愛死−LOVE DEATH− 

第十章 いのち

ロンドンの北西に位置するバッキンガムシャーは、大都会に隣接する地域でありながら、南部一体にグリーンベルトと呼ばれる開発規制地区が広がっているために緑が豊かで、ゆるやかな丘陵地が心安らぐ風景を作り出している。二年前、その地域の由緒あるマナハウスが売りに出され、アメリカの大富豪が買い取ったというニュースは、この小さな自治体内ではちょっとした話題となった。古い建築物の保存運動の活発なこの国のことであり、ビクトリア時代の首相がかつて住んでいたこともあるというその古城を外国人の私有とすることに抵抗を覚えた者たちは多く、新しい所有者であるメアリー・E・コックスが購入後間もなくその古い屋敷に大規模な増改築を行なおうと計画した際には、付近住民の間で激しい反対運動が起こって中止に追いこまれたこともあった。その一件が落着した後は、それ以上住民との軋轢を生むような問題が起きることもなく、全く公共の場には姿を現さない、そのアメリカから移り住んだ金持ちの未亡人の周囲はひっそりと静まりかえっていたのだが、ここに至ってにわかに騒がしくなっていた。

それというのも彼女が会長を努めるアメリカのバイオ企業コックスバイオメディカル社が、人クローンに関する研究で違法行為を行なった疑惑がマスコミで取り沙汰され、ついには捜査が入り、起訴にまで及んだというニュースがイギリスにまで伝わったからだ。イギリスにも、コックスバイオメディカルの子会社ともいうべきコックス製薬が、再生医療の分野でここ数年伸びてきており、同じ疑惑の目は、自然とそこにも向けられるようになった。

イギリスの胚性幹細胞(ES細胞)に関する規制はアメリカのそれに比べてゆるやかなもので、監視機関の指導のもとに特定分野の研究をすることは許されていたが、新しく制定されたES細胞規制法はより厳しい規定をこの分野に定めた。そうして、その規制の網に引っかかったのがコックス製薬だったのだ。コックス製薬及びその関連研究機関には、人受精卵を使っての倫理的に問題のある研究・開発はすべて凍結との裁判所命令が出された。更にイギリス国内の複数の研究所や工場に立ち入り検査まで受けることになったコックス製薬に関して、世間の疑惑の目は更に深まった。外に出てきたこと以上にうさんくさい研究が、実際中では行なわれてきたのではないか。

アメリカで持ちあがった訴訟から逃げるためにイギリスに移り住んだとも噂されるコックス会長だったが、安寧な生活はどうやらここでも難しくなってきたようだ。

だが、少なくとも、その居城であるこの屋敷の周囲には、まだその嵐が押し寄せてくる気配はない。広大な丘陵地のただ中に横たわる古いマナハウスは、世間から隔絶された孤島のような印象を、訪れる者に与えた。

「どうぞこちらでお待ち下さい」と、その男が、表情らしい表情のない秘書に通されたのは、コックス会長の私室の隣にある控え室だ。

「は、はい」と、緊張した面持ちでしきりにハンカチで額の汗をぬぐっているその男の名は、ジェイムズ・パリー、L工科大学に在籍する研究員で、コックス製薬の出資のもと臓器再生の研究をしている。この分野に関して、パリーは優秀で、そして、また野心的でもあった。学問だけをしていれば満足する研究者タイプではなく、自分の研究は将来性のある、成功すれば企業がついて間違いなく金になるものでなければならないというのが彼の信条だった。だから、コックス製薬の援助がついた時には、この研究テーマを選んだ自分の判断は正しかったのだと自信を持って、ますます仕事にも熱を入れるようになったし、自分の存在をことあるごとに会社にアピールし、よい出資先だと印象づけることにもぬかりはなかった。そして、現在のプロジェクトが軌道に乗り、パリーの手を離れていきつつある今、会社が食指を動かしそうな新しいテーマを探し続けていた。

だが、それを手に入れたのは、彼の努力とは無縁の、全くの偶然だった。パリーは、最初、一体それが何なのかも分からなかった。況や、自分に大きなチャンスをもたらすものとなりうることなど夢想だにしていなかった。

