花束と犬とヒエラルキー
第3章 錆びたワイン


 金曜日、ローランは何食わぬ顔で普通に会社に出てきていた。
 昨日ガブリエルのもとで何がどうなったのか、説明は一言もなく、ルネもあえて尋ねなかった。
(今更、一体どんな用件だったんですか、仕事を放り出して駆けつけるほどの緊急性があったんですかと追及するのも、僕が妬いてるみたいじゃないか。大体ローランがどこで何をしようが、僕にはもう関係ないことなんだから…別に気にしてませんって顔をして、彼のことなんか無視だ、無視)
 ルネは努めて冷静に、事務的なクールさで仕事に徹し、ローランに接する時も不機嫌な顔をしまいと気をつけていた。
 しかし、彼が昨日の一件でかなり気分を害して怒っていることは、その身にまとう雰囲気で伝わるのだろう。
 いつも傍若無人マイペースのローランもさすがに気になったらしく、仏頂面で黙々と仕事をしているルネをちらちらと目で追ったり、コーヒーを頼んだ際に声をかけようとしたりした。しかし、いずれの場合も、ルネの方からさりげなく避けるようにして、ローランの言い訳など一切聞くまいと拒否し続けた。
(もっとも、ローランのことだから、下手な言い訳なんかしないかな。ガブリエルが最優先なのはもとからなんだから、僕の方こそ、それは我慢しろみたいな話になりそうだ。全く、人を馬鹿にしてる!)
 2人の間にどことなくピリピリとした空気が漂っていることは、傍から見てもよく分かったらしい。間に挟まれて一日しんどい思いをしたミラだけでなく、ローランに呼び出されて副社長室にやってきたアシルも心配して、『あの2人、何かあったの?』と隙を見て彼女にこっそり尋ねていた。
 そんな状態でも仕事だけはミスもなくきちんとやり遂げたのは、真面目なルネの意地のようなものだった。しかし、やはり緊張はしていたので、やっと終業の6時が来ると、心底ほっととして肩の力を抜いた。
(さて、バーで飲みながらそれっぽい人を探すには、まだ早い時間だよね。先に秘書の学校のクラスを受けてからなら、丁度いい頃合いになるかな)
 ルネはデスクの引き出しから、キアラにもらったカードを取り出し、店の営業時間と場所を確認した。
 その時、測っていたようなタイミングで副社長室からローランが出てきて、まっすぐルネのデスクにやってきた。
「ルネ、もう帰るのか?」
「あ、はい…」
 ルネは一瞬救いを求めるように、帰り支度をしていたミラを眺めやったが、彼女はこれ以上面倒に巻き込まれるのはごめんだとばかり、冷たい一瞥をルネに投げかけると、『お先に』と素っ気ない一言を残して出ていった。
 観念したルネはデスクに座ったまま、すぐ傍らにポケットに手を突っ込んで立っているローランを見返し、落ち着いた声音で言った
「そろそろ僕も失礼します。これから秘書の学校がありますので」
 ローランは首を僅かに傾げながら、ルネの生真面目さを軽く揶揄するように言った。
「そうか…そうだったな、せっかくの週末も休まず勉強か。全く、ドイツ人並みに真面目な奴だな、おまえは」
「当然です。そういう条件で、僕はここに雇ってもらった訳ですから」
 ルネの答えはにべもない。
「また、随分棘のある言い方だな。今日は一日中ずっとその調子だったが…ルネ、俺に言いたいことがあるなら、はっきり言ったらどうだ?」
「職場であなたと修羅場を演じるような非常識も悪趣味も、僕は持ち合わせていませんから、別にいいです」
 全身堅い殻に覆われたようなルネを攻めあぐねたのだろう、ローランは、肩を落としてはあっと溜息をついた。しかし、一瞬で気持ちを切り変えたらしく、その強い瞳でまっすぐルネを見据え、こう言った。
「成程。職場を離れた方が本音で話しやすいのなら、そうしよう。ルネ、学校が終わるのは何時だ? 適当に時間を潰した後で迎えに行くから、どこかゆっくりと話せるバーにでも行こう。それとも、おまえのアバルトメンの方が、周りに遠慮せず俺に怒鳴り散らせるから都合がいいか?」
「か、勝手に話を進めないでくださいっ」
 黙っているとローランのペースにはまって、有無を言わせず、彼の前に座らされたまま、胸にたまった鬱憤を洗いざらい白状させられそうで、ルネは焦った。
「おまえが黙っているからだ。それとも、おまえに何か、こうしたいという具体的な考えがあるのか?」
