花束と犬とヒエラルキー
第3章 錆びたワイン
一
明るい照明と華やかな色彩のディスプレイで飾られたデパートの化粧品売り場。
友人との待ち合わせの時間まで時間潰しに立ち寄ってみたルネは、かねてから気になっていた男性用のコロンを探しだすと、試しに自分の手首に吹きかけ匂いを嗅いでみた。
「やっぱり好きな香りだけど…うーん、どうしようかな」
シャネルのエゴイスト。ローランが愛用しているコロンなので、以前から気になっていたのだが、奮発して買うべきかどうか、ルネは悩んでいた。
(ローランだったら、まさにこの香りをまとうために生まれてきたっていうくらいにしっくりくるけど、僕だと香りに負けちゃうんだよね)
ルネががっかりしながらボトルをもとの場所に戻すと、カウンターから出てきた綺麗な店員が、愛想よく笑いながら声をかけてきた。
「良い香りでしょう? 発売されてもう20年以上になりますが、ずっと人気のあるコロンですのよ。あなたがお使いになりますの? それとも贈り物をお探しで?」
「い、いえ…僕の職場の人がこのコロンを使っていて、すごく似合っていたものだから、気になっていたんです。でも、僕みたいな大学出たての若い男の子向けの香りじゃないですね、残念ながら…これが似合う大人の男になるには、十年くらいかかるかな」
「確かにちょっと、まとう人を選ぶ香りかもしれませんわねぇ。よほど素敵な方なんでしょうね、あなたの職場のその人は…」
「はいっ」
恥ずかしげもなく笑顔で即答してしまったルネに、一瞬店員は怯んだようだ。しかし、そこはプロらしく、すぐににこやかな営業向けの顔に戻って、まだ迷っている彼に他にも幾つかコロンを勧めた。
「あなたのような、若い方が日常お使いになるのでしたら…柑橘系の爽やかな香りのこちらのコロンなどいかかでしょう?」
「あ、本当にいい匂い…グレープフルーツにベルガモット…ちょっぴりムスクの香りやペッパーみたいなスパイシーさもある」
「あら、とても嗅覚が鋭い方ですわね。もしかして香りに関わるお仕事をなさっていますの…?」
「いいえ、普通のオフィス勤務ですよ。あ、こちらのコロンもいいですね…」
実際彼女の見立てのそれらのコロンの方が、ルネがつけても無理がない、使いやすそうなものだったが、悩んだ挙句、彼は結局ローラン愛用のエゴイストを購入した。
(ああ、お給料前にまた余計な出費をしちゃったな。まさかローランのいる職場で、彼と同じコロンをまとうわけにもいかない。下手したら、家で1人でいる時にこっそりつけてみるだけになりそうなのに…)
ルネは手首に残る、先程試したコロンをそっと嗅いで、体温で温まった香りの微妙に変化にうっとりした。
(それも、いいかな…たとえば夜、ベッドで眠る時に軽くつけてみたら、ローランが傍にいてくれるみたいで安心して眠れそう…それとも、興奮して眠れないかのどっちかだな)
そんな想像をしてついにやけそうになったルネは、慌てて頬を引き締めると、怪訝そうな顔をする店員から商品の入った小さな紙袋を受け取り、足取りも軽くデパートを後にした。
ルネがルレ・ロスコーで働き始めて、ひと月近くが飛ぶように過ぎさった。
まだ秘書の学校に通いながらではあるが、物覚えのよいルネは、日常業務は難なくこなせるようになり、この様子なら1人でも大丈夫だろうと、ミラは予定を早めて来週末から産休に入ることになった。
ローランの勧めもあって、気分転換にと密かに通い始めた道場では、気の合う友人や仲間ができ、おかげで精神的にも安定している。
当初はどうなることかと思われたが、絶対馴染めないと敬遠していた大都会パリでの生活に、ルネは少しずつ慣れてきていた。
もっとも全く不満がない訳でもなく、こんな暮らしをいつまでも続けたいかというと、ルネは素直に頷くこともできなかった。
いくら他に気を紛らわせられる趣味を見つけ、愚痴や悩みを話せる友人ができたところで、ルネの一番の関心は、相も変わらず本心の読めないローランだった。
彼との関係は、表向きはあくまでただの上司と部下であり、普段ローランはルネに特別な感情を抱いている気ぶりも見せない。ルネも、ただでさえこの容姿のおかげで色眼鏡をかけて見られるのに、この上変な噂をたてられるのは嫌だったので、オフィスでは自分の感情に封印し、ローランと話す時も控え目で抑制のきいた態度に徹していた。
