花束と犬とヒエラルキー
第3章 錆びたワイン

「この馬鹿野郎!」
 胸を占めるあまやかな幸福感も一瞬で消し飛ぶような怒号と共に、ルネは堅い石壁に背中を叩き付けられた。
 どこをどう突っ走って辿りついたのか、人気のないセーヌの河岸にさ迷い出た直後のことだ。
「ロ、ローラン…いきなり何…?」
 痛さに顔をしかめながら問い返すルネの鼻先に指を突きつけ、ローランは、まだ怒りが静まらないかのような荒々しい口調で続けた。
「全く、ワイン・バーで男漁りなんて慣れない真似をするから、あんなしようもない連中に捕まって困らされることになるんだ! 俺に対するあてつけにしたって、もう少しましな相手を選べなかったのか。阿保のアメリカ野郎どもなどにくれてやるために、俺はお前を磨いた訳じゃないぞ!」
 しばし呆気に取られていたルネだったが、ローランの理不尽な言い草に、庇ってもらった時の感動も忘れて、ついかっとなった。
「な、何ですか…僕をあなたの所有物のように言うのはやめてください! 仕事を離れたプライベートで、僕が何をしようが自由のはずでしょう? あの人達だって…あなたが現れるまでは別に何の問題もなく、楽しい雰囲気で飲んでいたんです。それをぶち壊したのはあなたじゃないですか!」
「ほう…すると、おまえは本気であんな奴らをいいと思った訳か?」
「え…ええ、いい人達でしたよ。皆明るくて親切で、あなたよりもよっぽど優しくしてくれました」
 ローランは軽蔑しきったような冷たい目をして、ルネの訴えを鼻先でせせら笑った。
「優しくだ? どうせ見え透いたお世辞と親切そうな笑顔でちやほやされて、ちょっといい気分になっていただけだろうが。それを自分はもてるなんておかしな勘違いをするなよ、ルネ。あんな雑魚どもにいくら餌をばらまいたところで意味などあるか、本物のいい男の1人、2人にでも本気で惚れられて、初めてもてるって言うんだ」
 相も変わらずの傲岸不遜、思い切り人を見下した態度で堂々と言い放たれたルネは、反論しようとしたものの、結局力負けした気分で黙り込んだ。
 先程のバーでの顛末で、ルネはほとんど彼に惚れ直しかけていたというのに、ガブリエルのために仕事を放り出して駆けつけたことも大目に見てもいいような気になりかけていたのに、どうして、こう人の気持ちを逆撫でするような暴言を吐くのだ。
「…ほんとに、もう…嫌な人…っ…」
 ルネは熱くなった額を手で押さえ、おさまりきらない怒りを持て余しながら、小さく吐き捨てた。
 そんなルネをしばし見据えた後、ローランは怒らせていた肩を落とし、冷静になろうと苦労しているかのような様子で語りかけてきた。
「もしも、おまえと一緒にテーブルにいたのがもう少しまともな男で、おまえが本当に楽しそうな顔で笑っていたら…俺は声をかけずに帰るつもりだった。確かに、おまえのプライベートにまで、上司の俺が干渉はできんからな」
 ローランは、いかにも不承不承といった固い口調で言い終えると、ポケットから取り出した煙草に火をつけ、ルネが背中を押しつけている石壁に自分ももたれかかった。
「ローラン…」
 無言のまま紫煙が上がるのを目で追っているローランは、苦いものを無理矢理飲み下そうとするかのような、不機嫌な顔をしていた。
 上司である自分がルネの自由を縛ることはできないなんて台詞をローランの口から聞いたのが、ルネは意外だった。
(僕のプライバシーなんかお構いなしに、自分の都合で振り回して、それを当然と考えているのかとばかり思っていたけれど、尊重しようという気持ちも少しはあったのかな…?)
