花束と犬とヒエラルキー
第1章 ボーイ ミーツ ボーイ

 大学時代を過ごし、慣れ親しんだクレルモン・フェランで就職先を見つけるというルネの希望は、無残にも打ち砕かれた。
 一端正社員として就職してしまえば手厚い福利厚生が受けられるものの、そこにたどり着くまでが大変なのが、この国だ。おまけに何の職業経験もない学生の就職事情は、こと地方都市においては厳しい。
 卒業して約二カ月間、実家に頼りながら仕事先を探していたが、ついに万策尽きたルネは、大事に自分の部屋の机の引き出しにしまっておいた、あの男のビジネス・カードを引っ張り出した。
(田舎を飛び出して、別の世界に飛び込んでみれば、思いもよらないチャンスが掴めるかもしれないぞ?)
 あの時は戸惑い怪しみながら聞くしかなかったローランの声が、さすがにここまで追いつめられると、天啓めいて胸に蘇ってくる。
(都会暮らしは合わないなんて決めてかかっていた僕だけれど…もしかしたら本当に、チャンスが掴めるだろうか…? 未知の世界に出ていけば、仕事だけでなく、きっと新しい出会いだってあるだろうし…)
 実は、だらだら付き合っていた彼氏とも卒業後すぐに破局を迎えていたルネは、心機一転、新しい恋を初めてみたい気分にもなっていた。
 しかし、こんな田舎で新しい同性の恋人を見つけるのはなかなか難しい。そういう発展場もどこかにあるのかもしれないが、同性愛者だということをあまりおおっぴらにはできない雰囲気も、どちらかと言えば閉鎖的なこの土地にあることも確かだ。今はやりのインターネットを通じて出会いを求めるのも、年の割に古風な所のあるルネには抵抗がある。
(要するに、このままここに暮らしていたら、例え就職先が見つかったって、新しい恋が見つかる可能性はもっと低いってことなんだ。それって、すごく不幸なことじゃないか。僕だって、誰かを好きになって、その人のために何かしてあげたい…その人に、可愛いとか言ってもらって、大事にしてもらいたい…ううん、自分で考えていて何だか恥ずかしくなってきたぞ)
 独り身の寂しさのあまりにルネが短絡的に思いついたのが、こういう結論だ。
 パリでなら、新しい恋も見つかるかもしれない。
 時代の先端を行く大都会ならば、同性愛者だってたくさん生息していそうだ。人口密度からして田舎とは違うのだから、好みの男と出会う確立もきっと高いはず。
 ルネの理想の頂点に今のところいるのは、短い春の日々に出会って別れたローランだったが、田舎からぽっと出てきたルネごとき垢抜けない若者を、彼が本気で相手にしてくれるとは思えない。だから、彼を恋のターゲットにしようなんて、高望みはしない。
(ローランはガイドとしての僕の仕事ぶりを気に入って、あんな親切な申し出をしてくれたんだ。それを、変なふうに解釈してはいけない。大体、彼が今でも、あのたわいもない約束を覚えていてくれるかも、定かじゃないのに…)
 最悪、軽くあしらわれて追い返されるのがオチかもしれない。それでも―。
(何も行動を起こさないよりは、思い切って前に出て玉砕した方がまだましだ。昔、柔道教室の先輩がよく言ってたじゃないか、とにかく前に出て勝ちを取りに行けって…)
 まだ高校生だった頃、淡い恋心を抱いていた兄弟子ことを思い出しかけたルネは、慌てて、その思い出を頭から振り払った。
 初恋の人に振られた経験は、ルネにとって、かなりのトラウマになっている。おかげで自分に対して自信をなくし、恋にも消極的になってしまった。
 やっと恋人を見つけても、相手に嫌われたくなくて、自分の本当の気持ちは隠したり、嫌な面はなるべく見せないよう、変に気遣ったりする癖が出来てしまった。
(ローランは…僕が本性見せたら、やっぱり引く方かな…? ああいう男としてのプライドの高そうな人は、僕みたいなのが自分の傍にいるときっと落ちつかなくなるだろう。だから、やっぱり内緒にして、履歴書にも書かないでおこう)
 ルネは、机の傍の棚や壁にずらりと並んだ、格闘家としての自分の輝かしい戦歴を示す、トロフィーや表彰状を複雑な気分で眺めやった。
 十年に一度の逸材だとか騒がれて、世界大会やオリンピックも夢じゃないなんて周りにおだてあげられその気になりかけたこともあったけれど、武道の才能は望むような幸せを自分にもたらしてはくれないのだと気付いた時、その道を極める夢は断念した。
(そうだ、今までの僕はみんなここに置いていこう…過去は忘れて、新しく生まれ変わった気持ちで、パリでの生活を始めるんだ…!)