しかし、恋心というものは、隠そうとしてもなかなか隠しきれないもの。ルネの目は無意識のうちにローランの動きを追ってしまうし、他の人と話している彼の声に、つい耳をそばだててしまう。仕事がうまくいって褒められたりするとたちまち舞い上がって笑み崩れてしまい、ミラに、恋する乙女みたいな顔になっていると注意されることもしばしばだ。
職場では、そんな具合で欲求不満を抱えたまま。かと言って、仕事を離れたプライベートでも、ローランとの恋に何ら進展があった訳ではない。
パリで暮らし始めた当初、心身ともに壊れそうになっていたルネを訪ねてきた夜以来、ローランが再び彼のアパルトメンに来ることはなかったし、2人きりで食事に出かけたことも、ましてや、休日を共に過ごしたこともない。
今度一緒に食事に行こうとか乗馬に連れて行ってやるとか誘われた記憶はあったけれど、別にちゃんと約束を交わした訳ではなかったから、ルネはローランを責めることはできなかったが、やはりちょっぴり寂しかった。
「全く、じれったいわねぇ。そんなに彼のことが好きなら、自分から誘ってみたらいいじゃないの! 厳しい先輩の目が気になるなら、メモに今度食事に行きませんかとか書いて、こっそり渡すとか?」
仕事が終わった後、いつものカフェで、女友達のキアラ相手に、ルネは互いの恋の悩みを含むたわいのないおしゃべりに花を咲かせている。
キアラとは、秘書の学校の近くで見つけた道場で知り合った。会ったその日に意気投合し、今では、何でも打ち明け合える一番の友達だ。
「考えたことがない訳でもないけど…オフィスでのローランは、そんなに気安く近づける雰囲気じゃないし…それに、僕の方にも抵抗があるのかな。上司との恋愛関係にはまりこんだりすると仕事がやりにくくなるって…」
「もう、また、そんな言い訳して逃げるんだからっ」
女子部では、柔道でも空手でも一二を争うくらいに強いキアラは勝ち気な性格で、恋に関しても積極的だ。ルネの恋ばなは面白いと興味津々聞いてくれるが、苛々することもあるようで、時々こんなふうに叱られる。
「しょうがないわねぇ…結局、ルネ、肝心のあなたがいつまでも恋に対して臆病なことが一番の問題なのよ。全く、情けないったら、ありゃしないわ」
「だって、ローランには他に最愛の人がいるって分かっているのに、なかなか積極的に迫ったりはできないよ」
ルネは困ったように唇を尖らせながら、言い返す。
「その人に僕が似ているから気に入ったって、即行手を出したような人でなしなんだよ。そんな酷い人に惚れちゃう僕も馬鹿なんだけど、これ以上あの人にとって都合のいい存在になんてなりたくないよ。あなたが好きなんです、身代りでも何でもいいから付き合って下さいなんて、僕がうっかり漏らしたりしたら、本当に、あの人の想い人のスペア品として扱われるよ。そんなことまで許してしまったら、この恋、確実に僕の負けじゃないか」
「うわ、それって最悪…でもさ、好きな人の代わりとして傍に置いてくれじゃなくて、どうせなら、彼の心を自分に振り向かせてみせる、ガブリエルから奪ってやるって気持ちにならないの?」
「ええっ、奪う?!」
そう切り返されるとは思っていなかったルネは、思わず、カフェの他の客達が振り返るくらい、すっ頓狂な声をあげていた。
「何をびっくりしてるのよ。好きなら、たとえ相手に今付き合っている人がいようが構わず押せ押せで迫って、自分の恋人にしちゃうのよ、当然じゃない」
「もう、キアラってば、無責任な煽りかたして…」
苦笑いしながら、ルネはコーヒーを一口飲み、ふと考え込んだ。
(そう言えば、ローランがガブリエルをどんなふうに思っているのか、結局僕は恐くて聞けないでいる。たまに、あの人が話の中でガブリエルに触れる時には、とても深い愛情のこもった口ぶりになるから、ああ、やっぱり好きなんだなぁとは感じるけれど…一度問い詰めて、はっきりさせておいた方がいいんだろうか)
いまだ顔を見たこともないガブリエルのことを考えると、ルネの胸は嫉妬の小さな火でちりちりと焼かれた。