 ローランが黙りこんでいるので、ルネもやはり黙ったまま、彼が言いにくそうに言った言葉を反芻していた。
(確かに僕とローランは上司と部下だけれど、それだけじゃない…かと言って、はっきり恋人同士とも言えない微妙な間柄だ。どこまでなら相手の懐に入っていっても許されるのか、秘書としての顔と僕自身の本音をどう使い分けたらいいのか、線引きに悩んでいたのは僕だけかと思っていたけれど…ローランでも同じような迷いを覚えることがあるんだろうか)
 その時ふいに頭の中に閃いた考えに、ルネは聡明な目を瞬いた。
(そう言えば、今夜の彼の行動は、僕の上司としてのものだったんだろうか…自分が目をかけている可愛い部下の危機を救ってくれたとか…? それにしちゃあ、度を越していたというか、私情が漲りすぎだったような気がするけど…)
 ふっと口元がほころびそうになるのを堪えて、ルネは隣にいるローランに遠慮がちに尋ねてみた。
「…ローラン、あなたのプライベートな時間を費やしてまで、わざわざ僕を探しに来たのはどうしてですか…?」
 ローランはルネを見もせず、むっつりとした口調で言った。
「俺のプライベートな時間をどう使おうが、俺の勝手だ」
「答えになってませんよ、それ…」
 ルネは、もう少しローランをつついてみるべきかどうか迷った。
 どうして自分を助けるためにあんな無茶をしたのか。そもそも、どうして、そんなに怒っているのか―。
「あっ」
「どうした?」
「いえ、そう言えば、さっきのバーで…僕が捕まっていたテーブルに来る前に、あなた、バルマンに何か指示を与えていましたよね。チップにしては高額な紙幣を渡して…」
「おまえも目敏いな。バルマンのベルナールは、オーナーが代わる前から店にいる古株でな、俺もよく知っている男なんだ。客あしらいにも慣れていて、信頼できる奴だから、事情を説明した上で、これから起こす騒ぎの後始末を頼んだんだ。チップの他に、店に与えた損害については、後日俺に請求してくれとも言い含めてある」
 あの3人に対して露骨に挑発的な態度で喧嘩を売る前に、そんな周到な準備をしてきたのかと、ルネは目をまん丸くした。
「あいつらがおとなしくおまえを解放してくれるようには見えなかったし、俺自身、多少むかついていたのは確かだが、後先を考えずに店の中で本気で大喧嘩を繰り広げる訳にはいかない。あいつらに怪我をさせて、後で会社の方に損害賠償だのと騒ぎたてられるのは面倒だ。それに万が一、俺の身に何かあれば、社の業務に支障をきたす。だから、ギリギリの所で衝突するのは回避して、お前を連れて、あの店から脱出する必要があった」
「万が一の事態…?」
 ルネはローランの言葉を頭の中でしばらく咀嚼した後、はっと息を吸い込んだ。
 ああ、そうだった。この人は、本来ならば、あんな無分別な行動に走るべきではない重要な立場にいるのだった。
「ローラン…いえ、ムッシュ・ヴェルヌ、申し訳ありませんでした」
 姿勢を正し、神妙な面持ちでいきなり謝罪などするルネに、ローランは面喰ったようだ。
「何だ、藪から棒に…今はプライベートな時間だから、俺に対して畏まる必要はないぞ」
「いえ、仕事中であるとかないとかの問題ではないんです。ルレ・ロスコーの統括責任者であるあなたが怪我をして入院することにでもなったら、社の運営に支障をきたす所でした。そういう意味では、明らかに、今回のことは僕の失態です。僕は、あなたにあんな無茶をさせるべきではなかったのに、あなたをとめることもなく、庇われることの心地よさに浸って…い、いえ、そんなことより何より、個人的なトラブルにあなたを巻き込んでしまうなんて、あなたの秘書として、してはならないことでした」
 いつの間にここまで身に付けたのか、礼儀正しく節度のきいた言葉遣いで、秘書としての立場から申し分のない意見を述べるルネは、これが仕事中ならローランが完璧だと太鼓判を押したことだろう。
「今後は、あなたに迷惑をかけるかもしれない軽はずみな行動は、たとえ仕事を離れていても差し控えるようにします。もしも、また同じ失敗を僕がすることがあれば、その時はばっさりクビにしてください」
