愛死−LOVE DEATH− 

第九章 予感



「スルヤ」

地下鉄の駅から地上に出る階段を上りきったところで、すぐ背後から呼びかけられて、スルヤはびっくりして振りかえった。

「カ、カーイ。何だ、一緒の地下鉄に乗ってたの?びっくりしたなぁ」

学校から恋人が待つはずの家に急ぎ帰る途中だった彼は、その相手に偶然こんな所で会えたことに、嬉しくて仕方ないというように破願した。

「気がつきませんでした?私の方は、あなたが近くにいるとすぐに分かりましたよ」と、意味深な、スルヤの胸をどきどきさせる言い方をして、カーイは微笑む。

「…そのコート、丁度よかったですね」

紺色をした、上等のカシミヤのコート―先週末、いつまでも薄いジャケット一枚で寒そうなスルヤのために、一緒に冬ものを買いに街に出た時、カーイが選んで買ったやったものだ―をチェック地のセーターの上に着たスルヤの頬には、暖かそうな赤みがほんのりとさしている。

「うん。すごく着心地、いいよ。目の玉が飛び出るくらい、高かったけれど、やっぱり、いいものって、違うね。軽くて、暖かくて」

「それは、よかった」と、カーイは、優しく目を細めた。かぐわしい甘い血の香りが鼻腔を心地よくくすぐるのに、かすかな喉の渇きを覚えながら、それをおくびにも出さずに、こんな所に立ち止まって階段を上ってくる他の地下鉄客達の邪魔にならぬよう、恋人の肩をそっと押して歩き出す。

「何か買い物したの?」

カーイが手にした高級デパートの包みを見て、スルヤは尋ねる。

「ええ。半日ハロッズをぶらぶらして、何となく目についたものを。ワインに、本を何冊か、それと映画のビデオ」

「映画?何の?」

「「タイタニック」。あなた、見たいって言ってたじゃないですか」

するとスルヤは、嬉しいの半分、困ったの半分といった微妙な表情になった。

「確かに見たいとは言ったけれど…そんな泣ける映画を見たら、この間以上にまた大泣きして、笑われそうだよ」

「自分の家でなら、安心して泣けるでしょう」と、こともなげに答えるカーイの目的は、実際の所、そこにあった。

「何しろ、「ライオン・キング」であんなに思いきりよく泣ける人ですからね」

スルヤは、決まり悪げにうつむいて、ちぇっとつぶやく。

先週の週末は、巷で人気のそのミュージカルを二人で見に行ったのだ。ディズニーはカーイの趣味からは外れていて、スルヤが誘わなければ、決して自分からわざわざ見に行こうとはしなかったろう。しかし、現代技術が作り出した大掛かりで華やかな仕掛けはなかなかどうして見ごたえがあると、オープニングの場面には少しうなって、腰を据えて見る気になったのに、横に座っている連れときたら、何か楽しいジョークを役者が飛ばす度に声をあげて笑い転げたかと思うと、悲しい場面では今度は鼻をぐすぐすいわせだすし…極めつけは父親ライオンが死んでしまった場面で、ついに肩を震わせてしくしく泣き出してしまった。しんと静まり返った客席ではかなり盛大に聞こえたに違いない。感極まるともう自分では感情を抑えられないらしいスルヤの肩を抱いて慰め、ハンカチで涙をぬぐってやっているうちに、カーイはミュージカルよりもこの連れの反応を見ている方がよほど面白いと思っている自分に気がついた。実際、泣き止んで静かになった後も、目の前で繰り広げられる鮮やかな物語の世界にすっかり入りこんで、頬を紅潮させてうっとりと眺めているスルヤの表情から目が離せなくなってしまった。おかげで、結局ミュージカルの内容はあまり覚えていない。チケット代が無駄になった気がしないでもないが、ある意味では非常に楽しい一時だったのだ。そう、性懲りもなく「泣ける映画」のビデオなど買ってきて、もう一度その反応を楽しもうとするくらいには。