(ああ、でも、ローランの本当の気持ちを聞いて、それで僕には何の望みもないと思い知ってしまったら…僕はもうあの人の傍にい続けることはさすがにできなくなるだろうな。ローランの傍を離れるしかなくなる…それは嫌だ…)
結局、玉砕覚悟でローランの本心を確かめる勇気も、キアラのように積極的に迫って彼の心を自分のものにしようとするだけの自信も、ルネには持てなかった。
(確かにキアラの言う通りだ。新しい恋を見つけたくてパリまで出てきて、ローランを好きになって…その彼の傍で毎日働くことができるんだ。チャンスならいくらでもあるはずなのに、いざとなると怯んでしまう。こんな調子だと、いつまで待っても恋が叶うことなんかあるものか。ああ、軽く自己嫌悪に陥りそうだな)
ルネが悲しそうに目を伏せて溜息をつくのを、可愛そうなものを見るかのような目つきで眺めていたキアラが、ふいに、こんなことを言った。
「いっそ、他の相手を探してみたらどう?」
「え?」
「だってさ、大本命のローランとの恋は早くも行き詰っているんでしょう? それなら、そっちは取りあえず置いといて、他の出会いを求めてみるのよ」
「他の…出会い…?」
「初めて会った時、あなた、言ってたじゃない。自分の住んでいた田舎では、同性愛者どころか、下手すれば家畜や野生動物の生息数の方が人口より多いくらいなんだ。そんな所にいつまでいても素敵な恋人は得られそうにないけど、人口密度の遥かに高いパリでなら、理想の男性が見つかる確率も高いはずだと思ったって…真面目な顔して面白いこと考える子ねぇって、私、感心したのよ」
「…酔った勢いで話したことを、いつまでも覚えてないでよ。恥ずかしいなぁ」
「あはは…でもさ、真面目な話、このまま片思いを続けるよりは、もっと他に目を向けてみた方が、あなたの場合、いいような気がするな。どうせあなたのことだから、ローラン一筋で、他の男を意識して見てみたこともないんでしょう? せっかくパリにまで出てきたんじゃない、もっと視野を広げてみたら?」
「で、でも…僕はローランが好きなのに、他の人となんて―」
「別に恋人同士って訳じゃないでしょ、あなたとローランって? 義理立てすることはないんじゃない?」
キアラに痛い所を突かれて、ルネはぐっと言葉に詰まった。
「そうよ、その気になってちゃんと探せば、他に好きな人のいるローランより、もっと優しくてあなたを大切にしてくれる、素敵な人が見つかるかもよ?」
キアラの言うことの方がたぶん正論なんだろうと思いながらも認めたくなくて、ルネは唇を尖らせ、言い返した。
「ローランより素敵な人なんて、そう簡単に見つからないよ。確かにパリの男の人は、田舎に比べたら垢抜けてるなって思うけど、先にあの人を知っちゃったら、その辺りの普通の男なんか、皆マルシェに並んでいる野菜にしか見えなくなってくる…」
「あなたも結構ひどいこい言うわねぇ! 面食いなのは分かったけど、ルネ、あなたの理想の男って、一体どんな人なわけ?」
理想? ルネは首を捻って、ちょっと考え込んだ。
「そうだね、強い人、かな…この人には何をやっても敵わないって、僕が思えるくらい、強い人が好き」
「あら、いきなりハードル高いわね。うちの道場でも既に向かうところ敵なしのあなたより強い男となると、それこそ、プロの格闘家レベルになりそうじゃない。あ、トマなんかどう? 残念ながら腕っ節はちょっと劣るけれど、あなたにぶん投げられて完敗して以来、あなたに随分惚れ込んでしまった様子じゃない?」
柔道教室に見学に行った初日に手合わせをして簡単に一本勝ちして以来、ルネを『師匠』と呼んで慕ってくる大男のトマを思いだし、彼は唇をすぼめた。
「トマはいい子だと思うけど、僕はゴリ・マッチョはタイプじゃないなぁ…いや、そういうことじゃなくね、僕が求めるのは腕っ節の強さ以上の何かなんだよ。存在そのものに僕を圧倒するようなすごい力があって、有無を言わさず、ぐいぐい引っ張っていかれそうな人なんだ」
「ローランがそういうタイプなんだ?」
「うん。もちろん、本気で喧嘩したら、僕が勝つと思うんだけれど…あの人から発散されるオーラはとても強くて、傍にいるだけで、逆らう気持ちを根こそぎなくしてしまうんだ」
