愛死−LOVE DEATH−
第八章 水面(みなも)に映る月
三
「おい、気をつけろよ、足元がふらついているぞ」
たっぷり時間をかけて、おいしい食事と楽しい会話を楽しんだ彼らが、そのレストランを出た時には、もうかなり遅い時間になっていた。
「大丈夫だよ〜」と、上擦った上機嫌の声で言い、見るからに危なかしげな足取りで、先に立って、ふらふらとレストランを出ていくスルヤを、スティーブンが、慌てて、追っていこうとする。
「スルヤ、そこで大人しく待っていなさい。今、タクシーを呼んでもらいましたから」
支払をすませているカーイが、スティーブンの肩ごしにそう声をかける。
「本当に、もう、飲みすぎないように気をつけてと言ったのに…」
やれやれというように溜め息をつくカーイを、ステーブンは、振りかえった。
「スティーブン、あなたは、帰りはどうしますか?私は、スルヤがあんなですから、タクシーで帰りますが、送っていきましょうか?」
「いえ、ちょっと近くのパブに寄って帰ろうと思うので、俺は、ここで」
「そうですか」
「あの…今日は、本当にありがとうございました。楽しかった…」
スルヤではないが、たくさん飲んだシャンパンのせいか、頬がかっと熱かった。
「何ていうか、安心しました、その…スルヤの恋人が、とても素敵な、いい人だったので」
ほとんど勝手に回ってしまう舌がそう言うのを、他人事のようにぼんやりと聞いていた。おかしい。こんなことを言うなんて、何かが、間違っている。
「私にとっても、とても楽しい一時でしたよ。また、よければ、あなたの写真を見せてくださいね」
何かしら不審なものを覚えて、頭の中でばらけた思考を組みたてようと試みたが、目の前で、暖かく、友好的な笑みをうかべるカーイの顔に見ほれてしまって、また、何も考えられなくなってしまった。
おかしい。こんなはずではない。
まるで、友人同士のように、この男と、親しげに握手を交わしているなんて、間違っている。
しかし、何がどう間違っているのか、スティーブンには、どうしても、思い出せなかった。まるで、彼を見つめる、吸いこまれそうなほどに青い瞳に幻惑されたかのように、彼の頭は麻痺していた。
一体、何が?
その時だ。レストランのすぐ外で、スルヤの悲鳴と、どすんと何かが落ちるような音がした。
「スルヤっ?!」
その叫びに、夢から覚めたようになったスティーブンが、慌てて、レストランの扉に突進し、外に飛び出した。
「スルヤ、おい、大丈夫か?」
見ると、扉のすぐ前の階段の下に、スルヤが、手を押さえて、うずくまっていた。
「落ちたのかっ?!」
もしや、頭でも打ったのではと、スティーブンは、息を飲んで、その傍らまで駆け下りた。
「うう…大丈夫…足がもつれちゃって…でも、お尻は打って痛いけれど…別にどこも傷めてないと思う…」
「馬鹿、慣れない酒なんか、飲みすぎるから…って、おい、手から血が出てるぞ」
「あれ?」
言われて初めて気がついたかのように、スルヤは、己の右手を顔の前に持ってきて、店のライトに透かすようにして、見た。
「あ、本当だ…分かった、落ちそうになった時、とっさに階段の手すりを掴もうとして、その時、何かに引っかかった感じがしたんだ。金具か何かが出ていたのかな」
「血が出てるぞ」
「大したことはないよ。そんなに痛くないし」
「酔っ払っているから分からないだけかもしれないぞ」
スティーブンは、慌てて、コートのポケットをまさぐって、ハンカチを探し出し、それをスルヤに渡した。
「それで、押さえておけ」
スルヤは、素直にスティーブンから、ハンカチを受け取り、手のひらの傷に押し当てた。
それを見て、少し安心したように立ちあがった、スティーブンは、その時、何時の間にか、もう一人が、すぐ後ろに立って、彼らの様子をつぶさに観察していたことを悟った。
「カーイ?」
何気なしに振りかえって、声をかけようとした、スティーブンの顔が凍りついた。その喉が、ゴクリと鳴った。
カーイは、スティーブンの背中越しに、スルヤの様子を見つめていた。息をつめて、まるで魅せられているかのようにうっとりと目を細めて、傷ついた手にハンカチを巻いているスルヤの姿に見入っているのだった。その瞳にうかぶ恍惚とした光、陶然となって開かれた薄い唇からもれる、熱い息の音が、今にも聞こえそうなほどだ。それは、決して、今までのカーイ、優雅で、優しく、教養のある、美しい青年のものではなかった。優雅だが、その気になれば、いつでも獲物を引き裂く鋭い爪を隠し持った獣が、傷ついて血を流している獲物を前に、その狩人の本能を目覚めさせてしまったかのような、そこにあるのは、紛れもない、血に対する飢えなのだった。
スティーブンは、凍りついたように、そんなカーイを凝視していた。
普段は隠している、別の顔、思いがけない素顔。またしても、ここにない、愛用のカメラのことを思った。ぞっとするが、同時に、とても惹かれるその姿を捕らえたいと、恐怖に満たされた、心の片隅で思っていた。
