花束と犬とヒエラルキー
第1章 ボーイ ミーツ ボーイ

「お飲み物は何にいたしましょう?」
 ローランに連れて行かれたレストランで、物腰柔らかな品のいいソムリエに尋ねられて、うっかり『ビール』と言いそうになったルネは、テーブルの下でローランに足を蹴飛ばされ、黙り込んだ。
「俺はシャンパンを、こいつにはビールじゃなくてキールをやってくれ」
 この馬鹿者と言いたげにローランはルネをじろりと睨んだが、ルネが緊張しているのを見て取ると、すぐにまた優しげに眦を下げた。
「外見はそれだけ見事に化けたのに、中身はやっぱり変わらんな…まあ、仕方ないか」
「すみません、こういう格式の高い場所での食事には慣れていないもので…普段友人達と食べに行くのは気の張らないビストロかバーですし、そういう場所で僕が好んで飲むのはビールやシードルみたいなものですから」
 汚すのが怖いような真っ白なテーブルクロス、重たげな銀のカトラリー、中で小魚でも飼えそうなクリスタルのグラスを前に、肩で大きく息をつくルネを眺め、ローランは柔らかな微笑みはそのままに、瞳の温度を僅かに下げた。
「慣れろ。俺のために」
「は、はい…」
「昨日やったパンフレットをちゃんと読んだのか…? うちの傘下には、こういう雰囲気のレストランが何件もあるんだぞ。たまに視察に行ったりする度、いちいち怯んでいたら、仕事にならんだろう…?」
 噛んで含めるように言うローランに、ルネは素直に頷いた。
「確かにそうですね…場数を踏めば何とかなると思いますが、早く慣れるよう努力します」
「それから、好き嫌いは別にして、最低限のワインの知識くらいは身につけておけ。海外からの客をもてなすこともある…フランス人のおまえが、シャトー・ラトゥールの名前も聞いたことがなかったら、失笑ものだぞ」
 ラトゥール君か。後でネットで調べてみようと、ルネは頭の中のメモに控えておいた。
「さて、耳の痛い説教はここまでにしよう。俺も、休日の夜にまで仕事モードで眉を吊り上げ、怒ってばかりいたくない…特に、その姿を前にしてはな」
 またしてもローランは、あの不可思議な熱っぽい瞳で、ルネを凝視した。見ていて少しも飽きないというかのごとく熱心に、満足そうにほくそ笑んで―。
「あの、ローラン…」
 落ちつかなくなってきたルネが、思い切って口を開きかけた、その時、何やら焦った足取りで店の奥から飛んできた、黒服の地位の高そうな店員の姿が視界の端に入ってきた。
「ムッシュ・ロスコー、ムッシュ・ヴェルヌ、ようこそおいで下さいました。予約時に一言おっしゃって下ったなら、別室にテーブルをご用意しましたのに…」
 ムッシュ・ロスコー? 店員が口にした、その名前を聞き咎め、ルネは訝しげに眉を寄せながら、その男からローランの方に視線を移した。
「ああ、支配人…いいんだ、今夜はそんなにかしこまった席じゃないからな」
「しかし、せっかくムッシュ・ロスコーが、当店においでくださいましたのに…」
 申し訳なさそうな支配人の目がルネに向けられ、それから、おやというような戸惑いの表情を浮かべた。
「紹介しよう…これからもこいつを伴ってこの店に来ることがあるかもしれないからな。俺の新しい秘書のルネ・トリュフォーだ」
「よ、よろしく…」
 ぎこちなく微笑むルネの顔を、支配人は、何かしら信じられないものを見るかのごとく眺め、再び恐る恐るローランを振り返った。
「あの…ムッシュ・ヴェルヌ、そ、それでは、この方は…?」
 はあっと、ローランが溜息をついた。
「そういうことで、余計な気遣いはなしだ、支配人。悪いが、2人きりにしてもらえないか…? 俺は、ルネとの会話を楽しんでいた最中なんだ」
 ローランが上品に眉を潜めて不興を示しただけで、蛇に睨まれた蛙のようにすくみ上がった支配人は、慌てて謝罪し、退散していった。
「何だったんですか、今の…」
「気にするな…支配人の勘違いだ。それより、さっき俺に何かを聞きかけただろう、いいのか…?」
 矛先を軽くかわされたような気はしたが、ルネはひとまず、その釈然としない思いは胸の中にしまっておくことにして、ずっと気になっていた、別の問いを投げかけた。