「学校は、どうでした?楽しかった?」

「うん…そうだね。初めの頃は、結構理論的なことが主で、そういうクラスは居眠りしそうになっちゃったんだけれど、この頃は、実習が多いから…」

どちらともなく、手をつないで、次第に日の落ちてくる帰り道をおしゃべりしながら歩いていく姿は、仲のよい恋人同士そのものだ。

「あ、今日ね、スティーブン、学校を休んでたんだよ…どうしたんだろう、風邪でもひいたのかなぁ。土曜に会った時も、そういえば少し変だったよね。大丈夫かなぁ」

カーイは、答えず、そっと視線を下げて、スルヤの気づかない所で、何事か考えをめぐらせていた。

途中、まだ開いていたいつもの花屋に寄って、いつもどおり百合の花束を買い求める。

もとはといえば、広い割には家具が少なく殺風景な家を明るく華やかにするための、スルヤのアイディアである。実際、ほとんど無造作と言っていいくらいの大胆さで家中に飾られた百合の量は、半端なものではなかった。

家の扉を開いた時、いつも、そのむせかえるような圧倒的な香りが、彼らを迎える。

「あ、ただいま、プリンセス」

新しい花を、花瓶がもうないので、空になったプラスチックのミルクボトルにカーイが生けていると、中庭に面したガラス戸を開いて、スルヤが真っ白な猫を部屋の中に招き入れた。先日の事故がきっかけで、スルヤの家に住みつくことになった例の迷いネコである。もうすっかり、ここでの暮らしに慣れて、我が物顔で家の中を歩きまわる、その生き物を、カーイはあまり好きではなかったのだが、スルヤが可愛がっているのだから仕方がないと、不承不承同居を許していた。

「スルヤ、家の中で飼うのなら、あまり外にはやらないで下さいよ。せっかく掃除をした床に泥をあげられては、たまりませんから」

「だって、外で遊びたいのを閉じこめたりしたら、可哀想じゃない。生き物を飼うなら、少しくらい汚れるのは仕方がないよ」

「全く、一体、誰が掃除をしていると思ってるんです」

カーイがそうたしなめても、スルヤはかまわず、新しいツナのカンヅメあけてもらって無心に食べているネコを、その傍らに坐りこんで、背中を撫でてやりながら、うっとりと眺めている。

ちょっと気に入らない。

カーイは、足音を消して、スルヤの背後に近づき、その首根っこをいきなり掴むと、ぐいっと引っ張りあげた。

「わっ、カーイ、何?」

スルヤが大声をあげるのに、驚いたネコが、その場から走って逃げ出す。

「ネコなんかにかまけているからですよ」

強引に立ちあがらせたスルヤの肩を掴んで引き寄せると、カーイは、何か言いかけるその口をキスでふさいだ。少年の柔らかい唇をしばらく味わい、ようやく解放すると、

「…屋根裏部屋に行きませんか?」と、その顔を覗き込みながら、尋ねる。

スルヤが、頬を赤らめて、こくりと頷くのを認めると、カーイは、百合を活けた瓶をテーブルから取り上げ、ゆったりした足取りで、上の階へと向かった。慌てて後をついてくる、スルヤの足音を背中に聞きながら、その顔には、楽しげな微笑みがうかんでいる。

二人きりの親密な時間をすごす時は、この広く快適な屋根裏にこもるのが、何時の間にか、彼らの習慣となっていた。実際、それはなかなかいい部屋だった。頭上に大きく取られた天窓から、晴れた日の昼間はぽかぽかと暖かい日差しが、月の明るい夜はほの白い月光が差し込み、そうでない夜はマットレスに横になって瞬く星々を眺められる。

部屋に上ると、カーイは、百合の花をソファの前のテーブルに置き、彼の後ろで黙って立ち尽しているスルヤの方にくるりと向き直って、その胸に身を投げ出すように飛びこんだ。とっさのことに、それほど逞しいタイプとは言えないスルヤは一瞬よろめいたが、後ろに倒れそうになるのを、足を踏ん張って、何とか持ちこたえた。ここで支えきれず、無様にこけたりしたら、カーイは、たちまち不機嫌になって、触らせてなどくれなくなるだろう。そんな我が侭を、この頃カーイは見せるようになっていたが、スルヤは、むしろ二人の仲が親密になっている証として、歓迎していた。

