愛死−LOVE DEATH− 

第九章 予感


ロバートは、自宅の書斎で、一人、ウイスキーのグラスを傾けながら、じっと考えに沈みこんでいた。彼の前の机の上には、一月程前のある週刊誌の記事が広げられている。

「ヘマトフィリアを扱った、うちの記事ですか?ああ、ジョンが扱った奴ですね。どうしたんですか、今頃になって、あんな古い記事を探そうなんて」

ロバートの頼みに、その若い記者は怪訝そうな顔をしていたが、信頼する上司の頼みとあって、嫌な顔もせずに、資料室にいって、その雑誌を探してきてくれた。

それは、「現代の吸血鬼」というタイトルの、ヴァンパイア伝説を現代的に分析したもので、自分を吸血鬼と思い血に対する欲求を覚えている、若い女性のインタビューなどは、なかなか斬新で、読者にも好評だった。今から読み返してみると、切り口などは、それほどよくもなかったかなと思う。こんな記事を改めて見なおすことなど、スティーブンから、あんな話を聞かなければ、決してなかっただろう。

ロバートは、迷信深い人間ではない。新聞記者あがりで、発行している雑誌も、決して浮ついた内容ではなく、その編集長などをしているくらいだから、物事には常に懐疑的、利性的な分析を第一に考えて、向き合っている。こんな途方もない話、スティーブンが持ちこんだものでなければ、さすがに調べようという気にはならなかっただろう。正直な所、愛する甥を信頼し、その性格をよく知っているつもりでも、やはり信じられない。吸血鬼?この現代に?もしかしたら、スティーブンは、心を病んで、とてつもない妄想に取りつかれてしまったのでは、ないか。そんな不安の方が、むしろ強かった。

ヘマトフィリアの記事も、それほど手がかりになるとは思えなかった。スティーブンも、言っていたではないか、彼が対決しなければならないのは、そう思い込んでいるだけの人間ではなく、本物の吸血鬼なのだと。

駄目だ、やはり、ついていけない。それに、スティーブン自身、昔の出来事は詳しく話してくれたが、では、その吸血鬼は、どんな奴で、今どこにいるのかという具体的な話になると、途端に言葉を濁してしまった。ロバートを巻き込みたくないからという理由だそうだが、それでは、助けようがない。困った顔をするロバートに、近いうちに、ロバートの手を借りなくてはならないことになる、その時は、驚かずに、必要な手助けをしてくれと、それだけを一方的に言って、その日、スティーブンは、彼の目の前から立ち去ったのだ。

パリでのあの夜、スティーブンが、何か恐ろしい体験をしたのではないかという想像は、前からあった。しかし、それは、こんな非現実的なものではなかった。スティーブンは、記憶の中で、現実にあったことと、意識不明の間に見た悪夢とを混同しているのだ。おそらく、殺人かそれに類する恐ろしい場面を目撃したのは事実なのだろう。パリに住む、知人の記者に頼んで、当時の事件をもう一度調べなおしてもらう必要があるかもしれない。だが、スティーブンが、9年前に出会ったその「吸血鬼」が、当時と全く同じ姿で、彼の前に姿を現したという話は、どう解釈すればよいのか。ただの偶然、たまたま、その犯人によく似た人物が現れ、そのショックが原因で、スティーブンは、あんな妄想を抱くようになってしまったのか。

(やはり、一度医者にかからせるか)

思い悩んだ末、一番実際的な結論を下して、知り合いのセラピストの電話番号を探す為に、デスクから立ち上がった時、先ほどの記者が再び戻ってきた。

「ロバート、この記事もついでにご覧になりますか?」

怪訝な顔をするロバートの前に、彼は、一冊の大衆向けの週刊誌を広げて、置いた。

「マイクの所の安っぽい記事ですよ。けれど、もしかしたら興味があるかなと思って、探してきました。新聞にも、同じ事件を扱った小さな記事は載っていたけれど、一番大きく取り上げたのが、ここだったんですね」

眼鏡の位置を直して、渡された雑誌を取り上げ、その記事に目を通してみた。「謎の変死体、発見。吸血鬼の仕業か?」と、タイトルを見ただけで、いつもなら思わず伏せてしまいたくなるような荒唐無稽の下らない記事だったが、この時のロバートは、何かしらはっとなって、その記事の隅から隅までを何度も読みなおした。

それは、つい最近、このロンドンで現実に起こった、ある外国人旅行者の不自然な死に関するものだった。身元不明の若い男性の遺体が、Aホテルで発見された。死因は失血死。だが、男性の体に残された傷跡は、首に残された噛み傷のみ。そう、噛み傷。そして、失われた大量の血は、部屋の中のどこにも見つからなかった。これが殺人事件ならば、犯人は、被害者の血を吸血鬼のように飲み干した、ということなる。

