愛死−LOVE DEATH− 

第九章 予感


その夜のことだ。夕食をとった後、スルヤと二人、居間でテレビを見ていると、廊下の電話が鳴った。いつも見ているドラマのちょっといい場面だったので、席を立つのは惜しい気もしたのだが、熱中すると我を忘れてしまう癖のあるスルヤがテレビにかじりつきの状態になって目をうるませているのを見ると、やはり自分が出なければならない気分になって、カーイは立ちあがった。

「はい?」

受話器を取り上げると、一瞬の沈黙の後、聞き覚えのある、緊張した若者の声がした。

「俺だ」

カーイは、ちらりと居間の方に目をやり、テレビに集中しているスルヤの黒髪の頭を確認すると、彼に気づかれないよう、そっと扉を閉じた。

「スティーブン」

極めて冷静な声音で、カーイは、呼びかけた。が、同時に、相手の意図を推し測ろうとするかのように、電話の向こうの僅かな反応も逃がすまいとするかのように、神経を集中していた。

「何の用ですか?」

ためらいを克服しようとしているかのように、深く息を吸いこむ音がした。それから、以前も聞いたことのある、手の中でライターをカチッと鳴らす音。緊張した時の無意識の癖なのだろう。

「あんたと話したいんだ。今から、ちょっと出てこれないか?」

「話?」

カーイは、用心深く繰り返した。

「ああ、スルヤのいない所の方が、あんたも都合がいいだろう?」

カーイの唇に、薄い微苦笑がうかんだ。脅迫しているつもりなのだろうか。カーイの正体をスルヤに知られたら、困るだろう、とでも?確かに困りはするが、それは、こちらの予定が少し狂うからという理由に過ぎない。分かって、そんなことを言っているのだろうか、この愚か者は。無性に苛立ちを覚えた。

「いいですよ」と、冷たく感情のない声で、カーイは言った。

「どこへ行けばいいんですか?」

電話を切った後、カーイは、ひとまず居間に戻った。扉の所に立ち、相変わらずテレビに夢中のスルヤをじっと眺める。

「…スルヤ」

いつもと少しも変ったところのない穏やかな声で、その名を呼ぶ。少年は、我に返ったようにぱちぱちと瞬きをして、カーイの方に顔を向け、屈託なく笑いかけた。

「電話、どこからだったの?」

何も知らないがゆえのその優しさが、ふいにカーイの胸に迫ってきた。

「少し、出かけてきます」

「えっ?出かけるって、今から?」

「すぐに帰ってきますから、心配しないで…たいした用事じゃないんです」

それ以上の言い訳はしたくない気分だったので、追求を避けるように、スルヤのまっすぐな瞳から、目をそらした。

「カーイ…」

心配そうに呼びかける声は、何か問いたげだ。もっともらしいことを言って、安心させてやるべきだろうか。そう、いつもしているように。

「見ようって言ってた、9時からの映画が始まるまでには帰ってきますよ。それまでが退屈だったら、先にシャワーを浴びたら、どうですか?」

顔を上げて、幾分無理して微笑みかけ、スルヤのもとまで歩み寄ると、気遣わしげな表情をうかべている、彼の頭をそっと引き寄せ、滑らかな頬に軽く唇を押し当てる。

「すぐに戻ります」

もう一度念を押すように囁いて、身を離すと、それ以上の追求を恐れるかのように、踵を返して、急ぎ、部屋を出ていった。

その後ろ姿を、スルヤは、黙って見送ったが、その大きな黒い瞳は、愛する人を案ずる心からの気遣い、信じる思いと、このまま行かせてしまっていいのだろうか、出ていったきり、姿を消して、二度と帰ってこないのではないかというような不安がせめぎあうかのように、揺れ動いていた。