「あの…ローラン、どうして、僕にここまでよくしてくださるんですか? せっかくの休日を僕のためにわざわざ割いて…昼間の買い物だって最低限の準備どころか必要以上、髪形を変えたことに至っては意味不明ですし、いくらあなたが自分でスカウトしたからって…」
「どうした、嫌だったのか…?」
「嫌とか迷惑だという訳じゃないですよ、ただ理解できなくて…あなたのやることなすこと、戸惑うばかりで…」
「俺はおまえが気に入ったからというだけでは、理由にならないのか?」
 ルネの反応こそ、訳が分からないとでもいうかの如く、ローランは瞬きをした。
「あの短い休暇中、おまえを紹介された時から、どうしても気になって、欲しくなって仕方がなかった。だから昨日、俺を頼ってパリに出てきたおまえを見た瞬間は、胸の内で快哉を叫んだぞ。ルネ、俺がわざわざ自分でおまえに手をかけたがるのはな、おまえが俺の理想にとても近いところにあるからだ。だからこそ、刺激的なパリに暮らし始めて、そこにある余分なものまで吸収してしまう前に、俺の好みに合うように磨いてみたくなったんだ」
 ぽかんと口を開いて聞き入るばかりのルネに、ローランは悪戯っ子のように笑いながら、片目を瞑ってみせた。
「それにしたって、ほんの少し手を加えただけで、ここまで化けるとは思わなかったぞ。今のところは、俺の期待以上の出来だな…しかし、いくら外見を磨きたてた所で、それに内面が伴わなければ、すぐにぼろが出る。さて、お前はこれからどんなふうに変わっていくのだろうな、ルネ…これでも目は確かなつもりなんだが、どうか俺を失望させてくれるなよ…?」
 どくんと、ルネの心臓が胸の内で激しく打ち震えた。
(もしかして―これは、口説かれているのだろうか…? 理想に近いから欲しくなったとか、好みに合うよう手をかけるとか、直截的ではないけれど…いくら都会の男だって、仕事の延長で普通は言わないよね…?)
 ルネは動転しながら、震える手でキールのグラスを引っ掴み、一息に飲んだ。
(落ち着け…冷静になれ、僕は、確かに就職だけでなく恋のチャンスも掴みたくてパリに出てきたけれど、いきなり、こんな大物を一本釣りだなんて、いくらなんでも話がうますぎる)
 ルネはともすれば暗転しそうになる頭を無理にフル稼働させて、必死に考え続けた。これこそ理想の男だと憧れ続けたローランに、こんな嬉しいことを言われて一気に舞い上がらない自分が不思議だったが、とにかく胸の奥に引っかかりがあったことは確かだ。
(そうだ、この話、そもそもの初めから、何かおかしい。そりゃ、僕にとってとてもありがたい就職話であることには確かだけれど、ミラさんの代わりの秘書なら、僕みたいな田舎出の未経験者を一から仕込むより、パリで見つけた方が即戦力になるはずだ。ローランは僕を気に入ったと言ってくれたけれど、僕はそこまで目をかけてもらえるような特別な仕事を、あの短い期間中彼に対してした覚えはない…すると僕の外見が気に入ったということか。実際いじくりまわして好みに変えられた気はするけれど、手近な所に愛人めいた相手を囲っておくとか、そういう下心を仕事に持ち込むような人だとは思いたくない)
 ルネはすうっと息を吸いこんで気持ちを鎮めると、自分の反応をじっと窺う構えのローランを正面から睨み据えた。
「自分の理想に近いと言ってくださる僕のことを、あなたはどれだけ知っているというんです、ローラン?」
 挑戦的に問いかけるルネの態度に、ローランの目がほうとでもいうかのように目開かれ、口元が嬉しそうに綻んだが、さすがにそれを斟酌できるほどの余裕はルネにはない。
(ローランがどんなに僕のタイプで、彼に甘い言葉をかけられたらつい有頂天になってしまいそうでも…これだけはちゃんと言っておかなきゃならない。彼が僕にどんな理想像を期待し、押し付けようとしても、僕はそれだけでは収まらない。だって、今でさえ、僕には、この人には知られなくて履歴書にも書かなかった秘密や嫌われたくなくて用心深く隠している別の面がある。そんなことも知らないで、僕を簡単に変えられると思っているのなら…この人は僕を見損なっている)
