花束と犬とヒエラルキー
第2章 悪魔のように黒く

 週が明けて月曜日。ルネは、ルレ・ロスコーに社員として初出社した。
 日曜には、ローランに紹介された不動産屋を通じて、いいアバルトメンを見つけ、早々にホテルを引き払うこともできた。
 バリでの新生活の始まりとして、まずは順調な滑り出しと見えた、この記念すべき日だったが、ビルに入ってすぐ、周囲の空気がおかしいことにルネは気付いた。
 ルネと同じように出社してきた社員達は、彼の姿を見るや、ぎょっとしたように立ち止まったり、信じられないものを見たかのごとく振り返ったりする。
 乗り込んだエレベーターの中は、何事かと思うくらいに、ざわざわしていた。
 目的の5階で降りてみれば、そこで出会った幹部と思しき人達の周章狼狽ぶりに、何となく怖くなったルネは、彼らに捕まる前に走り出し、副社長付きの秘書室に飛び込んだ。
「おはようございます」
 ルネが元気よく挨拶をすると、先週末一度ここで会った秘書のミラが、眼鏡を指先でいらいながら振り返った。
 ローランに選んでもらったスーツ姿も初々しく、初出社の高揚から頬を赤らめて、ドアの前に立っているルネを見つけたミラは、はっと息を飲んで、デスクから立ち上がった。
「ムッシュ・ロスコー?!」
 めったなことで動じなさそうな気丈な女秘書が、自分を見て動転するのに、ルネの方はもっと面喰った。
「ミラさん…? どうしたんですか、そんなおかしな顔をして…僕ですよ、ルネ・トリュフォーです」
 ルネが人懐っこく笑いながら近づいてくると、ミラの顔に当惑と不審と広がっていき、ついでまた別の衝撃がうかんだ。
「まあ…まさか、ルネ・トリュフォー…本当に、あなたなのね…?」
「ええ、そうですよ、この顔をよく見てください。髪形も着ているものも違うし、随分雰囲気は変わってしまったけれど、僕です」
ルネは恥ずかしそうに頭をかきながら、言った。
「土曜日に、ローラ…ムッシュ・ヴェルヌに付き合ってもらって、服とか一式買いそろえたんです。ついでに髪も…これはムッシュの懇意のスタイリストにやってもらったんですけれど、まさかここまで変えられるとは思ってなくて、僕もびっくりしました。でも、ムッシュは喜んでくれましたし、見慣れれば、結構似合ってるかなって自分でも思ったりして…」
 ミラは瞳を泳がせながら、ルネの打ち明け話を聞いていたが、やがて眩暈でも覚えたかのように頭を押さえ、ふらふらと椅子に座りこんだ。
「だ、大丈夫ですか、ミラさん…?」
 彼女が妊娠中だということを思い出したルネは、慌ててデスクに飛んでいって、心配そうにその青ざめた顔を覗き込んだ。
「信じられない…もとからいかれた男だとは思っていたけれど、まさか、ここまでやるなんて…!」
 ミラの吐き捨てるような言葉を聞き咎めたルネは、背中をさする手を止め、問いかけた。
「ミラさん、一体、どうしたんですか…? 僕の格好はそんなに変でしょうか? そう言えば、さっき秘書室に着く前に、たくさんの人にじろじろ見られたり、重役っぽい人から血相変えて呼び止められそうになったりしたんですけれど、この服装に、社内の規定に引っかかるような問題でもあるのでしょうか…?」
「社内規定上は問題なくても、世の常識には明らかに反するでしょうね」
「は?」
 その時、秘書室のドアが躊躇いがちにノックされ、先程ルネに近づいて声をかけようとした幹部らしい男が顔をのぞかせた。