ことの初めは、いつだったかある雑誌のインタビューを受けた時に知り合ったやり手の編集者が、突然彼を訪ねてきたことである。ロバート・ブランチャードのことはよく覚えていた。一般誌の取材を受けたことで、パリーの名は業界以外にも少しは知れるようになり、それは仕事の面でも彼の有利に働いてくれたからだ。再び取材の申し込みをしにきたのだろうかと思ったが、その当ては外れた。ロバートは、パリーに個人的に助けを求めてきたのだ。ある血液を調べて欲しいという。そうしてパリーの目の前に出されたのは、べっとりと血の付着したナイフという気味の悪いものだった。こんなうさんくさい話に関わりあうはごめんだと思ったパリーだったが、ロバートに恩を売っておくのは悪くないかもしれないと考えなおして、その血液を検査することを引きうけたのだ。

調べるといっても何を調べたらよいのかと尋ねるパリーに、ロバートは、彼らしくもなく実に歯切れの悪い言い方で、とにかくこの血が一体何の血であるのかをまず調べてくれと言った。それから、実に奇妙なことを付け加えたのだ。この血を、細胞を、どうやったら殺せるのかその方法を見つけてくれ、と。

全く、分からないことだらけの依頼だった。ロバートの頼みでなければ、たちの悪い冗談だと思って、はねつけたところだろう。

だが、そうして手に入れた、その血液サンプルを何気なく調べていくうち、パリーは、どうやら自分がとんでもないものを手に入れたらしいことに気がついた。最初のうち、それは何の変哲もない人間の血液のように見えた。顕微鏡で見る限り、血球の形にも数にも異常は見当たらない。ただ体外に出てかなり時間が過ぎてているというのに凝固が起こっていないのが奇妙に感じられた。だが、本当の意味で驚愕したのは、この細胞を殺す方法をと言ったロバートの言葉を思い出して、何となく、サンプルに熱を加えてみた時だ。こんなことをしたらサンプルを駄目にしてしまうと思ったが、殺す方法を見つけろということなのだから別に構わないだろうという軽い気分でやったのだ。そうして、さっさとこの意味不明の検査を終わらせてしまえというのが本心だった。血球も主成分はタンパク質なので、熱を加えれば、変性、凝固する。例え、それがどんな生き物の血であっても。

ところが、それは変性しなかった。パリーは、我が目を疑った。そんなはずはない。だが、何度実験を繰り返しても、同じだった。その血は、見た目にも変わらず、顕微鏡で調べてみても、血球は壊れていなかった。今度は逆に低温にさらしてみたが、同じことだった。薬品にも反応しなかった。細胞は、生き続けた。パリーは、本気にならざるを得なかった。自分の研究室の設備だけで不充分だと判断した彼は、大学の許可を得た上で放射線の照射実験や超高温、超低温状態にさらすことまでも行なったが、可能な限りの手を尽くしても、その細胞を壊すことはできなかった。それから、愕然たる思いで悟った。この細胞は、不死なのだ。

「ロバート、一体、あれは何なんだっ?!」

初めの乗り気でなかった様子とは一変して、血相を変えてロバートに電話をしたパリーは、思いもよらぬ答えを得た。

「君の分析では、何だと思うんだ?」

「知るものかっ!初めは、普通の人間の血のように思えた…だが、違う…人間どころか、どんな生き物の血でもあり得ない…あれは、決して死なないんだ。こんなことは、ありえない…一体、どこであれを手に入れたんだ?」

電話口の向こうのロバートは、しばし、黙したまま答えなかった。何故だか、彼が呆然としているのが分かった。

「つまり、君は、あれが人間のものではありえないというんだな」

「見かけはそっくりだが…たぶん、通常の血液検査くらいでは、見つからなかったかもしれない。何となく、擬態という言葉を思い出してしまったよ。けれど、300度の高熱にも耐えられる生き物など存在すると思うか?」

「では、あれの弱点は、結局見つからなかったということか」

「そうだな、今の時点では…低温には関しては、若干弱いらしいということは分かったが。液体窒素でマイナス80度まで冷やしたら、一時的に細胞の活動が停止した。だが、それも、もとの温度に戻れば、再び活動を始めるんだ。死ぬわけではない」

「そうか…」

ロバートは、パリーの言葉をじっくりと考えこむかのように黙りこんだ後、言った。

「あれは吸血鬼の血だと言ったら、君は信じるか?」

パリーは、息を呑んだ。それから、神経質な笑い声をたてた。

「馬鹿なことを言うな。そんな非科学的な話、信じてもらえると思っているのか?」

「普通の状態では信じてもらえんと思うよ。だが、君は、そのサンプルを今手にしている。科学者として、それが何なのか説明できるものならば、答えをくれないか。切実に願っているんだ、こっちも」

