愛死−LOVE DEATH− 

第八章 水面(みなも)に映る月


「…降参した?」

フレームレスの眼鏡ごしにカーイを覗きこむ、笑いを含んだ目は、鮮やかな緑色こそしてはいなかったが、よく似た清冽な輝きを放っていた。

「ええ…悔しいけれど、確かに、これは、とてもいい酒ですね、少なくとも、牡蠣との相性については、シャブリさえ足元にも及ばない」

カーイが素直に認めると、何とも満足げな、勝ち誇ったような顔になる。癇に触るが、同時に心引かれた。それに、カーイも、もう、遠い昔のように、恋人のちょっとした欠点に本気で腹をたてることはない。思えば、あの頃は相手に振りまわされてばかりで、若すぎたカーイは、恋人と一緒にいることに、ついには疲れきってしまった。今の自分なら、もっとうまくできただろうか。そんな想いを、目の前の、どこか似た面影を持つ男に投影する。

馬鹿げたこと。この相手は、ただの人間なのに。

つい感傷的になる自分に苦笑しながら、赤々と燃える暖炉の前の広い炉床に敷かれた毛足の長い敷物の上を、猫のように滑らかに動いて、向き合うように、ゆったりと坐りこんでいる相手の手からグラスを取り上げ、その耳に唇を寄せた。

男の肩越しには、大きく取られた窓を通して、宝石をちりばめたような大都会の夜景が広がっている。

清潔な肌の匂いに混じる血の香りに、喉の渇きを、つのってくる飢えを意識した。カーイにとっては、どんな美酒にも勝る、命の源だ。

「ついでに、教えてくれませんか?」

空腹を覚えた者のように、舌で唇を軽く舐め、カーイは、囁いた。

「血の滴るように新鮮な…例えば、心臓やレバーには、どんな酒があうと思います?」




カーイが、その男と出会ったのは、ニューヨーク、世界の経済と文化の中心たる、華の大都会だった。 

カーイは、その長い生のほとんどをヨーロッパ中心に生きていて、アメリカ大陸に渡ったことだけなら幾度となくあったが、長く住む気には全くなれなかった。ヨーロッパ人が古いものを一掃して新しく作り上げた世界は、彼の目には、浅薄なものに映ったし、現代的な町並みや、世界中でもてはやされている、アメリカ人たちの誇る最新のエンターテイメントなどは、むしろ俗悪の極みと見下していた。要するに、性にあわなかっただけなのだが、彼の偏見は、その国民にまで向けられていて、軽薄で、無神経で、傲慢で、鼻持ちならない、最悪の人種だと思っていた。だから、束の間とはいえ、恋を語る相手をそこで選ぶつもりはなく、その男と付き合い始めたのも、言ってしまえば、気の迷いのようなものだった。

街で偶然見つけた小さな画廊で声をかけられた、男の名は、ポールといった。三十代前半、友人と共に自ら起こした会社を経営する、やり手の企業家で、マンハッタンの高級マンションに居を定めていた。

若くして成功した者らしく、ピンと背を伸ばした姿も物腰も自信に満ち溢れていて、物怖じせずに相手の目をまっすぐ見る、その瞳の強さが印象的な、不遜なくらいにはっきりものを言う、魅力的ではあるが、時々カーイをいらだたせるタイプだった。カーイの宿泊するホテルにまで何度もやってきては、得意先をライバルから奪う時のような強引さで、あの手この手で押しまくる相手に、ついには音をあげて、口説き落とされてしまったようなものだった。本当に、冷静になってみれば、どうして付き合い始めたのだろうと、カーイ自身、首を傾げることがよくあった。

ポールは、容姿については、カーイの理想に限りなく近かった。190cm近い長身に、水泳で鍛えられた体は、無駄な肉が全くついていない、引き締まった均整のとれたもので、上等なスーツを完璧に着こなして、堂々と肩で風を切って歩く様子は、その辺のモデルもかすむほどに決まっていた。確かに格好はよかったが、本人がそう思っていることがあまりに露骨だったので、素直に認めるのは癪に障った。実際、時々、後ろから、石でも投げつけてやりたい気持ちにさせられた。