 今の状況でいきなり仕事モードに切り替わられたら相手は困るだろうということは分かっていても、自分の職務上の失態を見逃すことができないのもまたルネだった。
「いや…これは、おまえのせいじゃないぞ、ルネ。自分の立場も忘れた軽はずみな行動を取ったのは、むしろ俺の方だ。本社にいた時とは違うんだから、慎重に行動しようと思っていても、かっとなるとつい地が出てしまう…困ったことにな」
 ルネの思いつめた顔を眺めながら、ローランは本当に困ったように指先で頬のあたりを引っ掻いた。
「大体、好き好んでトラブルを招いた訳じゃないだろうに、そこまで自分を責める必要はないぞ。別におまえは、24時間俺の秘書だという訳じゃないんだ。俺に対する不満や鬱憤が溜まりに溜まって、他の場所で発散したくなったとしても当然だ…まあ、今夜は、相手をちょっと選び間違えたようだがな」
 大分腹の虫はおさまったのか、ローランの表情は和らいで、ルネにかける言葉も優しくなっていた。
「もちろん、僕個人としては、あなたに対する不満はまだ山ほど抱えていますよ。あなたのやり方をどうしても認められないこともあれば、あなたの本音をとことん問い詰めてやりたくなる衝動にかられることもあります」
 ルネは秘書としての顔から、ふいにまた本来の自分の顔に戻って、少し拗ねたような甘えた目つきでローランを睨んだ。
 その変化は、ローランをむしろほっとさせたようだ。
「ふうん…それじゃあ、場所を変えて、これから一戦交えるか? 俺に対して言いたいことをぶちまけて、それでおまえがすっきりするというのなら、そうしよう」
 ローランのある意味潔い提案に、しかし、ルネは悩ましげに眉を寄せた。一度彼とはとことん話し合って、その気持ちを確かめたいとは思っていたけれど、今夜そうしたいかというと、ルネの気持ちは微妙だった。
(僕がローランに対して腹を立てていたのは、いつもガブリエルを優先させるこの人に、自分は見捨てられたような気分になったからだ。でも、少なくとも今夜のローランは、僕をわざわざ探しにあそこまで来てくれた、男達に絡まれているのを助けようとしてくれた、僕に怪我させまいと庇ってくれた…)
 全てを許した訳ではないけれど、今更口論をしかけて、ローランの口から無理矢理答えを引き出そうとするより、彼が見せてくれた行動だけで今は充分な気がした。
「それも、いいかもしれませんが…でも、今夜はもうお腹がいっぱいみたいです、僕…その代わり、一つだけ質問させてください。それにちゃんと答えてくれたら、今夜はこれ以上うるさいことを言うのはやめにします」
「何だ?」 
 ルネは、訝しげに問い返すローランの前に回り込み、その顔を下からじっと覗きこんだ。
「もしも―僕と一緒にワインを飲んでいたのが、あなたの目から見てもいい男で、僕も満足して幸せそうに笑っていたら、あなたは本当に、あのまま何もせずにパーから立ち去ったんですか?」
 ローランの眉間に深い皺が寄り、鮮烈な印象の緑の瞳が微かに揺らいだ。
「うーん…そうだな…」
 いつもと違って歯切れの悪いローランは、新しい煙草に火をつける態を装って、ルネの顔からさりげなく目をそらした。それを逃がすまいというように、ルネは体を傾け、更にせっついた。
「ね、どっちです?」
「………」
 ローランは目を閉じて煙草を深々と吸いながらしばし考え込んでいたが、ふいにまた目を開いて、じりじりしながら答えを待っているルネを正面から見据えた。
「いや…相手がどんな奴だろうが、俺はやっぱり手ぶらで帰るなんてことはしなかっただろうさ。前言撤回だ、あの時の俺は、どうあってもお前を連れ戻すつもりだった」
 やけに清々しい顔で笑ったローランは、手を伸ばして、ルネの頬に優しく触れた。
「ローラン」
 直接肌に触れられたせいか、自分を見つめる瞳に灯る熱のせいか、ルネは頬を赤らめた。
(ローラン、やっぱりあなたは僕のことを少しは好きでいてくれた…? 他の誰にも渡したくはないと思って、ポール達から強引に取り返そうとしてくれたんだ…?)