抱き合い、夢中になってキスをしているうちに、スルヤの息は、すぐに熱く弾んだものなっていく。若いだけに堪え性がない恋人が、体をすりよせ、もっと親密な抱擁を求めて、かき抱こうとするのを、気まぐれなネコのようにするりと抜けだし、カーイは、誘うような流し目をくれながら、部屋の真ん中に置かれた、ベッドかわりのマットレスに向かって歩いていく。渇きを覚えたかのように、喉を小さく鳴らし、思いつめたような顔をしたスルヤが、その後を追いかける。

この二人の関係において、あらゆる点でリードしているのはカーイで、それは、週末はどこに出かけるかを決めたり、新しいカーテンや家具を選んだりといった日常生活の些細な場面から、性のことにまで及んでいた。いつもはもう少し大人の、気のきいた相手を恋人に選ぶカーイにとって、まだあどけなさの残る初心なスルヤは、自分が何くれと世話を焼いてやらなければならないような気分にさせられる対象で、それが新鮮で、楽しいのだ。女の子とのちゃんとした恋愛経験もなかったスルヤは、ベッドの中でも、最初の頃は、カーイが手取り足取り教えてやらなければならなかった。辛抱強く教えこんだかいあって、また、スルヤ自身か思ったよりも飲みこみが早かったので、今では、それなりに満足のいくセックスができるようになってはいたが、主導権を握っているのはカーイだという事実は変わっていなかった。人がよくて、素直なスルヤは、別に不満に思う様子はなかったが。

「…脱がしてあげますよ」

マットレスのすぐ傍で、スルヤに向き直ったカーイが、舌なめずりしそうな調子でそう囁くのに、スルヤは、おずおずと頷き、恋人が、セーターをその下のシャツごと引っ張りあげるのに、両手で腕を上げる格好で手伝った。何だか、小さな子供の着替えを手伝ってやっているみたいだなと、ちょっとおかしくなりながら、カーイは、スルヤの着ているものを頭から抜き取ってやる。

体毛らしきものもほとんどない、すべすべした薄い胸が現れた、瞬間、スルヤは、寒そうに身をちぢこめた。

「大丈夫、すぐに暑いくらいになりますよ」と、意味深なことを囁いて、カーイは、身を屈め、うきでる鎖骨に、その下の小さな固い乳首に、腹にとキスをしながら、ゆっくりと膝をついた。

「カ、カーイ!」

うろたえた声をあげるスルヤの膝をぴしゃんと叩いて、黙らせると、カーイは、手際よくジーンズのジッパーを下ろして、有無を言わさず、脚から抜き取ってしまった。

スルヤは、よろめかないようにカーイの肩に手を置いて、されるがままになって、その作業を見守っていたが、ついに下着も下ろされてしまった時は、ぶるっと小刻みに震え、その口から耐えかねたような微かな溜め息を漏らした。

「じっとして…」

カーイは、膝をついたまま、スルヤの赤くなった顔を見上げて、妖しく微笑み、少年の細い腰に手を置いて、軽く引き寄せ、その臍に下腹部にと唇を滑らせ、待ちうけるかのように既に頭をもたげていた、敏感なその部分にキスをし、愛しげに口に含んだ。

スルヤは、はっと息を吸いこんだ。

瞬間、反射的に後ろに下がろうとする腰を強引に引き戻され、火がついたように熱をもった、その部分を根元までしっかり捕らえこまれて、逃げることも許されず、スルヤは、呆然となって、カーイが、下腹部の中心に手を添え、巧みな唇と舌で丹念に愛撫するのを、ひたすら見入っていた。長い睫毛を伏せた、カーイの端正な顔は、こんな行為の最中でも、みだりがわしいところなどまるでなく、むしろ清らかで、それが余計にスルヤの興奮と居たたまれなさをかきたて、彼を追いこんでいく。

「あ…ッ…カ…カーイ…!」

がくがくと震え出し、今にも崩れ落ちてしまいそうな膝で、スルヤは、何とか立ってはいたが、命じられたように全く動かないでいることは不可能だった。全身の神経が集中しているかのごとく過敏になった、そこを包みこむ、熱く塗れた感触、巧みでみだらな舌が生き物のように滑り、快感を刺激するのに、もはや自分の意思を離れて腰は勝手に動いてしまう。