「…ミラ、悪いんだが、ちょっと話がある…」
 ミラの傍にいるルネを恐る恐る窺う、その顔には、ここでルネを迎えた時のミラの顔に見出したのと同じ、明らかな戸惑いと不審の色があった。
 ミラは何か言いたげな眼差しをちらっとルネに投げかけた後、大きな吐息をついて、立ちあがった。
「あなたのせいで、社内が蜂の巣をつついたような騒ぎになってしまったようね。こんな時に限って、ムッシュ・ヴェルヌは出張でいないんだから、全く腹が立つわ。私が簡単に説明してくるから、ここで待っていなさい、ルネ」
 そう言い残して、ひとまず部屋を出ていったミラは、数分後、少々疲れた顔をして、戻ってきた。
「ごめんなさいね、ルネ…あなたのことは、ムッシュ・ヴェルヌも人事を通じて知らせていたんだけれど、その容貌のことまでは伝わってなかったものだから…」
 ここに至って、この事態を招いたのは他ならぬ自分の外見なのだということに思い至ったルネは、単刀直入にミラを問いただした。
「ミラさん…一体、どういうことなんです? 僕のこの姿が、どうしてそこまでの混乱を社内に招いたというんですか…?」
 ミラはどう説明すべきか悩むようにしばし眉を潜めて考え込んでいたが、おもむろにデスクを離れ、壁際の書類棚の奥を引っ掻きまわすと、何冊かの雑誌や新聞を手に再びルネのもとに戻ってきた。
「この写真をごらんなさい、ルネ、今年早々うちの社長に就任した、ガブリエル・ドゥ・ロスコーよ」
「ガブリエル…?」
「ええ、もう一つの顔の方が、世間では有名かしらね…アカデミー・グルマンディーズの若き主宰、通称『大天使』ガブリエル…本当に聞いたことはない?」
 はて、美食に関わる団体らしき名称だが、今まで食べることにあまり興味のなかったルネには縁のない話題だ。
「はい、残念ながら…グルメとか食べ歩きとか、食に凝る方ではないので…」
「なら、今日から、興味を持ちなさい。何と言っても、うちのトップは、料理業界のカリスマなんだから」
 ルネは、ミラのつけつけした口調に少々おびえながら、デスクの上に彼女が次々に広げていくグルメ雑誌やファッション誌、新聞の記事に視線を落とした。
「えっ…?」
 それら記事の中の写真に写った美しい青年の顔に、ルネは瞠目した。
 蜂蜜色の柔らかなウェーブを帯びた髪、澄んだ空色の瞳、ふっくらと官能的な唇。何もかもが、今のルネと驚くほどによく似ていた。強いて言えば、鼻の形だけが僅かに違うが、生き別れの双子の兄弟だと説明されても、ここまでそっくりなら信じてしまいそうだ。
「こ、この人が、ここの社長なんですか…? 僕にそっくりじゃないですか、一体どうして…?」
 衝撃が強すぎて、事態を正しく呑みこむことも困難なルネを、ミラは冷静に正した。
「違うわ、ガブリエルがあなたにそっくりなのではなく、あなたが彼そっくりになるよう、作り変えられたのよ。ムッシュ・ヴェルヌが、そうさせたのでしょう…?」
 ルネの脳裏に、ある夜ローランが自分向けてきた、不可思議で熱っぽい瞳が蘇った。魅力的になったと、変身したルネの姿を見て、彼は満足そうに微笑んでいた。
(ちょ、ちょっと待って…ローランは、僕を磨きたてて自分の理想に近づけようとしたんだよね…? この髪だって、彼が僕に似合うと思ったら変えさせたわけで…ち、違うのか…?)