 もしもここでそういう言質が取れたら、ルネはもう仕事でもプライベートでも、この先ずっと彼に全身全霊で尽くしていこうと誓ったかもしれない。しかし、そんな甘い期待は、ローランの次の台詞で呆気なく打ち砕かれた。
「大体、この俺よりいい男なんて、そう滅多にいるものじゃないからな。誰よりもおまえ自身がそう思っているくせに、そいつは聞くだけ無駄な質問じゃないのか?」
 しゃあしゃあと言い放って片目を瞑って見せるローランに、ルネは唖然となった後、真っ赤な顔をして食ってかかった。
「僕がそう思っているなんて、何であなたに分かるんですかっ」
「いや、普通に分かるぞ、おまえの反応を見れば―」
「思い上がらないでください! あなたなんか、いくら外見がよくったって、性格は最悪じゃないですか、そう最悪…」
「ふうん、すると、お前は悪い男が好きなんだ?」
「違います、僕が好きなのは―ええっと…」
 適当な答えが見つからずに、ルネは黙り込んだ。強い人が好きだとキアラに言った覚えはあるけれど、それ以上どんな男が理想なのか、頭に何も浮かばないのだ。
(ローランに出会ってから、自分の理想がどんなだったかなんて、すっかり忘れてしまったみたいだ。今夜バーで声をかけられたのがポール達じゃなくても、どんなに優しくて、親切で、僕を大切にしてくれる素敵な人が現れたとしても、今の僕はきっと受け付けないような気がする)
 思い至った考えに、ルネは何かしら呆然となった。
(視野を広げるために、無理して他の出会いを求めてみたけれど、結局僕が戻ってくるのは、この男なのか。ああ、こんなに身勝手で、傲慢で、意地が悪くて、おまけに僕より好きな人がいる…どう考えたって、理想の恋人と呼ぶには程遠いんだけれどなぁ)
 ルネが眉根を寄せた難しい顔でいつまでもぐるぐると思い悩んでいるので、ローランは焦れたらしい、今度は両手で彼の顔をはさんで自分の方に向けさせた。
「ルネ?」
「うわぁ、びっくりした。ええっと、その…僕は、別に悪い人が好きな訳じゃあないですよ、僕は―」
 動揺のあまり、しどろもどろになって必死に何か言おうとしている、ルネにあてられた緑の目が愛しげに微笑んだ。
「…可愛い」
 ルネは目を剥いた。ローランの口からは、ものすごく久しぶりに聞いた気がする、この言葉―ポール達からは似たような賛辞を惜しげもなく注がれてもまんざらでもないとしか思わなかったのに、衝撃のあまり一瞬息が止まるかと思った。
(そうだ、僕は悪い人が好きな訳じゃない…僕は、ローラン、あなたが好きなんです)
 ローランは、瞬きするのも忘れたまま、すっかり固まってしまっているルネの上に身を屈め、その唇にちゅっとキスをした。
「全く、目くらい瞑れよ…キスの仕方も忘れたのか?」
「す…すみません…ああ、でも、本当にキスの仕方は忘れてたかも…だって、あなたとこんなに接近したのは、今夜できっかり21日ぶりですよ…?」
「指を折って数えるな。しかし、そうか―あれから3週間も経っていたのか。社では毎日顔を合わせているから、気がつかなかった。長い間構ってやれなくて、悪かったな」
 ローランの腕が背中に回ってそっと引き寄せるのに、ルネは素直に身を任せた。
 この優しい胸に抱かれるのも、きっかり3週間ぶりだ。大好きな手触りと匂いを確かめようと、ルネは、ローランのスーツの質のいい布地に手を滑らせ、シャツの上に頬を押し付けた。
「…臭い」
 どんよりと暗いルネの呟きに、ローランの体が軽く硬直した。
「えっ、また…?」
 塩素臭いとダメだししたのはきっかり3週間前だったが、今夜は違う、ルネはローランのスーツの襟を両手で思い切りくつろげて、シャツに紅い染みが残っているのを発見した。