「考え…って…」
 ローランの容赦ない追及に思わず動揺したルネは、デスクの上に置きっぱなしにしていた例のワイン・バーのカードをちらりと見下ろした。
「何だ、そのカード…?」
 ルネがとめるより早く、ローランの指先がそのカードを取り上げた。
「ああ、この店なら、知っているぞ。以前、何度かガブリエルと一緒にワインを飲みに行ったことがあったな。オーナーが変わってからは、足が遠のいてしまったが、昔はいい店だった…どうして、おまえがこんなカードを持っている?」
 ルネは顔を真っ赤にして、ローランの手からそのカードをひったくった。
「あ、あなたには関係ないでしょう!」
「ルネ…?」
 鳩が豆鉄砲を食らったような顔で瞬きするローランを、ルネは思い切り睨みつけた。ばくばくいっている心臓の鼓動を意識しながら、彼は慌ててデスクから立ち上がり、テキストが入ってずっしり重いバッグを持ち上げた。
「学校に遅れそうなので、僕はもう行きます。お疲れ様でした!」
 ローランに呼び止められるのが怖くて、ルネは返事も待たずに、ドアに向かって突進した。
「おい、ルネ…タ」
 呆気に取られるローランが見る前で、ルネは風のように秘書室から飛び出していき、乱暴に閉じられたドアがばたんと大きな音をたてた。
「…イムカード……切り忘れるほど、一体何をそんなに慌てているんだか」
 ローランはルネの消えて行ったドアに苦笑の含んだ眼差しをしばし向け、それから、彼の代わりに、忘れ去られたタイム・カードを切ってやった。
「全く、つくづく考えていることの分かりやすい奴だな。まあ、そこが可愛いんだが…」
 そんなローランの独り言を聞いたら、今のルネなら人を馬鹿にしてと怒っただろうか。
 もっとも既に彼はここにはいなかったし、よって、ローランが自分を語る口調にこもる存外に優しく愛しげな響きに気付くこともなかったのだ。




「…今度は、このワインをどうぞ。先程と同じ造り手グラムノンのもので、樹齢100年以上の樹から収穫された葡萄から造られるんですよ」
「100年! それはまたすごいおばあちゃんのワインなんですね」
「はは…まさにその通り。亡くなった前のオーナーが、畑から収穫される葡萄のことを愛情込めてメメ(おばあちゃん)と呼んだことから、このワインにもメメという名がつけられているんです」
 秘書の学校を終えた後、ルネは1人で例のワイン・バーを訪れていた。
 店の中は、週末ということもあり結構混み合っていたが、カウンターに座ったルネに対応してくれたバルマンは親切だった。
 どうせなら本でもしばしば名前が出てくるグランヴァンのワインを試してみようかと迷うルネに、この値段ならもっとお勧めのワインがありますよと彼が出してくれたグラスは、どれも美味しかった。
「…最近は、雑誌で見たと言ってやってくる新しいお客さんが多いので、そういう方の求める有名ワインもグラスで提供しているんですが、飲みごろかというと微妙なんですよね。所謂グランヴァンのワインは、本来なら、10年くらい寝かしてから飲みたいところですからね」
「はあ…そういうものですかぁ。奮発して買ってみても、飲み頃になるまで10年も待たないといけないなんて、気の遠くなる話ですね」
「どうしても飲みたい時は、デキャンタで無理矢理開かせることもありますが、超熟タイプのワインとなると、なかなかどうして手強いんですよ。あんまり無理をさせるのも、ワインが可哀そうですし…」
 バルマンのワインに関する蘊蓄は面白くてもっと聞きたかったが、若いギャルソンが助けを求めにやってきたので、彼はカウンターを離れてテーブル席に向かった。
「…『おばあちゃん』なんて聞いたせいかな、何だか懐かしいような優しい味がする」
 ルネはワインのテイスティングにすっかりはまってしまって、いい男を物色するという本来の目的はなおざりになっていた。しかし、実際の所、周囲を見渡しても、自分から進んで声をかけてみようという気になれる男がいなかったのも確かだ。
(頭の中で、ついローランと比較しちゃうのかな。ああ、駄目駄目、この期に及んで彼のことなんか考えるのはよそう。とにかく、顔は劣ってもいいから、優しそうで打ち解けやすそうな雰囲気の人を探してみよう)