オックスフォード・サーカス駅近くの、ある教会が、スティーブンが指定した場所だった。自分との対峙のために彼が選んだ場所が、神の家だったということに、カーイは、微笑を禁じえない。神の権威がカーイのような存在に対して役に立つなどと、本気で思っているのだろうか。人間達の間で長い間語り継がれてきた伝説や、それに基づく更に多くの物語、最近では映画などの影響も加わって、吸血鬼の定義がこれほどまでにしっかりと定められてしまっていることは、カーイにとっては、ほとんどたちの悪い冗談のようなものだった。

約束の8時きっかりに、ここに着いたものの、こんな遅い時間に果たして中に入れるものだろうか。だが、そんな心配は、どうやら無用だったようで、教会の古びた重い木の扉は、カーイの手に易々と開いた。内部は、濃い闇の中にほとんど沈んでいたが、ヴァンパイアの目にとっては、何の問題なかった。

扉の前で、ぐるりと周囲を見渡した後、カーイは、恐れ気のない足取りで、会衆席の後ろを横切り、側廊に差しかかる手前、静謐な笑顔で佇む聖人の像の傍で足を止めた。煤けた蝋燭台の上で、幾つもの赤いガラスの中の小さな炎が揺らめいている。その幻想的な光に目をあてたまま、カーイは、静かだがよく通る声で、呼ばわった。

「スティーブン、そこにいるのでしょう?出てきなさい」

その声に応えがあるまで、しばらく間があった。観衆席を挟んで、反対側の側廊の柱の陰から、背の高い若者が姿を現す。肩には愛用のカメラ入ったショルダーバックを引っかけ、両手は、厚手のジャンパーのポケットに突っ込んでいる。暗闇の中目を凝らし、蝋燭の明かりを受けて淡くうかびあがっているカーイの背中を睨みすえた。

「教会の中にも平気で入って来るんだな」と、意外に平静に、スティーブンは言った。

「そんな気は、してたけど」

しかし、カーイの体が動き、ゆっくりとこちらに向いて、闇の中でも白く輝くような、その美しい顔が振りかえるのに、押さえようもなく体が震え、心臓の鼓動が早まるのを意識した。教会の中は影で一杯で、いかな美貌といえども、この距離では、そこまではっきりと見えるとも思えなかったが、スティーブンの目には、冷たい嘲笑をたたえた顔の細部に至るまでが鮮やかに映ったし、例え目をつぶって、その姿を遮断しようとしたところで、残像が火の剣となって胸を刺し貫いたことだろう。この9年、魂に取りついて離れなかった、その顔、写真の技術を使って蘇らせようと努力し続けた、彼の偶像。

魅せられ、恍惚となって流れ出しそうになった意識をしっかりさせようと、スティーブンは、激しく頭を振りたてた。

「あんたに聞きたい」

用心深く、相手を探るような声音で、スティーブンは、言った。

「スルヤを…一体、どうするつもりなんだ?」

カーイは、しばらく応えなかった。ほとんど身動きもせず、スティーブンの質問の意味を吟味するかのように、黙りこんだまま、彼を見つめ返した。

「あなたが考えているとおりですよ」と、淡々として、感情のこもらない声が、人気のない教会内に寒々と響いた。

「あの人は、私の獲物。近いうちに、私は、あの人を殺し、その血を奪うでしょう」

スティーブンは、あえいだ。答えなど聞かずとも初めから分かっていたはずだが、それでも、こうして当の相手から、その意思を聞かされることは、頭をガツンと殴られるようなショックだった。脳裏には、先日共にしたディナーの席での仲睦まじい彼らの姿、恋人に純粋でひたむきな愛情と信頼を注いでいた、スルヤの幸福そうな笑顔が蘇る。スティーブンは、かっとなった。