 一番大きな写真が載っている雑誌を食い入るように見ながら、混乱の極致にある頭で必死に考えているルネに、ミラは心底呆れ果てたというような口調で話し続けた。
「今現在、社長の地位にありながら、ガブリエルは滅多に社には現れないの。アカデミー・グルマンディーズ主宰としての活動で、忙しいからでしょうね。ここだけの話だけれど、奥にある立派な社長室なんか、半分物置と化しているわよ。そんな社長が何の予告もなしにいきなり1人で現れたものだから、皆、すわ抜き打ちの視察か何かと仰天し、身構えてしまったという訳」
「ガブリエル・ドゥ・ロスコー…ムッシュ・ロスコー…その名前、そう言えば、おとついムッシュ・ヴェルヌと一緒にいる時に、何度か耳に入ってきました。他に考えることがたくさんあって、追求できなかったんですけれど…そう言えば、ムッシュ・ヴェルヌは親しげに『あいつ』呼ばわりしていた…僕と同じ姿をした、この人のこと…」
「そうね、2人は親戚関係にもあるのだけれど、幼い頃に母親を亡くしたムッシュ・ヴェルヌをロスコー家が引き取って、しばらくガブリエルと一緒に育てていたことから、もともとかなり親密な間柄にあるようよ。ともかく、ロスコー・グループの会長であるジル・ドゥ・ロスコーが一線を退くにあたって、最愛の孫のガブリエルに、彼が創設したアカデミー・グルマンディーズと共に、この会社を譲った。けれど、おそらくあまりビジネスには興味はないらしいガブリエルに代わって、実質的に経営の一切を取り仕切っているのが、ローラン・ヴェルヌという訳。世間では、ガブリエルの影とか剣とか呼ばれているわ」
 ミラは、深刻な面持ちで押し黙っているルネをちらっと見ると、肩で1つ息をつき、ルネと自分のために濃いめのコーヒーを淹れにかかった。
 そうしながら彼女は、この会社のトップ2人について、ルネの疑問を解決する手掛かりになればいうことだろうが、説明を続けた。
 ガブリエルが継ぐ以前、実は、ルレ・ロスコーは親族経営の旧態依然とした体質が仇となって、グループで唯一の赤字事業になり果て存続の危機に立たされていた。改革を託された前社長も、温厚な人柄からか、老獪な重役連中相手に思い切った手は打てずじまい。
 もともとロスコー家所有の物件をホテルなどに転用することから始まった会社であり、会長自身も若い頃に手がけたことから愛着があったのだが、さすがに事業を縮小するかいっそ畳むかというところまで行ったという。
「…グループが大きくなりすぎて、会長の目が届かなくなった後、任せた経営陣が好き勝手にやりすぎたのね。高級志向のホテルやレストラン経営で成り立っている会社なのに、肝心の質のチェックが疎かになったり、明らかに基準に達していない店なのに個人的なコネがあるということで傘下に入れてしまったり…そんないい加減なことやっているうちに、客がどんどん離れていった訳…このままだと本当につぶれるかもしれないと危機感持った社員が幹部に訴えても、とにかくプライドだけは高い財閥出身者達だから、聞く耳持たず、そのうち皆諦めてしまったのね」
 そんな時に、突然降って湧いたのが前社長の辞任とガブリエルの新社長就任の話だった。経営陣は、ロスコー家の若い王子様を歓迎するムードだったという。世間知らずの若者ならば、取りこみやすく操りやすいと踏んだのだろう。それに、ガブリエルの持つアカデミー・グルマンディーズ主宰という肩書は魅力的だった。
「アカデミー・グルマンディーズはそれだけでも強力なブランドだから、うまく利用すれば、社のイメージ回復に役立つ。でも、失敗すれば、逆にアカデミーの名声に傷をつけてしまう。この起死回生の賭けみたいな策を提案したのはガブリエル本人らしいのだけれど、社長就任の条件につけたのが、ロスコー・グループの中からローラン・ヴェルヌを引っ張ってきて、副社長として自分に等しい権限を与えるということだったの。これも、経営陣は二つ返事で飲んだのよ。ローランだって、彼らにしてみたら自分の息子くらい年の青二才だからと、舐めてかかったのよね」