 ルネはテーブルにばんと両手をついて立ちあがり、負けるものかとばかり、ローランを上から睨みつけながら、叩きつけるように言った。
「馬鹿にしないでください。僕は真面目に就職先を探してパリにまで出てきたんです、あなたの個人的なお相手をするために来たわけじゃありません。それに、あなたの好みにあうようお金で磨きたててくださるのは結構ですけれど、どんなに外見が変わったって、僕は僕です。僕以外に何ものにもなれませんし、僕自身が変わりたいと望まない限り、あなたの思い通りになんか、絶対なりませんからっ」
 ああ、言っちゃった。ルネはせっかくの就職も恋のチャンスもこれでふいにしたかなと思ったが、予想に反して、ローランの表情は楽しげで、満足そうだった。
 まるで、逆らわれて腹を立てるどころか、期待以上の反応をルネがしたことで、むしろ好感度が上がったというような…。
「そんなことは分かっているさ、ルネ…外見の印象や物腰がどんなに変わっても、おまえにはあくまでおまえのままでいてもらわなければならない。見た目だけを真似ようとして失敗した不自然で不細工なコピーなど、俺は求めない、いや…」
 ルネがずっと威嚇するように睨んでいるからだろう、ローランは神妙な顔をして、すまなげに付け加えた。
「今のは、俺の言い方が悪かった。許してくれ」
「ローラン…?」
 あっさりローランが引き下がったため、ルネはむしろ拍子抜けして、振り上げたこの拳をどうしたものかと迷った。
「まあ、落ちついて…座れ、ルネ、給仕が困っているぞ」
 ルネが脇を見やると、確かに料理の皿を手にした給仕が2人、テーブルに近づくタイミングが見つからずに途方に暮れて立ちつくしていた。
「あ、すみません…」
 この場の雰囲気に、何となく戦意を喪失したルネが素直に着席し直すと、給仕はすっと滑らかに動いて、テーブルの上に料理の皿を置いた。
「取りあえず、機嫌を直して、食事にしないか…? 料理は温かいうちにいただくものだ」
 子供に言い聞かせるような口調で、まだ怒りが収まらずに黙りこんでいるルネをやんわりたしなめて、ローランは優雅にナイフとフォークを取り上げた。
 それをちらっと見やって、ルネは唇を尖らせた。
(別に、食べ物で誤魔化されるつもりはないんだけれどな)
 ルネがはっきり拒絶の意志を示すつもりなら、ここはうやむやにせず、席を立って立ち去るべきなのかもしれない。ローランがこれ以上我を通して、ルネを力で押さえつけようとしたら、間違いなくそうしていただろう。
 しかし、物柔らかに頷かれて謝罪されれば、これ以上ルネが逆らう理由はなくなる。
 完全に納得したわけではなかったが、むきになって突っかかるのも子供じみているような気がしたので、ルネは不承不承、ローランにならって、食事を始めることにした。
(まあ、せっかく用意してもらった料理をないがしろにするのは、作ってくれた人に悪いよね…おばあちゃんに叱られちゃう…)
 与えてくださった神様と作ってくれた人に感謝しながら、出された料理はちゃんと残さず食べなさい。小さい頃近くに住んでいて、よく可愛がってもらったルネの祖母の口癖だった。
(これ、フォアグラのラビオリとか言ってたっけ。うちでは、フォアグラなんてクリスマスにしか食べないけど、薄く切って、それを焼いたパンにのせてがっつり食べるのが定番…)
 内心これでは食べた気がしないと思いながら、上品に調理されたラビオリの1つを口に入れた途端、ルネは目をまん丸く見開いた。
「あ…これ、美味しいっ…!」
 手が込みすぎて見た目では味の想像が出来なかったが、一口食べてみたら、その美味しさに、不機嫌だったルネの顔がぱっと花が咲いたように明るくなる。  
「ほお…初めは、こんな食べ付けないものには抵抗がある様子だったのに、口にあったようだな」
「はいっ。こんなに美味しいなら、クリスマスだけと言わず、時々食べたいくらいです」
自分が不機嫌になっていた理由もひとまず脇に押しやって、弾んだ声で正直な感想を述べるルネに、ローランが小さく吹きだした。
