花束と犬とヒエラルキー
第2章 悪魔のように黒く

 夕方、6時を少し回った頃、外出していたローランがオフィスに戻ってきた。
「ルネは、もう帰ったのか?」
「ええ、ついさっき、オフィスを飛び出して行きましたよ。これから秘書の学校ですって…今週は、仕事だけでも新しいことを覚えるのに大変だったでしょうに、学校にも休むことなく通って…真面目な子ですね」
 帰り支度をしていた手を止めて、ミラは何か言いたげな眼差しをローランに向けてくる。
「ムッシュ・ヴェルヌ、ルネのことで少しお話があるのですが、よろしいですか?」
「ああ…俺も、この一週間のあいつの様子を、君に確認しておきたかった。時間は大丈夫なのか?」
「もちろん、きちんと残業時間としてつけさせていただきますので、御心配なく」
 副社長室の自分のデスクに身を落ちつけたローランは、両手を胸の前で組み合わせながら、無感情を装って目の前に立つミラを面白そうに眺めやった。
「それで、教育係として、あいつの仕事ぶりをどう思う? お前の後任として使えそうか?」
「ルネは、とても頭のいい子ですわ。今までここに入ってはすぐに辞めていった人達と比較にならないくらい、物覚えはいいし、すぐに応用できるし、機転も利く…その点、あなたが自分でスカウトしただけはありますわね」
「そりゃあ、よかった」
 ローランはにっと笑って、ポケットから取り出した煙草に火をつけた。
「他人の評価に厳しい君がそこまで褒めるなら、あいつは、そこそこできるんだろう。引き継ぎさえちゃんとできていれば、君がいなくなった後も大丈夫そうだな…優秀な秘書の君がいなくなるとは、俺としては残念至極、心細い限りだったんだが?」
 ローランのすっとぼけた態度がだんだん我慢ならなくなってきたのだろう、ミラの柳眉が僅かに逆立った。
「そんなことより…あの子をムッシュ・ロスコーそっくりに変身させるなんて、一体どういうつもりですの? おかげであの子の初出社の時は、社内がひっくり返るほどの大騒ぎでしたのよ。私だって、まさかあんな姿になっているなんて聞いていませんでしたし、どう皆さんに説明したらいいのか、困り果てました」
「ほう、そんなに皆が皆、驚き騒いだのか」
「ええ、さすがの私も、ルネのあの姿を見た時には、ショックのあまり、危うく産気づくかと思いましたもの」
 ミラのどぎつい言葉に、ローランは煙草にむせて咳込んだ。
「いくらムッシュ・ロスコーがあなたにとって特別な人だからといって、何も知らないルネを、他人そっくりに作り変えてしまうなんて、あの子の人権を無視した酷い話ではないですか。可哀そうに、ルネは随分ショックを受けていましたよ…あなたに個人的な感情を抱いてしまった後に、自分は他人の身代りに過ぎないと分かってしまった訳ですからね」
「成程…あいつの変身ぶりを見せつけられれば、他人はそういう解釈をする訳か。俺がガブリエルの不在の寂しさを紛らわせるために、同じ顔をしたスペアを傍に侍らせることにしたと…ははっ、そりゃ、大した変態だな」
 飄々としたローランの口ぶりに、ミラは顔をしかめながら、指先で眉間を軽く押さえた。
「ご自分で言わないでください…ああ、また頭が痛くなってきた」
「そういう解釈で皆が納得するなら、そのままにしておくさ。しかし、ミラ…君は本当に、ルネとガブリエルが見分けがつかないほどそっくりだと今でも思っているのか?」
 ローランは、ふいに今までとは違う真面目な顔になると、上体を前に傾けながら、まっすぐミラに問いかけてきた。
「今は別に、それほどまでとは…」
 ミラは戸惑いながら、ローランの問いかけを吟味するよう、考え込んだ。
「確かに、最初は見間違えましたけれど、私も『大天使』と間近で話したことならば何度もありますからね。他の社員達も、本物と会ったことさえあれば、ルネはやはり別人なのだと簡単に見分けがつくでしょう。ルネは普通の可愛い男の子ですけれど、ムッシュ・ロスコーはやはり存在自体が特別ですもの。実際、今となってはルネの存在自体に慣れて、誰も騒ぎたてなくなりました」