「ふうん…惚れた男だから、そう思うのかもしれないけどねぇ。ローランの前では、柔道やってる時の気迫の片鱗も見せず、しおらしげにしているあなたが目に浮かぶわ。ところで、ルネ、そもそもローランはあなたが格闘技をやってることを知っているの?」
ルネは、またしてもキアラに痛い所を突かれて、ぎくりとした。
「知らない…よ…僕も、あの人には黙っているつもりだし…」
「黙っているって、どうして?」
「だって、ほら、僕の腕があんまりたち過ぎることを知られたら、どん引きされそうだから…自分の強さを自覚している男って、より強い男をライパル視はするけれど、恋人として好きにはなってくれないもの」
「あら…ローランに嫌われるのが怖くて、本当の自分を隠しているってわけ? まあ、気持ちは分からないでもないけど…女の子の場合は特に、強くなるほど彼氏には打ち明けにくいって、よく聞く話よ。でも、あなたは―」
勘のいいキアラは、ルネの口ぶりに何か引っかかりを覚えたようだが、これ以上追求される前に、ルネはこの話を打ち切ろうとした。
「ともかく僕は、やっぱりローラン以外の誰かと付き合おうという気持ちにはなれないから…」
「しょうがないわねぇ。せっかく、あなたにお勧めの店を見つけてきてあげたのに…」
「店?」
思ったより頑固なルネを説得することは諦めたのか、キアラはやれやれというように肩をすくめ、パッグの中から一枚のカードを取り出して、テーブルに置いた。
「ゲイの知り合いに、あなたのことを相談してみたのよ。それで、やっぱりローランだけって初めから思いこまずに、色んな人に会ってみた方がいいんじゃないかって話になって…それで、ここのワイン・バーなんだけれど、最近パリのおしゃれなゲイの社交場になってるんだって。雑誌でも何度か紹介されたことがあるみたいよ。別に同性愛者ばかりって訳でもないし、雰囲気もよくって入りやすいから、あなた向けじゃないかなと思ったのよ」
「あ…」
「まあ、どうしてもその気になれないなら仕方ないけどね。一応そのカードは渡しておくわ」
ルネが目の前に置かれたカードを凝視しながら考え込んでいるうちに、キアラは腕時計をちらっと確認して、言った。
「私、そろそろ行くわね、ルネ…これから彼と一緒に映画を見に行くことになっているの」
ルネははっと我に返って、テーブルから立ち上がるキアラに向かって、慌てて声をかけた。
「キアラ、あの…ありがとう、僕を心配して色々考えてくれてたんだね」
「ルネってば、何、そんなすまなそうな顔してるのよ。当然じゃない、私達、友達でしょ?」
キアラは屈託のない笑顔で答えると、バッグを肩に引っかけ、颯爽とした足取りでカフェを出て行った。
(都会の人は冷たくて取っつきにくいなんて、とんだ偏見だったんだな。キアラみたいに、親身になって僕のことを考えてくれる人もいる)
ほっこりと胸が温まるような気分になりながら、ルネはキアラからもらった店のカードを手に取った。親切なことに、雑誌に載っていた写真入りの記事まで、彼女は添えてくれていた。
(あ、ほんとに、若者向けのおしゃれなワイン・バーみたい…気軽に入れそうな雰囲気だけれど、ワイン・リストは充実してるか…ふうん、ここなら普通にちょっと立ち寄って、美味しいワインを飲んでみたいかも…)
ローランに奢ってもらったシャトー・ラトゥールで開眼して以来、ルネはワインにも興味を持って、少しずつ嗜むようになっていた。
ネットでラトゥールを買えないかと思って調べてみた時は、その値段のあり得なさにパソコンの前で腰を抜かしそうになったものだが、たかが飲み物にここまでの価値が認められる、ワインの世界の不可思議には余計に好奇心をかきたてられた。もともと勉強熱心で、関心を覚えたことはとことんまで追求して自分のものにしたがる傾向のあるルネだ。これも秘書の仕事の役に立つだろうと、ワイン関係の書物に手を出して、時間がある時は読みふけっている、この頃だった。
(でも、本で得た知識だけじゃ物足りないって思ってたところなんだよね。こういう店では、どんなワインを出すのだろう…グラスで色々試してみたい気がするな)
せっかくキアラが探してくれた店なのだし、一度くらい行ってみてもいいような気に、ルネはなりかけていた。
(そうだ…いっそ、思いきってローランを誘ってみようかな…?)