「あ、さっきのワイン…」
「ああ、思い切り染みになっているな…やれやれ…」
 ローランはポケットからハンカチを取り出して、シャツについたワインを拭き取ろうとしたが、その手をルネが押さえた。
「…待って、この嫌な臭い…どこかで嗅いだことがあるって、バーでワインを飲んだ時に気になったんです。もう少しで思い出せそうなんですけれど…動かないでくださいね」
「ル、ルネ…?」
 困惑するローランには構わず、ルネは彼のシャツに鼻先を押し付け、クンクン、クンクン…それほどこの臭いのことが気になっていたわけだが、男の胸にへばりつき顔を擦り寄せごそごそするのは、いかがなものだろうか。
「そ…それで、何か分かったのか…?」
 ルネがやっと身を引いた時には、ローランは少しばかり息を乱していて、動揺を押し隠しつつ、ぎこちない動きでポケットからまた新しい煙草を取り出した。
「ええ…ローランは、確か、あのワインのことをブショネだと言いましたよね。それって、変質したワインのことでしたっけ…?」
「正確には、コルクの変質によって、ワインの味や香りにダメージを受けているもののことだ。さすがのシャトー・ル・パンも、ブショネになってしまったら、本来の味わいからは程遠い別物になってしまう。初めて飲んだル・パンがブショネだったなんて、全くついてなかったな、おまえも…それとも、あんな奴らにただで飲ませてもらおうなんて意地汚く思ったから、罰があたったか…?」
「そのことはもう言わないでくださいよ、意地悪ですね。でも、原因が分かって、何だか腑に落ちました。僕には、あのワインが美味しいとは思えなかった。ポール達は満足そうに飲んでいたけれど、僕はどうしても、あの異臭が鼻について…天下のル・パン君を捕まえて、何だか言うのも申し訳ないんですが、あれは、古くなった雑巾の臭いにまさしくそっくりだったんです。雑巾汁だなんて想像したら、いくら高いワインだって、飲む気をなくしてしまいます」
 ルネの身も蓋もない感想を聞いたローランは、たちまち煙草にむせて、咳込んだ。
「古くなった雑巾の臭いがどんなものか、俺は知らんが…そうか、ブショネの臭いは雑巾か。おまえの表現は面白いな、ルネ…ぷぷっ、今度ガブリエルに話してやろう」
 変な笑いのツボに入ったらしい、お腹を押さえてくつくつ笑っているローランを、ルネは不思議そうに見つめた。
「それにしても、ブショネになっていたワインをそのまま客に出すって、どうなんでしょう…? あのバルマンなら、気づいていたら、そもそも提供しないと思うんですけれど―」
「そうだなぁ…ル・パンのように高価なワインを頼む客は、味だけでなく、その付加価値も含めた『ル・パン』そのものに大枚を払う。客が気づきもしない、ごく軽い劣化であるならば、そのまま出すケースもあるだろう。もしもル・パンを一本そのまま廃棄することになったら、店にとっては大きな損害だ。実際、あの阿呆のアメリカ人達は劣化に気付かず満足していたわけだろう。しかし、お前のような敏感な客にあれを出してしまって、高いル・パンを飲んだけれど、思ったほど美味しくなかったという感想を抱かせたなら、店の犯した罪は重いぞ。それに、まかり間違ってガブリエルにでも、あのワインをうっかり出してみろ。怒り狂ったあいつに、散々な酷評を雑誌で書きなぐられて、店を潰されるところだ。そこまでのリスクを考えた上で、あの客達だからこそブショネのワインを出したのか、それとも若いギャルソンが確認もせずにボトルをテーブルに運んだのか―おそらく、後者だろうな。あのワイン・バーは、ベルナールを残して、他の店員はごっそり入れ替わっているようだった。人件費を抑えて、ワインのことなどろくに分からないようなアルバイトにサービスを任せるあたり、今のオーナーの経営方針が透けて見える。ベルナールがいなくなったら、それこそ、あの店は終わりだろうな」