「どうして…どうして、そんなことができるんだ?!」

その非難にも、カーイはひるまず、余計に冷やかになって、嘲るようにはねつけた。

「どうして?」

カーイは、聖像の前を離れ、長いコートの裾をゆるやかに翻して、側廊に添って歩き始めた。

「理由など、ないんです。望む、望まざるとに関わらず、私は、殺す。そうしなければならないからです」

その後を追うように、スティーブンも、反対側の側廊を早足で歩き出した。

「あなたがただって…殺すじゃないですか。他の生き物を、生きるために」

側廊と会衆席の間に立つ、幾本もの太い柱の陰に、その姿が消え、再び、現れる。ほとんど体重を感じさせない、羽が滑るような優雅な動作で、カーイが動くにつれ、その長い銀の髪が流れ、黒いロングコートの裾が、翼のようになびく。夢の中の場面であるかのように、ひどくゆっくりと流れていくように見えたが、何故か、その動きに追いつくことができない。スティーブンは、必死になって、半ば駆け出していた。

「スルヤは、あんたを恋人だと思ってる」

相手を逃すまいと追いすがりながら、スティーブンは、怒りに燃えて、反論した。 

「あんたが自分を殺すつもりでいることなど夢にも思ってない…あいつの信頼をそんなふうに簡単に裏切っていい理由など、あるものかっ!」

唐突に、カーイの姿が、視界から消えた。

「カーイ?!」

翼廊に飛び出した、スティーブンは、敵の姿を求めて、会衆席の前に回りこみ、複雑な意匠の施された高い説教壇の傍に立ちどまって、カーイを見失った反対側の側廊の方を、目をすがめるようにして探したが、淡く光るようなその姿は、そこには見当たらない。一体、どこに隠れたというのか。

「出てこい…化け物…」

姿が見えなくなることで、今まで意識していなかった、恐怖が胸の底からじりじりとこみ上げてくる。スティーブンは、肩を大きく上下させた。次の瞬間、その口から、うわずったような悲鳴がほとばしった。

「うあ…あぁっ?!」

背後から、いきなり何かが彼の肩をつかみ、強く引いたのだ。とっさのことに逃げることもできずに引き寄せられ、すぐ傍にあった、説教壇の据えられた太い石柱に思いきり体を打ちつけられる。一体、何が起こったのか訳がわからず、自分の肩をつかんでいるものの正体を見定めようと、そちらを振りかえった、スティーブンの顔が引きつった。

彼は、一瞬、我が目を疑った。それも無理はなかった。彼が発見したのは、己の肩に食い込む指の長い美しい手。それはすぐ傍の柱の中からのびていた。石柱の中から生え出たように突き出した、人の手が、自分を捕らえ、身動きできないようすごい力で柱につなぎとめているというぞっとする光景だったのだ。

「そ、そんな…」

よほどの覚悟があって、ここまでやって来たスティーブンだったが、これには、肝を潰した。すっかり魂を飛ばして、呆然となって見入るうち、柱の中から、もう一方の手が、それに続いて、世にも美しい顔が、花開くように現れる。ほとんど、何の抵抗も感じないかのように、石の柱からするりと脱け出して、カーイは、スティーブンの前に立っていた。

自分が相対している者が、人間ではないのだということを、取り乱した頭の片隅で、今更のように、スティーブンは実感した。

「あなたが私をいくら責めようと、止めようと必死になろうと、無駄なことですよ。あの人は、私のもの…その心も、体も…もちろん、血もね」

細いが、鋼のような手が、ステーブンの胸倉をつかんで、体を柱に打ちつけ、引きずりあげた。痛みに一瞬息がとまり、スティーブンは、うめいた。

「空しい努力はおやめなさい、スティーブン。私はあなたを一度見逃した…あんまり幼くて、殺すのはかわいそうになったからです。どうか、あの時の気まぐれを後悔させないで下さい。私だって、一度助けてあげた命を、この手で殺すのは気が進まないんです。このまま、私達のことは放っておいてくれませんか?そうすれば、私はあなたには決して手を出さないし、いずれこの街を立ち去れば、その後は、二度と再び貴方の人生に姿を現すこともないと、約束します。二度までも、見てはならないものと出会ってしまうなんて、あなたは本当に運が悪い…けれど、望むなら、今度も生き延びることはできるんですよ?」