 しかし、トップ2人が就任してすぐに、経営陣は自分達の考えが甘かったことを痛感する。懐柔され取りこまれるどころか、明確な目的意識を持って乗り込んできた2人は、及び腰の前任者がとてもできなかったような強引で思い切った改革を始めた。
「…傘下にあるホテルやレストランを見直して、基準に適合しなかった場合には改善命令を出し、従わなければ除名することから始まって…コネでもぐりこんだ二流の店は、これで全部ルレ・ロスコーから弾き出されたわ。これはガブリエルが指揮した改革ね。そして、所謂リストラ…それも高い給料をもらいながらろくな仕事をしない年寄やその取り巻き連中を狙いうち…これは、人事権を握ったローランが情け容赦なく切りまくったり、あの手この手で辞任に追い込んだりしていったわ。処刑人なんて渾名されたくらいだから、相当荒っぽい手も使ってね」
「…抵抗もかなりあったんじゃないですか? いくら会長の孫だからって、いきなり外部からやってきた人間が思い切った改革なんてやろうとしたら…」
「それはもちろん…でも、経営陣と言ったって、所詮は育ちのいいやんごとない人達ですもの。プライドは高くても、いざ本気で敵と戦って、汗や血を流してまで何かを守ろうという気概は持ってなかったのよ。ガブリエルはまだ人当たりはいいけれど、ローランなんてサドっ気たっぷりの猛犬に毎日責め立てられるのに精神的に参ってしまって、ほとんどが降参してここを去っていったわ。あの人も間違いなく血筋はいいし、ENA出身の超エリートのはずなんだけれど、中身は、権威に対する敬意もへったくれもない野蛮人だから…」
 ここでミラは何を思い出したのか、実に楽しそうな笑みを漏らした。ローランとはあまり折り合いがよくなさそうな彼女だが、旧経営陣を一掃してくれた彼の仕事には大いに感謝しているようだ。
「ともかく、ガブリエルとローランのおかげで邪魔者や余計なお荷物を放り出して、現在我が社は危機的状況を乗り切り、立ち直りつつあるわ。荒療治であったことは確かだし、一部で不満や恨みの火がくすぶっていない訳でもないけれど、それはむしろ少数派で、大多数の若い社員達は、年齢よりも能力重視、努力次第ですぐに重要ポストに登用してくれる今がチャンスだと活気づいている。ガブリエルはいつの間にか名のみの経営者になってしまったけれど…クセはあっても強い牽引力と行動力を備えたローランに心酔してしまった幹部は多い。かくいう私も、あの人の秘書になったばかりの頃は、女に興味がない人と分かっていても、うっかり惚れそうになったくらいよ。もっとも、夢が破れるのも早かったけれど…」
 ルネはまた少し考え込んだ後、ミラに向かって、おずおずと尋ねた。
「あの、ミラさん…この会社の今の状況や経営者が変わった経緯はよく分かりましたが、ローラン…とガブリエルの関係はまだよく分かりません。ガブリエルがローランをグループのどこかから引き抜いて、この会社の大掃除と立て直しを手伝わせた。そして、それがひと段落つくや、自分は他の関心事を求めてどこかに消え、経営は彼に任せっぱなしとなった。そのくらいなら、初めからローランを社長の座に着けた方が、しっくりくるような気がします。どうも僕には、ローランが名のみの社長の下の地位に甘んじたり、素直に命令に従ったりするタイプだと思えない…何か特別な理由があるのなら、ともかく…」
「それは、やはり愛でしょうね」
 間髪いれずミラが答えるのに、ルネは口元に運びかけていたコーヒーを危うく落としそうになった。
「実際ローランは、つぶれかけた会社の再建よりも、もっと重要で面白みのある事業をグループの中核にいて任されていたはずなの。でも、祖父の愛着のある会社がこのままなくなるのは忍びないガブリエルのたっての頼みで、そちらの仕事は白紙に戻し、しんどい汚れ役になるのも承知でここに乗り込んできたのよ。誰にも従わない、自尊心の塊のように見えるローランだけれど、ガブリエルの存在は例外どころか、唯一の絶対よ。愛する『大天使』の命令ならば、どんな無茶や理不尽でも嬉々として従う…奉仕こそが、最高の愛の表現だとでもいうかのようにね」
「う、嘘…」