 秋も深まりつつあった頃、無理矢理奮い起した希望と勇気で先行きの見えない不安感を一掃して、ルネはパリへと旅立った。



(えっと、カードに書かれた住所からするとこの辺りのはず…あ、見つけた…!)
 友人も親戚もいない大都会に単身出てきたルネは、その足でまっすぐビジネス・カードに書かれた住所を頼りに、ローランが副社長を務める会社『ルレ・ロスコー』に向かった。
 この日までに何度かオフィスに電話をかけてアポを取りつけようとしたのだが、応対に出た女性は冷たく取り付く島もない態度で、副社長はお忙しいからと取り次いではくれなかった。しつこく食い下がって伝言を託してはみたけれど、あの雰囲気ではちゃんとローランの耳に入っているかどうかも怪しく、実際、待てど暮らせど連絡が入ることはなかった。
(ひょっとしたら、僕からの伝言をローランはちゃんと聞いていて、あえて無視しているのかもしれないけれど…あの時の約束を本気で信じた馬鹿の相手なんか面倒臭いってことなのか。でも、それも、田舎で待っているだけでは確かめようがない)
 だから、直接ローランを訪ねて、話をしてみようと決めたのだ。それで駄目なら、諦めもつくだろう。
「ルネ・トリュフォー…? その名前は、今日の面談の予定には入っていませんねぇ」
 ビルの受付で確認し、上がっていった最上階。応対に出てきたローランの秘書だという女は、あからさまに見下すような高慢な態度で、ルネを頭の先からてっぺんまで眺めまわし、つけつけと言った。おしゃれな眼鏡をかけた、なかなかの美人だったが、その嫌みな口調に、間違いない、電話対応をした女だと、ルネには分かった。
「分かっています。それを承知で、何とかムッシュ・ヴェルヌにお会いしたいんです…ほんのわずかな時間でもかまいませんから…」
「ムッシュは大変過密なスケジュールで動いてらっしゃいますから、どこの誰とも知れない人との面談を無理矢理入れる訳にはいきません。大体、どうしても面会したいというのならが、予めちゃんとアポを取ってから会社訪問するべきでしょう。いきなりここに押しかけるなんて、迷惑で非常識な行為ですよ?」
「だから…!」
 ルネは切れそうになるのをぐっと堪えて、辛抱強く頼み続けた。
「何度も僕はお電話をしました。伝言も残しました…」
「それで何の音沙汰もないのであれば、あなたの面会希望は拒否されたと思うべきではないのかしら…? この頃多いんですよ、アカデミー・グルマンディーズの大天使がここの社長に就任してから、彼目当ての変な追っかけさんが、就職面談希望って口実で、強引に押し掛けてくるのって…ううん、追っかけならまだしもストーカーみたいな人も中にはいて、まともに対応していては社の平常業務に差し支えると、私達は大変迷惑しているの」
「アカデミ…何…?」 
 何の話かさっぱり分からないルネは、目をぐるぐる回した。
「えっと…僕の目当ては、社長さんじゃなくて、副社長のローラン・ヴェルヌ氏なんですが…?」
「同じことでしょう、あの二人は一心同体なんだからっ」
 うんざりしたように秘書の女が吐き捨てた時、部屋のドアが前触れもなく大きく開かれた。
「何の騒ぎだ、ミラ、おまえのキンキン声が廊下にまで届いていたぞ」
「あら、おかえりなさいませ、ムッシュ…随分とお早かったんですのね、ご予定ではまだ商談の最中かと…」
「物別れに終わったんで、早くに体が空いたんだ…」
 どこか不機嫌そうに、ぶっきらぼうな言葉を紡ぐ、張りのある低い声。
 コツコツと固いフローリングの床を叩く靴音が、硬直しているルネの後ろから近づいてくる。
 それと共に、ふわりと漂ってきたコロンが、ルネの心を捕えた。ピリッと引き締まったスパイスの香りの中に、うっとりするような優しい甘さが隠れている…いつか嗅いだ事のある、懐かしい匂いだ。
「ああ、丁度よかったですわ、ムッシュ…困っていましたの。この子がいきなり押しかけてきて、あなたに会いたいとしつこく食い下がるものですから…ルネ・トリュフォーと名乗っていますけれど、ご存知ですか?」
「うん、誰だって…?」
 ルネは反射的に、声のする方を振り返った。
(ローラン…!)