信じられない力に、喉をぐいぐい締め付けられて、スティーブンは、苦しさに顔を真っ赤にして、逃れようともがくが、カーイの手はびくともしない。全く、何という力。スティーブンの足は、何時の間にか、床を離れ、宙をぶら下がっていた。

「できない…」

苦しげに歪んだ口から、かすれた声がもれるのに、カーイは、耳をすませた。

「スルヤを…見捨てられない…」

カーイは、怪訝そうに、そんなスティーブンを見つめた。

「あなたに一体、何ができるというのです?」

カーイの声は、次第に苛立ちを含んだものになってきた。

「スルヤに私の秘密を教える?いいでしょう、やってごらんなさい。私は、すぐにあの人を殺して、その血を奪うでしょう。あなたにできることは、せいぜい、あの人の死ぬ時期を悪戯に早めることくらいなんですよ」

「そんなこと…させない…」

カーイは、舌打ちした。

「強情な」

スティーブンが、またしても驚愕の悲鳴をあげた。カーイの体が、ふわりと宙に浮かびあがった。重力の縛めから解きはなたれたかのように、スティーブンの体を抱いて、上へ上へと上昇し始めたのだ。

「うわ…や、やめろ…!」

天井に向かってアーチ型に広がっていく柱に沿って、舞い上がるにつれ、下からは暗くて定かではなかった、金のモザイクで描かれた聖画が、見る見るうちに眼前に迫ってくる。一瞬、意識が遠のきかけたが、体を揺すられて、はっと我に返る。下を見て、ぞっとした。彼らがさっきまで立っていた床は、はるか遠くにある。

「ここで手を離して、床に叩きつけて差し上げましょうか?」

腕の中で硬直している若者の恐怖を味わいながら、カーイは、獲物を玩ぶ猫めいた残酷さで、囁いた。

「さあ、素直になって、言いなさい。私達のことからは、手を引くと」

スティーブンは、頭を巡らせて、己を覗き込む、カーイの艶然たる微笑みをたたえた顔を見上げた。追いつめられた目をして、しかし、スティーブンは、震える声で、はっきりと言った。

「そんなこと…できるものか」

カーイの、色の薄い瞳が、更に冷たく、酷薄なものとなった。

「うわぁぁっ!」

スティーブンは、絶叫した。カーイの手がその体を宙に投げ出したのだ。なす術もなく、悲鳴をあげながら、まっさかさまにスティーブンは落下し、地面に激突する。そう思った瞬間、再び、彼の体を何かが支え、すくいあげた。

「カ…イ…」 

墜落の衝撃から失神しかけたスティーブンだったが、カーイの腕に再び捕らえられたと意識した瞬間、我に返った。呆然と、敵の顔を見上げる。取りつくしまもないほどに冷淡で、人間ばなれして超然として見えた、その顔に、うっすらと怒りの色が上ってきているのを認めた。

カーイは、スティーブンと共に、ふわりと床に降り立った。カーイが手を離すと同時に、スティーブンは、腰が砕けてしまったかのように、がくりとその場にくずおれる。

極度の緊張と恐怖のせいで、しばらく、思うとおりに体を動かすこともできずに、その場に這いつくばっていたスティーブンは、やっとの思いで身を起こし、己の傍に立ち尽くしたまま、憤りを含んだ眼差しを向けている、カーイを見上げた。

てっきり、殺されるかと思ったのに。

「俺を殺すんじゃなかったのか…?」

助かったことには胸を撫で下ろしていたが、それでも、そう聞かずにはおれずに、スティーブンは、問いかけた。

「どうしようかと、今、迷っているところなんです」と、憮然として、カーイは、言った。

「親友を亡くしたりしたら、スルヤは哀しむでしょうから…」

スティーブンは、我が耳を疑った。

「信じられないといった顔をしていますね」と、苦笑めいた表情で、カーイは言った。

「でも、本気なんですよ。私は、あの人に、少しも辛い思いなど味あわせたくないんです。私の傍で、いつも、幸せそうに笑っていて欲しい…いつかは殺さなければならない人ですが、でも、最後のその瞬間がくるまでは、大切に守ってあげるつもりです。その時になっても、あの人には、絶対苦しい思いなどさせません。あの綺麗な瞳が、哀しみや恐怖に凍りつくことがないよう、何が起こったか分からぬまま、速やかに殺してあげますから」