頭が切れて、ビジネスだけでなく、美術関係にも造詣が深く、特に陶芸に関してはプロ並みの作品を自ら作る、ユーモアに富んだ気のきいた話ができて、一緒にいるにはとても楽しい人物だったが、意見があわずに口論をすることもよくあり、その度に、カーイは、こんな男、早く殺してしまえと思ったものだった。

にもかかわらず、結局、5ヶ月近く、ポールとは一緒にいたことになる。カーイの恋の期間は、大抵三ヶ月。ほぼその周期で血に対する渇望を覚えるからであり、また、それ以上の長期間を特定の相手と共に過ごすことを、なるべく避けようとする用心の気持ちもあった。殺すと初めから分かって付き合うとはいえ、あまりに度を過ぎて親密になりすぎると、やはり、それなりに情を覚えもすれば、殺すことにかなりの努力を要するようにもなる。ポールの場合が、まさにそうだった。腹のたつ、苦手なタイプとばかり思っていたポールだが、その背の高い、鍛えられた体つきや、自信たっぷりの話しぶり、時にカーイの神経を逆撫でする無神経さまで、遠い昔に別れた、懐かしい誰かをカーイにふと思い出させたからだ。目を閉じて、その広い胸に頭を預け、包みこむように抱きしめられるのが、好きだった。 

「君は、まるで鉢植えの花のようだな」

旅を続け、どこにも定住する気のないカーイのことを、ポールは、よくそう評した。

「どこにも根付こうとはしない。そんな暮らしをずっと続けるのは、疲れないか?」

生まれ育った国を持ち、家族や友人がそこにいて、満足のいく仕事も地位も手に入れ、そこに属していられる安心感に無意識にうちに浸っていられる、彼のような人間には説明しても分からないだろうと思うから、カーイは、何も言わなかった。気に入った街を見つけて、そこに住みつく、落ちついた暮らしに憧れがないわけではない。試みたことも、何度かある。けれど、発見したのは、ここにも自分は根をおろせない、自分の居場所などないという失望のみ。最後には、いたたまれなくなって、逃げるように次の土地に旅立つのが常だった。仕方がない。そうやって、決して見つからないものを探しながら、永遠に旅を続ける、そんな種族なのだ。

何を?

家。

ポールがカーイに興味を抱いたのは、他の多くの恋人たちがそうだったように、彼の謎めいた所、捕らえがたい神秘性があるからだと、思っていた。それに、仕事が一番で、恋愛経験は豊富だが、深入りするのはわずらわしい、ポールのようなタイプにとっては、行きずりの旅行者であるカーイは、遊び相手としては理想なのだろう。

カーイと付き合っていた時にも、華やかな女友達の影が、彼の周辺には見え隠れしていた。若くて、リッチで、社交家で、その上ルックスも完璧とくれば、もてないはずがなかった。ポールのフラットの玄関前で、彼と親密に付き合っているらしい一人と鉢合わせをして、ヒステリックなアメリカ女の強烈な平手攻撃を食らう―避けては失礼な気がしたので、殴られてやったのだが、そのすさまじさには全く辟易した―という、最悪の修羅場を経験したことだってある。別に、浮気などはどうでもいいことだった。お互い何の約束もしなかったし、割りきって付き合える分、ある意味、楽な相手だ。しかし、この遊びは高くつくことを、いずれ思い知らせてやる、そう思っていた。

それがまさか、あんなふうに忘れがたい恋になるとは、カーイ自身、全く夢にも思っていなかった。

クリスマスの近づく、きらびやかな街をそぞろ歩くだけで何となく心が浮き立ってくるような、そんな時期のことだ。ポールから、その話を打ち明けられたのは。

「…仕事をやめる?まさか、冗談でしょう?」

一瞬、耳を疑ったカーイは、とっさにそう聞き直していた。また、何かしら、からかいや悪ふざけのねたかと、疑っていた。

しかし、カーイにとっては、青天の霹靂のような宣言をした、当の本人は、外の天気の話をするかのような気軽さで、

「本気だよ。会社のことは、共同経営者に任せられるし、今は経営も順調だから、私がぬけても、それ程、痛手にはならないだろうと思う。それに、私が経営から手を引くということは、中心メンバーには以前から話していたことだったからね」と、部屋の片隅の小さな工房で、轆轤を使って小ぶりの器を熱心に作りながら、言うのだった。