こう問い返させて、パリーも黙りこむしかなかった。

「私には、これが何なのか、今結論を出すことはできない」

考えあぐねた挙句、うめくように、そう言った。

「できれば、もう少し調べる時間が欲しい…遺伝子の解析も含めて…。ロバート、このサンプルをもっと手にいれることはできないか。他の研究所にも送りたいし、様々な検査をするのに、これでは不充分だ」

「それは、無理だ」と、上擦った声でロバートは答えた。

「それだけのものを手に入れるのに、怪我人まで出ているんだ。これ以上の危険はおかせん。吸血鬼…とにかく相手は不死の細胞を持つ怪物なんだ。下手に手を出せば、死人が出るかもしれない」

吸血鬼。ロバートは、確かにそう言ったのだ。そんな世迷いごとを科学者である自分が信じるのか。パリーは、いまだに悩んでいた。

ロバートの重々しい声を胸の奥で噛み締めていた時だ。先程の秘書が、奥へと続く扉を開いて、再び現れた。

「パリー様。コックス会長がお会いになられます。どうぞ、お入りください」

パリーは、大きく深呼吸して、夫の死後、アメリカでヨーロッパで最先端を走りつづけるバイオ企業を統括する女富豪の待つ部屋に、足を踏み入れた。

まさか本当にここまで来てしまうとまでは思っていなかった。ロバートから手に入れた細胞のサンプルは、もしかしたら、次の研究のテーマとなりうる、企業にとっては宝の山のような無限の可能性を秘めたものなのだという気がして、コックス製薬の重役にサンプルの一部と共にデータを送った。だが、ここまでの反応が、それも即座に返ってくるとは。会長自らが、パリーをその自宅に招待して話を聞こうとするほどに、この眉唾物の話に乗ってくるとは、さすがに思っていなかったのだ。

メアリー・E・コックスが日々の大半を過ごすその広い部屋は、森閑としていた。一歩足を入れた時、その静けさと、薄暗さに、パリーは一瞬ひるんだ。

「照明は落としてあります。慣れない内は不自由かもしれませんが、どうか御容赦を。会長はこの所お体が優れず、明るい光は目を疲れさせるとおっしゃいますので」と、扉の所に佇む秘書が、戸惑うパリーに慇懃な口調で説明した。

部屋の端に立ち尽しているうちに次第に目は慣れ、部屋の中にあるものが分かるようになってきた。天井の高い、個人の寝室にしては広すぎるくらいの部屋だが、勢を尽くした内装、年代ものの重厚な家具のおかげで、それほど空間が空きすぎるといった印象は与えない。このような古い建物は、水回りや冷暖房の面で不具合が多く、断水したり、冬場は底冷えをするのが常なのだが、屋敷を購入後最新の設備が設置されたらしい、その点については、この部屋は快適で、温度湿度共に申し分なかった。部屋の奥には、樫材の凝った意匠を施した大きな寝台があった。これもまた由緒あるものなのだろうが、その両脇には設置された最新の医療機械が妙な違和感を覚えさせた。

部屋に入った時からパリーが気になっていた、機械の震動と、吐息をつくようなフーッという音の正体はこれだったのだろう。巨大な寝台に横たわる者に呼吸をさせる人工呼吸器の、24時間記録しつづける心電図や血圧計その他精密機械の奏でるハーモニーだ。

健康を害しているという噂は聞いていたが、それは、自分の身辺にまで伸びてきた捜査を退ける為の方便だろうと思っていたパリーは、この様子にさすがに絶句した。今にも死にゆこうとする命を、あらゆる手を尽くしてこの世に留めておこうとしているかのようだ。考えてみれば、コックス夫人は、もう80をとっくに越えている年齢だった。本当にいつ死んでもおかしくないのかもしれない。

「どうぞ、お近くに」と、秘書に促されて、パリーは恐々夫人の枕もとに近づいた。

ベッドサイドのテーブルに並べられた幾つもの写真たてにふと気づいたが、好奇心にかられて覗き込む前に、寝台の中に横たわる人物の意外に明瞭に響く声が、パリーに呼びかけた。

