愛死−LOVE DEATH−
第八章 水面(みなも)に映る月
一
上品なソムリエが、手馴れた仕草でシャンパンを開ける様子を、スルヤは、興味津々の様子で眺めている。よく冷えた、おそらく少し冷やしすぎたのだろう、シャンパンは、コルクを開けても、ほとんど音もしない。もっと、派手な音がして、泡があふれだすのを期待していたらしいスルヤは、拍子抜けしたようだ。しかし、長い脚のついた、クリスタルのグラスに黄金の液体が注がれると、繊細な泡が底の方からきらめきながら沸きあがるのに、感嘆の溜め息をついた。
「綺麗だねぇ」
率直な感想に、傍らでその様子を楽しげに見守っていた連れが、微笑みをもらす。
「シャンパンを飲むのは、初めてですか?口当たりがいいから、飲みすぎないように気をつけて」
親しみと愛情にあふれた囁き。
と、彼は、シャンパングラスを優雅に持ち上げ、スティーブンの方を振りかえった。
「ジャクソンさん、気分は、どうですか?調子が悪いのに、お誘いしてしまったのだとしたら、申し訳ない」
スティーブンは、直接声をかけられて、激しく動揺したが、しどろもどろになりながらも、かろうじて答えることはできた。
「いえ、大丈夫です。さっきは、ちょっと…寒い外から急に温かい所に入ったせいか、めまいがして…確かに少し疲れていたのかもしれませんが…」
我ながら苦しい言い訳だと思った。きっと、この男は、スティーブンの態度を不審に感じただろう。そんな様子は、控えめなその態度には、おくびにも出していないが。
「本当に、大丈夫?」
心配そうなスルヤの声に、我に返った。そう、ここにいるのは、スルヤなのだ。スティーブンの過去の悪夢から蘇った怪物と共に、スルヤがいるのだ。全く、信じられない。何かの間違いではないのか。
しかし、スティーブンの目の前で、今、それは、現実に起こっている。飲みなれないシャンパンにおっかなびっくり口をつけたかと思うと、その意外なおいしさに感動したように笑うスルヤと、テーブルに軽く頬杖をつくようにして、その顔を覗き込んでいる彼の恋人−もし、その姿が、スティーブンの知る以外のものであったなら、きっと、微笑ましくも思え、安心感さえ覚えただろう、仲のよい恋人同士が、そこにあった。
全く、何ということだろう。スルヤの恋人が、あいつだったとは。
よく、こんな所で、じっとして食事などしていられるものだと、我ながら思った。スルヤがここにいなければ、きっと、恐怖に負けて、逃げ出している。スルヤを置いて逃げられないとの思いが、彼をここに引きとめていた。
(それにしても…あれから9年もたつというのに、こいつは全く年をとっていない…あの時と同じ姿、微笑み、声で、俺の目の前でごく普通の人間のように振舞っている…)
しかし、何から何まで同じというわけでもなかった。スティーブンの記憶にある、あの怪物は、その凄みのある美しさも、ほの白く輝く姿、超然たる態度も、同じ形をしてはいても、人間とは全く異なる生き物にしか見えなかった。しかし、今、このレストランの中で、同じテーブルを囲んで談笑しているこの青年は、それに比べれば、ずいぶん普通で、人間的に思われた。その顔は別に燐光など発してはいないし、青い瞳にも、肉食獣めいた恐ろしさなど少しもなく、むしろこんなに優しい無害な生き物は他にはいないというような穏かさだ。その繊細な細い手は、人間どころか、虫一匹殺せそうにない。
優雅な動きで、銀のナイフとフォークを使い、人間の食べ物を口に運び、シャンパンで喉を潤す、その様子を見ているうちに、スティーブンの自信は、次第に揺らいでくるのだった。
初めて見た時は、同じ人物だと確信したが、その印象は、本当に正しかったのだろうか。記憶の中のイメージを、たまたまよく似た人間に結びつけただけではなかったのか。これまで、写真のモデルにしてきた女達にだって、目や唇や指先や、どこか似た箇所を部分的に見出したことはあるだろう。