 ルネがそんなことを考えていると、近くのテーブル席の方から、幾分苛立った調子の英語が聞こえてきた。
「…ああ、もう、いちいちフランス語の説明を聞くのなんか面倒くさい。何でもいいから、この店で一番高いワインを持ってこい!」
 何の騒ぎかと思いながら、ルネが声のした方を振り返ると、先程のバルマンが、若いギャルソンと一緒にテーブル席の男性客三人を相手にしながら、困った顔をしていた。
「高いワインと言われましても…それが果たしてお客様の好みに合うものか、分かりませんが…」
 バルマンは少しくらい英語を使えるのかもしれないが、そんな彼のたどたどしい説明に耳を傾けるだけの辛抱を、その客達は持ち合わせていないようだ。
「お、ワイン・リストにシャトー・ル・パンが載っているな。ニューヨークでも、マニアの間で高値で売り買いされている奴だ。よし、これにしないか?」
 バルマンは何か言いたげな顔をしたが、高飛車で、そもそも人の話を聞こうともしない客の態度に疲れたのだろう、結局押し切られる形でオーダーをそのまま通した。
「ル・パン君かぁ…確かに高そう。ビンテージはいつのだろう」
 読み漁っているワイン本の中によく出てくる幻のカルト・ワインの名前に興味をそそられたルネは、体を捻って、斜め後ろにあるそのテーブルを眺めた。
 そこにいる客達は、身なりのいい、いかにも外国人風の30歳前後の男ばかり3人連れだった。先程の英語の発音から、アメリカ人、やけに羽振りのいい様子なので、ニューヨークの大手の会社に勤めるエリート・ビジネスマンというところか。
 ルネがそんな推測を巡らせているうちに、男達の中の1人が彼の視線に気づいたようだ。他の仲間の腕をつついて知らせると、皆一斉にこちらを興味津々見返した。
(うわっ…)
 焦ったルネは慌てて顔を背けるが、もう遅かった。彼らはしっかりルネに関心を覚えてしまったらしい。
「おい、あの金髪の子、可愛かったな」
「どうする…? 英語は分からないかもしれないけど、声かけてみるか?」
 彼らが仲間内で囁き交わす声は全て英語だったが、ルネは結構語学には堪能だったので、その内容はよく理解できた。
「せっかく休暇を取ってパリにまで来たんだから、フランス美人とも親しくなっておかないと、何しに来たか分からないぞ」
 本当に一体何をしにきたんだよと心の中で密かに突っ込みを入れながらも、『美人』という言葉につい反応したルネは、性懲りもなくもう一度そちらを見てしまった。
 すると、陽気なアメリカ人達はおおっと大げさにどよめき、ルネに向かって笑顔で手を振ったり、ウインクを投げて寄こしたりしてきた。
(ああ、駄目…あのノリにはついていけない)
 げんなりしながら、ルネは再びカウンターに向き直り、彼らを無視する構えでワイン・グラスを唇に運んだ。
 そうするうちに、ギャルソンが抜栓したワインをテーブルに運んできた。彼らがオーダーしたシャトー・ル・パンだ。
(あ、ル・パン君だ! に、匂いだけでも、分からないかな…?)
 ネットのオークションで見たのは、確か1982年ものだったか。自分には一生かかっても無理と思ったワインなだけに、せめて匂いだけでもお相伴に与れないかと、ルネは鼻をひくひくさせながら、そちらのテーブルを眺めやった。
 すると、初めにルネを見つけた男とまたしても目があった。
「あの子、またこっちを見ているぜ」
「これはやっぱり脈があるんじゃないかな。おまえ、誘ってこいよ」
 慌ててルネは背中を向けたが、二度も思わせぶりな視線を向けてしまったのだから、彼らをその気にさせたのは彼の責任だった。
「ボン・ソワール…お一人ですか…?」
 肩越しにたどたどしいフランス語で声をかけられた時は嘆息しそうになったが、『フランス語の分からない外国人に話しかけられたら無視する』すかしたフランス野郎ではないルネは、躊躇いながらも誠実に答えた。
「英語なら、多少分かりますから、大丈夫ですよ」
 すると、男は嬉しそうにぱっと顔を輝かせて、微笑んだ。
「そうなんだ、よかった。僕達は、フランス語はあまり得意でないんで、ガイド・ブックにお勧めと載っていたから入ってみたこの店だけれど、オーダー1つ通すにも苦労していたところだったんだ」