「つまり、ガブリエル本人を直接知らない人間にとっては、ルネは充分その身代りになりうるが、あいつを見知っている人間の目を誤魔化すことはできないというわけだ」
 煙草をふかしながら、したり顔でふっと微笑むローランを、ミラは思い切り胡散臭げに凝視した。
「ガブリエルを身近でよく知っている人間…その筆頭は、あなたですわね。すると、あなたにとって、ルネがいくらムッシュ・ロスコーを真似て装うとも、その身代りにはならない…それでは、一体、あの子の外見を変えさせたことには、どういう意味がありますの?」
「さて、どうだろうな…別に深い意味はないのかもしれんぞ。たまたま旅先で出会ったガイドがガブリエルによく似ていて、しかもなかなか頭も切れる上、俺の傍に置いていてもいいかなと思うくらいに可愛かった…実際それだけのことなのかもな?」
「もう、肝心な話となると、そうやってはぐらかす…あなたが何を企もうが、私の知ったことではありませんけれど、せめてルネにだけは、本当のことを打ち明けて、誤解を解いてあげてもいいんじゃありませんか? てっきりあなたに騙されて、ガブリエルの身代わりとして弄ばれたと思い込んでいるんです。ここから逃げ出さなかったのはあの子なりの意地なんでしょうけれど、無理をしていることは傍目からも明らかですわ。ゾンビのように心を殺して黙々と仕事をこなし続ける、あんな不自然な状態が、いつまでも続くはずがありません。近いうちにきっと大爆発してしまうでしょう。御自分で見つけて引っ張ってきた大事な秘書を、このまま壊してしまってもいいんですの?」
 鉄の女も、最後の方は、つい感情的になってしまったようだ。デスクに両手をついて身を乗り出すようにしながら、ミラは激しい口調でローランに訴えた。
しかし、ローランは特に感銘を受けたふうもなく、腹が立つくらいに冷静な態度で、そんなミラを軽くいなした。
「何をそんなにむきになっている、ミラ…どうやら君はルネのことが気に入って、珍しくも感情移入したらしいな。素直で真面目で健気な上、仕事をやらせても優秀な後輩の先行きが心配か? しかし、他人の問題に首を突っ込むなんて、君らしくないぞ」
「ムッシュ…!」
「分かったから、興奮するな、腹の子に障るぞ。なあ、ミラ、君はもうすぐ産休に入る身だろう…自分が去った後のことまで、あれこれと気を回して心配する必要はないんじゃないか? 大体、下手に関わっても、その結果について君は何の責任も負えないわけじゃないか、そうだろう? 君の意見は一応聞いておくが、今の所俺は、ルネに俺の腹の内にあることを打ち明けて説明してやるつもりはない。あいつが本当にのっぴきならない所まで追いつめられて、自分で俺を問い正そうとするなら、話は別だがな」
 口調は柔らかだが、言っている内容は冷徹そのもののローランは、ルネに対しするミラの情を一蹴すると、全く悪びれもせずに付け加えた。
「大体、その必要もないのに、他人に自分の手の内全てを明かしてたまるか。あいつはなかなか使えそうな奴だが、今の所、俺にとっては大勢いる部下の一人に過ぎない。特別な感情があろうがなかろうが、あいつが部下として俺の下にいる限り、俺のやり方に従ってもらう」
 ミラが唇を噛みしめて睨みつける中、ローランは煙草を灰皿でもみ消して、椅子の背にもたれかかった。
「ルネの精神状態については、俺も今、君の話を聞いて、どうにかケアしてやらんと駄目だなと考えているところだ。確かに、あいつが不安定になったのは、言い訳のしようもなく、百パーセント俺の責任だからな。そういう訳で、これ以上、俺のルネに対するやり方に、君はあれこれ口をはさむな。あいつは俺のものだからな…どう扱おうと俺の勝手だろう?」
 ローランは、これで話は終わったとばかり、両手を軽く上げてみせる。
するとミラも、もうこれ以上何を訴えても無駄と悟ったのだろう、くるりと踵を返し、苛立たしげにドアを叩きつけるようにして部屋から出て行った。
「ああ、妊婦を興奮させたくはないんだがなぁ」
 その後ろを見送って苦笑混じりに呟いた後、ローランはしばらく椅子に身を預けたまま、何事か思案にふけっていた。
「身代りだなんて、真面目なだけに、あいつにはショックが大きすぎたか…さて、どうしたものかな…」