驚愕したスティーブンは、激しく喘ぎ、同時に胸の奥からこみ上げてくる反発にかられて口走った。

「そんな…そんな勝手なことをよくも言えるなっ!スルヤの気持ちはどうなるんだ?何が起こったかも分からないように殺すことが、短い間でも恋を語った相手に対する、せめてもの情けだとでも言うのか?あいつは、そんなことを望んでなどいない、どんなにひどい話でも、自分がほれた相手の真実を知りたいと願うだろうさ。そんな嘘やまやかしで、あいつの心を玩んで、あんたの胸は痛まないのか…それとも、やっぱり化け物には、そんな感情もないのか?!」

義憤にかられてそう叫んだ瞬間、鳩尾に、鋭い蹴りを食らって、スティーブンは、体を二つに折って、苦しげにうめいた。

「黙りなさい」 

押さえたその声には、本当の怒りがにじみ出ていた。

しかし、こうなると、スティーブンの方も、もう負けてはいなかった。追いつめられて半ばやけになっていたのかもしれないし、何より、相手に言いぐさに心底腹をたてていた。

「俺が昔見た、あんたの姿…人の血をすする、恐ろしい怪物の姿をスルヤが知ったら、なんと言うんだろうな…」

カーイの中で、何かが、ぷっつりと音をたてて、ちぎれ飛んだ。冷静さの仮面を取り払って、噴き出した怒りに唇を歪めると、カーイは、足元にうずくまるスティーブンの胸元をつかんで、再び、引きずり起こした。弱点を突かれた者は、得てして反撃に出るものである。この時のカーイは、そこまで自覚してはおらず、ただ、この生意気な若者を力づくでも黙らせたいと思っていた。嫌な奴。何も分かってなど、いないくせに。激情にまかせて、若者の首を締め上げる。

「う…ぐっ……」 

万力のような手に首をしめられて、スティーブンは、真っ赤な顔をして、もがいた。しかし、その目は、眼前にまで迫った、カーイの敵意に満ちた顔を負けじと睨みつけていた。震える手が、つかんでいたショルダーバックの中をまさぐり、ほとんど思いつくままに引っ張り出した愛用のカメラを胸の方に持ち上げる。

暗闇に、閃光が走った。

「あぁっ…?!」 

目の前で、いきなりフラッシュをたかれて、カーイの視界は一瞬真っ白になった。スティーブンの体から手を離し、目を庇うように手で覆い、ニ、三歩、よろめき下がった。

一方、カーイの手から自由になったスティーブンは、喉を押さえて、激しくせきこみながらも、もう片方の手でジャンパーのポケットの中をまさぐり、そこに隠しこんでいた、小型の登山ナイフをつかみ出した。

「カーイ…!」

カーイが、はっとなって顔を上げるのと、決死の形相のスティーブンが、両手でナイフを構えて、体ごと飛びこんでくるのと、ほとんど同時だった。鋭いナイフの切っ先が、カーイの胸の真ん中を差し貫いた。

確かな手ごたえを感じた瞬間、スティーブンの体は、己が刺されたかのように、激しく震えた。足元を睨みつけたまま、心を鎮めようと肩で息を整え、ようやく、顔を上げた。その目が、愕然と見開かれる。

「それで、どうしようというのです?」

冷笑をうかべた、カーイの平然とした顔があった。前の開いたコートの間には、スティーブンのナイフが深々と沈みこんでいる。黒っぽいセーターが血で塗れていることも、その幾らかがナイフを伝って、己の手もぬらしていることも、分かる。だが、この怪物は、なんの痛痒も感じてはいない。本当に、死なないのだ。