 フランス語が苦手でも、あの親切なバルマンの話をちゃんと聞く姿勢があればさほど苦労はしなかったろうにと思っても、顔には出さず、ルネは礼儀正しく答えた。
「慣れない街で言葉が不自由だと、色々不便でしょうね。どちらからいらしたんですか?」
「ニューヨークだよ。僕達は大学時代からの悪友同士でね…運よく同じ時期に休暇が取れたものだから、一緒にパリに来て、羽を伸ばして楽しんでいるところさ」
 案の定彼が出したビジネス・カードは、ルネも聞いたことのある大手の証券会社のものだったし、他の2人も大手銀行や法律事務所に勤める弁護士という肩書だった。ついでに言うなら、彼らは皆ゲイで、その結束があるから、これまで長い付き合いが続いているらしかった。
「もしかして誰かと待ち合わせかい? 気安く声をかけたりしたら、まずいのかな?」
「いえ…そういう訳ではないですよ」
 ルネはどう応えようかと迷いながら、相手の顔を凝然と見つめた。
 見た目はそんなに悪くない。並みの上か上の下くらい。屈託なく笑った表情は好感が持てるものだったが、口から覗いた歯は不自然な程真っ白で、もしかしたらホワイニング処置でも受けているのではないかと疑ってしまう。
「それなら、僕達のテーブルに来て、一緒に飲まないか? 大勢で飲む方が楽しいし、今夜はパリ滞在の記念にととっておきのワインを頼んだんだ」
「ワインを…一緒に…?」
 えっ、シャトー・ル・パンを飲ませてもらえるの? 意地汚くも、その一言でルネの気持ちは固まった。
「…別にいいですよ。僕もちょっと退屈していたところだったんです」
 ルネが男の目をじっと見つめながら思い切り魅力的な笑顔で応えると、彼はぱっと頬を赤らめた。
 ノリの軽いナンパ野郎だが、こういう顔をするとちょっと可愛いかなと思わないでもない。
「ありがとう、僕はポール」
「ルネです」
 得意げなポールに伴われたルネがテーブルにやってくると、他の2人もにこやかに席を空けて彼を歓迎した。
 とにかく皆フレンドリーで、こうして近くで接してみるとそんなに悪い人達ではないのかもという気がしてくる。
「それにしても、こんなに綺麗な子が1人きりでワインを飲んでいるなんて信じられないな。思いきって声をかけてみたけれど、絶対誰かと待ち合わせだろうって、振られることは覚悟してたんだ」
「ねえ、本当に恋人とかいないのかい? 君くらい魅力的なら、すごくゴージャスな恋人がいても不思議じゃないし、大体周りが放っておかないだろうに…」
「こらこら、初対面なのに、あんまり不躾なことを聞くなよ。ルネ君、ごめんね、騒がしくて…仕事から離れた休暇となるとついタガが緩んでしまうみたいなんだ。そう言いながら、俺も、君みたいな素敵なフランス美人と知り合えてラッキーだとは思ってるけど…」
「こら、抜け駆けするなよ、エド」
 男達にちやほやと持ち上げられて、初めは戸惑っていたルネだったが、次第にまんざらでもないような気持ちになってきた。
 この姿に変身する前は、地味で目立たなかったルネは、自分の美しさや魅力をこんなふうに他人に褒めそやされるようなことはなかった。
 ローランの趣味で磨かれた今の自分がどうやら美しいということは分かるが、それにしたって、ガブリエルの贋作でしかないのならば、ルネにとって無価値に等しい。大体肝心のローランが、この所ルネに対して他人行儀で、綺麗だとか可愛いとかいう言葉をちっともかけてくれないのだから、彼の自己評価は下がる一方だったのだ。
(ううん、ちょっと優しくされたくらいで気安く打ち解けてしまうのもどうかと思うけれど…なかなかどうして、結構いけてる男達にもてまくりのこの状況は…気持ちいいかも…)
 ルネが充分にくつろいで、代わる代わる話しかけてくる男達に微笑み返すようになった頃、ついにポールが例のワインのボトルを取り上げて、厳かに告げた。
「それじゃあ、そろそろ、このワインを試してみようか。シャトー・ル・パン2006年だ」
「ああ、そうだったな…つい、ルネ君の美貌に目がくらんで、ワインの存在を忘れる所だった」
「だったら、おまえは忘れたままでいろよ、ダン。俺達3人でこのワインは楽しむからさ」
 ポールは意地悪く言いながらもボトルを取り上げ、なかなか慣れた手つきで、並べられた大きなボルドー型グラスに濃いガーネット色のワインを注いでいった。
(あ…れ…?)