頭の中で神格化された姿をこんなふうに現実のものと認識することに、どうしても違和感を覚えていた。単なる勘違いであってくれればという、祈るような気持ちも、また。
「さっきから…私の顔をずっと見ていますね。それほど、珍しいですか?」
唐突に声をかけられて、スティーブンは、ぎくりとした。青い瞳が、揶揄するような笑いをうかべて、彼を見ている。はからずも、頬が赤らむのを覚えた。
「カーイは、綺麗だからね。スティーブンは、見惚れてたんだよ」
のんびりした声に、頭がくらくらしそうだった。人の気も知らないで。スティーブンは、溜め息をついて、そちらを見た。
「何、食ってるんだよ、おまえ」
「うん、アボガドとエビだよ。チーズと一緒に焼いてあるんだね。焼いたアボガドなんて、初めて。とろりととろけるようで、おいしいよ。スティーブンは、食べないの?」
そう言われて、初めて、自分の前にも同じ皿が出されていることに気がついた。ものを食べる気になどなれなかったのだが、スルヤに促されるがまま、口に運び、シャンパンで流しこんだ。
それから、意を決したように、スルヤの恋人に向き直った。
「すみません。俺、何だか、緊張して。その…こんな立派な場所で親友の恋人と会うというのも、俺にとっては、慣れない状況で。それも、あなたのような人と…つまり、男性という意味で…頭では分かっているつもりなんですが、実際会うと何をどう話したらいいのか、ちょっと混乱してしまって。何て言うのか、あなたのように人とスルヤがつきあっているというのが、ピンとこないんですね。こんなことを言うと、今度は、スルヤに怒られるかもしれないけれど」
「スティーブン…」
スティーブンを捕らえる惑乱の本当の理由を隠すための方便で言っただけなのだが、そんなこととは露知らないスルヤは、不満気に頬を膨らませて、抗議の声をあげかける。それを、手でそっと制したのは、カーイだ。
「私は、恋愛に関して、性別を問題にしないんです。その相手が、人間として素晴らしければ、男性女性を問わず、自然と心を引かれ、愛しいと思うようになる。そんな私の性癖にあなたが違和感を感じても、それは、仕方がないかもしれないし、私も気にはとめませんよ。ただ、スルヤのことだけは、今までと同じに見てあげて欲しいと思うだけで」
「そ、それは、もちろん…」
「では、何の問題もない」
こちらに向かって一瞬閃いた薄い笑みに、微かな嘲りが含まれていたように感じたのは、気のせいだったろうか。スティーブンは、急に居心地の悪さを感じた。
その時、大きな銀の器を恭しく捧げ持った給仕がテーブルにやって来た。
「牡蠣でございます」
銀の器の中に敷きつめられた氷の上に、花びらのように美しく盛られた牡蠣を見て、スルヤは、大きな目をびっくりしたように見開いた。
「うわっ、ねえ、これって生だよ。このまま食べても、大丈夫なの?」
さすがにこれは、彼の国の食習慣にはない体験らしく、抵抗を覚えたようだ。素っ頓狂な声を上げ、不安げな顔で、目の前に大皿の上で艶々と輝いている貝と、傍らの恋人を見比べた。
「いいから、食べてご覧なさい。今日は、これをあなたに食べさせたくて、ここに連れてきたんですから」
手をすり合わせながら、妙にうきうきとはしゃいだ調子でそう言って、カーイは、手際よく、スルヤの取り皿に牡蠣を何個かとりわけ、添えられたソースをかけてやった。
「う…」
スルヤは、カーイのにこやかな顔を見、それから、皿の上の得体の知れない物体をしばらく凝視していたが、やがて、意を決したように、フォークを取り上げ、牡蠣の身を一つ、恐る恐る口に運んだ。スティーブンまでも、思わず固唾を飲んで、見守ってしまった。
「う…んぐんぐ…おいしい…のかな…?不思議な味だけれど…あ、でも、やっぱり、おいしいや。…ねえ、今思ったんだけれど、これって、この間、俺が食べさせたカリーのし返し?」
ふいに思い当たったように、そう尋ねるスルヤに、カーイは、人の悪そうな、少しとぼけた顔で言った。
