愛死−LOVE DEATH− 

第九章 予感


狩人として生きる為のルールというものが、カーイにはある。レギオンか、それとも母から教わったことかもしれないし、長い年月を人の血を奪って生きていく経験の中で、自然に学んだことかもしれない。それを守ることを、カーイは、これまで己に課してきた。

一つには、同じ場所で、続けて殺しをすることは避け、恋が終わったなら速やかにそこを立ち去ること。そして、もう一つは、もし、己の正体を、獲物やその周囲の人間が怪しみ出すような状況に落ち入った時は、例え、その恋が半ばで、終わらせるには早すぎると思っても、すぐさま恋人との関係を清算―つまりは、殺してその血を奪い、やはり、直ちにその土地を離れること。

カーイの中の冷静な部分は、己の行動をしきりに咎めていた。やはり、あの時、この街をすぐに離れるべきだったのだ。たまたま出会った少年がちょっとかわいかったからといって、余計な色気を出して、次の狩りを同じ場所ですぐに始めてしまうなんて、馬鹿もいい所だ。掟を破って、ろくなことはない。 

そんなことを考えている一方で、先ほどの己の行動に、当惑を覚えていた。全く、どうして、殺さなかったのだろう。いや、殺せなかったのだ。ずっと昔ほんの気まぐれで助けたことはあったが、あの若者に、そこまで同情的になる理由など、カーイにはなかった。スルヤが大切に思っている人間だから?それだけの理由で?

自分で言ったことではあったが、今更のように、唖然としていた。

(全く、こんなことは馬鹿げている。今の私は、どうかしてしまっている)

圧倒的な力を見せつけて、あの生意気な若者を叩きのめして、少しは溜飲が下がってもよさそうなものだったが、何故だか、少しも勝った気がしない、むしろ、打ち負かされたののは自分であるかのように、ひどく気分が落ちこんでいた。

(狩人としての本能をなくしかけているのだろうか…)

長い間、人間社会に混じって、たった一人で生きていると、時々自分が何者であるか、分からなくなってくる。例えそうなっても、吸血という、どうしても避けられない、生きるための行為を通じて、結局、そのことを思い出し、確認するのだが、何も知らない駆けだしのヴァンパイアだった頃のように、無邪気にそれを楽しんだり、不必要な流血に陶酔することはもうできなくなって、久しかった。いや、狩りの行為に嫌気がさした訳ではないし、今でも、獲物相手の駆け引き、狙いを定めた相手をどうやって落とすか、相手が自分に夢中になっていくにつれ、その血が甘く変わっていく様は、ぞくぞくするようなスリルと残酷な喜びに満ちていて、大抵の場合、狩人の本能に従うことを素直に楽しめる。ただ、時々、ふっと我に返ったようになって、果てしない流血の繰り返しに、うんざりする。できれば、最後のその時を引き伸ばしたいと願うことも。今のカーイは、たぶん、殺しをすること自体は、あまり好きではないのだ。必要だから、するだけで。

だから、スティーブンを殺すことにも、気が乗らなかったのか?脅して、相手が引き下がればよしとするなどと、随分甘い考えと言わざるを得ない。

人間に感情移入をしすぎるのかもしれない。いや、完全に心を閉ざし続けることは不可能だろう。あまりに近くにいすぎるし、その姿形も、心も、彼らは自分とよく似ている。

カーイの白い、張り詰めた顔に、ふと暗く寂しげな微笑がうかんだ。

(全く、痛みを感じないという訳ではないのでね…) 

自分が言った言葉に、密かに、頷く。人間の心は分かるし、同じように感じることもできる。だから、例え不死の怪物の胸だって、潰れそうなほど痛くなる時はある。

カーイの心は、一瞬、ニューヨークでの束の間の恋人を、雪に塗り込められ街、一人取り残されたあの冷えたうつろな部屋を思い出していた。慄いたように、頭を振って、その記憶を閉め出そうとした。

それから、家でカーイの帰りを待っているスルヤのことを考えた。早く戻って、安心させてあげないと。約束の9時までに、間に合うだろうか。スルヤの顔を思い出すと、カーイの心も一瞬やわらいだが、それも、すぐに苦い思いに取ってかわられた。