「大げさに聞こえるかもしれないけれど、ローランのガブリエルに対する態度や思い入れの深さが、そんな噂も真実らしく聞こえるくらいに、ただ事じゃないのよ。ああ、間違っても、彼の前でガブリエルに対する批判めいた言葉は口に出さないことね、ルネ」
 そんな話信じられるものかと顔を強張らせているルネに、ミラは声を低めて、忠告した。
「いつだったか、ガブリエル宛に、悪質な悪戯めいた脅迫文が届いたことがあったんだけれど…封書に細工がしてあって、開封するとカッターの刃が飛び出すようになっていたの。被害にあったのは、ガブリエルじゃなくて実は私だったんだけれど、そのことに激怒したローランは、怪しげな男達を数人引き連れて、犯人を追いかけ回した末、袋叩きにしてセーヌ川に落としたとか…」
「まさか、そこまでやったら犯罪でしょう!」
「まあね…さすがに川に放り込むまではやっていないと思うけれど、相当きついお灸をすえたことは確かよ。結局、背景に何もない、ただのストーカーだったんだけれど、荒っぽい社内改革を推し進めるガブリエルやローランに対する嫌がらせや脅迫が激しかった時期だったから、過剰に反応したんでしょうね。自分はともかく、ガブリエルに敵意の矛先が向かうことには我慢ならなかったのよ」
 絶句しているルネに、ミラは更に、ローランがいかにガブリエルを溺愛し、そのことを憚りもなく周囲に公言しているかを語って聞かせた。
「…ああまで堂々と愛を語られるとゴシップにもなりやしないわ。呆れ返りながらも、別にトップ2人ができていようがいまいが、ちゃんと仕事さえしてくれたらいいかと半ば既成事実のように受け入れられてしまったのが、私も含めて今の社内の現状…それでも、あなたの姿を見た時は、ああ、あの人の病気はここまで酷かったのかと愕然としたわよ。いくらガブリエルのことが好き過ぎるからって、他人のあなたまで自分の好み通りに作り変えようとする…?」
「そっ…つまり、その…ローランとガブリエルは恋人同士…なんですか…?」
「相思相愛の恋人同士なのかは、ガブリエルの気持ちが不明だから何とも言えないけれど、ローランが彼を愛していることは、客観的に見て疑いようがないわね。あら…」
 ルネが真っ青な顔をして俯いていることに気づいたミラは、眉を潜めて、しばし黙り込んだ。
「ねえ、ルネ…あなた、まさかムッシュ・ヴェルヌと何かあった訳…?」
 嘘のつけないルネは、びくっと肩を震わせ、今にも消え入りそうな風情で縮こまった。
 ミラは、もう手がついたのかと呆れ顔をした後、一転、同情的になって語りかけた。
「そうね、あなたの顔形をもっとよく見ていたら、こうなることも予想がついたかもしれないけれど、先週会ったばかりのあなたは純朴そうな地味で目立たない子で、とてもあの人が食指を動かすとは思わなかったから…気づいていたら、一言注意してあげたでしょうに、ごめんなさいね」
「いいえ」と、ルネは力なく頭を振った。
「僕が隙を見せたからいけなかったんです…別に子供じゃないんだから、そのくらい分かっています。ちゃんと合意の上でのことだったし…拒否しようと思えば、できたはずです。ローランだけが悪い訳じゃない」
 ぐるぐると視界が回り出したような錯覚に捕らわれながら、ルネは、ぽつりぽつりと漏らした。
「あんな男を庇うことないのよ、ルネ…馬鹿ね…」
「馬鹿か…そうかもしれません、きっとそうです…」
 どうにも話がうますぎるとは疑っていたはずなのに、逃げなかった、拒めなかった。
(ローランが僕のことを理想に近いと言ったのは…何だ、彼の好きな人によく似ているってことだったんだ。ああ、確かに嘘はついてないよね…それを、ローランは僕自身に興味を持ってくれたんだと僕が勝手に思い込んだだけで…) 
 しかし、まさか、こんな種明かしが待ち受けていようとは夢にも思っていなかった。
(いや、いくらなんでも想定外…たまたま見つけた赤の他人が好きな人に似ていたからって、それを捕まえ、恋人そっくりにコスプレさせて悦に入るなんて、一体どういう変態プレイなんだか…僕にはついていかれない…!)