 そして、ふと思いついたようにポケットから携帯電話を取り出した彼は、迷わず、一番よく連絡を取り合っている相手に電話をかけた。
「…ガブリエル、俺だ。いや、ボルドーの件なら、明日会った時に詳しく報告する。実は別件で、おまえにちょっと相談したいことがあるんだが…」




 夜10時前、専門学校の秘書コースのクラスを終えたルネは、疲れ切った体を引きずるようにして、自分のアバルトメンに戻った。
 仕事を終えて社を出る時に既に疲労は感じていたのだが、無理をしてクラスにも出た後に、この1週間の疲れが一気に襲ってきたようだ。
(そう言えば、この所、人間らしい生活をしていなかったからなぁ。忙しい方が気が紛れるからと昼間は必死に働いて、その後で学校の授業にも出て…アパルトメンに帰ったら、食事もそこそこにベッドに倒れ込むように眠って…そう言えば、昨日何を食べたっけ? 冷蔵庫にまだ何か食べれるものは残ってたかな…)
 昼間にカフェでサンドイッチを食べたきり、何も口に入れていなかったので、今更のようにルネはひどい空腹を感じながら、ポケットから取り出した鍵でアバルトメンのドアを開け、よろよろと中に入った。
「これで1週間が終わったぁ…はぁっ、疲れたよぉ…」
 テキストが入った重い革のバッグを床に落とし、スーツもその辺りに脱ぎ散らかしながら、ルネはまっすぐにキッチンに向かい、冷蔵庫を開けた。
「あはは…食べられるものが何もない…帰りに何か買って帰ればよかったな…」
 ビールの缶だけがぎっしり入った冷蔵庫の中身を覗きこんで、乾いた笑い声をたてたルネは、取りあえず喉も渇いていたので、その中の一本を取り出し、冷蔵庫にもたれかかったまま、一気に飲んだ。
「はぁっ…」
 一息に空けた後、ルネはそのまま床に座り込んだ。当たり前のことだが、空きっ腹にアルコールはよく回る。
(どうしよう…お腹はすいたけど、外に食べに出かけるだけの元気はもうないや…お酒も回って、ふらふらしてきたし、このまま朝まで寝てしまおうかな…)
 ルネはくすんと鼻を鳴らして、床にごろりと横になった。
(おかしいなぁ…体力ならあるはずなのに、どうして、こんなに疲れているんだろう…やっぱり、慣れない都会暮らしと仕事のせいで、精神的なストレスが大きいのかな)
 それにしても、ここまで心身ともに追い込まれたのは初めての経験だった。我ながら、一体どうしたのだろうと恐くなるほどに、日常生活が破綻寸前になっていることは、冷蔵庫の中身を見るまでもなく薄々分かっていた。
(やっぱり、このままここに踏みとどまって仕事を続けるなんて、僕には無理なのかもしれないな。今日ローランに会って分かった…僕は今でもあの人が好きだし、諦めることなんてできそうにない…)
 一時は、ローランとの間であったことは一夜の遊びと割り切って、忘れてしまおう、個人的な感情を仕事に持ち込まないことが大人のやり方だと自分を納得させようとした。しかし―。
(僕は、そんなにあっさりと自分の気持ちを切り替えてしまえるようなタイプじゃない。たった一回えっちしただけで別に恋人面するつもりはないけど、好きになっちゃったんだから、仕方ないじゃないか! クールに遊ぶのが都会に住む大人の男のスマートなやり方なのかもしれないけど、僕はどうせ田舎者だし、いきなりそんな物分かりのいい大人になんかなれないよーっ!)
 感情が一気に高まったルネは、キッチンの床に倒れ伏したまま、めそめそと泣きだした。
(ローランの馬鹿…本当に悪魔みたいな酷い人…)
 アルコールが頭にまで回ったせいか、服を半分脱ぎかけただらしない恰好のまま、ルネは本当に床でうとうとし始めた。
 他人がこんな自分を見たら、何かの発作でも起こして倒れたのではないかと、さぞや肝をつぶすだろう。そんなことをぼんやり思いながらも、動く気にはなれず、一体どのくらいの時間が経ったのか。
 遠くでアバルトメンのブザーが鳴ったような気がしたが、こんな時間に来客があるはずもなく、夢だろうと思ってルネが放置していると、そのうち今度は、鍵を使って玄関のドアを開けるような音がした。
(あれ、おかしいな…誰かが、部屋に入ってくる…?)