「さあ。でも、あなたは、気にいったんでしょう?よかったじゃないですか。こんな機会でもなければ、一生食べなかったかもしれない、新しいおいしい味に出会うという、貴重な体験をできて」
目を白黒させながら、牡蠣を飲みこむスルヤの顔があんまりおかしくて、スティーブンは、一瞬、自分の置かれている状況も忘れて、テーブルの端を軽く叩きながら、笑い声をあげた。
「おまえの今の顔ってば、最高!カメラを持ってこなかったのが、残念なくらいだよ」
「ジャクソンさんも、どうぞ、召しあがってください。好みで、このビネガーソースをかけて。私は、レモンだけを絞っていただきますが」
「あ、はい。…俺のことは、どうか、スティーブンと呼んでください」
「では、私のことも、カーイと」
沈黙。ぎこちない動きでシャンパンのグラスを持ち上げるスティーブンを、カーイは、猫のように目を細めて、見守った。
「スティーブン、あなたは、どんな写真を撮るんですか?スルヤの写真は、たくさん見せてもらったけれど、彼の友達がどんな作品を作るのか、興味があります」
スティーブンは、一瞬言葉が出てこないように、唇を舌で湿し、凝然とカーイの顔を見つめたが、やがて、その不思議な輝きを放つ青い瞳に促されるように話し出した。
「俺は…スルヤと違って、人物のポートレートが中心ですね。人と会うのが楽しいんだと思います。カメラを通すと、何だか、その人物の意外なもう一つの顔、魅力が見えてきて、そのイメージを写真という形でもっと引出せればといつも思っています」
「カメラの前だと、モデル達は、普段は隠しているような、別の素顔を見せてくれることも、ある?」
テーブルに軽く肘をついて、指先を絡めるようにそっと組む、その手の美しさに、スティーブンは、驚かされた。本当に美しい人は、こんな細部に至る所まで、傷一つなく、完璧なのだ。人間離れは、確かにしていた。
「そういうこともあると思います。人間誰だって、素のままの自分は隠しているものだけれど、ふとした一瞬の無防備な顔、それをうまい具合に捕らえられたら、しめたものですよ」
「カーイはね、なかなか、写真を撮らせてくれないんだよ」と、案外気に入ったらしい、牡蠣の身に取り組んでいた、スルヤが、急に話に入ってきた。
「モデルになってくれるって、約束したのにさ」
すると、カーイは、少し困惑したような顔になった。こんな顔をすると、ずいぶんと人間的にも、親しみやすくも見えた。
「約束は果たしますよ。でも、実は…私は、どうも苦手なんですよ。その…レンズに向けて、表情を作るというのが。どうしても、ぎこちなくなってしまって、居心地が悪くて…」
「不慣れなモデルをリラックスさせて、いい顔をさせるのも、写真家の仕事ですよ」と、スティーブン。
「何も、深く考えないで、スルヤに任せればいいんです。それで、駄目だったら、スルヤの腕が悪いってことなんですから」
何時の間にか空になりかけていた、スティーブンのグラスに、ギャルソンがシャンパンを注ぎ足した。結構なペースで飲んでいたようだ。アルコールが体に回って、心地よく、温もってきた。それに、ぎこちなく重かった舌も、次第に、いつものように動きだしたようだ。
「フランス人は、よく生牡蠣とシャブリは最高の取り合わせだといいますが、私は、正直言って、ワインとはあまりあわないんじゃないかと思っていました」
そっとシャンパンのグラスに口をつけるカーイの綺麗な仕草に、スティーブンはまたしても目を奪われた。家においてきてしまったカメラのことが頭にうかんだのは、写真家の病気のようなものだ。
「それで、辛口のシャンパンなら、まだ飲みやすいような気がして、いつも、そうしていたんですよ。けれどね、実は、ワインよりもずっとあう酒があるんですが、何だと思います?」
カーイの質問に、スティーブンは、首を傾げた。
「さあ…フランス人がそう言ってるならと、俺もワインくらいしか、思い浮ばないけれど。後は、普段飲むのはビールくらいだし、スコッチは、あまり食事と一緒には飲まないし」
