愛死−LOVE DEATH− 

第九章 予感



「スティーブン、出ないや…」

今日で、もう3日もクラスにでていない友人に、さすがに心配になって、学校から彼の自宅に電話をかけたスルヤだったが、呼び出し音がいつまでも鳴りつづけるだけであることに、ついにあきらめたように受話器を下ろした。

「一体、どこにいったんだろう」

体の調子が悪いというわけではないのだろうか。家にいるなら、帰り道にちょっと立ち寄って様子を見に行こうかとも思ったのだが。

スルヤは、それでもしばらく迷うように、電話の傍に立ち尽くしたまま、考えこんでいたが、電話をかけにきたらしい生徒が近づいてくるのに、慌てて、その場を離れた。

(風邪じゃないなら、また、どこかで新しい女の子と知り合って、モデルを頼んだりしてるのかなぁ)

ともかく、もう少し様子を見よう。スティーブンは、時々、突然気まぐれな行動で周りを振りまわすことがあるし、案外、明日になれば、何事もなかったような顔で学校に出てくるかもしれない。

予感とでも言うのか、頭の片隅に何か引っかかるものがないわけではなかったが、スルヤは、そう自分に言い聞かせて、納得させた。



そして、当のスティーブンはといえば、この日、電話でアポを取った相手と、ソーホーにある小さなカフェで待ち合わせをしていた。

「すまない、遅くなって…会議がちょっと長引いたものだから…」

小雨が降る中を歩いてきた、その男は、黒いコートにつく小さな水滴を手で軽く払ってから脱ぎ、スティーブンの前の席に腰を下ろした。

「どうした、えらく疲れた顔をしているじゃないか」

ロバート・ブランチャード。中堅の出版社に、雑誌の編集局長として勤めるスティーブンの伯父である。久し振りに会う甥っ子が、随分思いつめた暗い顔をしていることに、訝しげに眉を寄せると、これは、どうやらかなり深刻な話になりそうだと悟って、オーダーを取りにきたウエイトレスにコーヒーを注文すると、すぐに彼に向き直って、穏かに口を開いた。

「スティーブン、まだタバコはやめてないのか」

すでに何本もの吸殻の残されている灰皿を見て、そう言う叔父に、スティーブンは、青ざめた顔を少しやわらげた。

「きっかけがないと、どうもね…親父みたいになる前に、やめた方がいいんだろうなとは思うけれど」

「体の調子は、どうなんだろうな、トムは…仕事に復帰したって話は聞いているが」

「うん…でも、前みたいに、第一線でバリバリ働くって訳にはいかないみたいだよ。二度も手術をしたんじゃあな…」

スティーブンは、あまり気ののらない様子で受け答えし、吸いかけのタバコを灰皿で揉み消した。その手が緊張に耐えかねるかのように微かに震えていることに、ロバートは気づき、微かに驚いていた。一体、何が起こったというのだろう。こんなスティーブンを見るのは、初めてだ。まるで、何かにひどく怯えているかのようだ。そう、小さな子供のように、震えている。

ロバートは、とっさに続く言葉を失った。彼が黙りこむと、この場の空気がひどく張り詰めたものであることを余計に意識せざるをえなくなった。

「スティーブン」

このぎこちない沈黙にたまりかねて、ロバートの方から切り出した。

「私に…一体、どんな相談事があるんだい?」

スティーブンは、すぐには、答えなかった。新しい煙草に火をつけ、隣のテーブルの方に、何となく視線を向けるそぶりで、しばらく何事かを考えこんでいた。

「ロバート、俺が12才の時の、パリでの事件を覚えてるかい?」

「パリで…ああ、おまえが危うく凍死しかけた、あのことか。ああ、もちろん、覚えているよ。トムから連絡をもらった時は、一体、なぜそんなことになったんだ、おまえの容態はどうなんだって、結構きつい口調で彼に問いただしてしまったよ。トムたちの夫婦喧嘩が原因でホテルを飛び出したおまえが、翌朝、セーヌ川の橋の上で、意識不明で倒れていたって聞いた時には、はっきりいって、弟達に怒りを覚えた…自分たちの問題で、子供にそこまで苦しい思いをさせるのは、親として最低なことだとね」 