 朦朧とした意識の片隅で、ルネは玄関から入ってきた足音が、キッチンに近づいてくるのを聞いていた。
(夢だよね…それとも本当に泥棒とかだったりして…)
 それでもまだ起き上がって確かめる気になれずじっとしていると、その侵入者は、半裸のまま冷蔵庫の前に倒れ伏しているルネを発見したようだ。はっと息を飲んだきり、しばし固まった。
 ついで、切羽詰まったような足取りで歩み寄って、ルネを見下ろす。
(あれ、何だろう…プールみたいな臭いがする…)
 次の瞬間、その侵入者が、動揺を滲んだ声でぼそっと呟いた。
「き…救急車…」
 その低い声を聞いた途端、ルネはぱっと目を見開いて、自分の顔のすぐ傍にあった、その男の足首をとっさに掴み締めた。 
「そんなもの呼ばないで…別に死んでないからっ…」
 びくっと震えた足が誰のものなのか、ルネにはもう分かっていた。のろのろと頭を上げると、やはり、携帯電話を握り締めたまま凍りついているローランと目があった。
「ムッシュ・ヴェルヌ…ど、どうして、あなたがここに…?」
 不法侵入という言葉がルネの頭を過ったが、ローランは別に後ろめたい素振りも見せず、ルネが持っているのと同じ鍵を堂々と目の前に示した。
「この部屋のスペア・キーだ。今夜ジム仲間のマティアスに会った時、預かったんだ。帰りにお前のアバルトメンに立ち寄るつもりだったから、ついでに渡そうと思ってな」
「マティアス…ああ、あの不動産屋さんの…」
「スペア・キーができたら、仕事の帰りに取りに行くという話になっていたそうだな。おまえがいつまで経っても事務所に現れず、留守番電話にメッセージも残していたのに連絡もないが、どうしているんだろうと心配していたぞ」
「ああ、そうでした…取りに行くの、すっかり忘れてたし、留守番電話なんて、この所確認してもいなかった」
 一瞬ローランが自分に無断でスペア・キーを作ったのではと疑ったルネは、ほっと胸を撫で下ろした。
「やれやれ、それにしても想像以上にひどい有様だな。この部屋も、おまえ自身も…」
 ローランはキッチンのテーブルの上に持ってきた荷物を置いて、再びルネの所に戻ってきた。
「おい、いつまでそんな所で寝ているつもりだ。気分が悪いなら、ベッドで休め。キッチンの床で寝たりしたら、健康な人間でも風邪をひくぞ」
 そう優しく声をかけながら、ローランは上体を起こそうともがいているルネの傍に膝をついた。
「何だかまだ目が回る…ビールのせいかな…」
 吐き気を堪えるよう口を押さえるルネの頭を抱き寄せ、もう片方の手で、ローランは目の前の冷蔵庫のドアを開けた。
「…ビール以外は見事に空だな。俺の家の冷蔵庫よりひどいぞ。差し入れを買ってきて、正解だった」
 呆れたように呟くローランの声を聞きながら、ルネは抱き寄せられた胸におずおずと頬を寄せていったが、大好きなあの匂いがしないことに顔をしかめて、手で押し返した。
「ふにゃー…嫌だ、塩素臭いっ…!」
 ルネの反応に、ローランも気になったらしく、持ち上げた腕に鼻を押し付けるようにして臭いをかいだ。
「仕事帰りにジムに寄って、1時間ほどプールで泳いできたからな…今夜はやけに消毒薬の臭いがきついと気になって、シャワーでよく洗ったんだが、まだ残っていたか。それにしても、犬並みに鼻が利く奴だな」
「…あなたに言われたくはありません」
 力なく言い返すも、まだ動くのも辛そうなルネを見かねたのだろう、ローランは、その体の下に腕を回して持ち上げようとした。
「あっ、駄目です、ムッシュ…!」
 ルネが慌てて制止の声をあげたのには訳がある。
 案の定、ルネの体重の目算を誤ったローランはよろめき、とっさに冷蔵庫にもたれかかって体を支えた。
「…おまえ、意外と重いな…?」
 ローランに怪しむような目を向けられたルネは、耳まで真っ赤になって、焦りながら、その腕から逃げ出した。
「す、すみませんっ…そういう体質なんです。体脂肪が極端に少なくて、見かけよりも重くて…」
 要するに、筋肉は重いということだ。すっきりとスリムにまとまったこの体は、実はぎゅっと身のしまった筋肉質。プールになど叩きこまれたら、きっと底まで沈んで二度と浮かび上がってこないだろう。
 そんなことをローランに知られたくないルネは、間違っても、彼がもう一度自分を抱き上げようなんて気を起さないよう、自力でふらふらと歩いて寝室に逃げ込み、ベッドの上にあった部屋着に着替えた。そうして、再びキッチンに戻って、テーブルの前の椅子に腰を下ろす。 
「あ、いい匂い」