「このセーター、結構気にいっていたんですよ…」

ちょっと残念そうに呟いて、カーイは、スティーブンの強張った手を優しく取り、己の胸から引きぬいた。おさまる場所をなくしたナイフが、音をたてて、床に落ちる。

「これは、高くつきますよ、スティーブン」と、恋人に対してするように親密さで、その耳元に、カーイはそっと囁きかけた。

「この体は不死だけれど、全く、痛みを感じないという訳ではないのでね」

捕らえたスティーブンの左手を持ち上げ、その甲に、唇を軽く押し当てる。

「スルヤは、この一週間あなたが学校に来なかったことで、随分心配していましたよ」 

言い返す気概もなくしたかのように、呆然と見守るのみのスティーブンに、艶然と笑いかけて、

「ついでに、もう少しばかり休んでみますか?」

極めて優雅な仕草で、カーイは、スティーブンの手を握りつぶした。

「うわぁぁぁっ!」

スティーブンは絶叫し、傷ついた手を押さえて、悶絶した。

「やはり、あなたをスルヤに会わせたくはないですね。いっそのこと、永遠に…会えないようにしてやりましょうか」

スティーブンの恐怖と苦痛に悦にいったように目を細め、カーイは、がくりと跪いて、うずくまる若者の首根っこをつかんで、立ち上がらせる。スティーブンの口から、くぐもった、低い呻き声がもれた。

スティーブンの体を軽々と引き寄せ、カーイは、すぐ傍らの石柱に目をやると、勢いをつけて、彼の顔をそこに叩き付けようと、かまえた。スティーブンには、もう逃げるだけの力は残っていない。今度は脅しではなく、カーイは、本気だった。今なら、この若者を殺せる。己の血と若者の血の匂いを嗅ぎ、ひどく残酷な気分になっていたカーイは、勢いにまかせて、彼の頭を叩き割ろうとした。しかし、その瞬間、だしぬけにスルヤの声が、頭の中で響いたのだ。

(信じているよ…)

カーイは、何かに弾かれたようになって、動きを止めた。夢から覚めたように、瞬きをし、ぐったりとなって己の手に引きずられている若者を見、それから、目の前の柱を眺め、唇を噛み締めると、唐突に手を離した。ほとんど失神しているスティーブンの体は、糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちる。

カーイは、しばらく、迷いに揺れ動く眼差しを、若者の背中に上に注いでいたが、やがて、あきらめたように、肩を落とし、静かにその場を離れていった。

スティーブンは、朦朧とする意識の片隅で、次第に遠ざかっていく足音を聞いていた。生きている、自分は、助かったのか?左手に覚えた激痛に顔をしかめ、ゆっくりと目を開けると、床に落ちた、ナイフが視界に入った。こんなもので殺せると、本気で思ったわけではない。

「くっ…」

痛みに歯を食いしばって、スティーブンは身を起こした。そうして、ナイフの落ちている所まで、這うようにして近づくと、無事な方の手で、それを拾い上げる。ナイフには、血がべっとりとついていた。

奴を殺すことはできない。それでも、傷つけることは、できたのだ。そして、今、スティーブンの手の中には、カーイの血が残されている。手に入れた。人間ではない、不死の怪物の血、スティーブンを呪縛する、神の血。

ぼろぼろになりながらも、スティーブンは、そのナイフを用意してきたビニールの袋に大事そうに入れて、バックの中にしまい込む。そして、傷つき、消耗しきった体を引きずるように、教会を後にした。

少なくとも、今回は、生き延びた。けれど、これはほんの挨拶程度のものだし、これからが、本当の戦いになるのだ。

「逃げるものか…絶対…」

痛みに朦朧とする意識をはっきりさせように、激しく頭を振り、スティーブンは、口の中で、繰りかえしそうつぶやきながら、夜の街に姿を消した。彼の前に広がる闇は深く、到底立ち向かえそうには思えなかったが、後はもう進むしかなかった。


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