「あ…ぅ…で、出ちゃう…よ…カーイ」

下腹部の中心から突き上げてくる快感の波に震え、上ずった声で、スルヤは、泣き叫ぶ。

「あっ…あぁ…っ…!」

力の入らない手で、己の腹の下で伏せられている恋人の頭を押さえ、堪り兼ねたようにその銀色の髪をつかみ、打ち寄せてきた最後の痙攣に息を止めた、次の瞬間、彼は呆気なく達した。

「カ…イ…」

体が内側から弾け飛んだような衝撃の余韻に酔いながら、己が放ったものを、カーイが飲み下し、その部分の先端に染み出るものをも舌で綺麗になめとってしまうのを、スルヤは、魅せられたかのように見守っていた。

「これも血でできているのでしょうかね」と、行為の間中伏せていた目をやっと上げ、ふいに思いついたようにカーイは囁いた。 

「え?」

「だって、似ているでしょう?どちらも、生命との関わりが深いという点で…」

スルヤが重ねて何か問い返そうとする前に、立ち上がると、カーイは、スルヤの両手をそっと引っ張って、己の胸元に押し当てた。

「次は、あなたの番ですよ?」

何のことか分からず、目をぱちぱちさせるスルヤに向かって、揶揄するように笑い、その耳に口を寄せて、息を吹き込むようにして言った。

「今度は、あなたが私を、脱がせてください」



暗闇の中で、二人は、ほてった体を絡ませあって、束の間の熱夢の余韻に浸るように、押し黙ったまま、じっと休んでいた。

背中に押し当てられたスルヤの熱い体、その手が、ゆっくりと腕を、肩をなで、肩から肩甲骨の辺りを撫で下ろし、そこから背骨にそって、襟足近くまで弧を描くようにして、点々とのびる奇妙な印をなぞっていくのに、カーイは、くすぐったそうに身を震わせた。天使の羽跡と彼の母が呼んだ、その疵の部分は、他より敏感で、触れられると微かな電流が走ったようになる。スルヤは、恋人の完璧な美しさの中に発見した、この可愛らしい疵を、随分気にいって、しきりに触りたがるのだ。

カーイは、無意識のその愛撫から逃れて、マットレスの上に仰向けに寝返りを打つと、天窓の向こうに瞬く星々の輝きを眺めた。人間の視力では、ぼんやりとした見えない、小さな星の瞬きも、カーイの目には、また違った姿に映る。うっとりと見入っているうちに、すぐ傍らで、虫が鳴くような音がするのに、我に返った。

「…おなかが空いたんですか?」

「うん…今、何時…?」

ベッドサイドの小テーブルの上に目を向け、

8時過ぎですよ…」と、カーイが囁くのに、スルヤは、さすがにちょっと疲れた声で言った。

「どおりでおなかが空くはずだよ…何にも食べずに、あれだけたくさん運動したんだから…」

「そうですねぇ…」

くすりと微笑んで、カーイは、肘をついて上体を起こし、暗闇の中じっとこちらを見ているスルヤの黒い目を覗き込んだ。

「何か、作りましょうか?」

「うん…でも、今更、晩御飯の支度をするのも面倒じゃない?ねえ、ピザを取ろうよ、ここでごろごろしながら、一緒に食べよう?」

「私は、あまりああいう食事は好きではないんですが…あなたが食べたいというのなら、別にいいですよ」

「うん…それなら、カーイの食べたいものを取ろうよ。インド料理は駄目だから…中華は、どう?」

「別になんでもいいですよ」。

カーイは、悪戯っぽく微笑んで、スルヤの体に腕を回して引き寄せ、その上に覆い被さった。

「私が食べたいのは、あなただけですから」

少し湿った、癖のある髪に唇を押し当て、滑るように動いて、滑らかな喉のくぼみでとまる。スルヤは、これをただの戯れと受けとって、くすぐったそうに身をくねらせ、軽やかな笑い声をたてているが、カーイにとっては、冗談ばかりではない。スルヤの体から発散される血の匂い。特に、こうして愛し合う時などは、高まる熱に醸し出されるように立ちのぼってくる、その甘い香りの誘惑は、抗いがたいほどになる。ほんの少しだけでも、味見ができるようなものであれば、いいのだが。