 テーブルの上に置かれた紙袋の中にはケータリング用のパックが幾つも入っていて、そこから漂ってくる食欲を誘う匂いに、ルネはすぐに反応した。
「今日、社でお前と会った時、やけに顔色が悪いのが気になってな。どうせ、この1週間ろくなものを食べていなかったんだろう。元気がなくとも、おまえが喜んで食べられそうなものを探して買ってきた…と言っても、おまえは何が好きかまで分からなかったんだが、オーヴェルニュの家庭料理なら、気取ったレストランでの食事や油の回った中華のケータリングよりも食べやすいだろう…?」
 ローランはそんなことを言いながら、紙袋から取り出した料理のパックを開いて、テーブルに並べていった。
 ジャガイモ入りのチーズのお焼き、豚肉とレンズ豆の煮込み、プルーンと野菜のテリーヌ…ルネの実家の料理とは微妙に違うけれど、確かに、どこか懐かしいような料理であることは間違いない。
「ここのレストランは普段ケータリングなどしていないんだが、おまえのために、特別に頼み込んで作ってもらったんだぞ。モンドール出身の夫婦が2人でやっている小さな店だが、味はいいと評判で、パリに移り住んだオーヴェルニュ地方出身者が常連になっているそうだ」
 ちゃんと保温のできるパックに入っていたので、料理はまだ温かく、いかにも美味しそうで、ルネは早速手を伸ばして、ジャガイモとチーズのお焼きを口に運んだ。
「美味しい…これなら、食べられそうです」
「それを聞いて、安心したぞ」
 フォークを持ち直して本格的に食べ始めるルネの様子に目を細め、ローランは、別の袋から取り出したボトルをテーブルの上に置いた。
「あれ、シードルですか…?」
「おまえ、好きだと言っていただろう…? しかし、調子が悪いなら、アルコールは控えた方がいいかな」
「気持ち悪いのはもう治ったみたいですから、少しだけいただきます」
 自分の好みをローランが覚えていてくれたことが意外であると同時に嬉しくて、ルネは気がつけば、彼に向って微笑みかけていた。
「うーん、やっぱり、俺には少し甘過ぎるな。ルネ、冷蔵庫のビールを1本もらうぞ」
 ローランはまだ食器もほとんど揃っていない食器棚から探し出してきたグラスにシードルを注いで味見をしたが、すぐに顔をしかめて、グラスを置いた。代わりに、冷蔵庫から缶ビールを持ってきて、ルネの前の席に腰を下ろす。
「あれ、ローラン、あなたでもビールなんか飲むんですか…?」
「俺だって、別に毎晩高いワインばかり飲んでいる訳じゃないさ」
 自分のアバルトメンの小さなダイニング・キッチンで、こんなふうにローランと向き合ってケータリングの料理をつつきながら、打ち解けた雰囲気で言葉を交わしあっていることが、ルネは不思議だった。
 本来なら、こんなふうに気安く人の部屋に上がりこんで一緒に食事をするなどと、ルネは彼に許すはずもない。
(ローランが来てくれなかったら、僕は今夜食事にもありつけず、あのままキッチンの床で泣きながら眠り込んで、きっと風邪をひいていた訳で…確かに、この人のおかげで助かったのかもしれないな。でも、そんなことで誤魔化される程、僕は馬鹿じゃない…それとも、やっぱり馬鹿なんだろうか…? 困ったことに、僕は今、ローランとこうしていられることが心地よいと感じている)
 会社での彼は近づきがたく余所余所しい感じがしたが、今はごく自然にくつろいで、ルネに対する態度も親密で気遣いに満ちているからだろうか。
(どうしよう…こんなふうに優しくされると、うっかりまた勝手に思いこんで、信じてしまいそうだ。この人が僕のことを好きだなんて…)
 差し入れのシードルを飲みながら、ルネは、ローランが豚肉とレンズ豆の料理を頬張って、なかなかいけるなと自分に向かって話しかけてくるのを見守っていた。
(ローランがくれた、このシードル…甘酸っぱくて、切ない味がする)
 ルネの複雑な心情を、ローランはどこまで斟酌しているのだろう。それとも本当に無頓着なのか。
「ここの料理が気に入ったなら、今度は一緒に食べに行こう。出来たての方が、うまいに決まっているからな」
「え、ええ…それにしても、こんな素朴な家庭料理の店なんて、あなたがよく知っていましたね」
「実は、ガブリエルに教えてもらったんだ」
 臆面もなくローランが打ち明けたのに、ルネは料理をつつく手をとめた。
「さすがはアカデミー・グルマンディーズ主宰と言うべきかな。パリにあるレストランの情報なら、最新のグルメ情報誌よりもよほど正確で信頼できる。美味いものに関しては、特別なアンテナが働くんだろうな…実際よく1人で食べ歩いているらしいが、あんな下町の小さな食堂まで網羅しているんだから、全く驚きだ」