どうやら、本気らしい。ますます、カーイは、不思議に思った。

「信じられない。あなたが、作った会社じゃないですか、それを、他人に任せて、その若さで引退するなんて…それで、一体、どうしようというんです?」

あまりに意表を突かれて、続く言葉を失ったまま、ポールの器用な手が、回る轆轤の上で、青みを帯びた土くれから器らしい形を作りあげていく様に、つい見入ってしまった。

陶芸にかける、ポールの情熱は半端なものではなくて、それに、腕の方も、素人離れしていた。休みの日だけでなく、仕事から帰って寛ぐ時間も、気が向けば、こうして、新しい作品を作っている。土を触っていると、気持ちが落ち着くと、彼はよく言った。仕事上のトラブルでどんなにいらいらしていても、作品に作りあげていく過程で、余計な雑念が消えていき、不思議なほど澄んだ心を持った自分自身に戻れるのだと。

「何を作っているんです?」

何気に興味を引かれ、作業中の恋人のすぐ傍まで歩みより、見下ろした。

「丁度手におさまるくらいの大きさの、酒を飲むための器をね。この間から、幾つもこしらえているんだが、どうも、気に入ったものが作れなくて…」

結局、思うようにならなかったらしい、溜め息をついて、作業をやめ、土の塊を脇に押しやった。そうして、手元にタオルで汚れた手をふきながら、カーイを見上げ、微笑みかけた。

「気に入ったものができたら、君にあげようと思っているんだが」

カーイは、なぜか、当惑して、ポールから、目を逸らした。こんな真摯な顔をする男だったろうか。

「仕事をやめるという話は…どうなったのです?」

ポールの視線が己にひたとあてられているのを意識したが、妙に頑な気分になって、カーイは、そちらを振り向こうとはせずに、そのまま離れ、ほとんど全面がガラス張りになっている、部屋の反対側に歩いて行った。窓の傍に立って、下方を見下ろすと、色とりどりのビルのネオンや遥か地上を走る車のライトが、星の海のように美しい。この部屋からの夜の眺めを、カーイは、気に入っていた。透明度の高いガラスに体を押しつけるようにして立つと、そのまま、空中に向かって体が落ちかかるような浮遊感と、死への憧れにも似たぞくぞくした感じを覚える。夜景を見下ろしたまま抱かれたいからと、恋人に命じて、この窓の前で抱き合ったこともある。

「カーイ」

窓の前で、ぼんやりと、取り止めのない思いにふけっていたカーイの注意を、慎重な呼びかけが引き戻した。何時の間にか後ろに立っていた、ポールの顔が、窓ガラスに映っている。暗いガラスが作り出す像では、その表情までは、よく分からなかった。

「私は、来年で、三十四になる」

振り向きもせずに、カーイは、言った。

「まだ、若いじゃないですか。リタイアするには、早過ぎますよ。急に仕事に嫌気が差したとでも?…いえ、あなたは、以前から決めていたことだと言ったのでしたね。どちらにせよ、あなたらしくない、ポール」

すると、ポールが、突然吹き出したので、カーイは、つられるように後ろを振りかえった。

「君は、私のことを本当に分かってないんだな。そんなに、仕事人間に見えたかい?」

ちょっと考えこんだ後、カーイは、

「見えましたよ?」と、冷たい声で言った。

「まあ…確かに、君とのデートの約束を、仕事のためにすっぽかしたことはよくあったけれどね」と、腕を組んで、高らかに笑うポールを見ていると、カーイの胸は、不覚にも高鳴ってくる。笑い方まで似ているなんて、あんまりだ。ただの人間のくせに。

「カーイ、私はね、確かに仕事のことは好きだったよ。何ていうのか、一瞬先の見えない、スリルに満ちたゲームのようで、新しいマーケットを開拓する時や、ライバル社との争いなんて、たまらなく興奮したし、セックスの高揚感にも似て、ちょっと中毒を起こしそうなくらいだった。けれどね、マネーゲームは、あまり長く続けるものじゃない、少なくとも私にとっては、そうなんだ。愛のないセックスと同じで、気持ちが殺伐としてくる。遅くとも、三十五までには、綺麗に足を洗うつもりだった。それまでは、せいぜい全身全霊を込めて働いて、その後の人生のための資金作りをするさ、と」