「おまえが、あれを手に入れたのかい?」

とても死に瀕している老人のものとは思えない、聞くだけで緊張のあまり姿勢正したくなるような、底知れぬ迫力を感じさせる声だった。

「は、はい…コックス会長、お目にかかれて光栄です。L工科大学のジェイムズ・パリーです。コックス製薬に出資いただいた肝再生のプロジェクトに主席研究者としてずっと関わっております」

胸の奥で激しく鼓動する心臓を意識しながら、礼儀正しく挨拶を述べるパリーを制するかのように、静かな声が遮った。

「社交辞令は無用。私には、時間がないの。この姿を見れば分かると思うけれど…」

「は…」

パリーは、恐縮して口をつぐみ、手にしてハンカチをぎゅっと握り締めた。暗闇に沈んだ部屋にも大分目が慣れてきて、大きなクッションを幾つも重ねるようにして、上体をやや起こした姿勢で寝台の中で休んでいる会長の顔も、こうして間近で覗き込むと、よく見える。微かな戸惑いが、パリーの神経質な顔にうかんだが、それを口にする勇気はなかった。確か80才は越えていたはずだが、ここに横たわっている女性は、病んではいるものの、せいぜい50を越えたくらいにしか見えなかった。健康であれば、まだまだ美しくさえあったかもしれない。

「現代のバイオ医学の成果であり、ある意味では行き詰まりでもあるのだよ、この体は」と、パリーの不安を読み取ったかのようにコックス会長は囁いた。

「昔から人類は不老不死を夢見てきたけれど、ここに至って、どうやらそれも単なる夢物語でなく現実味を帯び始めてきた。遺伝子を解析して、どんな病気にかかりやすいかを予め予想すれば、それを防ぐこともできるし、遺伝子そのものに働きかけて治療することも可能となった。事故や病気で欠損した組織を再生して、新しいものと取りかえることも…これはおまえの専門だったね…服を取りかえるように、古くなった体の部分を新しいものと取り変えられるようになる日もそう遠くはないのだろう。老化や死のプロセスが解明されていくにつれて、いつか死そのものを克服できるかもしれない…。死を打ち負かすこと、それが、私の長年の夢であり、使命でもあった。だから、新しい技術の実験をこの体ですることにも躊躇いはなかった。これまではずっとうまくいっていたのだけれど…この顔は別に整形をしたわけではないのだよ。老化をとめる様々な処置を施したおかげで、私は、夫から受け継いだ大企業のトップの重責に耐えられるほどの若さと力と明敏さをずっと保っていられたのだけれど…ここまで来て、不完全な技術の不具合が色々出て来てしまったようだね。昔、自動車事故で痛めた脚の神経組織を移植、再生することに成功して元通りの生活ができるようになったまではよかったのだけれど、最近、移植組織がガン化していることが分かったの。83の老人とは思えないほどに他への転移も早かった…若返りの処置を受けつづけてきたおかげで、必要以上に全身の細胞が活性化していたようだね」

そう言って、コックス会長は乾いた笑い声をたてた。パリーは、呆然となって、その告白を聞いていた。そんな実験的な施術の許可がよく下りたものだと一瞬いぶかしんだが、秘密でやったのだと思い至って、ますます驚くべきものを見るかのように目つきで、会長の人工呼吸器に半ば隠された顔を、とても死につつある者には見えない、依然として鋭い光をたたえた青い目を凝視した。

不老不死。時折金持ちの中で、そんな途方もない夢に取りつかれる連中がいる。なまじ、何でも手に入れられるくらいの金も権力もあったがために、およそ現実的とは思えない目的の達成に血道を注いで、世間からは変わり者扱いされる。パリーの知っている研究者で、胚幹細胞の研究をしている男のもとにも、度々、自分のクローンを作ってくれないかというオファーを打診してくるアラブの大富豪がいるそうだ。そんな妄想に狩られた連中の話は、パリーにとっては馬鹿馬鹿しい限りなのだが、コックス会長もその口だったのだろうか。冷徹なまでの意思を感じさせる、その青ざめた顔は、そんな印象を与えないが、最新の技術の実験台と自らなって、その代償に今死の床についている、彼女の生き方は、簡単な批判は躊躇われるような壮絶なものであったし、何故そこまでと、問いかけたとなるような情熱だった。