「単純な奴だな、おまえ…」
 ルネは口をもごもご動かしながら、少し照れた顔をした。
「だって…美味しいものは美味しいですから…」
 ルネは急に自分が凄く空腹だったことを思い出したように、夢中になって、その料理を咀嚼し、舌で味わい、飲み込んだ。
 ついさっきまであれほど腹を立てていたローランが呆れたように見ていることも気にならず、あまりの美味しさについ顔が綻んでしまう。
「人間は美味しいものを食べる時、一番幸せな顔をするそうだが…お前の顔を見ていると、その通りだとつくづく思うな。俺は、仕事が絡むと素直に楽しめないことも多いんだが…」
 ローランがそんな感慨を述べる間にも、ルネはもう食べ終わってしまって、小さく割いたパンで皿に残ったソースをぬぐってはせっせと口に運んでいる。
 マナーがいいかはさておき、料理を作った人間にしてみたら、客にこんなに喜んでもらえたら本望だと思うに違いない。
 そうこうするうちに、先ほどと同じソムリエが恭しく一本のワインを携えてやってきた。
「シャトー・ラトゥール1990年でございます」
 あ、噂のラトゥール君か。興味津々ルネが見守る中、ソムリエは細心の注意を払ってワインを抜栓し、ローランのグラスの中に、深い紫の液体を細く注ぎ込んだ。
 それだけでふわりと立ち上ってくるすごい香りに、ルネは鼻をひくひくさせた。もともと嗅覚がいいので、ワインに興味はなくとも、匂いには敏感なのだ。
「ルネ、今夜は、おまえに最高峰のワインを体験させてやるからな。これも勉強だと思って…」
 テイスティングをした後、このワインについてソムリエに何か尋ねていたローランが思い出したように声をかけると、もう待ち切れなかったルネは、グラスを持ち上げて口元にまで運んできていた。
「いい匂い…」
 ほんのり甘いカシスとベリー…胡桃とスパイス…雨上がりの森の中を歩いた時のような懐かしい香りも…。
 うっとりと眼を瞑って、ルネはそのままくいっと一息にワインを飲んだ。
「あ」と、見ていたローランとソムリエが思わず同時に声をあげてしまったくらい、物おじもせず、大胆に。
「嘘ぉっ。何、これ、物凄く美味しい…感動的…!」
 今度は、全身花畑の中にどっぷりつかったというくらい嬉しそうに笑って、ルネは美味しそうにくいくい喉を鳴らして、シャトー・ラトゥールを飲みほした。
「そりゃ、美味いだろうさ…ラトゥールだからな…」
 ローランは軽い頭痛でも覚えたかのようにこめかみを押さえて、幸せそうにグラスを持って溜息をついているルネを眺めていたが、やがて、おかしそうに肩を揺らして笑いだした。
「あいつと同じ顔でラトゥールを一気飲みしやがった…はは、駄目だ、変な笑いのツボに入ったぞ。ああ、ルネ…せめて、その味と香りはちゃんと記憶に留めておいてくれよ。さすがの俺も、おいそれとおごってやれる代物じゃないからな」
 ルネは不思議そうにぱちぱち瞬きして、テーブルに突っ伏してくっくっと笑い転げているローランを眺めた。
 確かに、ラトゥール君は美味しかった。目の前で新しい世界が開けたくらいの衝撃だったが、ルネがもっとショックを受けたのは、後日自分にも買えないかと思ってネットでシャトー・ラトゥールについて調べてみた時のことになる。



「今夜は、御馳走様でした、ローラン。とてもおいしかったです、料理もワインも…ワインについては、おかげで興味も湧いたので、ちょっと勉強してみようと思います。確かに、ラトゥールはいいきっかけになりました」
「…肝をつぶすだろうな、きっと―」
 思い出し笑いを噛み殺し軽く咳払いするローランを、ルネは不思議そうに見上げた。
 今、2人は、レストランを出て、徒歩圏内にあるホテルまでぶらぶらと歩きながら戻っている最中だ。タクシーで素早く移動してもよかったのだが、涼しい夜風に当たって酔いを醒ましたいと言ったのは、ルネだった。
(だって、もう少しだけ、この人と一緒にいたいから…)