 ルネはふと顔を曇らせ、呟いた。
「もしも劣化したワインを出したというクレームが客から出れば、その責任はたぶんベルナールさんが被るんでしょうね。何だか、気の毒な話です」
「ベルナールには以前一度、よかったらルレ・ロスコー系列の店に来ないかと誘いをかけたことがある。それ程彼のサービスはよかったんだ。その時は、愛着のある今の店を辞める気にはなれないという返事だったが…もう一度声をかけてみてもいいな。今夜彼に世話になった礼として、俺もそれくらいしてもいいと思っている」
「ああ…それを聞いて、何だかほっとしました。もしも、あのバルマンがうちの系列の店に来てくれたら、僕も折に触れて、彼からワインの話を聞いて知識を深めることができそうですし…」
「いつの間に、そんなワインに興味を持つようになったんだ?」
 ローランの問いかけに、ルネは楽しげに笑いながら言った。
「あなたに奢ってもらったラトゥール君が、それだけ『いい男』だったからですよ。おかげさまで、もうすっかりワインにはまってしまいました」
「そうか…」 
 ルネの答えにローランは満足そうに微笑み、それから首を傾げて、ちょっと考え込んだ。
「シャトー・ル・パンか…確か、家のワイン・セラーに一本眠っていたな。ビンテージは今夜のものとは違うが、おまえが興味あるというのなら、今から飲みに来るか…?」
「ええっ、本当ですかっ?!」
 ローランの気前のいい申し出に、ルネは軽く飛び上がった。
「ああ、生まれて初めて飲んだル・パンがブショネじゃ、おまえが哀れだからな。ラトゥールとル・パンとどちらがおまえのタイプなのか、何なら飲み比べて試してみたらいいさ」
「え…そ、それって、冗談じゃないですよね…?」
 さすがに信じられなくなったルネが用心深く問い返すと、ローランは面倒くさそうな顔をした。
「あんまりくどくど言うと気が変わるぞ。どうするんだ、俺の家に来るのか、来ないのか?」
 コートの乱れを手早く直し、腕時計を確認しながら、ローランはルネを試すような口ぶりで言った。
 こちらをちらりと眺めやる、その瞳の奥に垣間見えたのは、素っ気ない口ぶりとは裏腹な熱さで、ルネの胸を突いた。
(あ、そうか…そう言えば、僕がローランの家に招かれるのは初めてだ。こんな遅い時間に、彼の家までわざわざ行って、ワインだけ飲んで終わりってことは、たぶんないよね…?)
 ルネの顔がじわじわと汗ばみ、熟れたトマトのように赤くなってくるのを見るに忍びなかったのだろう、ローランは待ちくたびれた態を装って背中を向けると、規則正しい間隔で街路樹の植えられている河沿いの道を歩き出した。
(あ、行かないで…ローラン、僕はやっぱりあなたが…!)
 ローランのことなど忘れようと一度は決めたはずなのに、そんなことはどうやらルネには無理らしい。
次第に遠くなっていく背中を見ながら、ルネはすうっと息を吸い込んだ。
「ま、待って下さい、ローラン…行きます、行かせてください! ル・パンとラトゥールの飲み比べなんて贅沢、僕のお給料じゃあ絶対に無理ですからっ」
 見え見えかもしれないが、取りあえずワインを口実にして、ルネは開きかけたローランとの距離を縮めるべく、一気に駈け出した。


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