 ルネはシードルのグラスをぐっと握り締めながら、一気に早くなった心臓の鼓動を鎮めようと努力していた。
(ガブリエル…雑誌の中で見た、僕にそっくりな人…ローランがこの世で最も愛しているという『大天使』…)
 ルネは顔を俯けてしばし煩悶した後、思い切ったように目を上げ、ローランに向かって訴えかけた。
「あのローラン…ムッシュ・ロスコー…ガブリエルって、一体どんな人なんですか…?」
 ルネの思いつめた顔を見たローランは、缶ビールを口に運びかけていた手を止めると、極めて真面目な顔つきになって、こう切り返した。
「おまえが聞きたいというのなら、話してやるが…ガブリエルについて俺に語らせると、とてつもなく長い話になるぞ。本当に聞きたいのか?」
「う…」
 ルネはとっさに怯んで、自分の反応をじっと窺う構えのローランの鋭い緑の目を見返した。
「い…いいです、やっぱり…今は聞きたくありませんっ」
 がっくりと肩を落として、力なく頭を振りながら、ルネは答えた。
 そんな壮大な好きな人語りをローランの口から聞かされたら、せっかく持ち直しかけている心が、今度こそぽっきり折れてしまいそうだ。
「そんな情けなそうな顔をしなくても、そのうち分かるさ、ルネ」
 分かりたいような分かりたくないような、もやもやとした気持ちを持て余しているルネの頭にローランは手を伸ばし、柔らかな髪の中に指を差し入れて優しく撫でた。
(僕はどうしたらいいんだろう…見せかけだけかもしれない優しさに、不覚にも、すがりついて泣きだしたい自分がここにいる)
 ルネはグラスに残っているシードルを飲みほして、テーブルの上に置いた。
「ご馳走様でした。ありがとうございます、ローラン、おかげで飢え死にしなくてすみました。人間、やっぱりちゃんと食べるものを食べておかないと駄目ですね。もう二度とこんな恥ずかしいところをあなたに見せずにすむよう、気をつけます」
 ローランはルネの生真面目な顔を見て、何も言わずに微笑むと、おもむろに立ち上がった。
「あっ…ローラン…」
 一瞬もう帰ってしまうのかと思ったルネは、ついそれを追うように立ち上がって、伸ばした手で彼の腕を掴んだ。
「何だ?」
 ルネは顔を赤らめながら、すぐに手を離して、ごまかすようそれをぱたぱたさせた。
「い、いえ…あの…」
 ローランは笑いを含んだ目で、そんなルネをじっと見下ろしている。
「あの…まだ帰らないでください…急いでいるのでなければ、もう少し僕と一緒にいてくれませんか…? その…たぶん僕はホーム・シックなんです。独りでいることが何だか心細くて…」
 一体自分は何をやっているのだろうとルネは思った。ホーム・シックだなんて白々しい言い訳をしてまで、ローラン引き留めようとしたりして、どうするつもりなのか。
「駄目ですか…?」
 こんな馬鹿な真似はやめようと思いながらも、つい、今にも泣きだしそうな潤んだ目でローランを見上げてしまう。
「…帰るだなんて、一言も言ってないぞ」
 ローランがぶっきらぼうな口調で答えたのに、ルネはぱっと顔を輝かせた。
「食後にコーヒーか何か欲しいな…どこに置いてある、ルネ? 俺が淹れるから、おまえはそこで座っていろ」
 コーヒーと聞くとついオフィスでの苦労を思い出してしまうルネは、慌ててローランの後を追い、テーブルを離れた。
「すみません、コーヒーはまだインスタントしか置いてないんです。ええっと、ハーブ・ティーか緑茶はどうですか? といっても、どちらもティー・バックですが…」
 インスタントのコーヒーよりは無難な食後のお茶を用意して、リビングに移動した後、2人はテレビの前のソファに身を落ちつけて、適当につけた番組を見るともなく見ながら、取り留めもない話を続けた。
 そう言えば、ローランと2人きり、こんなふうにくつろいで過ごしたのは先週末以来のことだった。
 特別何をするでもなく、ただ寄り添い合っているだけで、温かさが胸の奥から体中にじんわりと広がっていくような心地よさに、ルネは、自分がよほど彼を恋しがっていたことに気付かされた。
(そうかぁ…僕はやっぱり、この人のいないパリで、独りぼっちでいるのが心細くて寂しかったんだ。ローランがいないなら、冷たくて余所余所しい都会になんか、僕はそもそも移り住もうとは思わなかった。そのローランに裏切られて、心の拠り所がなくなってしまったから、こんなにも心が不安定になっていたんだ。この人が僕にしたことを簡単に許す訳にはいかないけれど、でも―)