 間違いない、ローラン・ヴェルヌが、そこにいた。
 しかし、ルネが出会った休暇中のローランとは、少し雰囲気が変わっていた。
 着る人を選びそうなピアノブラックのスーツを見事に着こなし、艶やかな黒い髪は綺麗にセットしてあるし、滑らかな顎には無論無精ひげなど残ってない。端正な顔は厳しく引き締まり、覇気に溢れて輝く緑の瞳は見る人を射抜く―ちょっと緩んだオフ・モードのローランもよかったが、オンの時の彼は、当社比で二割増し、物凄く格好がいい!
(どうして、この人は、こんなに…僕の好みのど真ん中を突いてくるんだ…!)
 思わずふっと気の遠くなりかけたルネの手を、ローランがとっさに掴んで、その体を支えた。
「おい、ルネ、大丈夫か…?」
 ローランがちゃんと自分を覚えていてくれたことにも、ルネは感激のあまり、息切れしそうになった。
「すみません、血圧と心拍数が一気に上がって…立ちくらみが…」
「…何か持病でもあるのか?」
 言葉にならずふるふると頭を横に振るルネを抱え込むようにしながら、ローランは自分の部屋のドアを開いた。
「おい、ミラ…取りあえず、こいつにミネラル・ウォーターでも持ってきてやってくれ」
「まあ、ムッシュ…暇が出来たからって、そんな若くて可愛い子を昼間から自分の部屋に連れ込むものではありませんわよ」
 鼻息混じり、あからさまな嫌みを言うミラを、ローランは憎々しげに睨みつけた。
「馬鹿、誤解を招くような発言をするな。丁度俺の体が空いててよかった…こいつが落ち着いたら、面接をする」
「あら…本当に、面接の約束がありましたね? でも、今から募集をかける予定の仕事というと…」
「そうだ、おまえの後任の秘書職だ! 分かったら、その毒舌は封印してくれ…産休に入るまでの短い期間に、おまえにはこいつを仕込んでもらわなきゃならんのだからなっ」
「まぁ…」
 ミラは一瞬絶句して、どこか疑いのこもった眼差しをローランの腕の中でぐったりしているルネに注いだ。
「それが本当なら私も嬉しいですけれど、その可愛いらしい男の子に、あなたの秘書が務まるほどの但力が備わっているのかしら…? 私以外の秘書は皆、最短一日でここから逃げ出して行ったのに…」
 ローランはミラの嘲るような声を遮って、苛立たしげに副社長室のドアを叩きつけた。
「すまんな、ルネ…あいつは、仕事はできるんだが、人当たりがきつくてな。まあ、あれくらい性格が強くないと俺の秘書は務まらんのかもしれん。今まで雇った他の連中は、すぐに辞めていったからな…」
 かなりの広さがある黒い革張りのソファに座らされたルネは、やっと人心地ついた気分で、前の席に腰を下ろすローランを振り返った。
「いきなり押しかけてきて、こんな騒ぎを起こしてしまって、申し訳ありませんでした、ムッシュ・ヴェルヌ。なかなかあなたと連絡がつかないことに焦って、思い切って、パリまで来てしまいました」
「いや…ミラの奴が、ちゃんと俺におまえのことを伝えなかったのが悪い。あいつめ、子供が出来て、やっと俺との縁が切れるとでも思ったのか、以前にも増して遠慮なくやりたい放題でな。妊婦を興奮させてはいかんから、俺もあまり厳しくは言えん、許してやってくれ」
 ローランはルネをじっと見つめ、懐かしげに笑った。
「あれから四ヶ月か…パリに出てくる決心がつくまでに随分時間がかかったものだな、ルネ。俺はてっきり、おまえは俺の言葉など忘れて、地元で仕事を始めたのだろうとばかり思っていたぞ」
「いえ、そのつもりだったんですけれど、思った以上に就職事情は厳しくて…ご迷惑かも知れないですけれど、あの時のあなたの言葉を信じて、頼ってみる気になったんです」
「そうか…間に合ってよかったな、これ以上決心がつくのが遅れていたら、ミラの後任の秘書は見つかっていて、おまえの入りこむ余地はなくなっていた所だぞ」
「秘書…」
 ぼんやりと呟いた時、ミラがミネラル・ウォーターのグラスと一緒にコーヒーを運んできた。ルネに対してした仕打ちに対する後ろめたさなど微塵も見せず、彼女は緊張する彼の前に飲み物を置き、立ち去り際、そっと耳打ちをした。
「あなた、この人の口車に乗せられないで、自分がする仕事について聞くべきことはちゃんと聞いておきなさいよ。秘書なんて、聞こえはいいけれど、大変な仕事なんだから…ムッシュ・ヴェルヌはとにかく難しい人ですからね」