 テーブルに身を乗り出すようにして香りが立つのを待ち構えていたルネは、次の瞬間鼻腔に感じた匂いに戸惑いを覚えた。
(何…この香り…?)
 ルネは改めて、目の前まで持ってきたグラスから立ち上ってくる香りを嗅いでみたが、違和感は増すばかりだ。
「乾杯!」
 一方のポール達は何の疑問も覚えずグラスを掲げ、口元に持ってきては、香りを思い切り吸い込み、神妙な顔で頷いている。
「やっぱり、ル・パンだけはあるな、この豊かな香り…」
「おお、すごくうまいぞ、これ! やはり高値で取引されているだけはある」
 そんな単純な称賛を聞き流しながら、ルネはグラスにはまだ口をつけず、その香りを一心に嗅いでいた。
(ル・パンと言えば、確か葡萄の品種はメルロー百パーセント…ああ、ヴァニラのような独特の樽香もするな。熟したブラックべリーのような香りにチョコレート…確かに、本で読んだイメージの香りはグラスの中から上がってくるのに、それを邪魔する嫌な臭いが混じっている。どこかで嗅いだ事があるんだけれど、何だったかな…?)
 ルネは、おずおずとグラスに唇をつけ、一口ワインを口に含み、舌の上で転がすようにしながらゆっくりと味わってみた。
(うーん…どうなんだろ、鼻に抜けるワインの香りそのものにも伸びがない気がするし…それに、やっぱり、これって異臭だよねぇ。ワインって、腐ったりすることあるのかなぁ)
 しかし、他の3人の様子を眺めてみれば、皆満足した顔で美味しいと言っているのだから、単に高いワインを飲みつけていない自分の感覚に問題があるのかもしれない。
(これも、こういうものだと思えば、まあまあ美味しいのかもしれないな。ル・パンだと期待しすぎたのがいけなかったのだろうか。でも―)
 ローランに奢ってもらったラトゥールは、ワインにさほど興味のなかったルネの目を大きく開かせるほど、衝撃的な美味しさだった。
 噂に高いル・パンならば、いくら好みの問題はあるとはいえ、また別のめくるめく恍惚感に自分を包んでくれそうなものではないか。
(これ、奢ってもらったワインでよかったな…もしも割り勘だったりしたら、僕はきっと逆上して、よくもこんなすかワインを掴ませたなって店の人を締め上げちゃうところだよ)
 密かな落胆と失望感を噛みしめながらも、まだ納得しきれないルネは、ボトルを手元に引き寄せ、本当に正真正銘のル・パンなのか、エチケットをチェックしてみた。
(間違いない…セカンドとか紛らわしいものでもないな。ビンテージは2006年か…もしかして、まだ飲み頃が来ていないとか、そういう問題なんだろうか…?)
 ルネがグラスの中のワインの大半を残したまま、難しい顔でボトルをためつすがめつ眺めているのを怪訝に思ったのか、ポールが声をかけてきた。
「このワインはどうだい、ルネ?」
「は、はい、おいしいです。これが有名なル・パンなんですね…貴重なワインを味見させてくださって、ありがとうございます」
「そんなに堅苦しい言葉遣いはよせよ、ルネ…君になら、ル・パンを奢っても惜しいとは思わないよ」
「はぁ…それはどうも…」
 思ったよりも美味しくないという正直な感想はとても言えないなと思いながら、ルネは先程のバルマンの姿を目で探した。彼に、このワインはこういうものなのかどうか、確認してみようと思ったのだ。
 店内をぐるりと見渡したルネは、その時丁度バーに入ってきた長身の男の姿を入口近くに見つけるや、つい大声をあげそうになった。
(えっ…嘘、ローラン?!)
 ゆったりとした足取りで誰かを探すように奥に入ってくるのは、間違いなく、ローランだった。
(ど、どうしてローランがここに…? あ、そう言えば、社を出る前にこの店のカードをうっかり見せてしまったけれど…僕がここにいるってことを予想して、わざわざ探しに来たってこと…?)