何か問いたげな顔をするカーイにそっと近づき、手を伸ばして、彼の髪に触れた。

「私は、これでも昔は大学の美術科で陶芸を学んでいたんだよ。努力すれば、プロとして食べていくこともできるだろうと、お墨付きだった。けれどね、私にとっては、プロになるなら一流でないと意味がなかったので、泣く泣くその道をあきらめて、先に金儲けをすることに決めたのさ。好きな芸術では平凡でも、ビジネスに関しては一流になれる才能があったんだね、幸か不幸か。おかけで、初めに考えていたよりもずっと早く私は成功し、裕福になれたよ。せっかく成功したのに、その全てを棒に振るなんて、馬鹿げていると思う奴には、勝手に思わせておけばいい。私は、自分の好きな人生を生きるだけだ。一度きりのこの人生の貴重な時間を無駄にはしたくない。今はまだ早すぎるとか言っているうちに、気がつけば、年老いているかもしれない。夢をかなえないまま、不慮の事故にでもあって、死んでしまうかもしれない。なぜかな、特にこの頃、そんなことを強く意識するようになった…そう、いつでも、まるで今日死ぬかのように生きているんだよ、私は」

カーイは、一瞬、息が止まるかと思った。自らの運命を、ポールは、無意識に感じ取っているのだろうか。居たたまれなくなって、またしても、その視線を避けるように、目を伏せた。

「私が、仕事のためだけでなく、長期の休暇を利用して、度々日本を訪れているという話は、前にしたね?」と、カーイの髪を愛しげに撫でながら、ポールは続けた。

「学生時代に短期の留学をして以来、いつか、あそこに住むのが夢だったんだ。それも都会ではなく、田舎に、陶芸のための工房と釜を備えた家を建てて。ここ数年、向こうの友人達の助けも借りて、気に入った土地を購入し、夏までには、家も建つ方向で計画が進んでいる。このマンションもなかなか気に入ってはいたが、田舎暮らしの魅力には、敵わないな。落ちついたら、友人の仕事を手伝いながら、好きな陶芸をやったり、本を書いたりして、そこで暮らすつもりだよ。今までのような贅沢はできないが、心は今よりずっと満たされるだろう」

カーイは、両手で口元を軽く抑え、心を鎮めようとするかのように、軽く息をついた。

「何だか、あなたという人が、本当に分からなくなってきました。たぶん、私は、あなたを見そこなっていたんでしょうね。けれど、あなたには、ちゃんと生まれ育った国があって、家族や友人もいる、ここで成功したという実績もある…本当に、それらを皆捨てて、知らない世界に行く価値など、あるんですか?」  

すると、ポールは、そんなことが問題なのかというように、何の屈託もなく笑った。

「どこにいたって、本当の家族は家族だし、本当の友人は友人だと思うよ」と、言い、それから、カーイの手を取って、促すように、引いた。

「ちょっと、こっちに来て、これを見てごらん」

訝しげに思いながら、ポールに手を引かれるまま、カーイは、居間を横切り、彼の寝室に入った。ベッドのすぐ傍の壁にかけられた、一枚の日本の禅画を指し示す。ポールに導かれて、絵の前に立ち、しげしげと、それを眺めた。

カーイも、度々目にしたものだが、じっくりと観賞したことはなかった。水面に映る月に向かって手を伸ばし、それを取ろうとしている猿が描かれている。

これが何か、と問いかけるように、すぐ後ろにぴったりと体を押しつけるようにして立つ恋人を見上げると、ポールは、その絵を見つめたまま、言った。

「この世で手に入れられるものは、すべて、水面に映る月と同じで、幻にすぎないという禅の教えだよ。成功も富も、所詮は夢に過ぎないのなら、他の大切なものを犠牲にしてまで、追う価値はない…分かるかい?」

「この世にあるのものは、すべて幻…捕まえられない水面の月…」

しばらくの間、呆然となって、その絵を見つめ、やがて、カーイは、苦い微笑に唇を歪ませた。

「あなたとは違う意味でですけれど、そんな思いは、まさしく私が常に感じているものですよ」 

背後から優しく腕を回し、包み込むように抱きしめてくる、恋人の手にそっと手を当て、その温もりを確かめながら、胸の奥で、カーイは、ひっそりとつぶやいた。これも、幻。

一体、何人、何百人の人間の愛人達が、束の間の熱と激しさの記憶だけを残して、カーイを通りすぎていったことだろう。ほとんどは、もう顔も名前も思い出せない、その命をカーイに取りこまれて、夢と消えた、愛しい者達。