 深く考えだすとどっぷりはまって抜けられなくなりそうな煩悶は、取りあえず脇に置いておいて、現在傍にあるささやかな幸せに浸っていたい―ルネは、隣り合って座っているローランの脚にぴたっと自分の脚をくっつけて、思いつくまま、甘えかかるような口調で彼に話しかけた。
「ねえ、ローラン、さっき、ここに来る前にジムに立ち寄ったって言ってましたよね。よく行くんですか、仕事帰りにジムなんて…?」
「ああ、出張や他の約束がない時は、ほとんど毎日かな。ストレスの発散と体の維持管理のため…」
 ローランは、なかなか色の出ない緑茶のティー・パックをマグカップの中でぐるぐるさせながら、答える。
「ふうん…仕事だけでハードなのに、毎日はすごいですね」
「一種の強迫観念だな。俺が仕事の席で会うのは、それなりの年齢の管理職の連中が多いんだが、どいつもこいつも、言っちゃなんだが、でっぷりと肥えた親父ばかりなんだ。そういう奴らに、ムッシュ・ヴェルヌは若くてスタイルもいいから羨ましいなどとでかい腹をさすりながら言われ続けると、おまえも年をとったらこうなるぞと脅されているような気分になってきてな。俺は、いくら年を食っても、醜く腹が出るのだけはごめんだ。そのくらいなら潔く早死にしてやる」
 何を思い出したのか、ローランは渋い顔をして、緑茶をぐいっと飲んだ。
「ああ、それで水泳ですか。スタイル・キープには適していますものね。ナルシストっぽいとは思ってたけど、やっぱり…」
「何が、やっぱり、なんだ?」
 ルネはローランに軽く小突かれながら、カモミール・ティーのカップを手に、くすくす笑った。
「いいえ、僕は泳ぎは苦手なんで、羨ましいなって…水泳の他には、何をするんですか?」 
「時間がなくてジムで泳がない時でも、筋トレとバイクくらいはするようにしているぞ。簡単なマシーンなら、家に幾つか置いてあるんだ。もっとも、家だとつい気が緩んで、バイクをこぎながら居眠りしそうになるから困る。それから、体の完全に空いた休日には、乗馬やテニスだな…よかったら今度連れて行ってやろうか?」
「あ、乗馬は楽しそうですね。僕も子供の頃、家の近所の牧場で馬に乗せてもらったことならあります。そういう気晴らしを何か持つことが、日頃ストレスを溜めこまないコツかもしれないですねぇ」
「おまえも、俺のようにジムに通えとは言わないが、仕事以外に何か気分転換になる趣味や関心を見つけることだな。そうすれば、それを通じて新しい仲間や友人も見つけられる。自分の居場所を作ることができれば、今は余所余所しくて冷たく感じられるパリの街も、案外住みやすいということが分かるさ」
 今自分が感じている所在なさをローランに見抜かれたような気がして、ルネは少しはっとした。
「仕事以外に僕が興味を持てそうなことですか。今は、そこまで考える余裕もないですけれど…」
 カップから立ち上るハーブの心安らぐ香りに目を細め、ルネはふと、今通っている秘書の学校の近くで見かけた、柔道教室の看板を思い出した。
(…一緒に空手も教えているみたいだったな。本格的にまたやり始めるつもりは全くないけど、息抜き程度なら…今度、ちょっと中を覗いてみようか)
 都会の人は取っつきにくそうでも、格闘技を通じてなら、すぐに分かりあえて、友達だってできるかもしれない。
 そもそも確固たる自分を持っていないから、周りの環境が変わったくらいですぐに動じて、心が揺れやすくなるのだ。失恋したくらいで、この世の終わりのように落ち込むのだ。しかし、これが自分の在り処だと胸を張って言えるものなら、ルネもかつては持っていた
(ああ、でも、僕は格闘技の世界からは足を洗ったはずだ。いくら強くなったって、僕は幸せにはなれないと分かったから…それに、もしローランが、僕が道場に通いだしたことを知ったら何て思うか、やっぱり恐い…)
 密かにぐるぐると思い悩んでいるルネの肩を、その時ローランの手が包み込み、そっと抱き寄せた。
 ルネは素直に甘えるよう、ローランの胸に頭を預けて、目を閉じた。
(ローラン、今のあなた、昼間とは別人のようですよ。いつもこんなふうだったらいいのに…ううん、四六時中優しくされたら、また僕は甘い期待を抱いてしまいそうで、困るかな)
 下りてきたローランの唇がルネの額に触れ、それから瞼の上にそっと押しあてられる。髪を優しく梳いているしなやかな指先が快くて、ルネはうっとりとなって、思わず喉を鳴らした。
(柔道教室、ローランに知られなきゃ、別にいいかな…こんなふうに大人しく従順に抱かれている僕が実は黒帯持ちだなんて、いくらローランだって夢にも思わないはずだ。そう、えっちの最中に寝技をかけちゃうなんてことがなければ、きっと大丈夫…ばれない、ばれない)