 一時は、ローランの人の気持ちを顧みない強引で押しつけがましい態度と言い草に、ルネがつい反発せずにはいられなくなったため、彼との縁もこれで終わってしまうことを覚悟した。けれど、ローランが落ちついた態度で素直に謝ってくれたおかげで、ルネは振り上げた拳を下ろすことが出来たし、後は、美味しい料理とワインの力も借りて、険悪になりかけたことなどなかったように、打ち解けた時間を過ごすことができた。
(本当に、あのまま怒って席を立たなくてよかったな。あそこで帰ってしまったら、その後の楽しい時間はなかった訳だから…)
 そして、もう引き下がれなくなったルネは、この就職話はなかったものとして、実家に帰るしかなかった。せっかく思い切ってパリまで出てきたのに、仕事も恋のチャンスも両方ともふいにしたと後悔したことだろう。
(あの時は、ローランの思い通りになっちゃ駄目だと思って、意地になって拒絶した僕だけれど…もしかしたら惜しいことをしたのかもしれないな。いっそ、何も気づかない馬鹿のふりをして、誘惑に乗せられてみてもよかったなんて思ったりして…ああ、うっかり正直に自分の感情をぶちまけるものじゃない。逃がした魚はやっぱり大きいぞ)
 視界の横を流れていく車のライトに照らし出されるローランの綺麗な横顔をちらちら盗み見ながら、そんなことを考えて、ルネを切ない溜息をつく。
(下心を持って近づくなんて許せないなんて、僕には言えた義理じゃないのにね。別に誘惑されなくったって、とっくの昔に惹かれてた。ただ、うっかりこの人に捕まって、逃げられなくなるのは困るって…予防線を張ったんだ)
 ルネは絡みついてくる何かを振り払うかの如く頭を振った。
(ああ、何考えてるんだろう、僕…)
 先程からこんなふうに気持ちがゆらゆらとおかしな方向に揺らぐのは、ローランがまとっているコロンのせいだろうか。時間と共に変化して、今はオリエンタルな甘さと共にムスクに似たセクシーな香りが鼻腔をくすぐり、嗅いでいると、何だか怪しい眩暈に捕らわれそうになる。
(それにしても、ローランはこの僕をどんなふうに変えたいんだろう…? 愛人候補みたいな話は別にしたって、確かに、このままの僕じゃ、彼の傍について仕事をするにしても差し支えはあるのは認めるよ。立ち居振る舞いや言葉遣いひとつ取っても、僕は洗練とは程遠い、田舎出のぱっとしない男の子でしかない。でも、他人を自分の思い通りに作り変えようって発想自体、全くエゴもいいところで、むかつくじゃないか。それでも…ローランの理想がどういうものか、ちょっと興味はある…かな…)
 ルネは手を上げて、何気なく自分の髪に触れてみた。ふんわりと柔らかな金髪は、本来ルネが持っていたものではない。初めて見た時は絶対慣れないと思っていたのに、ローランに似合うと言われて嬉しくなってからは、うっかりその気になってしまったのか、早くも違和感が薄れてきたような気がする。
(ああ、僕って、他人の言葉に乗せられてその気になったり、流されやすい性質なのかな…? それとも、相手がローランだから、明らかな無茶や理不尽でも、つい甘くなって許してしまうんだろうか…?)
 それはちょっと問題だなと先行きに少々不安を覚えた時、ローランが急に足をとめたのに、ぶつかりそうになったルネは慌てて立ち止った。
「着いたぞ」
 ぶっきらぼうな声が告げるのに目を上げると、路地の向こうの明るい大通りに、ルネが泊まっているホテルが見えた
「ああ…」
 ルネはついがっかりしたような声を出してしまった。
「今日一日、僕に付き合って下さって、ありがとうございました、ローラン…」
 そう言えば、彼のことをローランと呼んでいいのも、きっと今宵限りだろう。週が明けて仕事に出るようになれば、上司と部下の間柄のこと、馴れ馴れしい態度は御法度だ。ならば、やはり必要以上にこの人と親しくならなかったことは、正解だったのかも―。
 そんな考えに捕らわれているルネの前に、ふいに影が落ちた。
「ローラン…?」
 反射的に上げた顔に指がかかったと思った、次の瞬間、素早く下りてきたローランの唇がルネの唇を覆った。
(あ…不意打ち…)
 とっさに喘ぐような息を漏らすルネの唇に、ローランは優しく触れ、確かめるように深く口づけた。
