愛死−LOVE DEATH− 

第九章 予感



「ああ、もう、危ないなぁ。邪魔しないでよ、プリンセス」

床をうねうねと伸びる照明のコードにじゃれかかって遊んでいる猫を危うく踏みつけそうになって、スルヤは甲高い声を上げた。 

久しぶりによく晴れた土曜の午後。以前からの約束どおり、カーイをモデルにこの屋根裏で撮影をすることをスルヤは思い立った。

叔父が残して行った撮影用機材を物置から持ちこみ、組み立てているスルヤを眺めながら、モデルであるカーイは、そもそも手伝おうという気はないらしく、部屋の中心に置かれたマットレスの隅に腰を下ろしてコーヒーを飲んでいる。

真新しい真っ白なシーツの敷かれたマットレスの上には、何に使うものやら、ずるずると長い光沢のある白い布と、今朝また買ってきたばかりの百合の花が積まれていた。

「私はまたてっきり、早起きをして公園にでも撮影に行くものとばかり思っていましたよ」と、待ちくたびれたのか、小さなあくびをかみ殺して、カーイは言った。

「うん、それも初めは考えていたんだけれどね…よし、準備完了」

「できたんですか?」 

何もしなてくも、考えなくてもいいモデルは楽だなと、胸のうちでつぶやいた時である。額の汗を手の甲でぬぐい、実に無邪気な顔でカーイににっこりと笑いかけて、スルヤは言った。

「じゃあね、カーイ、脱いでくれる?」

はい?一瞬、カーイは、我が耳を疑った。

「…一体、どうして、ついこの間までリスや小鳥を取っていたような人が、いきなりヌードなんて撮る気になるんですか」と、呆れてカーイが言っても、スルヤはあっけらかんとして、

「別にそんな照れることないよ、どうせ、いつも見てるんだし」などと答える。そんなスルヤの平然とした顔を、カーイは、信じられないような目で、まじまじと見つめた。何故だろう。いつものスルヤと、反応が違う。写真が絡むこととなると、普段は恥ずかしいことでも平気になるのが、写真家なのだろうか。カーイは、何となく居心地が悪くなった。が、いつまでもためらっているのも、格好の悪いことのように思われた。

「誰も恥ずかしがってなど、いませんよ」と、スルヤの方をじろりと睨んで、カーイは、立ちあがった。

「シャワーを浴びる時と、セックスする時以外に裸になる習慣はないものでしてね」

少し冷たい声音でそう言って、さっさと服を脱ぎ出す。

「それでね、その長い布を適当に体に巻きつけてくれる?その百合の花を適当に散らばせて、何本かは手で持ってて…」

言われたようにしながら、早くもカーイはモデルなどを安易に引き受けてしまったことを少し後悔し始めていた。そう言えば、ずいぶん昔にも画家の恋人がいて、モデルになってくれと頼まれたことがあったのだ。あの時も、あまりいい心地をした記憶はない。

百合の花をまいた上に、恐る恐る身を落ち着ける。花の茎の固い感触が体に巻きつけた布ごしにも分かって、何だか、気持ちが悪い。腰の辺りに落ちかかる滑りやすい布地に神経質な指で触れていると、白い猫がとことことやってきて、カーイの前にちょこんと座り、面白そうにじっと見上げた。何だか余計に居心地が悪くなって、布を肩まで引き上げ、威嚇する様に猫を睨みつける。

「あはは。カーイってば、そんなに緊張しないでよ。もっと体の力を抜いて、いつもの様に自然に振舞って、そこでごろごろしてくれたらいいんだから」

できるものですか、そんなこと。手の中で百合をぶらぶらさせながら、スルヤが覗き込んでいるカメラの冷たいレンズを困惑した目で見つめる。

「表情が固いなぁ…ねえ、ちょっと笑ってみてくれる?」

カーイは、白い頬を引きつらせ、そのままうつむいてしまった。人間相手なら、いくらでも相手を魅了する表情や姿態をつくってもみせよう。しかし、この冷たい機械の目に見つめられながら笑うことなど、とてもじゃないができそうにない。考えが甘かった。はあっと溜め息をついて、肩を落とす。

「やっぱり、駄目?う〜ん、意識しすぎるんだよ。カメラを向けられてるなんて考えないで、いつも俺に対してするみたいに振舞ってくれたらいいのに」

「あなたは撮る側ですから、そんなふうに好き勝手なことが言えるんですよ」

その時、カーイの脳裏にふとある考えが閃いた。

「スルヤ」

困ったふうに頭をかいていたスルヤが、ふいに名を呼ばれて、そちらを見ると、カーイは何やら含みのある微笑で妖しく彼を見ている。スルヤの心臓は小さく跳ねあがった。だから、そんな表情をカメラに向けてくれたら、いいのに。