 ちっと舌打ちしたのは、ローランだ。
「あの…さっきから当たり前のように話が進められていますけれど、これが面接ならば、初めにはっきりさせてください」
 ルネはしばらく考え込んだ後、気持ちを引き締め、身を乗り出すようにしてローランに尋ねた。
「あなたが僕に親切にも申し出てくださっている仕事というのは…ミラさんの後を任される、あなたの秘書職なんですか…?」
「ああ、その通りだ。何だ、そんな妙ちくりんな顔をして…」
「あ、いえ…にわかには、信じられなくて…確かにあなたは僕を悪いようにはしないと言ってくださったけれど、たぶん知り合いに任せるとか…この会社に入れたとしても、僕みたいな大学を出たばかりの未経験者に、まさかあなたの秘書なれなんて言われるとは夢にも思ってなかったんです」
「確かに、おまえは何の経験もなければ、職業訓練も受けてない。だから、当分の間は、見習い…研修生扱いになるな。実務はミラが教え込んでくれるが、その他のことは、おまえが自分の時間を割いてでも学び、身につけてもらわなくてはならない。そうだな、取りあえず、夜間の秘書コースがある専門学校に入ってもらおうか、その学費は社が負担しよう」
「は、はい…」
 ルネはあまりに早い話の展開にめまいがしそうになりながらも、必死についていこうとしていた。
「その他に、僕が自分で準備できることは何でしょうか、ムッシュ…?」
「そうだなぁ…いずれは、俺に付き合って、社長、重役クラスの人間と接する機会も多くなる。立ち居振る舞いや言葉遣い…お里が知れるような方言は論外だぞ。その場にふさわしいマナーも身につけろ、それから…」
 ローランは腕を組んで、ルネの姿をじっと観察しながら、渋い顔で何事か考えを巡らせている。
「ああ、確かに、おまえには手を加えなければならない個所がたくさんあるな。そのまま人前に出せば、俺が恥をかきそうだ」
 田舎者と言外に決めつけられたようで、ルネはしょんぼりとうなだれた。
 それから、ローランは、より実際的な条件について、あれこれと書類を持ってきて説明した。本当は、こういうことは人事の担当なのだそうだが、ルネの場合は、彼が自分で引っ張ってきたのだから、特別扱いなのだろう。
 小一時間ばかりの面接の後、資料や書類をどっさりもらったルネは、取りあえず、オフィスを去ることになった。忙しいローランには、次の予定が控えている。
 最悪このままパリからとんぼ返りするつもりだったため、ホテルも取っていなかったルネのために、ローランは近くに宿を取ってくれた。ありがたいことに、宿泊費も会社持ちにしてくれるそうだ。
「本来なら、仕事が終わったら、食事に連れて行ってやりたいところなんだが、今夜はどうしても外せない約束があってな。1人で大丈夫か、ルネ?」
「はい、どうかお気遣いなく、ムッシュ…パリには不慣れな僕ですけれど、子供じゃないんだし、1人で食事くらいできますよ。食べることにあまりこだわりはないですから、その辺りのファースト・フードで適当に済ませるか、デリで何か買ってきてもいいですし…」
 ルネの何気ない言葉に、なぜかローランはちょっと不快そうに眉をしかめたが、その理由は語らなかった。
「それならいい…今夜は、ゆっくり休んでおけ。明日からは、まず住む場所を探して、他にも色々必要なものを揃えなければならないだろう…? それとも、取りあえず、一度実家に帰って必要なものを持ってきがてら、家族に就職が決まったことを伝えたいか?」
「あ、いえ…家族には電話で伝えます。荷物も、急いで持ってこなければならないものはありませんから、後日送ってもらいます。仕事に必要なスーツなどはこちらで買い揃えた方がいいと思いますし…」。
 ローランの手にかかると話が進むのがとにかく速くて、田舎で悶々と就職浪人生活を送っていたのが嘘のようだったが、一方で、ルネが深く考えられる余地もなかった。
「よし、では、明日の土曜日は、おまえの新生活の準備に俺も付き合おう…アバルトメンは知り合いの不動産屋を紹介してやる」
「えっ、いいんですか? あなたのプライベートな時間を僕のために削っていただいたりして、何だか申し訳ないです」
「俺の言葉を信じて、おまえは勇気を奮い起して故郷を飛び出しここまで来た。その心意気に、報いてやりたいと思うからさ、ルネ。それに、おまえは俺の秘書になるのだろう?『俺のもの』に俺が自分で手をかけて、何がおかしい…?」