 途端にがくっと膝から力が抜けて、後ろによろめくルネを追うよう、ローランの手が背中に回り、再び唇が重なる。今度は一転、激しさを増して吸い上げられ、息をつく間も与えず貪られて、ルネは体の芯が甘く痺れるような衝撃に震えた。
 戦慄く歯列を割って潜り込んでくる、舌の熱さ。かかる吐息。
 何度も顔の向きを変えて、温かく濡れた唇を重ね、深く味わう、濃厚なキスは次第に噛み突くような荒々しさを増していき、ルネを翻弄する。
 抵抗することなど、思いつく間もなかった。
 一気に昂った気持ちに任せて、ルネはローランの体に腕を巻き付け、自ら口を開いて熱のこもったキスを受け入れる。
 ローランの手がルネの体を服の上から探っている。布地の下の小刻みに震えている肌の熱さや感触を確かめるかのように、ゆっくりと―。
 もうすっかり感情の堰が切れたルネは、夢中になって彼の唇に唇を押し付け、舌を差し入れていた。
キスの合間に苦しげに息を継ぎながら、くんと鼻を鳴らして嗅ぎ取ったのは、ウッディーでオリエンタルな香料の中に、ほのかに見え隠れする薔薇…ぞくぞくするようなムスクとバニラの甘さ…。
 逃げられないようしっかりと回された腕の中、密着させた体の熱によってローランの愛用のコロンが香り立って、ルネを包み込みこみ、どこまでも溺れさせようとしていた。
(このうっとりするような香りが好き…あなたがくれる甘くて熱いキスが好き…息がつまるほどぎゅっと抱きしめてくれるあなたの腕が好き…僕は、ローラン、あなたが大好き…)
 体の奥底から湧きあがってきた熱が全身に広がってくるのに、堪らず、ルネが切ない声を上げて、すがりつく手に力を入れようとした時、唐突に、ローランは彼の体を引き離した。
「えっ?」
 すっかり夢中になってキスに応えていたルネは、いきなりの中断に戸惑いながら、ぱっと目を開けた。息を弾ませながら投げかけた問いは、我ながら恥ずかしくなるくらい、甘く掠れていた。
「ローラン、どう…したんですか…?」
 当のローランは息一つ乱しておらず、動揺するルネを面白がるように眺めたかと思うと、澄ました顔をして無情にも告げた。
「それじゃあな、ルネ、俺は行くぞ…今夜はぐっすり眠って良い夢を見ろよ」
 は? これで終わり? ルネは愕然となった。
(まさか…嘘でしょ…?)
 信じられないように目を見開いて言葉もなく立ちつくしているルネに向かって、ローランは憎たらしいウインクを投げてよこすと、本当にさっさと背中を向けて大通り目指して歩き出した。
「ちょっ…と…」
 去っていくローランを引き留めようととっさに手を上げ、追いかけようとしたが、力の入らない体は足から崩れそうになり、ルネは慌てて、傍にあった街路樹にしがみついた。
 恥ずかしいことに、一端昂ってしまった体は、なかなか通常の動作することが困難なようだ。意識していた相手にあれだけ濃厚な接触をされたのだから、ルネが、その気になってしまったとしても仕方ないだろう。
 問題は、あんな不埒な行為を仕掛けた当人が、ルネを一方的にかき乱しておいて、無責任にもあっさり立ち去ってしまったことだ。
「一体どういうつもりなんだよ…人をここまで盛り上がらせておいて、いきなり放置だなんて、ひ、酷すぎる…悪魔だ」
 一体、あの情熱的なキスと抱擁はどういう意味なのか―ルネがレストランで彼の誘惑を拒絶したことへの意趣返しか、それとも単にからかわれただけか。
(なのに、僕は我を忘れて、夢中なって、あの人のキスに応えてた…)
 恥ずかしさと悔しさのあまり、ルネの目にはじわりと涙がこみ上げてきた。それと共に、猛烈な怒りが胸の奥底から突き上げてくる。
(あ…駄目だ、僕、切れそう、切れちゃう…頭に来すぎて、もう、くらくらする)
 ふつふつと怒りを滾らせるルネの震える手の下で、固く握り締めていた樹の枝がめきっと不穏な音を立てた。
(そうだとも、どうして、この僕が、ここまで他人に弄ばれ、こけにされなければならないんだ。いくらタイプだからって、一瞬でもあんな傲慢な男に心を許した自分が、いっそ憎い!)