スティーブンに対して、言った自分の言葉をやはり思い出したのだ。その時が来るまでは、大事に守ってあげる。そうして、最後のその時には、苦しませぬよう、殺してあげる。

よくもあんなことが言えたものだ。傲慢で、身勝手で、ぞっとするような欺瞞に満ちている。そのくせ、また何食わぬ顔をして、スルヤのもとに帰ろうとしているのだ。

けれど、一体、他にどうしようがあるというのか。

「違う…」

カーイは、突然、打たれたようになって、立ち止まった。心が、ばらばらに引き裂かれていくようだ。このままでは、いけない。

「そうじゃない。こんな感傷に浸っていては、私は本当に駄目になる…。勘違いをしてはいけない、カーイ。おまえは、血を吸う者…ヴァンパイアの最後の子供」

カーイは、ひどく混乱していた。こんな精神状態は、狩人としては、全くふさわしくない。この頃の自分は、どこかおかしい。一体、どうしてしまったというのだろう。まるで人間のように、ひどく心が脆くなっている。それとも、ヴァンパイアは、誰しも皆、同じような問題を抱えこむものなのだろうか。どうかすれば、克服できて、更なる永遠に向かって、次のステージに進むことができるのだろうか。いつか、今よりもずっと年経た強力な存在となった時に、過去を振りかえり、ああ、そう言えば昔若かった頃は、あんなたわいもないことで悩んでいたと、苦笑混じりに振りかえれるようになるのだろうか。カーイは、まだやっと200才を超えたばかりで、神の域にまで達していたその母のように、決して老練なわけではない。しかし、教えを乞いたいと思える先輩のヴァンパイア達は、既にこの世界にはおらず、結局、いつだってカーイは、手探りで前に進むしかなかったのだ。

(しっかりしないと…頼れるものは、自分自身しかいないのだから…)

カーイは、努めて理性的になろうとした。感傷にばかり捕らわれていては、泥沼に足を取られ、どんどん引き込まれていくだろうことは、予想できた。どこかで断ち切らないと。たぶん、今が、その潮時なのだ。

(そう、おまえは、分かっているはずだ)

カーイの正体を知る、スティーブンという存在が、スルヤの近くに現れた時に、この恋は終わらせるべきものになった。これ以上続けなければならない理由はどこにもない。本当は、もう少し楽しめるはずだったのに、それを思うと、口惜しさもあるが、仕方がない。

スルヤを、殺そう。今夜。

そして、明日の朝、この街を去る。

それが、今のカーイが取るべき最良の道だった。



スルヤの笑った顔が好きだった。物怖じせずにまっすぐに人を見る、綺麗な澄んだ瞳が好きだった。甘ったれた声や、子供じみた仕草には、いつも、恋人というより保護者めいた気分にさせられた。発育途中の細い腕も薄い胸もカーイの理想には程遠かったが、あやすように抱きしめているつもりで、どうしてだか、気がつけば、いつも抱きしめられている自分がいた。

(スルヤ)

ひどく遠く思えた、家までの残りの道程、カーイは、スルヤのことばかり考えていた。殺すとことを決心すると、これまで、彼と共に過ごした短い時間の中で発見した諸々のこと、些細な場面、思わず微笑をもらしそうになる楽しい経験や小さな後悔が、次々と思い出されて、カーイの胸を一杯にした。

(こんなふうに突然、最後の時を迎えねばならないなんて)

カーイは、つくづく残念でならなかった。

(もっと特別な日にしたかった、こんなふうに慌しく出ていって、帰るなり、殺すなんて…もっと一緒にいて、親密にすごしたかった)

それから、ふと、昨日した小さな喧嘩のことを思い出して、後悔した。喧嘩というより、虫の居所の悪かったカーイが、一方的にスルヤに言いがかりをつけて、苛めたのだ。カーイは、沈黙を守ったきりのスティーブンの出方を考えて、カリカリしていて、何も知らない、いつも上機嫌のスルヤの顔を見ていると、無性に腹が立ってきて、つい嫌みを言ってしまった。何も悩みのない人はいいですね、とか、頭の中が年中春だとか、そんなようなことを言った気がする。大人気なかった。カーイの不機嫌の理由が分からないスルヤは、心配そうに彼を見ていたが、それもあえて無視した。こんなことになると分かっていれば、もっと優しくしたのに。

何時の間にか、家の前までたどりついていたが、カーイは、すぐに中には入らず、玄関の扉の前でじっと立ち尽くしていた。

(スルヤ…)