「さて、本題に移るとしよう。おまえの送ってくれた血液サンプルとデータは、こちらでも検査、分析をした。その結果、追跡調査の価値があると、私は判断した。…人間によく似てはいるけれど、そうではない、正体不明の生き物の血だという話だけれど、具体的には、あれは何の血なの?」

パリーは、またしても全身から汗が噴き出すのを覚えた。

「は…その…実は、こんなことを言うとお叱りを受けるかもしれませんが、あれを私に渡した男は、「吸血鬼の血」だと…」

口に出してみて、我ながら、そのくだらなさに唖然とした。駄目だ。こんな話を、信じてもらえるはずがない。せっかく、会長と直接会って話す機会に恵まれながら、この一言でパリーの信頼は地に落ち、ここから追い出されて、二度とまともに取り合ってももらえなくなるに違いない。しかし、コックス会長の反応は、パリーの予想したものとはまるで異なっていた。

「なるほど…吸血鬼の血ならば、あの耐久性も不思議はないというわけだね。伝説通りに考えるならば、光には弱いはずだけれど、そういう報告はなかったような…」

彼女は、まるで平静そのものだった。こんなとてつもない話を信じるという点で、やはり普通ではないのかもしれない。

「あのサンプルを手に入れた男、ブランチャードの話では、その「吸血鬼」は、ほとんど人間を変わらぬ暮らしができるようです。昼間でも平気で外を歩けるし、十字架も全く通用しない…血は吸うんでしょうが、普通の食事もできるそうで…見た目で人間ではないと判断することは難しいのだそうです」

「では、どうして、それが吸血鬼だと分かったのだろうか」

「はい、何でも、そいつの正体に気づいたのは、ブランチャードの甥でして…人を襲ったところを目撃したそうです」

「ほう…」

「すごい怪力を発揮すると言っていました…人間には追いつけないような早さで動くことも。それから…空中に浮き上がったり…壁を通り抜けたりもしたそうです」

促されるがまま、ロバートから強引に引き出した情報を述べたてながら、パリーは、頭がくらくらする思いだった。こんなこと、とてもじゃないが、信じられない。

さすがのコックス会長も、しばらくじっと思索をめぐらせるように沈黙した。

「サンプルが不足している」

しかし、次にそのマスクを通しても明瞭な声が言ったのは、パリーにとっては意外なことだった。

「これ以上の分析をするにも、まずはその吸血鬼を捕獲しなくてはね」

「捕獲ですって?」と、パリーは、つい声を張り上げて、聞きなおした。

「会長、まさか本気でそのようなことをおっしゃっているんですか?本当に、吸血鬼などと、信じておられるんですか…?」

「それがどう呼ばれるものであれ、そこに存在しているものならば、私は信じるよ。この場合、あのサンプルは、少なくとも現実のものだからね。そして、あの血を持つ生き物に私は大変興味を抱いている。別に不思議なことではないだろう。これまでだって、世界中で、新しい薬になりうる植物や微生物の発見に、我々企業は血まなこになってきたのだから…南米やアフリカの密林で、深海で、人間の目に触れたことがないだけで、ちゃんと存在している未知の生き物は残っている。正体は不明だが、おまえが血を持ってきた生き物は、私の会社にとって、それどころか、人類にとって大変貴重な生きたサンプルとなりうるかもしれない…考えてみるがいい、パリー…不老不死の秘密を解き明せるんだよ。それこそ、人類の究極の夢じゃないか」

語るうちに会長は、興奮してきたようだ、その声には熱がこもり、チューブのつながれた細い腕が上がって、何かを掴み取ろうとするような仕草をした。と、突然、彼女を取り巻く仰々しい医療機械から甲高い警告音が発せられた。

「失礼」

いきなり、それまで、ほとんどその存在を感じさせなかった、会長の秘書が、部屋の片隅から音もなく進み出て来て、寝台の中の会長を覗き込んだ。会長は、苦しげに喉もとを押さえて、ハッハッと、短い呼吸をしている。秘書が、機械の操作パネルに手を伸ばし、薬液の注入量を調整するボタンを操作すると、やがて、会長の呼吸も穏やかなものに戻っていった。

「痛みは、いかがですか?もう少し痛み止めを増やしましょうか?」

「いや…今はいい。あれを使うと、どうしても意識が朦朧としてしまうからね。私には、新たに考えることができてしまったから…ただの病人のように眠ってすごすわけにはいかないんだよ」