「カーイ」

ポールの呼ぶ声が、カーイを、今の現実に引き戻した。体に回された、逞しい腕が、高まってくる感情を抑えかねるかのように、きつくしめつけるのを意識した。

「カーイ…会社の一部の者達以外で、この計画を打ち明けたのは、君が初めてなんだ…他の…ちょっと付合いのある女性達には、話す気などない。けれど、君は、大切な人だから…カーイ、こんなことを言ったら、君は、また笑うかもしれないけれど、聞いてくれ」

ポールが、らしくもなく言葉につまり、言いにくそうに、何度も息をつきながら、語り出すのに、カーイは、彼の腕の中で、微かに喘いだ。

「その…私と一緒に、日本に行かないか、カーイ…?君と、ずっと一緒に暮らしたい。君の都合も聞かずに、こんな望みを一方的に押しつけるのは無礼だし、身勝手だと思うが…君を連れていきたいんだ」

カーイは、目を見開いた。

「私を?どうして?」

「どうしてなんて、分かりきったことを聞くのかい?全く、君ときたら、もっと場慣れしているかと思ったら、案外、鈍感なんだな!君が女性だったら、結婚してくれと口説けたんだろうが、それは、法的にも生物学的にも不可能だから、せめて一緒に暮らそうと頼んでいるんじゃないか」

強烈な目眩を覚えて、カーイは、こめかみの辺りを軽く指で押さえた。頭がぐらぐらして、まっすぐ立っていられないほどで、恋人の体にもたれかかっていた。

「君が、どうしても旅をやめられないというなら、仕方がないけれど…例えそうでも、君がいつでも帰ってこられる場所を用意してあげたいんだ。見知らぬ場所で一人でいることが辛くなったら、いつでも私の所に戻ってきたらいい…そんな家を、君のために…」

急に激しくもがき出し、カーイは、ポールの腕から身を振りほどいた。動揺していた。

そんなカーイに、ポールは一瞬手を伸ばして引き戻そうとする素振りを見せて、やめ、言葉よりもずっと雄弁な真摯な目をして、じっと見つめた。

「そんな目で見ないでください」と、きつい口調で、はね付けるように、カーイは、言った。自らの動揺と混乱ぶりを露呈するようなものだった。

「どうして、そんなことが言えるのか、理解できない。私のことなど、何も理解していないくせに…そんな優しい、甘い言葉で人の心を掻き乱すなんて、卑怯です」

理解したら、決して、そんなことを言えはしまい。自分に向かって一度暖かく開かれた扉が固く閉ざされる様を想像し、背筋がぞっとした。恐れていた。

「理解しないだって?心を開こうとしないのは、君じゃないか…本当に不幸な人だと思うよ、冷たく、頑なで誰も寄せつけず、そのくせ、ひどく寂しくて、人恋しがっている…どうしてなんだろうね、カーイ?」

突然、この男を引き裂いてやりたい衝動に、カーイはかられた。人の心の奥に隠された、誰にも触れられたくない、柔らかで傷つきやすい秘密の部分を無遠慮にかき回された気がして、逆上しかかっていた。

「私が不幸かどうかなんて、あなたには関係のないことでしょう?!」

胸の底からこみ上げてくる怒りに任せて、そう言いはなった。しかし、そう言った瞬間、恋人の顔を正面から見てしまった。カーイの激昂ぶりをなす術もなく見守る、その顔にうかぶ、意外なほどの優しさ、傷つきやすさに、はっと胸を突かれた。本当に、カーイは、ポールのことなど、何も分かっていなかった。心を固く閉ざしていたから、その真実でひたむきな思いにも気がつかなかった。