 一瞬頭かっと血が上り、今度ローランに会ったらどうしてくれようと物騒なことを考えたものの、先週末彼との間に何があったか思い出せば、燃え上がりかけた怒りの炎もすぐにしぼんでしまう。
 実感が湧かない、他人の口から聞いたくらいでは、素直にそうですかと受け入れがたい話だからだろうか。
 今の自分が誰の姿をコピーしたものか、突きつけられた事実は明白だというのに…。
「あなたね、それだけ人としての尊厳を無視されて、まだあの男に未練があるの?」
 ルネの葛藤をしばらく無言で眺めていたミラは、少々うんざりしてきたらしく、冷たく突き放すような口調で言った。
「確かに外見は完璧だし、あなたみたいな初心な子が熱を上げそうな魅力はあるんでしょうけれど、それで騙されてはまりこんだら、ろくな目にはあわないわよ。ルネ、一度だけ忠告しておいてあげるけれど…神様はね、人間を不完全な存在としてお造りになったのよ。いいこと、あれだけ見てくれがよくて、仕事もできて、お金持ちのエリートで、その上に人間性にも優れているなんてできすぎた人がこの世にいるはずないの…むしろ、どこかに重大な欠落があると思わなきゃ…!」
 拳を握り締めて真剣な顔つきで力説するミラに、一体この人ローランの傍で何を見てきたのだろうと不安に駆られたルネだったが、追及してみるだけの精神的な力は残っていなかった。
(僕はローランに裏切られたんだろうか…? いや、裏切るも何もないかな、一回エッチしただけじゃないか。別にこれから真剣に付き合おうという約束をした訳でもない…むしろ、あれはその場限りの遊びの感覚に近かった。そうだ、あんなゴージャスな男と一夜を共にできたんだから、よかったじゃないか。そう言えば、強引に押しきられた割に、嫌なことは何もされなかったな…むしろすごく優しくて、びっくりした。いや、あれは僕に対して優しかった訳じゃない、僕がガブリエルに似ているからだったんだ)
 どんよりと暗い顔をしているルネの前に、ミラは新しく淹れなおした熱いコーヒーを突きだした。
「あ、すみません」
 ルネはうつろな目を上げ、機械的にコーヒーのカップを受け取り口に運んだが、味も香りも、感覚がマヒしてしまったかのように、よく分からなかった。
 ただ苦いだけだ。
「それで―これから、あなた、どうするつもりなの?」
 いきなりミラが、核心を突くような問いを投げかけてきた。
「ムッシュの酷い仕打ちにショックを受けて、立ち直れないなら、このままここであの人の顔を見ながら働くなんて無理でしょう? 今すぐここから出て行きなさい。ムッシュには、私から伝えておくから、いちいち彼が帰ってくるのを待つ必要はないわ。あなたにしてみれば、顔を見るのもむかつくでしょうからね」
 ミラの言葉に、ルネははっと息を吸い込み、目を大きく見開いた。
「ミラさん、僕は…せっかくいただいた仕事の話を白紙にするとまでは、まだ思いきれてないです…」
「でもね、しばらく我慢して働いたものの、やっぱり無理だと中途半端な所で投げ出されるのが一番困るのよ。あなたに最後までやり通す強い決意があるのなら、私も喜んで仕事を教えるけれど、いつまでもあんな男のことを引きずって、ぐずぐずとべそをかいてばかり、仕事にも集中できないような甘ったれた人のお守りなんて、まっぴらごめん、時間の無駄よ」
 ミラの厳しい意見を聞いて、悄然としたルネの顔に、血の色と共に激しい感情が閃いた。
「僕は、そんないい加減で無責任な人間ではありません! 一端引き受けた仕事なら、最後までやり遂げます…ええ、ローランとのことはあくまで僕の個人的な問題ですから、それを職場に持ち込むつもりは毛頭ありませんとも…だからあなたは、産休に入る前に、僕に業務の引き継ぎを滞りなく行ってくれればいいんです。僕は絶対、ここから泣いて逃げ出したりしませんからっ」
 ルネの剣幕にミラは虚を突かれたように、しばし黙り込んだ。彼女は、それでもしばらく怪しむように、決然と唇を引き結び爛々と目を輝かせたルネの顔を凝視していたが、やがて何かを感じ取ったかのようだ。
「分かったわ、ルネ。それじゃあ、あなたとムッシュ・ヴェルヌの間であったことは、私は聞かなかったことにしますから、あなたもあの人を見て取り乱すことなく、部下として自然にふるまうことを心がけて。その外見だと、社内でおかしな噂はたつだろうし、からかいの種にもされるでしょうけれど、それも我慢するのよ。いっそ、その髪はもとの色に戻したら、どうかしらね?」
 一瞬迷ったルネは、柔らかな金髪の髪の一筋を引っ張り、複雑な気分で眺めた。