さっきと同じウエイトレスが、コーヒーを運んできた。短く礼を言って、ロバートは、コーヒーカップを手に取り、一口すすった後、続けた。

「だが、どうしてもふに落ちないのは…あの夜を境に、おまえが、しばらくの間、まるで人が変わってしまったことだった。ひどいショックを受けたのだと医者は言う。けれど、親の喧嘩で、そこまでのショックを受けるとは思えないし…ホテルを出てから、発見されるまでの間に、何があったのだろう、そのことを、トムも私もずっと気にしていたんだよ。おまえが、やっと元気になってからは、わざわざ過ぎ去ったことを蒸し返して、おまえにまた苦しい思いをさせたくないからと、黙っていたんだが…」

コーヒーカップの中をしばし見下ろし、それから、目を上げて、スティーブンの若い、何かしら切羽詰ったような顔を見つめた。

「あの時のことを、おまえが自分から話すのは、初めてだね、スティーブン」

スティーブンは、肩をゆっくりと上下させて、深呼吸をした。

「なあ、ロバート」

「うん?」

「あんた、オカルトっていうのかな、科学では説明できない不思議な存在、例えば、吸血鬼とか妖精とか、そんなものの存在を信じるかい?」

意表をつかれた質問に、ロバートは、目をしばたたいた。

「妖精?吸血鬼?どうして、また急にそんな話になるんだい」

一瞬冗談かと思って、笑い飛ばしかけるロバートだったが、スティーブンの思いつめた顔を見て、不安な胸騒ぎを覚え、ちょっと考えこんだ後、言葉を選びながら、言った。

「そうだな…いや、私がそういうタイプじゃないことは、おまえも知っているだろう?冗談のネタにするくらいだね。科学的な根拠に基づいた分析とかなら、別だよ。例えば、以前うちの雑誌の記事にしたんだが、現実に自分を吸血鬼を思いこみ、血に対する欲求を覚える人達がいる…血液嗜好症(ヘマトフィリア)と呼ばれるそうだがね…」

「俺が言ってるのは、人間じゃない、本物の化け物のことなんだよ、ロバート」と、スティーブンが、遮るように口をはさんだ。

「実際会ったんだよ、俺は。12才の時に、パリで…あいつが、人の血を飲んで殺すのを見たんだ」

言ってしまったとたん、全身に悪寒を覚えた。脳裏に浮かびあがった、あの冷たく、冴え冴えとした美しい顔が、彼を責めたてるかのような目で、見つめている。

「スティーブン…」

ロバートは、とっさに何と答えればいいか分からないような困った顔になった。無理もないことだ。スティーブン自身、もし逆の立場だったら、何を馬鹿なことを言い出すのか、頭がどうかしてしまったのではないかと、思うだろう。

スティーブンは、両手で顔を覆い、深い溜め息をついた。

「その…スティーブン…」

しかし、自分に理解のできない話でも、誠実に話を聞いて、少なくとも理解しようと努める、そこが、ロバートの頼れるところだ。

「よければ、初めから、じっくり話してくれないか…昔、パリで何があったのか…それが、おまえが今抱えているトラブルと関係があるなら、そのことも…」

スティーブンは、顔から手を下ろして、ロバートの真摯な顔を、凝視した。この人を巻き込むことになる。とっさにそのことに思い当たって、慄いた様に、彼は震えた。しかし、挫けそうになる心を叱咤して、重い口を開いた。

「話の始まりは、あんたに言ったように、あのパリでの夜の出来事からなんだ…」

スティーブンは、記憶を掘り起こしながら、ゆっくりと語った。実際、思い出すことは難しくはなかった、この9年間、片時も忘れたことはない、その出来事の細部にいたるまで、鮮やかに心に焼きついている。人に打ち明けたことのない、その秘密を、初めて自分の口から誰かに打ち明ける間中、その心には、真冬のあの街の情景が、吹き寄せてくる雪があった。

寒さを覚えるかのように、スティーブンの体は震えている。 

その雪は、次第に激しさを帯び、嵐となって、ここにまで押し寄せ、スティーブンだけでなく、ロバートや他の人々も巻き込んでいくかのように、感じられるものだった。

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