怒る気力も何も、瞬く間になくし、カーイは、がくりとうなだれた。

「カーイ…駄目なのかい、私では…?」

ありったけの勇気を総動員して、ポールは、そう問うた。その真摯な声に引かれて、カーイは、顔を上げた。ポールの顔は、まるで、ほんの少年のような、危うげな若いものになっていた。本気で怒れば一睨みでどんな肝の坐った男でも射すくめる、いつもは炯々と鋭い眼光を放つ、眼鏡の下のブルーグレーの目は、不安げに揺れている。そんな恋人を呆然と眺め、カーイは、両手で顔を覆った。

「分からない…あなたのことが、嫌なわけじゃないんです…私は、ひどく混乱して……」

唇を噛み締めた。駄目だ、そんなことは、やめてしまえ。もう、これ以上、この男との恋を続けては、いけない。せいぜい、今だけいい返事をして、喜ばせ、そうして、いつもの手管で、すぐに殺してしまえ。そう、今すぐにだ。これ以上、深入りしてはいけない。

しかし、カーイの口から出たのは、思っていたのとは、別の言葉だった。

「あまりに突然の話だったし…もう少し、考える時間をもらえませんか?よくよく考えて、そう、クリスマスには、ちゃんと返事をしますよ」

すると、ポールは、ほっとしたようだ。青ざめていた顔が、僅かに紅潮した。

「よかった…では、少なくとも、私は、君から完全に拒否されたわけではないわけだ。考えてみる余地はあると、思ってくれてるんだね?」

緊張が一気にほどけたように、肩から力を抜く、ポールが、急にとてもかわいらしく思えた。

「それ程、この私が欲しいんですか?」と、確認するように、カーイは、問うた。

「でも、この世で得られるものは、皆、幻なんでしょう?追い求めても、得られるのは、失望だけかもしれませんよ?」

すると、ポールは、一瞬、不安そうな顔になった。カーイの真意を推し測っている様にも見えた。それから、心もとないものになった、己の自信を奮い起こすかの様に、かぶりを振って、カーイの肩を抱き、引き寄せた。

「いいや、君は、ここにちゃんと存在している。幻なんかじゃない」

ポールの抱擁は、暖かかった。この胸がこんなに優しいものだったとは、ついぞ知らなかった。あまりに心地よく、素直に溺れたいとさえ思った。しかし、彼の優しささえも、カーイの不安には敵わなかった。じりじりと迫ってくる不安に、吐き気がしそうなほどだった。

身を振りほどくべきだったのかもしれないが、動けずにいると、ポールは、カーイの顔をそっと上げさせ、顎にキスをし、首に沿って唇を下に這わせた。その体から、切なさ、従順な優しさと辛抱強さが、ひしひしと伝わってくる。

「愛している…」

敬虔さのこもった、低いかすれ声が、そう囁いた。 

カーイは、喉をのけぞらせたまま、瞑目した。ポールの両肩を震える手で掴みしめ、もぎ離そうと試みた。が、気がつけば、逆に、恋人の首に腕を回して抱きしめている、彼がいた。



(何をそんなに恐がっているんだい?)

募ってくるものは、不安。

(別に。何も)

募ってくるものは、飢え。



その年のクリスマスは、大雪になった。



白く塗り込められた街並みを、カーイは、窓から見下ろしていた。日が沈んでも、眠ることのないこの大都会から灯りが消えることはなく、暗い空から降る雪を、白く塗りかえられた街をはっきりと見てとることができた。下に降りて見れば、行き交う人々に踏みつけられて、思ったより汚れていただろうが、ここから眺める限り、限りなく白く、いつもと違う静謐と荘厳さを、この大都会に与えていた。

窓辺に佇み、外を見つめながら、そうして、カーイは、待ちつづけていた。

こうしている瞬間にも、下の通りを、息を切らして走っているかも知れない。手には、シャンパンのボトルを抱えて、ここで待っているはずの恋人を思って、気の狂わんばかりになりながら、次第に近づいてくる、その足音が聞こえるような気がする。

今日は、クリスマス。ポールの申し出にカーイが答えると約束した日だ。

身の内から、かすかな痙攣めいた震えが沸き起こり、それを鎮めるために、カーイは、我が身をひしとかき抱いた。もう、限界まで、彼は来ていた。

事故が起こればいいと、カーイは思った。

凍りついた道路で車がスリップでも起こして、事故になって、それで、ポールが足止めを食らって、帰って来る時間が遅くなればいい。そうすれば、カーイは、このままここを立ち去れる。

そんな気弱さに、我ながら嫌気がさして、カーイは、唇を噛み締めた。

やめることなどできない。

それがなくては、生きられない。

一体、いつまで?永遠?