 何がそんなに楽しいのかほくそ笑んでいるローランを、素直なルネは、何ていい人なんだろうと感謝の気持ちをこめてうっとりと見つめるばかりだ。
 その会話が耳に入ったのか、それまで無視する構えで自分のデスクに座って黙々と書類の整理をしていたミラがげっと呟き、頭痛を覚えたかのように額を押さえたのが視界の隅に見えたが、ルネにはその意味が理解できなかった。
 そして、翌日―約束通り、ローランはルネを迎えに、車でホテルまでやってきた。
 休日なので、ローランもカジュアルダウンした着こなしで、解放感からか、ルネに対する態度も昨日より親密で打ち解けたものになっていた。
(何だか、ローランと出会った、あの短い休日を思い出すな。雇ってもらえて上に、こんなふうに親しく付き合ってもらえるとは思っていなかった)
 初めはそんなふうに無邪気に喜んでいたルネだったが、やがて自分の甘さを痛感することになる。
 まだちゃんとしたスーツも持っていないルネを、ローランは、最初に紳士物のブランド店に連れて行った。
 親切な店員にあれやこれやと勧められても、スーツなど買ったこともないルネが迷っていると、見ていて苛々したのだろう、ローランが代わりに選んだ一着を彼の手に押し付けた。
「スーツひとつ選ぶのに、そんなに時間がかかっていたら、あっという間に日が暮れるぞ」
 シャツとネクタイも店員の手からひったくるようにして選び取り、ルネに渡して、さっさと試着してくるよう、彼は命じた。
(ううん、でも、ここの服ってどれも、結構高いよね。あの人の秘書として仕事をするなら、やっぱりここいういいものを持っていた方がいいんだろうけれど、大学を出たばかりの僕にはきついかな…スーツだけでなく、靴や小物も必要だし、カード払いにしたとしても…)
 試着室に入ったものの、スーツについている値札が気になって下着姿のままルネがぐずぐずしていると、何の前触れもなく、シャッと音を立ててカーテンが開かれた。
「おい、ルネ」
「ムッシュ…な、何…?」
 別に下着姿を見られたからといって、女の子のように恥ずかしがることはなかったのかもしれないが、とっさに怯んで、もじもじと体を引っ込めるルネに、ローランは無造作にもう一着スーツを突きつけた。
「これも着てみろ」
「は、はい…」
 これも高そうだなと頭の中で電卓を叩きながら受け取るルネを見て、呆れたようにローランは呟いた。
「値段のことばかり気になって選べないって様子だな、やれやれ…」
「すみません…しかし、正直言って、僕にはきついことは確かですよ。あまり貯金もありませんし、新生活を始めて最初のお給料をもらうまで、どうやって乗り切ろうかと考え出すと…」
「なら、ここは俺のカードで払っておくから心配するな。経費扱いという訳にはさすがにいかないが、最低限の支度をさせてやるのは、おまえを故郷から呼び寄せた俺の責任だからな」
「そ、そこまで、あなたにしてもらう訳にはいきませんよ」
 当惑するルネの眼前に指を突き出して黙らせると、ローランは面倒くさいとばかり、強引に押し切った。
「その代わり、俺に全部決めさせろ。お前の好みがどうこうと言うのは抜きだぞ」
「はぁ…僕は、あまり着るものにこだわりはないし、フォーマルなものは特によく分からないので、それは構いませんが…」
「よし」
 その答えを聞いて、ローランはやけに嬉しそうに目を細めてにっと笑い、ルネの手から先程よこしたスーツを取り戻した。
「なら、もう試着もせんでいいぞ、時間が惜しいからな」
「え、でも…」
「大丈夫だ、おまえのサイズなら、もう分かった」
 ローランはルネの下着姿にちらっと目を向け、ちょっと蔑むような表情をした。
「…次は、アンダー・ウェアを買いに行くか。おまえな、服の下につけるものにも、少しくらい気を使え。いくら可愛くても、脱がしてみた時にそんな田舎のおっさんみたいな下着だったら、はっきり言って興醒めだ…萎えるぞ」
 田舎のおっさん?! ルネはショックのあまり返す言葉もなく、試着室のカーテンが素っ気なく閉じられた途端、床にへなへなと座り込んでしまった。
