き取って育てようとしたのが私の母のアンジェリク…ローランの母とは親友同士でした。しかし、彼女も2年後に他界、外交官である私の父の赴任先が政情不安定な国だったこともあり、その後は祖父の庇護下に私達2人は置かれることになったんです」
 ローランの性格に若干歪みがあるのはその不幸な生い立ちのせいだろうかとかねてから思っていたルネは、彼と一緒に育ってきたガブリエルの語る話にすぐに引き込まれていった。
「ローランには年の離れた姉が1人いますが、そんな育ち方をしたので、彼にとって肉親は縁の薄い存在です。私も、他に兄弟はなく、父親とも長く離れて暮らしていたので、一番身近にいる肉親と言えば、やはりローランでした。あなたは、おそらく私が彼の恋人ではないのかと疑心暗鬼にかられているようですが、それは誤解ですよ」
 一番気になっている、核心の部分にずばりと切りこまれて、ルネは一瞬息をとめた。しかし、素直にガブリエルの話を信じる訳にもいかず、勇気を奮い起して、食い下がった。
「でも、ローランがあなたを他の誰よりも愛しているのは、傍から見ていて明らかですよ。恋人じゃないなんて言われても、それじゃあ一体何なのか、僕にはやっぱり納得できません」
「まあ、すぐに結論に飛びつこうとするのはおよしなさい、ルネ。正直に告白すると…今まで私達の間で全く何もなかったわけではないですよ。恋人めいた関係になることも、たまにはありました」
「ああああぁ、やっぱり…!」
「だから最後まで人の話を聞きなさいって、ルネ…確かに、ローランと寝たことなら何度かありますよ。しかし、実際気持ちの上で、今更彼を恋愛の対象として見られるかというと違うんですよね。私にとってローランは身近すぎるんです。肉親以上、ほとんど自己の延長にあるような存在ですから…」
 ガブリエルはふと遠い目になってしばし何かしら考え込んだ後、改めて、ルネに注意を戻した。
「そんな訳で、あの人と私は恋人同士ではありません。しかし、私にとってローランがとても大切で特別な存在であることには変わりません。ですから、彼がどんな人を恋人に選ぶかは、私にとっても重要な関心事です」
 自分を見つめるガブリエルの目の奥に、一瞬刃にも似た鋭利な光が閃いたのを見た気がして、ルネは微かに身を固くした。
「あなたの顔を見に来たのは、それが理由ですよ、ルネ…私に外見が似ている相手を気に入ったというのは、もうあの男の病気として大目に見るとして―もしも本当にただ顔かたちが似ているだけの不細工なコピーに過ぎなかったら、苛めぬいてここから追い出してやろうとしたかもしれません。ローランの話を聞く限り、あなたはとても優秀で気立てもいい子のようですが…あなたが本当はどんな人間なのか、実際会ってみないと分からないこともありますからね?」
 意味ありげなガブリエルの言葉に何かしら引っかかるものを覚えたが、今のルネは、それを追求する気にはなれなかった。
「どうしました、そんな浮かない顔をして? まだ納得しきれていないんですか?」
「…あなたが、ローランをどう思っているかは何となく分かった気がします。その言葉を信じてもいいと思います。でも、僕が知りたいのはローランの気持ちなんです。あなた相手に僕の自慢話をしているって聞いたって、直接言ってもらったことのない僕には実感がわかないですし、彼が本当に愛しているのは、やっぱりあなたじゃないかと疑ってしまうんです」
「ローランの気持ちを代弁してあげることは容易いですが…それは私が言うべきことではないでしょうし、たぶん、ローランから直接聞かないことには、あなたは信じないでしょうね」
 ガブリエルは眉をちょっとひそめて、しょんぼりうなだれているルネを憐れむような目で眺めた。
「ねえ、ルネ、それほどローランのことが好きなのに、どうして今まで、彼の本心を問いただそうとしてこなかったんです? 秘書として彼の傍にいるあなたなら、そのチャンスはいくらでもあったはずでしょう。ローランは あなたが正面からぶつかっていったなら、ちゃんと向き合って答えてくれると思いますよ?」