見てはいけないものを見てしまった人のように、目を逸らしたいと思いながら、できずに、言葉もなく、その恐ろしい顔を眺めていたスティーブンの存在に、ようやく気がついたように、カーイが、彼の方に視線を動かした。
急に熱が冷めたような顔で、スティーブンの青ざめた若い顔を、凝然と眺め、やがて、カーイは、冷やかな、嘲笑をその白い顔をうかべた。ばつの悪そうな顔をするどころか、少しも悪びれはせず、仕方がないですねというように、軽く肩をすくめて、呆然と立ち尽しているスティーブンの横を、風のように通り過ぎた。足音も、しなかった。人間では、なかった。
「スルヤ、大丈夫ですか?家に帰るまで、我慢できますか?」
「うん、へっちゃらだよ」
少年の体を優しく助け起こしてやりながら、カーイは、横目でチラリとスティーブンを見やった。
(これは、私のもの)
微かに動いた唇がつむぎ出した言葉を、スティーブンは、理解した。
スティーブンに見せ付けるかのように、無防備で従順な少年の体にさり気なく腕を回し、抱きしめる素振りに、スティーブンは、胸の中がかっと熱くなるのを覚えた。やめろと叫んで、二人の体を引き離したい、そんな衝動に、身を震わせた。
「スル…ヤ…」
胸の奥から、息を振り絞るようにして、友の名を呼び、一歩近づこうとする、スティーブンの腕を、しかし、別の手が捕らえた。一体、いつのまに動いたのか、カーイの顔がすぐ目の前にあった。
スティーブンの腕を、つかむようにして、その動きを止め、息を飲む彼に、顔を近づけるようにして、低い、凄みのある声で囁いた。
「あの約束を…忘れたわけではないのでしょう?」
スティーブンの心臓が、胸のうちで跳ねた。
あの雪の日の約束。決して、誰にも話してはいけない。
店の前で、一台のブラックキャブが静かに止まった。
「カーイ、タクシー、来たみたいだよ」
眠そうなスルヤの声が、無言で見詰め合う二人の後ろで、した。
蒼白になって震えているスティーブンを、酷薄な顔で見据え、やがて、興味をなくしたかのように、カーイは、その体を軽く押した。ごく軽い力を入れただけに見えたが、スティーブンは、非常な衝撃を受けたかのように、後ろによろめき下がった。
「お休み、スティーブン」
カーイの肩越しにスルヤが手をひらひらさせている。ほとんど強引にタクシーに押し込められて、その姿は消え、続いて、カーイが、乗りこんだ。
タクシーが夜の闇に静かに消えていくのを半ば放心舌態で見送ったスティーブンは、両手で顔を多い、その場にくずおれるように、しゃがみこんだ。
「神様…」
打ちのめされ、途方にくれた、彼の呼びかけにこたえる者は、どこにもいないかのようだった。
タクシーの中で、寄り添いあうようにして、坐っている二人がいる。
「帰ったら、すぐに消毒しましょうね。それほど深い傷ではないみたいだけれど、痛むようなら、明日、病院に行って…」
「平気だと思うけれどな…それよりも、頭がふわふわして、変な気分…酔っ払うって、こんな感じなんだ」
「全く、お酒は飲むものであって、飲まれるものではありませんよ」
「あはは、何、それ、おもしろいね」
「馬鹿」
溜め息をついて、カーイは、スルヤの頭を軽く小突いた。
「明日、二日酔いにならなければいいけれど…私もうっかりしていましたよ。もっと早くに、あなたをとめるべきでした。…スルヤ、眠いんですか?」
見ると、スルやは、頭を前後にゆらゆらしている。車の震動に合わせて、今にも、前にのめりそうで、危なっかしく、カーイは、その体を抱きよせて自分の肩にもたれさせた。
「本当に、世話の焼ける、困った人ですねぇ」
困ったと言いながら、むしろ楽しげにそう囁いて、カーイは、うとうとしだす少年の横顔を覗き込んだ。横を通りすぎる車のライトに浮かびあがっては、闇に沈む、その若い、感じやすそうな顔、意外に長い睫毛が震える様と、寝言らしいものをふにゃふにゃと呟く口元にうっとりと見入っていた。
愛しくてならずに、頬をすりよせ、艶やかな黒髪の頭に唇を押しつけた。傷ついた手から立ち昇ってくる血の匂いに、喉の渇きを覚えたが、ゆっくりと近づいてくる、飢えの予感を意志の力で押さえこんだ。
(まだ、早すぎる…まだ、手放せない)
分かっている。本能には逆らえない。このかわいい少年も、いつかは殺すのだろう。だが、愛しいと思う、今の気持ちもまた、カーイの真実だった。
脳裏に、スティーブンの、緊張と恐怖に張り詰めた、しかし、果敢にもカーイから目を逸らさなかった、若い顔がよみがえった。あの時の子供とこんな形で再会するとは、夢にも思っていなかった。偶然という、恐るべき運命の悪戯とでも言うべきか。
さて、あの若者は、次はどう出てくるだろう。このまま、大人しく手を引いてくれれば、いいのだが。
(誰にも、渡せない)
何も知らずに眠るスルヤの体に腕を巻きつけ、抱きしめながら、カーイは、窓の外に広がる、夜の闇をぼんやりと眺めた。
こんな穏かな夜は、しばらく、過ごせなくなるかもしれない、そんな予感がした。