 ルネは頭をかきむしって一声唸るやしがみついていた樹木からさっと飛びのき、転瞬、体を捻りつつぐんと回転をつけた足蹴りを自分が捕まっていた枝に喰らわせた。
 怒りにまかせた回し蹴りの破壊力は、我ながら凄まじい。どかっというような派手な音を共に、大人の腕くらいある枝は見事に裂けて、地面に落ちた。
 公共物を壊したりして、見つかったら通報ものかもしれないが、今のルネには、そこまで考える余裕がない。
「愛しさ余って憎さ百倍…どうしてくれよう、ローラン…!」
 逆上したルネは、手で涙を振り払い、ホテルの角を曲がって消えたローランを追って走り出した。このままの勢いで本当にルネが追いついていたら、きっと彼もあの街路樹と同じ運命を辿っていたことだろう。
 しかし、さっさとタクシーを見つけて乗り込んでしまったのか、ホテルの玄関前の大通りを行きかう人と車の中にあの長身の姿はなく、しばらくうろうろとその辺りを探しまわってみたのだが、結局ルネには見つけられなかった。
(ローランは帰ってしまったのか…ああ、全く、運のいい人だな。危ういところで、病院送りを免れたぞ)
 しばらくホテルの周囲をうろついているうちに、次第にルネの頭も冷え、それと共に戦意も喪失していき、そうするとやはり情けなさと惨めさだけが残った。
(僕は馬鹿だ…きっと、僕のうわついた気持ちが顔や態度に出ていたから、あの人がそれを見透かして、からかって遊びたくなったんだろう。だとすれば、そんな隙を見せた僕のせいなんだ…自業自得じゃないか)
 泣くに泣けないどん底気分のルネは、重い足を引きずるようにホテルに入り、頭をうなだれたままエレベーターに乗り込んだ。
 激情が去った後の胸の空白は、言いようのない悲しさに満たされて、ルネはともすればこぼれそうになる嗚咽を堪えるよう、きゅっと唇を引き結んだ。
(本当に酷い人だ、ローラン…僕をあんなに夢中させて、溺れさせて、いきなりぽいはないじゃないか…本気で好きになりかけたのに…)
 目的の階でエレベーターを降りたルネは、しょんぼり肩を落としながら、スーツのポケットに手を突っ込み、そこに入れておいたはずの部屋のカード・キーを探した。しかし、その指先に固いカード・キーが触れることはなかった。
「あれ…おかしいな、ここに入れておいたはずなんだけれど、どこかで落としたのかな…?」
 他のポケットに間違えて入れてないかと焦りながら探しまくっていたルネの脳裏に、ふいに、先程のローランとの熱烈なキスの場面が閃いた。
(あっ、そう言えば、あの時…)
 ルネが夢見心地でローランに抱き寄せられていた、あの時、そう言えばポケットの中を探られるような気配がしなかったか…?
(まさか)
 ルネは愕然となりながら、何かを探し求めるかのごとく、辺りをゆっくりと見渡した。
 すると、ごく仄かな甘い香りが自分の部屋へと続く廊下に漂っていることに気づいて、ルネは鼻をくんと鳴らした。
(ああ…この香り、いつどこで嗅いだものか、僕はもう絶対に忘れない)
 呆然となってしばし視線を廊下の向こうにあてていたルネは、やがて、ゆっくりと確かめるような足取りで歩きだし、少しずつ歩調を早めて、最後はほとんど走り出していた。
 香りと共に蘇る甘く艶めいた記憶に、胸の鼓動が速くなり、体も熱くなる。
角を曲がった所で、ルネは前につんのめったように立ち止り、思わず頭を抱えて低く呻いた。
「やっぱり…!」
 ルネは続く言葉をなくして立ち尽くし、呆然と廊下の先を眺めた。
(もう、腹が立つやらおかしいやら、何がなんだか訳が分からない…!)
 がっくりと頭をうなだれ、困ったように手で金髪の頭をかき乱しながら、苦笑混じりに呟く。
「何がやっぱりなんだ、ルネ?」
 笑いを含んだ低い声が呼びかけてくるのに、ルネは観念したように再び顔を上げた。
「人をからかうのはいい加減にしてくださいよ、ローラン…」
 ルネが恨みを込めて訴える先には、彼の大好きな香りの主が部屋の前に悠然と立ちはだかっていて、指先に挟んだ部屋のカード・キーをこれ見よがしにひらひらさせていた。ルネと抱き合ってキスを交わしていた時に、やはりポケットからすり取っていたのだ。
「子供みたいな悪戯はやめてくださいっ」
 ルネが頬を膨らませて怒ると、ローランはますます笑みを深くして、首を僅かに傾げた。
「…それで?」
 ルネは、うっと言葉に詰まった。
「それでって…だから―」
 何を言い淀むことがあるのだろう。馬鹿馬鹿しい真似はやめて、そのキーを返して下さい、部屋に入れないじゃないですかとでも言い返せばいいのだ。
 ルネが本気で怒れば、ローランだって、いつまでも大人げない悪ふざけはしないだろう。いざとなれば実力行使、先程の恨みも込めて、その男前の顔に一発喰らわしてやってもいい。
(でも、実際の所、僕はどうしたいのだろう…キーを奪い返して、この人を追い帰したいのか、それとも…?)