胸の奥から、一瞬激しい感情が沸きあがり、カーイの唇を震わせたが、思わずもれそうになった言葉を、彼は飲みこんだ。

その時、カーイの耳は、マンションのエレベーターが、この部屋の階で止まり、そのドアが静かに開く音を捉えた。そして、聞きなれた足音が、こちらに向かって、急ぎ、近づいてくるのを。

カーイは、今更のように、うろたえ、逃げ場を探し求めるように、部屋の中を空しく視線をさまよわせた。

玄関の扉が開き、中に入って来る気配。

「カーイ、来ているのかい?」

居間の窓の前で、何かしら打たれたように立ち尽くしたまま、カーイは、続く数瞬を、息をつめて、待った。

「全く、この雪には参ったよ。会社の前でタクシーを捕まえたんだが、ひどい渋滞に巻き込まれてしまって…待ちくたびれただろう?おや、暖房もつけていないのか?」

シャンパンと、大きな薔薇の花束を抱えて、居間に入ってきたポールは、カーイの様子に、ふと眉をひそめた。

カーイは、目を僅かに見開いたまま、瞬きもせずに、恋人の不思議そうに首を傾げる様子を、見つめていた。

と、強張っていた顔が、ふいにあらゆる緊張から解き離れてほっとしたものになり、自然に沸き上がってきたような笑みに唇がほころんだ。

近づきがたい、巨大な白い華が、固い花弁をほころばせてゆるやかに咲き開いていくような、そんな印象だった。

この秘密めいた恋人が初めて見せる、透き通るような笑みに、ポールは、息を飲んだ。二人の間を遮っていた、薄いベールが、ずり落ちて、その後ろに隠れていた素顔が覗いたかのようだった。

しかし、どうして、こんなに悲しそうなのだろう。

「どうしたんだい、そんなふうに私の顔を見て」

「いえ…あなたが帰ってきてすぐに私を呼んだ、その声を聞いた時、それから、まっすぐにここにやってきて、私を見つけた、その顔を見た瞬間、だしぬけに、私は悟ったんです。ああ、私は、あなたのことが好きだったんだな、と」

唇が震えた。涙こそあふれなかったが、泣き笑いのような顔になったのだろう、ポールは、シャンパンのボトルと花束を手近にテーブルの上に置き、心配そうな面持ちで、カーイに歩みよって来た。