「ライスワイン…つまり、日本酒ですよ。上質の日本酒には、ワインに負けないくらいのいい香りがあって、しかも、生の魚介類を食する文化の国の酒らしく、生牡蠣やキャビアのような強い海の香りがするものとも相性がいいんですね。ニューヨークでは、今ちょっとしたブームで、一流レストランでも上質の日本酒を置くようになっているんですが、ロンドンでは、さすがに、まだ知名度が低いようですね。このレストランにも、なかった」
「へえ…日本酒ねぇ…そういえば、以前のクラスメートの日本人学生の所で、日本食パーティーをやったことがあって、その時に、そいつが日本から持って来たライスワインを開けて飲んだことがありますよ。なかなかいけると思ったけれど…へえ、牡蠣とねぇ。また、親父に教えてやろうっと。何ていうのか、詳しいんですか、そういうこと?」
少し打ち解けた口調でスティーブンが尋ねると、カーイは、ちょっと悪戯っぽい笑みをうかべて、種あかしをするように、声をひそめて言った。
「実は、今のは、他人の説の受け売りなんですよ。私の昔の友人が、日本文化を趣味にしていたんです。ニューヨークのビジネスマンで、アジアの食品をインポートする会社を経営していました。日本の小さな醸造所から直接酒を取り寄せるくらいのこり様で、その彼と、ある日、ここと同じようなオイスターバーに行った時、ちょっとした議論になったんです。…生牡蠣とワインがあうはずがない、フランス人の舌はどうかしている、外にあるもっとよいものに目を向けようとしないで自らの文化が一番だと奢っているから、いまや世界の文化の中心はパリからニューヨークに移ったというように言われるんだと。私は、どちらかというと、ヨーロッパの文化礼賛者なので、正直言って、むっとしました。それで、彼の言うことが本当かどうか、ワインよりも、もっと完璧に生牡蠣を引きたてる酒やらを飲ませてみろということに。そうして、彼のマンションに行ってー牡蠣といっしょにね…そこで出されたのが、彼のとっておきの日本酒だったわけです。そうして、とても悔しかったんですが…しぶしぶながら、負けを認めない訳にいかなかったんですね、あまりに非の打ち所がなくて。その酒を味わってしまうと、確かに、ワインを生の魚介類と一緒に飲んだ時の生臭さがたまらなくなってきて…キャビアとワインなんか、最悪ですよ、どぶ川の水を飲んでいるみたいで、ガス入りのミネラルウオーターにレモンを絞ったものを飲んだ方が、よほど、おいしいくらいに」
「ニューヨークにも、行ったことがあるの?」と、スルヤがふいに興味を示した。
「ええ、何度か。ただ、私は、どうしてもアメリカの生活は肌に合わなくて、じきにこちらに戻って来てしまいましたが」
「そのニューヨークの友達は、今は、どうしているの?」
スルヤは、別に他意があって、聞いたわけではないのだが、彼よりもずっと察しのいいスティーブンは、内心舌打ちをしていた。
「さあ、もう3年前の話ですからね、最後に会ったのは…」
「連絡は、取ってないの?」
カーイは、少し、困ったように首を傾げた。
「スルヤ…バカか、おまえ」と、きょとんとしている少年の、袖を引っ張って、スティーブンは、耳打ちをする。
「昔の恋人のことを根掘り葉掘り聞くのは、ルール違反だぞ」
「あ…」
スルヤは、びっくりしたように瞬きして、カーイの顔を呆然と見、それから、かわいそうなくらい真っ赤になって、うつむいてしまった。
「いいんですよ」
カーイは、手元のグラスを持ち上げ、その中の黄金に泡立つ液体御しに、そんなスルヤを優しく見下ろす。一瞬、輝くガラスを通して、スルヤとは似ても似つかない別の姿がうかんで、消えた。錯覚。
ここは、ロンドン。ニューヨークとは違う。カーイの傍らにいる優しい恋人も、あの頃とは別の人。懐かしいような、ほろ苦い、物悲しさがカーイの胸に去来していたが、当然、そんな感情を表に出すことはない。
何事もなかったかのような口調で、カーイは、スルヤに向かって、言い聞かせるように囁いた。
「昔のことですよ」