「それじゃあ、後で、また…する?」

疑いの片鱗もない無邪気さで、カーイの腕の中で、スルヤは、言った。そのいとけなさに、ふと胸をつかれる。

「…どうかした?」

カーイの沈黙の中に、何かを嗅ぎ取ったのか、意外な敏感さで、スルヤは、不思議そうに問うた。

「スルヤ、私のことが好きですか?」

束の間の蜜月の儚さを、その後に来る苦い失望の味を知りすぎているカーイである。

「うん、すごく好き」と、答えるためらいのなさ、瞳にあふれる信頼、慕わしさ。この一瞬のものと思えば、なおのこと貴重で、いとおしい。その従順な体を抱き寄せて、キスをする。

「私を、信じている?」

滑らかな頬にそっと己の頬を押し当て、猫の子でも可愛がるように、優しく頬ずりしながら、カーイは、囁いた。

「信じてるよ…でも、どうして?」

スルヤの手が、気遣わしげに、不器用だが限りない優しさをこめて、髪を撫でるのを感じながら、カーイは、胸の中に重苦しい感情がたまってくるのを意識した。

仕方のないことだ。所詮は、殺す為の獲物。

「この部屋…」

「え?」

カーイは、スルヤから身を離し、その隣に再び横になった。

「いい部屋ですよね。あの天窓が特に気にいっているんです…今日は、暗いけれど、月の明るい夜は、あそこから差しこむ月明かりで、ぼんやりと部屋の中のものがうかびあがって…」

「うん…」

カーイが話題を変えたがっていることに、スルヤは、少し失望したようだ。肝心の所で、いつも心を閉ざしてしまう、不思議な人。いつか、全て話してくれるだろうか。そう、いつか。

「どうして、今までこの部屋を放っておいたのですか」と、カーイが尋ねると、スルヤは、気を取り直したように笑って、言う。

「だって、広い部屋で一人きりでいるのって、何だか嫌じゃない?」

甘えかかる様に、カーイの体に腕を巻きつけて。

「今はあなたがいるから、いい。広い部屋は一人じゃ寂しいけれど、二人だと楽しいね」

「それでよく一人暮しをしようなんて、そもそも考え付いたものですね」

カーイが、少し呆れた顔をすると、スルヤは、真顔になって、言った。

「イギリスにはずっと来たかったんだ。何故だかよく分からないけれど、ずっと引かれていて…来てみて分かったけれど、俺の根っこはここに生えてたのかなって。いつかデリーに帰って、そこで暮らすことなど、もうないのかもしれない、もしかしたら、このまま死ぬまでずっとここにいるかもしれない…そんな気がするよ」

カーイは、内心どきりとしながら、「そう」とだけつぶやいた。自らの死を現実のこととして捕らえるにはまだ若すぎるスルヤは、それを遠い未来の話として言っているにすぎないが、その日が来るのはそれ程先ではないだろう。人間にとっては破滅をもたらす者でしかないカーイを、恋の相手に選んでしまったからには。

二人が、それぞれの物思いに沈みかけた、その時、階下で電話がなった。

「ここにも子機をつけた方が、いいかなぁ…」

面倒くさそうに置きあがるスルヤを、そっと肩をひいて、ベッドに戻し、カーイは、床に滑り降りた。

「私が、出ます。いいから、休んでいてください。ついでにピザを適当に頼んできますね」

スルヤはおなかを空かせているようだから、キッチンに行って、適当にスナックとジュースを持って戻ろう。そんなことを考えながら、屋根裏から、二階に続く細い階段を駆けおり、廊下に置かれた電話の受話器を取り上げる。

「はい?」

受話器の向こうの相手は、沈黙で答えた。

カーイは、口を閉ざし、向こう側でたてられる、微かな物音に聞き入っていた。受話器を持つ者の微かな息遣いは、心持ち早くなっている。緊張しているようだ。自宅からかけているのだろう、テレビのニュース番組らしい音声が、聞き取れる。