深く嘆息し、コートのポケットから家の鍵を取り出し、鍵穴に入れた。カチャリという金属音がする。カーイは、重い気分を抱えたまま、扉を開けて、玄関に入った。

その瞬間、何かが、彼の体に飛びついてきた。

「カーイ…!」

スルヤだった。

「カーイ、よかった…本当に帰ってきてくれたんだね…!」

叫ぶようにそう言って、カーイの体をひしと抱きしめるスルヤに、カーイは、とっさに何も言葉が出てこなかった。

「ス、スルヤ…?どう…?」

ここにつくまでの間、悶々と考えこんでいた様々なことが、一瞬のうちにどこかに吹き飛んでしまった。カーイは、戸惑いながら、己の肩に押し当てられている、スルヤの頭に手を置いた。

「帰って来ないかもしれないと思ってたんだ。このまま、どこかに行っちゃうんじゃないかって」

カーイは、ほうっと息をついた。

「帰ると行ったはずですよ。約束通り、9時の映画には、間に合ったでしょう?」

固めたはずの心が、またばらけていくのを意識した。なす術もなく、流されていく。

「どうして、私が帰ってきたと分かったんです?」

「うん。上の部屋にいて、窓から外を見ていたんだ。もしかしたらもう帰って来るかもしれないって、ずっと待ってたら、あなたが歩いてくるのが見えて…それで、急いで下に降りてきたんだよ」

何だか、無性にいじらしくなった。

「馬鹿ですね」と、囁きかけて、その口に軽くキスをした。

「私が一体、どこに行くと思ったんです。ここより他に帰る家はないんですよ?」

その言葉にスルヤは、大きな目を見開いて、カーイの顔をじっと見つめた。

「そう思ってくれてるなら、すごく嬉しいよ」

そう言って、破願した。

「本当ですよ」

心の中で、カーイの別の部分はやめろと訴えていたが、自然に沸き上がってくる言葉は止められなかった。

「着替えてきますから、コーヒーでも入れてくれませんか?映画、始まってしまいますよ」

「うん…うん…」

嬉しそうに頷くと、壁の時計をチラリと見、スルヤは、スリッパをぱたぱた鳴らせて、キッチンに走っていった。

その後ろを見送った後、カーイは、しっかりボタンをとめたコートの胸を押さえた。前をとめていてよかった。スルヤに気づかれなくて、本当によかった。胸を刺された傷は、跡形もなく綺麗に消えているから、血を洗い流して、スルヤの目に付かないうちに汚れたセーターを処分してしまえば、何事もなかったことにできる。スルヤには、知られたくない。

今夜、殺すのでは、なかったか?

カーイは、あきらめたように、頭を振った。そうして、着替えをする為に、二階に上がっていった。



その夜、スルヤと同じ寝床に身を横たえ、すやすやと安らかな寝息をたてている、恋人の幸福そのものの寝顔を見下ろし、その頬に手を当てて優しく滑らせながら、カーイは、物思いに沈んでいた。

掟を破るのは、これで、二度目になる。それに対する、不安がないわけでは、ない。

本当に、これでいいのか?

後で、今よりもずっと辛い思いをすることになるのではないか?

ポールとの恋が終わった時、こんな辛い思いをするのはもう二度とごめんだと思ったはずなのに、またしても、獲物に情をかけてしまった。

(分かっている。私は、きっとまた後悔する…スルヤを殺した後は、しばらく辛いだろう…もう、こんなことは嫌だ、殺さなければならないなら、もう誰も愛したくないと思うだろう。けれど、結局は、同じことの繰り返しに戻っていく…生きるために)

頬を滑るカーイの指の感触がくすぐったいのか、スルヤは、手を持ち上げて、顔の辺りをこするようにして、何か、寝言を言った。

その様子をうっとりと見下ろし、スルヤのすぐ横に身を落ちつけると、暖かいその体に腕を回して、そっと頭をもたせかけた。目を閉じた。

スルヤ。この優しい温もりに、心が流れていく。ただの感傷にしては、度を越してはいないか。いつ失ってもおかしくないものに、こんな安らぎを見出すなどと、間違っている。しかし、

「お願い…もう少し……」

懇願するようにそうつぶやいて、カーイは、迫ってくる不安を押し戻した。 


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