 パニック状態に陥りながらも、ルネがぽかんと口を開けてローランの姿を目で追っていると、先程のバルマンが現れ、彼のもとに飛ぶように近づいて行った。
 バルマンは恐縮した様子でローランに声をかけ、それに向かって、彼は微笑みながら鷹揚に頷き返している。
 そう言えば、ローランは以前このバーに何度か足を運んだと言っていたが、あのバルマンとも面識があったのだろうか。
 ローランが何かを尋ねたのだろう、バルマンはちょっと考え込むような仕草をした後、ルネのいるテーブル席の方を振り返った。それに倣って、ローランの眼光鋭い翠眼が、ルネを捉える―。
「うわっ…」
 ルネは手で顔の前を遮りながら、ローランの視線から逃げるよう、ポールの陰に隠れて縮こまった。
「どうしたんだい、ルネ?」
「ポ、ポール…」
 ルネは青ざめた顔で、自分を訝しげに見下ろすポールの顔を見上げ、それから、恐る恐る身を起して後ろを眺めやった。
(うっ)
 やはり、ローランの炯眼から隠れることなどできなかった。彼は先程の位置に腕を組んで立ったまま、ルネのいるテーブルの様子をじっと観察している。その端正な顔には何の感情もうかんでいなかったが、それだけに一層恐かった。
 別にルネには今夜の行動を後ろめたく思う理由はなかったはずだが、ローランの目の前で、これ以上行きずりの男達と楽しくワインを飲むことなどできそうにない。
「ポール、ごめんなさい、僕…急用を思い出したんで、帰ります…!」
 動揺しながら席を立とうとするルネに、ポールは当惑した。
「ルネ、一体どうしたんだよ、急に…」
「本当にごめんなさい、でも、僕…これ以上ここにいられない…」
 ローランの視線が背中に突き刺さるのを感じて焦るルネは、とにかくこの場から逃げ出したい一心で、呆気に取られるポール達に謝りながらテープルから離れようとした。そんな彼の手を、とっさにダンが掴み占めた。
「ちょっと待てよ、ルネ…せっかく盛り上がってきた所なのに、いきなり帰るはないだろう。1人寂しく飲んでいたのを親切に誘ってやった、俺達に何か不満でもあるっていうのか…?」
 気持ちが急いていたルネは、しつこく引き留めるダンをいらっとした目で睨んでしまった。
「親切に誘ってやったなんて言われる筋合いは、僕にはないですよ、ダン。…とにかく、お願いだから離して下さいっ」
 ルネの怒りを感じたからか、男達を取りまく空気が瞬間的に変わった。
「離すなよ、ダン」と低い声で言ったのは、それまで無害で優しそうな顔をしていたポールだ。
「ルネ、いいから座って、僕達に付き合えよ。シャトー・ル・パンなんて、君には一生縁がないような最高のワインに見合うだけの付き合いはしてもらうぜ。それとも、割り勘にしようか…?」
「はあ?」
 おいおい、誘ったのはそっちにくせにいきなり割り勘はないだろうと、給料日前でお金のことにはうるさいルネは、本気で殺気立った。
「ほら、大人しく言うことを聞けよ、ルネ…」
 強引に引き寄せようとしたダンの手を、ルネは無言で掴んで、軽く捩じった。たちまちダンは顔を赤くして、苦鳴を漏らしながら彼の手首を離した。
「だから、離して下さいって言ったんですよ」
 ルネはもう一度肩越しに後ろを振り返った。今のは死角になっていたからローランには見えていないはずだが、やはり気になったのだ。
 するとローランは、酸っぱいものでも口に含んだかのようなしかめ面をしていた。ポール達に絡まれているルネの有様を見てのことだろう。
 ふいにローランは、傍に控えていたバルマンに何事か耳打ちして、財布から取り出した紙幣を素早く彼の手の内に押し込んだ。バルマンは、ローランの目を見て真剣な顔で頷いた後、目立たぬようそっとチップをポケットに入れ、静かに身を引いた。
(何をやっているんだろう、ローラン…)
 バルマンとの間でそんな不審なやり取りをした後、ローランは改めてこちらに向き直った。
 たちまち、ぞくりとルネの肌が泡立つ。
 ローランは、大勢の客達が談笑するテーブル席の間を、迷いのない足取りでこちらに近づいて来たかと思うと、逃げることも忘れて立ちつくしているルネの前に立った。