 微かな笑みをうかべているルネの顔を見下ろしながら、ローランは甘く低い声で囁きかけた。
「何を笑っている…?」
 ルネは薄っすらと目を開けて、怪訝そうな面持ちのローランを悪戯っぽく見上げた。
「秘密です」
 ルネは腕を伸ばしてローランの首に巻き付け、焦れたように、自分の方に軽く引っ張った。これも柔道の絞め技に簡単に持っていけそうな体勢だが、無論、そんなことはしない。
「今夜の俺は塩素臭いけど、いいのか…?」
「別にもう気になりません。それに、あなただったら、たとえニンニク臭くても、僕は大丈夫です」
「…それは、俺が嫌だな」
 ルネが再び目を閉じてどきどきしながら待っていると、ローランの唇が今度は唇に触れた。
(ローラン…今のあなたは、キスまで優しい…)
 それは、いつかの夜に交わした、ルネの全てを食いつくそうとするような性急で荒々しくいキスではなかった。こうして触れ合うことで、互いの存在を確かめあおうとするような優しさに満ちたもので、弱くなっている今のルネには、むしろ好ましいと感じられた。
(そう言えば、初めてこの人と寝た時も…どうせ一夜の遊びだからと半分覚悟していたのに、意外なくらい優しくて、僕はびっくりしたんだ)
 ルネはローランと唇を軽く擦り合わせ、漏れる吐息を絡めあいながら、ぼんやりと思った。
(いかにも遊び慣れてそうな都会の男だもの、終わったらきっと手の平返したように素っ気なくなるんじゃないかって疑ったけど、全然そんなこともなくて…ローランの胸に抱かれていると、すごく温かくて安心できて、いつまでもこの人と一緒にいたい、離れたくないって思った。だから、僕は…何も知らない、この人のことを、それでも信じてみようという気になったんだ)
 背中をゆっくりと確かめるように撫でていたローランが、ふいにその手をとめ、またしても自分を抱き上げようと試みるのに、我に返ったルネは、慌ててソファから飛び起きた。
「駄目です、ローラン!」
「ど、どうして…?」
 ルネは瞳をぐるっと回して、苦しい言い訳をした。
「…さ、先に、寝室を片付けさせてください。 ベッドなんか、今朝起きだしたままの状態でぐちゃぐちゃだし、せめてシーツくらい変えないと…僕が呼ぶまで、ちょっとの間待ってくださいっ」
 せっかく気分が盛り上がってきたところで中断かよと、ローランは鼻白んだ顔をしたが、捕まえようと伸びてきた彼の手を軽くかわして、ルネは寝室の方に飛んで行った。
「はあっ…ぼうっとしてるとあの人に正体ばれるぞ。気をつけないとなぁ」
 立てこもった寝室のドアに背中を押しつけ、ルネは紅くなった頬を両手で挟んで冷やしながら、考え込んだ。
(そうだ、僕はあの時、ローランについていこうと決めた。腹の中に一物も二物もありそうなクセのある人だけれど、僕の胸に伝わってくる彼の優しさは紛れもない本物だったから…あれが嘘なら、僕がこの世に信じられるものなんか、もう何もなくなる)
 一時はこれ以上傷ついたら心がもたないと実家に逃げ帰ることを本気で考えていたルネだったが、もう少しパリの街に留まってがんばってみようと、この時思いなおした。
(だって、僕はまだ、ローランのことをほとんど何も知らないもの…鬼か悪魔のような顔で人を怒鳴りつけるかと思ったら、心を蕩かすような優しい笑顔を向けてくる。自信家で傲慢なナルシストのくせに、好きな人のためなら粉骨砕身尽くしてしまう…彼をもう少し理解できるようになって、それでも僕は傍にいたいと思えるだろうか。そうだ、三行半を叩きつけてローランのもとを去るのは、それからでも遅くないはずだ)
 気持ちの整理がついたというか、むしろ開き直ったと言うべきか、ルネの胸に涼しい風が吹き抜けていくような清々しさが広がっていく。
(うん、僕がローランに愛想尽かしてここから出て行く時には、それまで受けた心の痛みを倍にしてきっちり返してもらおう。自分が拾った可愛い犬が実はどんな猛犬だったのかを、死ぬほど思い知らせてやればいい)
 そんな物騒なことを心の片隅で考えながら、ルネは手早く寝室を掃除し、ベッドのシーツも新しいものに取り換えた。
(ローラン、それまであなたは、僕が命がけで愛し尽くそうと思う、この世で一番大切な人です)
寝室のドアを大きく開いたルネは、すうっと息を吸い込み、とびきり甘くて可愛い声で、じりじりしながら待っているだろう愛しい人を呼んだ。
「お待たせしました、ローラン…ね、早くここに来て下さいよ」


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