自分からローランに対して積極的に出ることを躊躇っていたルネだが、キアラに教えてもらったこのバーを口実に、行動に出てみようかという方に気持ちが大きく傾いた。
(この間ご馳走になったお礼に、僕に奢らせて下さい…いや、駄目だ、ラトゥールに見合うワインなんか奢ったら、僕が破産しちゃう。正直に、友達に教えてもらったワイン・バーなんですけれど、1人だと入りにくいので、よかったら付き合ってくれませんかってお願いすればいいんだ。他に約束がなければ、きっと断られたりはしないよね…? ううん、もう余計な心配はなしにしよう。このまま何の進展もなしに悪戯に日々を過ごすよりは、ローランとちゃんと話して、彼の気持ちを確かめてみたい)
友達の心遣いに背中を押される形で、ルネはやっと気持ちを固めることができた。
(善は急げというし、僕の気持ちがまたしぼんでしまう前に、明日にでもローランに声をかけてみよう。今週末の予定は空いてますか…? ミラさんがいるから露骨にはできないけど、隙を見て彼を捕まえるか、メモを渡すくらいなら、なんとかできるかな)
そんなことを想像しながら、ルネは妙にうきうきと弾んだ気分になっていた。
結局、大好きなローランが傍にいるのに、自分の感情に封印をし続けている今の状況を変えるきっかけを求めていたのは、他ならぬルネ自身だったようだ。
翌日、ルネは朝からそわそわと落ち着きがなく、一度はミラに何か心配ごとでもあるのかと鋭い質問をされたくらいだった。しかし、ミラも来週にはここを去る身であり、他に手を取られることがあったためか、それ以上深く追求してくることはなかった。
短い時間でもいいから、何とかローランと2人きりになれるチャンスを窺っていたルネだが、こんな時に限って、コーヒーを淹れてくれと頼まれることもない。
改めてローランのスケジュールを確認し、会議が終わって副社長室に戻ってきたタイミングにでも、無理矢理コーヒーを持っていこう。その時に今週末の予定を聞いてみようと、ルネはひたすら待ち構えていた。
(友達に教えてもらったワイン・バーなんですけれど、もしよかったら明日の金曜日、一緒に行きませんか…なんて、うまく誘えるかなぁ。そもそも、彼に先約があったら…ううん、その時は、来週の予定を確認してみればいい。よし、がんばるぞ)
ぶつぶつと口の中で誘い文句のシミュレーションをしながら、ルネが秘書室を出て、コピー用紙の補充を事務員に頼みがてら下の会議室の様子を見に行こうとした時、エレベーターから丁度出てきたローランと鉢合わせをした。
「えっ、ムッシュ・ヴェルヌ?」
まだ会議が終わる予定の時間にはなっておらず、何の心の準備もしていなかったルネは思わず、その場に立ちつくした。
「ルネ」
ローランは直前まで誰かと携帯で話していたらしく、切ったばかりのそれをスーツのポケットに入れながら、足早にこちらに近づいて来た。
「もう会議は終わったんですか? 随分お早かったんですね」
ルネは瞬きもせず、気難しげに眉間に皺を寄せて何かに心を捕らわれているようではあるが、いつ見てもつくづくハンサムなローランの顔をじっと見つめた。