「ルネ、待たせたな」
 ローランはすっと細めた双眸でルネの視線をしっかりと捕えこみながら、実に堂々たる態度で声をかけてきた。
「仕事が長引いて、約束の時間に遅れたのは悪かった。そんな怖い顔で睨んでないで、機嫌を直してくれないか?」
「えっ…え…?」
 当惑して目をぱちぱちさせるルネに向かって深々と頷きかけながら、自信たっぷり微笑むローランは、今更な気もするけれど、水際立っていい男だった。
 今の今まで結構いいかもと思いながら一緒にワインを飲んで楽しんでいた、アメリカ男三人組の存在が一気に霞んでしまうほど、ローランの放つオーラは強烈で、どうしても目が離せない。ポール達だって、肩書を見る限り、高給取りの優秀なエリートのはずだが、ローランとは男としての格が違う。
「お、おい…一体、何なんだよ、急に割りこんでくるなんて、失礼じゃないか」
 ローランの迫力に圧倒されてしばし声も出なかったポールが、ようやく我に返って絡んできたが、ローランは完全無視、ルネだけを見つめている。
「あ、あの、ローラン、一体何を言って…?」
 正直に問い返そうするルネを手で制し、『フランス語の分からない外国人に話しかけられたら無視する』すかしたフランス人代表は、怒りを募らせている3人はスルーしたまま、低い声で囁いた。
「ルネ、今は余計なことは何も言わず、俺と一緒にここを離れろ。これ以上、こんな下らない連中の相手をしてやる必要はない」
 ローランの早口のフランス語は聞き取れなくても、何となく自分達の悪口を言われたことは察したのだろうか、ポールがすっくと席から立ちあがって、彼の腕を掴んだ。
「おい、その子は今まで僕達と一緒に楽しく飲んでいたんだぞ。それを突然現れて勝手に連れていくなんて、許さないからな」
 ローランは上品に眉をしかめて、自分の腕の掴むポールの手を嫌そうに払いのけた。
もともと酔いの回っていたポールの顔が、怒りのあまり一層赤くなった。
「さっき離れた場所からこいつの様子を観察していたが、とても楽しそうにしているようには見えなかったぞ。帰りたがっているのをしつこく絡んで無理に引き留めようとするのが、アメリカ人のやり方か? どこの国に行っても自分流で突っ走るのは結構だが、少しは空気読めよ」
 ローランの口から出たのは、完璧なまでに流暢な英語だったが、ルネが思わず青ざめたくらい挑発的で喧嘩腰、これで怒らない人間はいないだろう。
 凍りつく男達を冷やかに眺めまわしながら、皮肉っぽく唇を歪めて、彼は笑った。
「あぁ、失礼…素生の悪い言語を使うと、つい言葉遣いばかりか態度までも乱暴になってしまうな」
 母国語でもあなたは充分荒っぽいですよと、ローラン寄りのルネでさえ、心の中で思わず突っ込まずにはいられなかった。
「全く、ワインのこともろくに知らない連中と一緒に飲んで、適当に話を合わせるのも疲れるだけさ。大体、そんなまずいワイン、誰が飲みたいものか…!」
 ローランは、テーブルの上に置かれたル・パンのボトルのちらりと目をやり、辺りに漂う匂いを嗅ぐと、露骨に不快そうに顔をしかめた。
「ロ、ローラン、そのワイン―」
 何かしらはっとなって問いかけようとするルネに、ローランは素っ気ない口調で手短に言った。
「ルネ、お前も気づいたはずだ。そのワインは飲むに値しない…ブショネだ」
「えっ…?」
 ついに我慢に限界に達した三人組は、荒々しくテーブルから離れ、ローランとルネを取り囲もうとした。
「もう、我慢できん、この鼻持ちならないすかし野郎を叩きのめしてやる」
「俺達がこの子に飲ませてやったのは、ル・パンだぞ。まずい訳がないだろうが!」
 殺気立つ3人を見て、ルネはいつでも応戦できるよう身構えたが、そんな彼の前にローランが素早く立ちはだかった。
(えっ…?)
 自分をさり気なく後ろに隠しているローランの広い背中を、ルネは信じられないものを見たかのように、ぽかんと口を開けて眺めた。
(もしかして、ローラン…僕を庇ってくれている…?)