そうして、たぶん一分近く黙っていただろうか。カーイは、ためらいながら、口を開き、いつまでたっても名乗らない、その相手に話しかけようとした。

「スティ…?」

唐突に、電話は切れた。

カーイは、しばらくの間、受話器を下ろそうとはしなかった。冷たく、厳しく張り詰めた顔をして、何もない虚空を凝然とにらみつけていた。



電話を切った後、スティーブンは、力尽きたかのように、ベッドの上にどさりと腰を下ろした。途方に暮れたようにうなだれ、両手で顔を覆い、しばらく、じっとしていた。

その耳に、すぐ傍のテレビから、ニュース番組のアナウンサーの声が、無意味に響いてくる。

(ES法違反の容疑をかけられた、コックス製薬の工場の立ち入り検査の結果を受けて、政府は、営業取り消し処分に踏みきる方針を固める模様です。コックス製薬は、本社の置かれるアメリカではバイオ企業として名高く…)

その淡々とした、クリアーな声に耳を傾けているうち、千々に乱れていた気持ちが、次第に静まっていった。

スティーブンは、いきなり、ベッドから勢いよく立ちあがり、机に駆け寄ると、その引出しの中を乱暴に探しまわって、やっとのことでその手帳を見つけると、それを手に電話の所に戻った。開いたページの電話番号をダイヤルしかけて、一瞬躊躇したかのように、その手が止まる。

(約束しましたよ)

絡みついてくる、強力な何かを振り切る様に、頭を激しく振って、スティーブンは震える手で、ダイヤルした。

(ハロー?)

聞き覚えのある男の声が出るのに、スティーブンは、ほうっと息をつく。

「もしもし、ロバート?俺だ、スティーブンだよ。ああ、久し振り。…うん、そうだな、親父には、ここの所、会ってないな…そのうち、顔を見に行くよ…」

自分ではない、別の誰かが勝手に話しているような気分で、スティーブンは、ほとんど儀礼的に受け答えをした後、こう、切り出した。

「その…実は、あんたに相談したいことがあるんだ。ちょっと電話では話せないような、込み入った話なんだが、会えないか?何なら、あんたの編集部まで、出向いていくし…ああ、その時間で、結構だ。忙しいのに、すまない…それじゃあ、水曜に…」

ぎこちない動きで電話を切った後、スティーブンは、再び、ベッドに戻り、皺のよったシーツの上に身を投げ出した。

(俺は、どうしても、過去の悪夢から逃げれなかった…)

その脳裏には、夢の中から実体を伴って鮮やかによみがえった、あの冷たく美しい顔がある。

(どうしても、逃げれないなら、向き合って、戦うしかない…俺には、他に道はない…)

あの顔を思い出す度、自信がなくなって挫けそうになる心を、ありったけの力を振り絞って、奮い立たせる。

「スルヤ…」

その名前を口にすることで、スティーブンは、かろうじて踏みとどまっていられた。そう、逃げてはいけない。何も知らない、スルヤをこのまま放っておくわけにはいかない。スティーブンが、恐れて、見て見ないふりをすれば、スルヤは、間違いなく殺される。9年前に目撃した、あのぞっとするような殺人の場面。あの優しいスルヤが、あんなふうに無残に殺されるなんて、それも恋人と信じて疑わない相手に裏切られて死ぬなんて、許せない。

(神様…もし、いるのなら、俺を強くしてください。あいつに立ち向かえる、勇気を下さい)

正義など、これっぽっちも振りかざす気はない。自分はそんなタイプじゃない。スティーブンは、自分の弱さを知っていたし、別に利他的な人間でもなく、これがスルヤが絡むことでなかったら、本当に逃げ出していたかもしれないということも分かっている。

それでも、戦わなければ、抗う努力をしなければ、自分はもう駄目になってしまう。悪夢に打ち負かされ、親友を見捨てたという罪悪感に苛まれて、惨めな一生を送るくらいなら、死んだ方がましだと言えるくらいの気概は、まだ残っている。

(どうか…)

神様。

スティーブンの神と呼べる存在は、ずっと、記憶の中のあの残像、コンピューターを使ってよみがえらせようと試みていた、あのイメージだったというのに、いまや、それを裏切ろうしていた。

背教者になったような、後ろめたさと、恐ろしさが、心の奥底にはいまだにある。9年も呪縛されつづけたのだ、逃れることは容易ではない。だが、神を裏切ったことで、罰を受けなければならないとしても、その覚悟はできている。そのつもりだった。  

 

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