「ね、同じ写真を撮るなら、もっといいことを思いつきましたよ」

「な、何を」 

思わずひるんで聞き返すスルヤに、カーイは猫のようにその目を細めた。そうして、香りを楽しむ様に大輪の百合の花を顔に近づけると、その花弁の陰からとんでもないことを言ってのけた。 

「あなたもモデルになるんです。私達二人が愛し合うところを撮るんですよ」

「えぇぇっ?!」

心底びっくり仰天して、スルヤは叫んだ。

「俺達が…って、つまり…するのを…そ、そんなの、駄目だよ!」

すっかり動転してしまったスルヤは、真っ赤になって、おぼつかない手つきでカメラをいじっている。カーイは、花の陰でにんまりとした。そうそう、やはりこの反応が返ってこなくては、いけない。ようやくいつもの調子を取り戻したカーイは、ますますその気になって、揶揄するように付け加える。

「何もそんなに緊張することはないですよね?いつもしていることをすればいいだけの話なんですから」

スルヤは、これ以上言葉が出てこないというように黙り込んで、顔をうつむけてしまった。そんな意地の悪い冗談言わないでよと、笑い飛ばしてしまえばいいのだが、場数を踏んでいないスルヤにとって、こんなふうに相手のことを意識してしまっては、何でもないことにように軽くあしらうことなど無理な話だった。困ったことにスルヤの心臓は、カーイのあの艶然たる微笑みを見た時からどきどきと鳴りっぱなしで、それが胸を打つ度に、微かな波が全身を走り、少しでも気を抜いたら震え出してしまいそうで、恐かった。

「カメラを三脚に立てて、自動的にシャッターが下りるようにすることとか、できるんでしょう?」

「できないことは…ないけれど…」

決して、カーイがいるそこは見ないように、ひたすら視線を足元にあてたまま、もごもごと口の中でつぶやく。

「スルヤ、私を見て、答えなさい」と、優しいが、逃げることを許さない声がそう命じるのに、 スルヤはためらいながらも、思いきったように顔を上げた。

「それで…どうしたいんですか?」

スルヤが見守る前で、カーイは、まとわりついていた布をするりと取り去って、床に投げ落とすと、乳白色のほっそりとした裸身を、真っ白な百合の花に中にうつぶせに横たえた。それ自体が、手折られたばかりの見事な純白の花のようだ。軽く投げ出したしなやかな腕の上に形のいい頭をやすらわせ、恋人に触れられるのをじっと待ちうけるかのように目を伏せる。清冽な美しさ、匂いたつような典雅な気品があるにもかかわらず、何て挑発的。まさしく今、すかさずシャッターを切ってしまえば、さぞや扇情的なポートレートができあがったことだろう。残念なことに、この時のスルヤは、そんなことに気が回るような状態になかった。真っ赤な顔になって、硬直したようにその場に立ち尽くしたまま、恋人の魅惑的な姿に、すっかり魅せられたかのように見入っていた。あんまり我を忘れていたおかげで、手の中のカメラを、一瞬床に落としそうになったくらいだ。

「もう…」

手で顔を覆って、観念したようにつぶやく。静かに横たわって、辛抱強く待っている恋人にちらりと目を向け、それから、意を決したように、三脚を立てかけていた壁の方に向かった。

(カメラは、大丈夫なんですか?)

(うん、あれでいいはずだよ…ちょっと、そこ、つめてよ)

束の間雲の中に隠れていた太陽がまた顔を出したのだろう、天窓から差しこんでくる光は煙るような金色している。

(固くなってますね…意識するなと言っても、やっぱり意識するでしょう?)

(嫌だなぁ…さっきのお返し?)

(ねえ、スルヤ…)

(何?)

(キスをしてください…)

大好きな陽だまりを求めて、隅っこでうずくまっていた猫が部屋の真ん中に戻って来た。ぎしぎしときしむマットレスのすぐ傍で丸くなって目をつぶる、その小さな生き物の存在に、そこに横たわって、睦み合う恋人達は気づきもしない。

初めのうちは、カメラを意識してかぎこちなかった触れ合いも、やがて、いつもように甘美で濃密なものとなっていった。一定感覚で時折響き渡るシャッターの乾いた音も、もはや彼らの耳には届かない。聞こえるのは互いの荒い息遣いと、時折あげる切なげなあえぎ、相手を恋い慕って呼ぶ声のあえかな響きだけだ。絡み合った体の下で踏みしだかれた百合の甘く青臭さを帯びたむせかえるような香りと、上気した体から立ち昇る汗の、そしてカーイにとっては何よりも強烈な血の香り。