急な発作を起こした会長の姿に動揺を隠せないパリーに向かって、秘書が、冷静な口調で言った。

「会長の望みは、あなたが手に入れた血を持つ者を、更なる分析と今後の研究のために捕らえることです。その為の協力をあなたにも依頼します」

パリーは、当惑した。

「協力ですって?その…吸血鬼だか何だかを捕まえて、ここに連れてこいというんですか?無理です、私はただの研究者なんですよ?そんな…誘拐みたいな犯罪行為には、とてもじゃないが手を貸せないし、第一、もしそいつが話に聞くような化け物だとしたら、ただの人間の私が太刀打ちできるはずがないじゃないですかっ。ブランチャードも、相手はとても危険な奴だと言っていました。既に怪我人が出ているとも…冗談じゃない、そんな命が幾つあっても足りないような仕事はお引き受けできませんっ」

あのサンプルを会社に送りつけた時は、研究者としての成功への糸口となりうるかという淡い期待はあったのだが、こんな形での協力など考えていたわけではない。自分が危険を犯すことまでは、全く頭の中にはなかったのだ。パリーは、尻ごみした。

「あなた自身に吸血鬼の捕獲などお願いはしませんよ。実際その仕事を行なうのは、別の者たちです。危険な生き物相手に戦って捕獲することに慣れた、必要ならば、多少法に抵触するような手段も用いる、その道のプロに頼むつもりです。あなたは、研究者として、可能な限り、ターゲットの弱点を探り、彼らにアドバイスすることで、この捕獲作戦を成功させて欲しいのです」

「しかし…」

「もちろん、それなりのお礼はするつもりです。そうして、無事ターゲットを捕獲できた暁には、あなたには、その後打ちたてられる新プロジェクトに関わっていただくつもりです…おそらく、これは、非常に挑戦的なプロジェクトになるでしょう。研究者として興味をそそられませんか?」

パリーは、黙りこんだ。彼の頭の中で、得体の知れないものに対する不安と恐怖の念と、現実的な野心と功名心がしばしの間せめぎあった。

「…分かりました…私のできる範囲で協力させていただきます…」

思いきったように、パリーは、言った。あの細胞に秘められた可能性は、確かに多少の危険を犯す価値はあるものだった。

「時間がないの…」

しばらくの間ぐったりと目を閉じていたコックス会長の声が、ふいに響いた。

「どうか急いで…この体がもつうちに…あれを捕まえて…」

うわごとのように呟く会長の手を恭しく取って、秘書は囁いた。

「大丈夫です。ペルーのオルソン兄弟も、明日にはイギリスに着く予定ですし…ワシントンのグリフォン・ジェネティクス研究所からも数名のスタッフがこちらに向かっています…可能な限り急がせますので、どうか御心配なく…」

今更のように、この女は死にかかっているのだと、パリーは意識した。死に瀕しているから、余計に、目の前に急に現れた不死の可能性に飛びついたのか。その執着が、何だか、恐ろしかった。

「パリー様、詳しい打ち合わせは別室にて行ないますので、どうぞいらしてください。会長は、しばらくお休みになられたほうがよろしいようですから…」

「は、はい…」

秘書から促されるがまま、この暗闇に閉ざされた気のふさぐような部屋から逃れられることにほっとしながら、パリーは扉に向かった。コックス会長は、眠りこんでしまったのか、彼らに声をかけることもない。

二人が出ていった後、部屋には、再び深海のような静寂が下りた。規則正しい機械音だけが、穏かに響いている。

しかし、コックス会長は、眠ってはいなかった。体中をチューブにつながれ、呼吸すら機械に助けられながら、何もない虚空をきっと睨みつけるその瞳は、不屈の炎を宿して、一層激しく燃え盛っているのだった。

「私は負けない…あきらめない…」

自らを鼓舞するかのように、そんな言葉を繰り返しながら、狂おしい情熱をこめて、ただ一つの想念をひたすらに追いかけている彼女の視線が、ふと動き、ベッドサイドに飾られた何枚もの写真の上にとまった。

「あなたたちの為にも、必ず…この夢はかなえてみせるから…」

そう囁いたその声は、これまでの彼女のものとは異なって、女らしいやわらいだものだった。聞く者は一人とてない、闇の中でなされた囁きではあったけれど。


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