ロバートの自信が、その瞬間、ふと揺らいだ。そして、記者としての直感のようなものが、彼に、ただ事ではないことが起こりつつあると、知らせてきた。

そして、今、自宅で一人、同じ記事を前に、物思いに沈んでいる。

「吸血鬼…か」

その時、いきなり、来客を告げるインターホンが鳴った。

「こんな時間に、一体、誰が…?」

訝しく思いながら、玄関まで応対に出る。

「どなたかな?」と、都会に暮らす者らしく、用心深く、鍵は開けず、扉ごしに呼びかける。すると、聞きなれた声が、その呼びかけに応えた。

「ロバート、俺だ…スティーブンだ…」

ひどく疲れた、ほとんど別人のようなしわがれた声だったが、ずっと心配していた甥のものであることは間違いない。ロバートは、すぐさま、扉を開いた。

「スティーブン?!」

扉を開けたとたんに、どっと倒れこむように中に入って来る若者を、慌てて手を伸ばして、抱きとめる。

「ど、どうした、スティーブン…血が…怪我をしているのかっ?」

肩を抱いて起こされたとたん、スティーブンは、左手を押さえて、低い苦鳴を漏らした。

「手を…一体、その手をどうしたんだ?」

思ったよりもひどいスティーブンの状態に、顔色を変えて、ロバートは、鋭い声で尋ねた。

「ロバート…ロバート、すまないが、水を一杯もらえないか」

床にぐったりと坐りこんだまま、苦しげに喉を押さえて、そう頼むスティーブンのために、ロバートは、慌ててキッチンまで走っていき、コップに水を汲んで戻ってきた。

「スティーブン、ひどい怪我だ…骨が折れているだろう、早く病院に行って、医者に見せないと…」

不安げにロバートが見守る中、スティーブンは、コップの水を一息に飲み干し、ようやく人心地ついたように、息を吐いた。

「ロバート、あんたに頼みたいことができたよ」

「頼み?分かったから、それよりも、先に医者に行こう。車で連れて行ってやるから、さあ…」

「いや、俺の話が、先だ。悪いけど、そのバックの中に、ビニール袋に入ったナイフがある、そいつを出してくれないかな」

「ナイフ?」

不審に思いながらも、言われるがまま、ロバートは、スティーブンのバックを開き、中から

ビニールの袋を取り出した。

「スティーブン、こ、これは一体、どうしたっていうんだ、血まみれじゃないか!」

ロバートは、一瞬、絶句した。その小型の登山ナイフは、まるで、誰かを深々と突き刺したかのように、血でべっとりと塗れていたのだ。

「そのナイフに付着した血を、誰か、専門家に至急調べてもらいたいんだ。そうすれば、あんたにも、俺の言っていることが真実だと分かるだろう」

ロバートは、呆気にとられた顔で、スティーブンを見た。

「スティーブン、おまえ、一体、何をしたんだ」

「あいつと対決したんだよ。勝てるとは思ってなかったけれど、どれほどの化け物か確認するために…あいつ、胸を刺されても、ぴんぴんしてたぜ」

「何ということを…」

スティーブンは、目をぎらぎらさせながら、壮絶な笑いをうかべた。それは、とても、ロバートの知っている、ちょっと屈折はしているけれど、家族や親しい友人達にはとても愛情深くて、優しい所も一杯ある、甥っ子のものではなかった。まるで、何かに取りつかれたかのようで、ロバートの背筋を寒くした。

「本当に、俺みたいなただの人間がまともにぶつかっても、太刀打ちできる相手じゃなかった。太陽の下でも普通に歩き回るし、教会にだって平気で入って来るんだ。弱点なんか、本当にないのかもしれない…けれど、もしかしたら…その血を調べたら、何か、分かるかもしれない、あいつの弱み、不滅の体を滅ぼす方法が…そうだろう?」

「吸血鬼…おまえは本気で言っているのか。本気で…そいつと戦い、撃退しようというつもりなのか」

何ということだろうと、ロバートは、胸のうちで一人ごちた。スティーブンの狂気が、自分にも移ったのだろうか。吸血鬼。愚にもつかない話とばかり思っていた、それを、信じ始めている。

「ロバート、聞いているのか?」

スティーブンの無事な方の手が肩を強くつかむのに、ロバートは、身震いして、我に返った。

「分かった」

うめくように、彼は、言った。

「以前雑誌の取材で知り合ったんだが、大学で、再生医療の研究をしている男がいる。細胞については、まあ、専門家なんだろう…彼に頼みこんで、この血を調べてもらおう…弱点云々まで調べてもらえるか分らないが、少なくとも、これが何の血かくらいは、分かるだろう」

そんな約束をするつもりなど、スティーブンの妄想を助長するような手助けをするつもりなど、ロバートには、なかったのだが、なぜか、逆らえなかった。スティーブンの鬼気迫るような迫力に押されてしまったのかもしれない。

ロバートが、そう約束したとたん、その肩を強く掴んでいた、スティーブンの手が緩んだ。

「スティーブン?」

若者の体が、いきなり、あらゆる力を失って、壊れた人形のように、床に崩れ落ちた。極度の緊張に張り詰めていた心が、緩んだとたん、これ以上、意識を保つことができなくなったのだろう。完全に、気を失っていた。

「おまえは、一体、どんな世界に、足を踏み入れてしまったんだ…?」

傷つき、ぐったりと床に倒れ伏すスティーブンを、心配そうに見下ろして、そう呟くロバートもまた、己の前にぽっかりと開いている、別の世界への入り口に気がついたかのように、ふいに言い知れぬ寒気を覚えた。片手には、スティーブンから託された、何者かの血で塗れた、ナイフがある。人でないものの血だという。

脳裏に、あの雑誌の記事の内容が、まざまざと蘇る。何者かに血を抜き取られて死んだ、外国人。吸血鬼の仕業。

「まさか、そんな…」

これ以上、抑えることができないというかのように、ロバートは、大きく身震いをした。

NEXT

BACK

INDEX