「そ、それは―」
 ルネは言葉に窮して、ガブリエルの瞳を避けるかのように顔を背けた。
「すみません、言いたくないです…!」
 ガブリエルはやれやれというように軽く肩をすくめた。 
「あなたが見ているローランの行動は常に一貫していて、矛盾は感じられないもののはずです。そこから推測して、あなたは彼が私を愛していると思った。それはある意味正しい…確かに、ローランにとってこの世で一番大切なのは私です。これは、彼の恋人になる人にとっては、なかなか受け入れがたい事実になるのでしょうね」
 ガブリエルの言葉の意味を量りかね、むしろ挑発されたように感じたルネは、頬をさっと紅潮させて、謎めいた笑みを浮かべた彼の顔を睨みつけた。
「どういう意味ですか?」
「気になるなら、ローランに直接聞いてください。何なら今ここで、彼に電話をかけてみましょうか? 私からの緊急コールなら、彼は大抵三秒以内で出ますから」
 ポケットから携帯を取り出して、ふざけてダイヤルしてみせるガブリエルに、ルネはとっさに取りすがった。
「や、やめてくださいっ」
「痛っ」
 焦るあまり、ガブリエルの手首を掴む手に力が入ってしまったのだろう、彼が美しい眉をしかめるのを見て、我に返ったルネは、慌てて身を引いた。
「申し訳ありません、ムッシュ・ロスコー」
「さすがに握力、強いですね。先程社の前に押しかけていたパパラッチ達は、手加減してもらえて、幸運だったのでしょう」
「えっ…?」
 ルネが不安気に瞳を揺らせた、その時、副社長室の扉が叩かれ、ほとんど同時に大きく開いた。
「ムッシュ・ロスコー、御無事ですか?」
 凛と響く声と共に滑るように部屋に入ってきた何者かを、ルネははっとなって振り返った。
「今、部屋の中から叫び声が聞こえましたが、何かあったのですか?」
 そう尋ねながらルネに鋭い視線を送ってきたのは、まっすぐな長い黒髪を肩から背中にかけて流した、とても綺麗な東洋人の少年だった。
「ああ、シュアン、何でもありません。ちょっとふざけていただけですから、心配しないでください」
 ガブリエルになだめられても、少年はまだ固い表情のまま、ルネをじっと観察している。その目尻の僅かにつり上がった双眸は濡れた石のように真っ黒で美しく、年下の男の子には食指の動かないルネでも、ちょっとドキッとしたくらいだった。
「驚かせて、すみません、ルネ。この子はシュアン・リー…アカデミーの関係者なんですが、武道の心得があるもので、ボディ・ガード代わりに、ローランから私のお守り役を任されているんです」
「ボディ・ガード…こんな綺麗で華奢な男の子がですか?」
 ルネに疑わしそうな目を向けられて、シュアンはちょっと不満そうに桜色の唇を尖らせた。
「ふふ、人は見かけに寄りませんよ、ルネ…こう見えても、シュアンは中国武術の達人なんです。大体、綺麗で可愛いのに最強って言うなら、あなたも同類ですよね…?」
「えっ?」
「さっき外で、あなたが悪質なパパラッチ達をやりこめる様子を2人で偶然見ていたんですよ。素人には何が起こったか分からない素早い動きでしたが、あなたがあの時使った技はたぶん合気道だろうとこのシュアンが見抜いてくれました。違いますか?」
 ガブリエルは猫のように目を細めながら、青ざめるルネに向かって両手を広げてみせた。
「さすがは、ローランが気に入って、わざわざオーヴェルニュからパリに呼び寄せた人だけはありますね。秘書として有能なだけでなく、そんな特技も隠し持っているなんて実に素晴らしい。この所、私だけでなくローランの身辺も何かと物騒なので、あなたのような人が傍についていてくれるならば安心です。今日のあなたの活躍ぶりを話したら、ローランはきっと―」
「やめてください!」
 切羽詰まったルネの叫びに、ガブリエルは口をつぐんだ。


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