 故郷では武道の達人として少しは知られていたルネは、自分よりも強い人間に庇ってもらったという経験がそもそもない。前の彼氏に至っては、夜道で酔漢に絡まれた際、ルネを前に押し出して、自分はさっさと逃げてしまったくらいだ。
(ああ、好きな人に大事に守ってもらえるのはか弱い女子にのみ許された特権かと思っていたけれど…男の僕でも、やっぱり嬉しいものなんだぁ)
 こんな緊迫した状況で不謹慎ではあったが、感動のあまり、ルネの胸はきゅんとなった。
 ルネがローランの背中に隠れて、つい緩みそうになる顔を両手で挟んで身悶えしている間、ローランはじりじりと間合いを詰めてこようとする三人を鋭い目で威嚇していた。その手が、おもむろ伸ばされ、テーブルの上からワインのボトルを取り上げた。
「シャトー・ル・パンか…ふん、そんなに気に入ったのなら、そら、存分に味わいやがれ!」
 いきなり言い放つや、ローランはまだボトルの中に半分ほど残されていたワインを男達に向かって、勢いよくぶちまけた。
「うわぁっ、ル・パンが…!」
「くそ、昨日買ったばかりのアルマーニのスーツが台無しだ」
「この野郎、よくもやりやがったな!」
 色めき立った3人は、ワインを浴びて血まみれのようになってしまった服を気にし、口々に罵りながら、こちらに向かって突進してこようとした。
 しかし、それより素早く動いたローランの手がテーブル席の椅子を掴み、なだれ込んでくる彼らの前に倒した。
「わぁっ」
 椅子に躓いたりワインで濡れた床に足を滑らせたりして転倒する3人を尻目に、ローランは呆然となっているルネに向かって、悪戯小僧のような顔でウインクを投げかけた。
「ぼうっとするな、ルネ、この隙に逃げるぞ」
「えぇっ?!」
 喧嘩を吹っ掛けておいて、もう退散かよ。ルネは一瞬拍子抜けした。
 しかしローランは問答無用で彼の手首を掴み、騒ぎを聞き付け飛んできた店員や何事かと見物に来る客達の間を縫うように、足早に立ち去ろうとした。
「この野郎!」
 怒りに満ちた声を聞いたルネが後ろを振り返ると、床から半身を起したポールが、腹立ち紛れに手に掴んだボトルをローランに向かって思い切り投げつけたところだった。
「!」
 ルネは、反射的に動いた。繰り出した手刀で、ローランの頭を直撃しそうになったボトルを叩き落とし、彼を守るよう身構えたまま、その背後にぴたりとついた。
「どうした?」
 あまりの早業に、何が起こったのかまでは察知できなくても気配は分かったのだろう、怪訝そうに振り向くローランを、ルネは慌てて誤魔化した。
「な、何でもないです」
 ルネは顔を赤らめて、ローランを救った自分の右手をちらっと見下ろした。
(僕の手で、今、ローランを助けることができた。いくら武道の腕を上げたって、実生活で役に立ったことは今までなかったけれど…ああ、空手をやっててよかったなぁ)
 しみじみと感慨を噛みしめているルネを、ローランは一瞬追求したいような表情をしたが、ここでぐずぐずする訳にもいかなかったので、そのまま彼を急かして大騒ぎの店内から脱け出した。
「立ち止まるな、ルネ、奴らを完全にまくまでこのまま走るぞ!」
「は、はい!」
 何が何だかよく分からないまま、ルネは反射的に叫んで、ローランと一緒に駆け出した。
 店の近くにいた通行人達が、一体何事だろうと、走り抜けていく彼らを不思議そうに振り返っていく。
(僕のせいで、あの店には大変な迷惑をかけてしまったな…せっかく素敵なワイン・バーを見つけたと思ったのに、こんな騒ぎを引き起こしてしまったら、もう二度と行けないや。ああ、ポール達が、あれ以上店の中で暴れることがなければいいけれど…でも―)
 あの親切で感じのいいバルマンのことを心の端で気にかけながらも、ルネの胸を圧倒的に占めているのは、また別の感情だった。
(一体どうしたんだろう、いつも僕なら、大変なことをしてしまったともっと後悔や反省をしそうなものなのに、むしろ今は、すごく気分がいい…)
 胸の鼓動が速くなり、やけに頬が熱いのは、必死に走っているためばかりではなさそうだ。
 仄明るい街灯に所々照らされた細い路地をローランに手を取られて夢中でさ迷いながら、ルネは不可解な喜びをじっと噛みしめていた。
 取り返し思い出されるのは、さっき、店の中でポールがローランを狙って投げたワインボトルを手刀で叩き落としたことだ。
(物凄く些細なことだけれど、自分の力でローランを守れて嬉しい…さっき彼に庇ってもらった時の嬉しさとはまた違う、現実にはあまり役に立たない僕の才能がちゃんと活かせたという満足感がある。おかしいな、前の彼氏に僕の腕っ節を頼りにされて、喧嘩となると当然のように押し付けられていた時には、すごく嫌だったのに…)
 ルネは夢見心地の気分のまま、ローランに従って走り続けた。どこまで行くのか知らないが、このままずっと、息がとまるまで彼と一緒に走り続けられたら本望だろう―そんなたわいもないことを考えていた。




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