それと共に、彼の圧倒的な血の匂いが、カーイに向かって押し寄せ、圧し拉いだ。

ああ、これがなくては、生きられない。

「一体、どうしたんだ、カーイ?顔が、真っ青じゃないか…」

その手を取って、氷のような冷たさに、はっとなった。

「こんなに冷たくなって、どこか、具合でも悪いのか?」

「いいえ…いいえ……」

カーイは、力なく、かぶりを振った。

「ポール、あなたとの約束…あの申し出のことですが…」

「そんなことは、今はいい。暖かい飲み物を作るから、そこに坐って、休んでいなさい」

カーイを、壊れ物を扱うような慎重さで、ソファまで連れてき、そこに坐らせると、キッチンに向かうために離れようとする、ポールの手をカーイは捕らえた。

「カーイ?」

「ここにいてください」

その懇願に込められた、切迫した響きが、ポールを、そこに留まらせた。

「あなたのことは、愛している」

うつむいたまま、カーイは、ぽつりと言った。

「でも、あなたと一緒に行くことは、できない」

すぐ隣に腰を下ろした、ポールが、微かに息を吸いこむ音がした。

「できないんです」

堪り兼ねた様に、カーイは、両手で顔を隠した。

ポールは、己が受けた強烈な痛手から何とか浮上しようかと試みるかのように、何度か深い息をつき、それから、むしろ、痛ましいほどの気遣いに満ちた言葉をカーイにかけた。

「カーイ…いいんだよ、君を苦しませるために、私は、あんな頼みごとをしたわけじゃないんだから…」

静寂が二人に間に、満ちた。いつもはもっとにぎやかな街も、今日は、雪に埋もれたかのようにしんと静まりかえっていて、聞こえる音といえば、互いの僅かな息遣いだけ。

やがて、カーイが、顔を隠していた手を少しずらし、何かに怯えるような、かすれた声で囁いた。

「ポール、私のことを愛している?」

「ああ」

打ちひしがれてはいても、ポールの声に迷いはない。

「では、私の願いをきいてもらえますか?」

「私にできることなら、カーイ」

慰めるかのように、ポールは、カーイの肩を抱き、そっと手を滑らせた。冷え切った体を少しでも温めようと試みるかのように。

「目を閉じていてもらえませんか…ほんの少しの間で、いいから…私を見ないで欲しいんです」  

「君を見ないで…?」

「お願いです」 

ポールは、一瞬訝しげな顔をしたが、何も問い返さず、すぐに、言われるがまま、目を閉じた。

カーイは、用心深く手を下ろし、静かに待ち受けるかのように目を閉じたポールの顔を見上げた。もはや抑えようもない強烈な飢渇が、己の顔をあさましく歪めているだろうことは、分かった。だから、見られたくなかった。

ポールは、少し傷ついたような顔をしていたが、その優しさは少しも変わっていなかった。カーイに愛を与えようとしてくれた人。手を伸ばし、捕まえられるものであったなら。

カーイは、束の間、息をすることも忘れたかのように、恋人の顔に見入った。このまま、時間などとまってしまえばいい。外で降りしきる雪が、ここまで押し寄せて来て、二人を塗りこめ、永遠に凍りつかせてしまえばいい。

(愛しい人…)

何か、鋭いものが空気を切るような音がした。

瞬間、血が飛び散り、白いソファを、足下の柔らかな白い敷物も、鮮やかな色に染めた。

ポールは、何が起きたのか、理解することはほとんどなかっただろう。目にもとまらぬ早さで動いた、細く強靭な腕がその首をへし折り、鋭い牙が、その血管を噛み裂いていた。

窓の外には、白い雪が降りしきっている。また少し、激しさをましたようだ。

そして、この部屋には、真紅の薔薇が咲き乱れている。赤い血、血。愛する者の血。

波打ち、泡立つポールの血が、どっとカーイの中にあふれこんでくる。カーイの内部を駆け巡り、隅々まで満たし、凍えた体を温めてくれる、この血は、微かな哀しみの味がしたが、刺すような苦さはなく、まるで、そうなることを初めから予期していたかのように、カーイの臓腑にしっくりと馴染んだ。恋人にいっぱいに満たされて、波のようなエクスタシーの衝撃に微かに身を痙攣させながら、己の中にこの一瞬生きて存在するポールを意識した。ポールの魂は、今、彼と一つになっていた。伝わってくる、その優しさに、むせび泣くかのように、カーイは、身を二つに折って、震えた。

(泣かないで…カーイ…)

愛する者の血であればこそ、こんなにも欲しい、奪わずにはいられない。首の傷が、血を吹き出すのをやめても、まだ足りず、顕にした胸に手を突きいれて、暴き出した暖かい心臓に牙をたてて直接血を飲み、それがなくなると引きずり出して、がつがつとむさぼった。押し開いた肺の中に顔を入れて、そこに残る最後の息までも吸いこんだ。

(愛している)

窓の外には、雪。

冷たくなった恋人を膝の上に寝かしつけるようにして、その髪を指で撫でつけながら、カーイは、窓の外を通りすぎていく雪を呆然と眺めていた。 

(ポール、見て、街があんなに綺麗ですよ…)

体の中にいる恋人に向かって、生前はできなかったような親密さで愛しげに語りかける、カーイは、その瞬間確かに幸せだった。

しかし、その一体感は、長くは続かない。とりこんだ恋人の血は、やがて、カーイに吸収され、確かなものに感じられた、その存在は、次第に遠ざかり、ついには消えてしまう。

消えていく。

そして、ポールも、また。

窓の外には、白い街。

(あなたは、行ってしまった。もう、どこにも、いない。)

一体、どこへいったの?

私には、行かれない所。

もう、会えない?

永遠。

そうして、凍えた部屋で、カーイは、ただ一人、いつまでも天からの白く音のない洪水に見入っていた…。



この世界で得られるものは、全て幻。

手に入らない、水面に映る月の影。


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