時々あがるひときわ高い呻き声と、一方で鳴り響くシャッター音に、耳をぴくぴくさせていた猫が何気にすうっと目を開いた。すると、すぐ前になんとも心をかきたてられるうねうねした長い紐が伸びている。すっくと身を起こし、獲物に向かって近づくように慎重な足取りで近づくと、勇敢なハンターである彼女は果敢にもその紐に飛びかかった。爪で引っかき、鋭い歯でかぶりつき、それを加えたまま引っ張って部屋の中を駆け回る。

今回は、彼女の悪戯を止める者が誰もいなかったものだから、ピンと引っ張られたコードは自動的に撮影を続けるカメラの三脚に引っかかって、その弾みで倒れてしまった。倒れても、まだカメラはシャッターを切り続けている。

今は互いの腕の中で熱い体を休ませている夢見心地の恋人達は、それさえも顧みることはなかった。



「うぇーっ、何だよ、これは〜」

早速、問題のフィルムを現像した写真を、片付けた屋根裏で寄り添いあって見ている二人がいる。

「だから、駄目だって言ったのに。あんな状態で撮って作品になんかなるわけないじゃないっ」

数枚点検した所で、スルヤは銃で撃たれて致命傷を負わされたように床にばったりと倒れ、手足をじたばたさせながらそんなことを叫んだ。

「全く、こんなものがもし叔父さんの目にとまったりしたら、一体何しにイギリスに来たんだって、この家から追い出されちゃうよっ」

カーイの方は、いたって冷静に、無責任に言う。

「いわゆるポルノですね」

スルヤは、頭を抱えた。

「叔父さんのアドレスは?エアメールで送りましょうか?」

お願い、やめてと、スルヤはその腕に抱きついた。

「ちぇっ、こんなはずじゃなかったのになぁ。今度は真面目に撮影させてよね」と、ぶつぶつ文句を言って片付けようとするスルヤの手から写真を奪い取り、立ち上がったカーイは、部屋の中をゆったりと歩きながら、順番にそれらを見ていく。

「もういいじゃない、カーイ…処分しちゃおうよ」

改めてそんなものを見られることが恥ずかしくて仕方ないというように、スルヤは口をすぼめて訴える。

「そう慌てるものではないですよ、スルヤ。せっかく撮影したんですし、中には使えそうなものも…」

写真を繰っていたカーイの手がふと止まった。束の中から取り上げた一枚の写真を、指を頤にそえて、しげしげと見つめる。

「これなど、なかなかいい感じで撮れていますよ」

差し出されたその一枚を、スルヤは疑わしげに受け取った。

「あ…」

瞬間、その表情が変わった。そのまま真剣にその写真に見入っているスルヤに後ろから近づき、その肩にゆるやかに腕を巻きつけて、カーイは囁いた。

「どう?」

その言葉にはっと我に返ったスルヤは、肩越しにカーイと見詰め合い、顔を少し赤らめながら頷いた。

「そうだね。何だか、とても不思議なものを見ているような気がするよ。あの時の自分って、こんな顔してたんだね」

そんなことをもらすスルヤの写真を持つ手にそっと手を添えるようにして、その肩越しにカーイもそれを眺めている。恋人の艶やかな髪に頬を寄せたまま、半ば目を伏せ、夢見るよう、唄うように彼はつぶやいた。

「私があなたに与え、あなたが私に与える…日毎夜毎に繰り返されるこの小さな死。愛する者と溶け合い結ばれる瞬間にあげられた叫びのすべては、その愛の永遠を夢見て捧げられた、恋人達の祈り」

ぼんやりとそれに耳を傾けていたかと思うと、スルヤはおもむろに手元にあったペンを取り上げ、写真の裏にすらすら書きとめる。

「これ、作品として仕上げてみようかな」

ぽつりと、彼は漏らした。

「…学校の課題としては、いくらなんでも刺激的すぎやしませんか」

いかにももっともな意見を述べるカーイを、スルヤは、「違うよ」と、笑いながら振りかえった。

「これは俺達のためのものだもん。つまりさ、二人の恋の記念に」

カーイがスルヤと共にいたという痕跡は、いずれすべて消し去らねばならない。恋の記念など、残しておくべきではないのだ。しかし、

「作品にするなら」と、カーイは、別の自分が言うのを聞いた。

「タイトルを決めないと」

スルヤは、ううんとうなって、しばらく考えこんだ。写真をつくづくと見つめ、その裏の走り書きを繰り返し読んだかと思うと、その下にまた何かペンで書き足した。

「こんなの、どうかな?」

カーイが受け取った写真の裏には、先ほど彼が思いつくままにつぶやいた散文の下に、一つの言葉がタイトルとして書かれていた。

彼の気に入るかどうか心配そうにその返事を待っているスルヤに向けて、優しく頷き返すと、カーイはその響きを確かめるように、口に出してそっとつぶやいてみたのだった。

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