人間は好きなものを見る時には瞳孔が開くというが、おそらく今のルネの瞳孔は限界MAXまで開ききって、キラキラと輝いていることだろう。
しかし、ローランは、ルネが向けてくる熱っぽい眼差しに気付いた様子もなく、素っ気ない口調で言った。
「会議は途中で取りやめだ。緊急で出かけなければならない用事が出来たんでな」
「は? 急用…ですか?」
ローランの口から出た意外な答えに、ルネは当惑しながら、聞き直した。
「ガブリエルからの緊急コールがあったんだ。あいつの身辺で何か問題が発生したらしくてな。今からちょっと様子を見に行ってくる。今日は社に戻れるかも分からんから、この後の予定は全てキャンセルにしておいてくれ」
「ムッシュ・ロスコーの所に…え、今から行かれるんですか?」
ガブリエルの名前をローランの口から聞いて、ルネは頭から冷水を浴びせられたように、甘い気分も一気に消し飛んでしまった。
何が起こったか知らないが、仮にもこの会社の統括責任者が仕事の予定は全てキャンセルなどとただ事ではない。いや、そんなに簡単にこの男を呼びだすなんて、非常識ではないか。まともな社会人ならば必死で働いている真っ最中の時間だ。
そんな反感を、ルネは、噂で聞くばかりのここの道楽社長につい覚えてしまう。
(どうしてこんな時にまたガブリエルが出てくるんだ。自分の好きなことをするためにローランにこの会社を押し付けた張本人のくせに、この上彼の仕事の邪魔をするなんて―)
それとも、ルネが腹を立てているのはローランのためではなく、1人で勝手につまらない計画をたてて昨日からずっと胸をときめかせていた、馬鹿な自分のためだろうか。
体の脇でぎゅっと拳を握りしめ感情を抑えようと努力しているルネの脇を、ローランが急いだ様子で通り過ぎて行こうとする。
「ローラン…!」
とっさにファースト・ネームで呼んでしまい、慌てて口を手で押さえるルネを、ローランが怪訝そうに肩越しに眺めやった。
「あ、あの…」
「何だ? 俺は今忙しいんだ。用があるなら、早く言え」
ルネはぐっと言葉に詰まった。用ならあったけれど、完全にガブリエルのもとに心が飛んでいる今のローラン相手に話せるような内容ではない。
「いえ…大したことではありません。今日の予定は全てキャンセルですね…ムッシュ・ペロンとの会合も、それでは延期ということでお願いしておきます」
「ああ、俺が2人いればよかったんだが、すまないな…先方によく謝っておいてくれ」
じっと押し黙っているルネの硬い表情を見て、ローランは苦笑しながら、その肩を叩いた。
「頼むぞ」
「…はい」
ルネは目を伏せながら忠実に答えたが、胸の内には穏やかでない感情が渦巻いていた。
(どんな問題が発生したのか知らないけれど、ガブリエルからの電話があっただけで、あなたは、大切な仕事もあなたの下で一生懸命働いている部下も放り出して駆けつけるんだ。職場ではいつも鬼のように厳しいあなたは、たとえ僕が事故にあったって、会議を中断して駆けつけてくれるとは思えない。でも、ガブリエルだけは特別なんですか?)