(そうか…下着に凝ったり勝負下着を選んだりというのは女子にのみ許された特権かと思っていたけれど、ち、違うのか…? いや、別に男なんだからいいじゃないか、どうせする時は脱ぐんだから同じじゃないか…! 確かにスーパーの安売りで買ったものだし、おまけにそろそろ古くなって捨て時かもしれない…そう言えば、実家の父さんも似たようなのをはいてた…ああ、確かに田舎のおっさんだ…)
 タイプの男に馬鹿にされたことでしょげかえってしまったルネは、その後はすっかりおとなしくなって、ローランの好きなように連れ回され、下着はむろん、靴や腕時計やバッグなど彼の見立てで次々と買い与えられていった。 
 それらが自分に似合うものかどうかも、ルネにはよく分からなかったが、少なくとも、ローランが自分に着せたいと思うものであることは確かだ。彼は予め宣言していたように、ルネの意見を求めることなど一切なく、慣れた態度で店員を手際よく使いながら、次々に欲しいものを見つけ出していく。
(そう言えば、昔テレビで、『プリティ・ウーマン』って映画を見たなぁ…ジュリア・ロバーツ演じる、田舎出のどこかうぶなところのあるコール・ガールがリチャード・ギア演じる実業家に拾われて、すごく洗練されたレディに変身していく…こんなシーンが映画にもあったっけ。まさか男の身で、ジュリアの立場に立たされるとは思ってもみなかったけれど…)
 ちなみにルネは、ジュリアよりむしろリチャード・ギアがタイプだったから、映画のことも覚えているのだ。
 ローランが即断即決してくれたおかげで、買い物は予定よりも早く終わったが、彼はまだルネを解放してくれなかった。
 カフェで軽いランチを取った後、ローランはルネをこれまた高級そうなヘア・サロンに連れて行った。
 何事が始まるのかと不安に思うルネを椅子の上で待たせて、馴染みらしいスタイリストとしばらく相談した後、ローランは戻ってきた。
「ムッシュ、僕…こんな所で髪を切ってもらったことはありません」
 待ちかねたように心細さを訴えるルネの頭をローランは宥めるように撫でながら、優しく言い聞かせた。
「そんな情けなそうな顔をするな、ルネ。トニーは腕のいいスタイリストだから、安心して彼に全てを任せて綺麗にしてもらえ…この伸びっぱなしの髪を切って軽くパーマをあて、色も明るくしたら、人目を引く華やかな印象に変わるぞ」
 当然のようにかけられたローランの言葉に、ルネは我が耳を疑った。
「えぇっ? カットだけでなく、パーマやカラーもですか? そ、そんなことまで必要ありませんっ」
 動揺して椅子から立ち上がりかけるルネの肩に手を置いて、ローランは、今度は一転、微かな凄みのこもった低い声で囁いた。
「ルネ…ルネ、おまえのコーディネイトは俺が全部決めるという約束だったろう…? 俺はな、自分の好みに合うものしかもう傍に置きたくないんだ。ミラは仕事ができるからと割りきって使ってきたが、あれは例外だ。まあ、おまえがどうしても拒むというなら、無理強いはできんがな」
「う…」
 言葉の裏に秘められた得体のしれない圧力に、ルネは怯んだ。何と言っても、ルネはローランの好意で仕事を世話してもらった弱い立場だ。
(だからって、これじゃあ、まるでパワハラじゃないか。リチャード・ギアは、嫌がるジュリアに髪の色まで変えさせて、自分の好みを押し付けようとはしなかったぞ)
しかし、ここまで来て、せっかく掴みかけた就職のチャンスを逃がしたくはなかったルネは、結局折れた。
「分かりました…奇天烈な髪形にされるのでなければ、もう、何でもいい…好きにしてください!」
「よし、いい子だ」
 やけっぱちの気分で叫ぶルネを愉快そうに見下ろして、ローランはあっさり告げた。
「では、俺はひとまず帰るぞ」
「えっ…それじゃあ、僕はどうすれば…?」
 つい不安に駆られたルネは、すがるような目でローランを振り仰いだ。その顎に指をかけ、ローランは穏やかなのに有無を言わせない口調で囁いた。
「おまえの荷物は、俺がホテルまで届けておいてやるから、後は夜までお前の好きにしろ。今夜はディナーに連れて行ってやるからな…今日買ったものから適当に選んで身につけ、七時にホテルのロビーに下りてこい…いいな?」
「は、はい、七時にロビーですね。…ありがとうございます、ムッシュ」
 昨夜は結局部屋でテレビを見ながら近くで買った中華をかっ込んだだけのルネなので、ローランと2人、ゆっくりと会話を楽しみながらの食事ができるのは、これだけ色々な目にあわされた後だというのに、やはり嬉しかった。