「いえ…当分の間、これはこのままにしておきます。ローランは僕の外見だけを恋人の似姿に変えたけれど、内面まで変えられた訳じゃない。ガブリエルのコピーになんてならない…僕は僕なんだってことを、あの人が思い知るまで、この姿のままでいます。そうすれば、あの人だって…」
 ガブリエルの身代わりとしてじゃなく、ちゃんと僕自身を見てくれるようになるかも―うっかり唇から出かかった言葉を、ルネは危うい所で飲み込んだ。
(ああ、やっぱり、僕はまだ諦め切れてないんだ、ローランのこと…でも、ミラさんにも宣言したように、この際個人的な感情は封印しよう。もともと僕は、毎日職場で顔を合わせる上司との恋愛には抵抗があったんだし、一切何もなかったことにしてしまえばいい。そう、目の前の仕事を機械のように淡々とこなしていけば、そのうち、胸の傷だって癒えるだろうから…)
 そうして、ルネは、初日早々あまりに衝撃的な真実を突きつけられたものの、この会社に留まることを決心した。
 自分は何も悪いことをしていないのに、ミラに言わるがまま、泣きながら逃げ出すのも腹立たしいと半ば意地にもなっていたのかもしれない。
 別にローランの愛人になりたくて、パリにまでのこのこやってきた訳ではないのだ。仕事だって、ちゃんとこなせることを証明してやる。
 実際、その後のルネは、二度と再び取り乱したり、煩悶に沈み込んだりすることもなく、厳しい教育係のミラの指導を受けながら、黙々と業務をこなしていった。
 頭の回転が速くて飲み込みもいいルネは、こんなおかしな状況でなければ、ミラにとっては教えがいのある生徒だったろう。
 実際、続く数日間のルネの仕事に対する打ち込みよう、集中力は異常な程で、明らかに精神的に普通ではなかった。
 新人とは思えないほど仕事は素早く正確にこなすので、その点文句のつけようはないのだが、必要なこと以外は話さず、泣きもしない代わりに笑いもしない、人間というより機械のようで、さすがのミラも一緒にいると肩が凝ると思ったくらいだった。
 ルネ本人だけが、自分の精神状態に気付いていなかった。
(よかった…一時は駄目だと思うくらいに落ち込んだけれど、意外と平気なものだな。仕事だってちゃんとできるし、会社帰りに予定通り専門学校にだって通い始めた。アバルトメンに帰ったら、疲れきって泥のように眠るだけだから、余計なことを考えずにすむ。この調子なら、僕は何とかここで働き続けることができそうだ…)
 ルネは肝心のことを忘れていた。というより、考えまいと頭から締め出していた。
 今週早々、ローランはボルドー地区で発生したトラブルの収集を兼ねての視察に出かけていたので、しばらくルネは彼と顔を合わせにすんでいた。平静を保てたのは、結局、そのためだったのだ。
 そして、金曜日の朝―今日を乗り越えれば、やっと休みに入れると、よく眠ったはずなのに疲労感の残る体に鞭打って、郵便局でミラに頼まれていた所用をすませた後出社したルネは、秘書室に入った途端、何かにぶつかったように立ち竦んだ。
(あ…)
 微かな甘い香りが、部屋の中に漂っている。
 それを嗅ぎ取ったルネは、たちまち心臓の鼓動が速くなり、どっと体中から汗が噴き出るのを覚えた。
 のろのろと視線を動かし、ずっと主不在だった副社長室の閉ざされたドアを見る。
(そこに…いる…あの人が…)
 顔を強張らせて立ちつくしているルネに、ミラが部屋の奥から近づいてきて、その肩を励ますようにぽんと叩いた。
「おはよう、ルネ」
「あ…は、はい…おはようございます」
 それではっと我に返ったルネは、じっと自分の反応を窺っているミラの鋭い目を見返した。
「昨夜遅くにパリに戻ってきたのよ、彼…今、一緒に視察に行っていたボルドー地区のマネージャーと中で話しているわ。コーヒーを二つ、持って行ってくれる?」
 ミラの口調は穏やかだが、どこかルネを試すような響きがある。それが、一瞬怯みかけたルネの中に、負けん気を蘇らせた。
「は、はい…大丈夫です」
 そんなルネを、目を細めるようにして眺めて、ミラはそっと付け加えた。
「あの人も向うではトラブルの収拾に大変だったみたい…ご機嫌斜めだから、気をつけてね」
 ルネは無言でうなずいて、ミラから教えてもらっていた手順で、コーヒー・メーカーに豆をセットし、予め温めておいたカップに出来たての熱いコーヒーを入れ、副社長室に向かった。
 部屋の前で少しだけためらった後、ルネはドアを軽くノックした。低い応えが、中から返ってくるのに、胸が震える。
 深呼吸すると、ルネは勇気を出してドアを開き、この世で一番愛しくて憎らしい男の名前を呼んだ。
「ムッシュ・ヴェルヌ、コーヒーをお持ちしました」


NEXT

BACK

INDEX