その後すぐローランは、コートを引っ掴んで文字通り社を飛び出していった。パリ郊外にあるロスコー家のシャトーがガブリエルの住まう邸宅であり、アカデミー・グルマンディーズの本部も兼ねているそうだが、そこに向かうらしい。
「…そうしょっちゅうという訳ではないけれど、たまにあるのよ。ガブリエルからの緊急コールがかかれば、ムッシュ・ヴェルヌはフランス中どこにいても、必ず応えるし、用件の内容によっては、可及的速やかに自ら駆けつける」
ローランがいなくなるなり、腹の虫が治まらないルネはミラにかみついた。
「でも、この会社の事実上のトップとしての責任よりもガブリエル個人の頼みが優先だなんて、僕には納得できません」
「ガブリエル個人としてなのか、ルレ・ロスコー社長としての頼みなのか、その点私達には追及しようもないから、ああ、もう仕方がないと割り切って、あの人の不在で業務に差し障りが出ないよう、フォローに回ることが習慣化してしまったのよ。あれさえなければ、ムッシュ・ヴェルヌは完璧な経営者ですからね」
「そ、それで、いいんですか?」
仕事に対していつもはシビアなミラまでも、ローランの間違った優先順位の付け方に関しては諦めモードなのが信じられなくて、ルネはますますむきになって食い下がった。
「では、あなたがムッシュに直訴してみたら、どう? 無駄だと思うけれど、あなたの言葉ならば、あの人も一応耳は傾けるかも…でも、それで何か変わるなどと期待しては駄目よ、ルネ。ガブリエルの命令は、ムッシュ・ヴェルヌにとって神の声に等しい、最優先事項なんだから…」
「そんな…そこまでガブリエルが好きなんて…」
ガブリエルが仕事より何より大切なのだとしたら、ローランにとって、もしかしたらルネの重要度はほとんどなきに等しいのではないだろうか。
打ちひしがれて、がっくりと肩を落とすルネに、ミラは慰めにもならない慰めの言葉をかけてきた。
「ガブリエルと張り合おうなんて思わないことよ、ルネ…たとえムッシュ・ヴェルヌの一番大切な人にはなれなくとも、一番近くにいて必要とされるような存在には、あなたならなれるかもしれない。私がいなくなった後のことまであれこれ口出しできないけれど…強く生きるのよ」
ミラが産休に入れば、ローラン付きの秘書は他にいない以上、ルネが彼の仕事に一層深く関わり、フォローする部分も増えるだろう。少し前までは張り切っていたルネだったが、今は、果たして彼とうまくやっていけるのか、自信をなくしかけていた。
(僕が一生懸命尽くしても、ガブリエルから一本電話が入れば何もかもうっちゃって飛んでいく、あの人を僕は許し続けることが出来るだろうか…?)
ローランをワイン・バーに誘うという試みも、ガブリエルの乱入で果たせなかったルネは、悲しい気分で自分のデスクに戻り、引き出しの中からキアラにもらった店のカードを取り出した。
もともとこの店は、ローランとの恋に行き詰っているルネに、もっといい出会いのチャンスを見つける場として、キアラが勧めてくれたものだった。
(その気になってちゃんと探せば、他に好きな人のいるローランより、もっと優しくてあなたを大切にしてくれる、素敵な人が見つかるかもよ?)
ローランしか好きになれないと反射的に拒否したルネだったが、何だかもう、所詮ガブリエルの忠犬でしかない彼に固執するのも馬鹿馬鹿しくなってきた。
(そうだ、キアラの言う通りだ…この世に男は何もローラン1人じゃないんだ。初心に戻って新しい恋を探しにいけば、案外これはと思うようないい物件が見つかるかも…少なくともローランよりは誠実で、何を考えているのかすぐに分かる、常識的な人ならたくさんいるはずだ)
人の気持ちというものは、何かきっかけがあれば一気に、それまでとは百八十度変わってしまうものだ。
どこまでもガブリエルを優先させるローランに対する腹いせに、ルネは1人で例のワイン・バーに出かけて、いい男を捕まえることに決めた。
(自信家のあの人は、僕が自分を裏切ることは絶対ないと高をくくっていそうだけれど、そんなことないって、素敵な恋人を見つけることで思い知らせてやる! その時になって後悔したって知らないからな、ローランの馬鹿!)
ローランは結局、その日再び社に戻ってくることはなかった。きっとガブリエルの傍にいて、問題解決のためにかかりっきりになっているのだろう。そう考えると、ルネの中で彼に対する憎さがいや増してくる。
その夜ルネは、デパートで衝動買いしたコロンを腹立ち紛れに流しに捨てて、そのままベッドでふて寝を試みた。しかし、部屋の中に漂う、どうしてもローランを思い出させる香りに、胸の中のもの狂おしさはつのるばかり、まんじりともせずに一晩過ごしてしまった。
(ずっと好きだったこの香りだけれど、今から嫌いになろう。僕はもうローランを追いかけたりなんかしない…!)
そうして心を硬化させたまま、ルネは週末、金曜日を迎えることになった。