 その後、三時間ほどかけて、ルネはスタイリストのトニーの手にかかって、カット、カラーにパーマとフルコースを受けさせられた。
 床屋の椅子にこんなに長時間座った経験などなかったルネは、途中から爆睡していたため、自分の変身の過程はほとんど見ていない。
 勝手のよく分からない場所にばかり連れ回されて、緊張もしていたため、自分で思っていた以上に、ルネは疲れていたのだろう。
 ローランという人間自体、所詮のんびりした田舎育ちのルネとは動くスピードが違うのか、一緒にいると何もかもが目まぐるしくて、エネルギーを吸い取られるような気がする。
(…ローランの秘書になったなら、ずっと、あの人のハイ・ペースに合わせて僕も動かなければならないということか…今日みたいにぐずぐずと仕事をしていたら、遅いとどやしつけられそうだな。早く僕も慣れないと…この街にも、あの人にも…)
 いきなり肩を軽く揺さぶられて、ルネはやっと目を覚ました。
「はい、そろそろ起きてくださいよ、ルネさん…最後の仕上げをするんだから、顔をちゃんと上げて見てくださいね」
「ふ…はぁ…」
 あくびを噛み殺しながら、やっとルネはまともに目を上げて、正面に据えられた鏡を直視した。
「あれ…?」
 見知らぬ美しい人が、こちらを不思議そうに見返している。
 柔らかそうな蜂蜜色の髪に取り巻かれたあまやかな顔立ち、ふっくらと官能的な唇、蒼穹を思わせるどこまでも澄んだ青い瞳…。
「誰だぁ、こりゃ…?」
 思い切り怪しそうに目を眇めて呟くルネの傍らで、腕っこきのスタイリスト、トニーが長嘆した。
「お願い…その顔で、オーヴェルニュ訛りはやめて、夢が崩れるわ」
 今度こそ完全に覚醒したルネは、大きく息を吸い込んだ。
「これなら、ローランも満足すること請け合いね。本当に、なんて綺麗になったこと…まるで天使ね。ええ、彼の愛する『大天使』そのものよ」
 うっとりと、自分の作品に酔いしれながら、トニーは胸に手を置いて溜息をついた。
「嘘…」
 ルネは震える手を上げて、自分の髪に触れてみた。すると、鏡の中の人も、それと同じ動きを追う。
 指先に当たるのは、馴染みのあるまっすぐな髪の感触ではなかった。柔らかいウェーブの中にすっと溶けるように吸い込まれるのが分かって、ルネは愕然となった。
(おまえが地味で目立たないのは、髪の色のせいかな…? 金髪に染めてみろ、きっと華やかな印象になるぞ)
 初めて会った時から、ローランは、ルネに髪の色を変えるよう勧めていた。
 彼は正しかったのだろう、確かに、ものすごく綺麗にはなった。これなら、すれ違った10人が10人とも振り返りそうだ。
 しかし―。
「駄目だ…こんな無駄に目立つ姿で街を歩くなんて、恥ずかしくて僕には無理、耐えられない」
 地味で控え目なルネにとって、天使と見紛うまばゆい美貌は、疲れるばかりの単なるプレッシャーでしかなかった。



 7:00PM。
 ようやっと腹を括ったルネは、ホテルの部屋を出て、ロビーに下りて行った。
 ヘア・サロンを出た後、本当はぶらぶらとパリの街を散歩するつもりだったのだが、新しい自分の姿に馴染めず人の視線が気になったため、寄り道もせずにタクシーでまっすぐに帰ってきてしまった。
 本当はどこにも行きたくなかったのだが、ローランの命令とあれば仕方がない。シャワーを浴びたルネは、言いつけどおり今日買ったものからローランが求めているだろうイメージを想定して服や小物を選び、身につけた。もちろん縁起の悪い『田舎のおっさん下着』も処分して、何から何までローラン仕様だ。
(ローランは、今の僕の姿を見て、何て言うだろう…顔を見た途端に噴き出して駄目だしされたら、僕はもう、泣きながら田舎に逃げ帰るしかないな)
 階下に向かうエレベーターの中でも顔を俯けたまま思いつめていたルネは、ロビーに着いても一瞬分からず、他の客に押されるようにして外に出た。
 落ちつかなげにきょろきょろと辺りを見回しながら、ルネはロビーを歩き出したが、目当ての相手はすぐに見つかった。
 幅広のソファにどっかと座って、煙草をくゆらせながら、難しい顔をして腕時計を確かめているローランの姿が、行き交うホテル客達の向こうに見えたからだ。
「ムッシュ・ヴェルヌ…」
 ルネが小走りで近づいていくとローランも気がついたようだ、ゆっくりとソファから立ち上がった。
(わぁ…渋いっ…!)