 部屋のドアにもたれかかりゆったりと腕を組んでルネの答えを待つ構えのローランを半眼で睨み据えながら、ルネは自問した。
(一瞬前だったら、僕はこの人を見るなり、掴みかかっていただろうけれど、今は何だかそんな気もそがれてしまったし…全く、自分がさり気なく命の綱渡りをしていたことも知らないで、いい気なものだな。僕がその気になれば、いつだって簡単に叩きのめせるのに…)
 しかし、自分は絶対にそんなことはしないだろうということも、ルネには分かっていた。どんなに腹が立ってもローランには指一本上げられないし、格闘技の才能を隠し持っていることも知られたくない。
(惚れた弱みってやつかぁ…困ったことに…)
 ルネは天を仰いで溜息をついた後、腹をくくって、まっすぐローランに近づいて行った。
 ルネの顔はまだ固かったが、それでも内心の微妙な変化を感じ取ったのだろうか、ローランはもたれかかっていたドアから離れ、彼を通すような仕草をした。
「あの…ローラン…」
 ルネは自分の部屋の前に立つと、勇気を出して、ローランの顔を近々と覗き込んだ。一瞬、その深緑の瞳にどきりとなる。強く意志的で、ねっとりとまといつくような、熱い眼差し…。
「へ、部屋の中は、今日の買い物の荷物が開きっぱなしで、散らかっていますよ。待ち合わせの時間直前に慌てて飛び出してきた、そのままですから…それでもよかったら、寄っていって下さい」
「ああ」
 その言葉に、ローランは満足げに目を細めて微笑み、ルネの差し出した手にカード・キーをそっと乗せた。
(たぶんローランは、今夜僕をみすみす逃がす気なんて、なかったんだろうな。僕が彼のやり方に腹を立てて少しくらい逆らった所で、それも想定の範囲内か…さながら、今日一日僕をどこに連れ回し、どういう段取りで手を加えて変身させるか、いかに僕を誘惑して夢中にさせて…最後の仕上げとばかり、自分のものにしてしまうかまで、全て予め立てていた筋書き通り…)
 ルネが悩ましげに眉を寄せて考え込んでいたからだろう、ローランは、キーを返した、その手で彼の手を乱暴に握りしめた。
「ルネ、真剣に悩んでいる最中悪いが、俺は気が短いんだ。これ以上ぐずぐずと待たせるようなら、問答無用で部屋に連れ込んで襲うぞ」
「は…はいっ」
 獰猛に歯を剥いて凄んでみせるローランに、ルネは慌ててドアに向き直り、カード・キーを使ってロックを解除した。こんな理不尽な命令にも、反射的にもう体が動いてしまうあたり、既に彼にしっかり手綱も心も掴まれてしまっているような気がする。
(全く、パリに出てきてすぐに仕事も恋も見つかったのはいいけれど、万事がこの調子では、先行きが不安…)
 また少し思案の淵に沈み込みかけるルネに痺れを切らしたローランは、「遅い」と一喝、解錠されたドアを自分で開いて、彼の体を抱きかかえるようにして部屋の中に強引に押し入った。
「ちょ…ちょっと待って下さい、まだ片付けもしてないし、心の準備が…」
「うるさい、ベッドさえ空いてりゃいいだろうが…今更生娘みたいにうろたえるな」
 仰天したルネの悲鳴と抗議の声を塞ぐよう、ローランは両腕で彼を深々と抱きしめながら、キスをする。
 たちまちルネは、くたっとおとなしくなった。
(ああ、さっきと同じだ。僕を抱きしめる腕の強さも熱っぽいキスも…それに、この香り…あのまま放置じゃなくてよかったと僕は思うべきなのかな? 素直に喜ぶには、やり方が酷すぎるけれど…)
 先刻路上で交わしたキスと抱擁の続きを、ルネは戸惑い、釈然としない思いを抱えながらも、結局は受け入れ、許していった。
(僕は、こんなつもりで、パリに出てきた訳じゃあなかったのにな)
 そう、捕まって逃げられなくなるのは困ると予防線を張っていたにも関わらず、気がつけばルネは、ローラン・ヴェルヌにどっぷりはまってしまったのだ。 




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