 ディナーのためにピシッと正装してきたローランのいい男ぶりに、またしても目を奪われてしまったルネは、その寸前まで捕らわれていた煩悶などきれいさっぱり忘れ去った。
「すみません、服を選ぶのに悩んだせいで、時間ぎりぎりになってしまいました」
 恐縮しながら声をかけようとしたルネは、ローランの様子が、何やらおかしいことに気がついた。
 てっきり遅いと叱りつけられると思ったのに、ローランは両手を体の脇にだらりと垂らしたまま、声もなく呆然と立ちつくしている。自分の前に現れた者が一体誰なのか分からないというような、混乱と衝撃を端正な顔に浮かべて―。
「ムッシュ…?」
 ルネが不思議そうに問いかけながら顔を覗き込むと、ローランは夢から覚めたように目をしばたたき、自嘲するかのごとくふっと笑った。
「どうかなさったんですか?」
 ローランは何も言わず、ルネの顔をじっと見下ろしている。あんまり熱心に彼が自分を見つめるので、ルネは次第に頬が熱くなり、息苦しくなってきた。
「あの…」
 堪りかねて、ルネが言いかけた時、
「動くな」
 低い声で、ローランが命じた。その手がおもむろに上がり、硬直しているルネの顔に近づいてくる。
 火照った頬をローランの手が包み込むかと思われた、次の瞬間、その指先は微かに肌を掠めて、喉元に下り、ルネのネクタイにかかった。
 シュッとシルクのタイが擦れる音がする。
「ネクタイを結ぶのも、もう少しうまくならないとな…」
「は…はい…」
 世話が焼けるとでも言いたげに、ローランはルネのネクタイを結びなおして、整えた。その作業中、ローランの顔が息のかかりそうなほど近くにあることに、ルネは自分の心臓の鼓動が相手に聞かれてしまうのではないかとびくびくしていた。
「それにしても、ルネ、見違えたぞ…トニーの腕もいいんだろうが、まさか、おまえがここまで見事に変身するとはな」
「そ、そうですか…? 僕は、なんだかおかしなコスプレでもしているような心地で落ちつかないんですが…お世辞抜きにして、変じゃあないですか…?」
「この俺が、お前に世辞など言ってどうする。ほら、ちゃんと顔を上げて、背筋をまっすぐ伸ばさんか、せっかくの美人が台無しだぞ」
 呆れたように唇をすぼめて、ローランは小さく身を縮めるルネの背中を軽く叩いた。
(美人…美人かぁ…男の僕にとって適切な表現であるかは微妙だけど、ローランに褒められたなら、何でもいいや…嬉しい)
 ちらっと周囲に目をやるとロビーにいた他の客達の視線が、なぜかこちらに集まっているような気がした。たぶん男前で目立つローランを見ているのだろう。
「…行こうか?」
 今まで聞いたこともないような、この上もなく優しく甘く響く声で、ローランはルネの耳元で囁き、促すようにそっと肩を抱く。
 日中ローランの強引マイ・ペースに引きずり回されたルネは、彼の豹変ぶりに動揺しながら、尋ねてみた。
「ムッシュ・ヴェルヌ…昼間のあなたと何だか態度が違いますよ…? 一体どうしたんですか…?」
 その言葉に、ローランは、ちょっと困ったようなあいまいな顔をした。どんな態度をルネに対して取ったらいいのか、急に分からなくなったというような―。
「おまえが、それだけ魅力的になったということだろうな」
「は…魅力…的…僕が…?」
 ルネの当惑顔を深い緑の瞳の中心に捕えこんだまま、ローランは微笑み、静かな熱情を込めて言った。
「今夜は、ローランと呼んでくれ」


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