愛死−LOVE DEATH− 

第七章 逃れえぬもの



週末の夜とあって、その人気レストランは、身なりのきちんとした、上品そうな人々で混み合っていた。とてもじゃないが、こんな高級店、敷居が高くて、仲間達と気軽にというわけには、いかない。

ちょっぴり気取ったウエイターに、案内されて、耳に心地よいクラシックが静かに流れる店の中を歩いていく。店の中央には、大きな水槽が据えられていて、色とりどりの熱帯魚が、ゆったりと泳いでいた。どうやら、店の名前は、ここからきているらしい。と、スルヤの黒い癖毛の頭が、客達の頭の向こうに、見えた。一番奥の窓際の席に、座っている。スティーブンもそうだが、スルヤの方も、いつもと違って、らしくもないスーツなど着て、めかしこんでいる。しかし、仕草の方までは、変えられないらしい、テーブルの上に肘をついて、手振りを交えながら、夢中なって話しこんでいる様子は、つい微笑みを誘われずにはいられないものだった。その目は、正面の席についている、長い髪の人物に、ひたとあてられている。

「あっ」

まっすぐ近づいてくるスティーブンに、やっと気がついたようだ。にこやかに手を振って、その手を口の近くに持って来て、ここだというふうに、唇を動かした。

「おいおい、ここは、いつも行くようなピザ屋じゃないんだぞ」と、思わず、笑いながら、スティーブンは、声をかけた。

「遅いよ、スティーブン。俺、もう、お腹がすいちゃってさぁ。まわりで、他の人達がこんないい匂いをさせてるのをかぎながら待つのって、もう、拷問みたい」 

よく通る、澄んだ声がそう話すのが、耳に届いたのか、近くのテーブルの老婦人が、ナプキンをそっと口元に持っていって、笑いを噛み殺していた。

「ジャクソンさん?」

スルヤの席の手前から、優しげな声がした。引き付けられるようにそちらに顔を向けると、遅れて登場したスティーブンを迎える為、彼が、席から立ちあがるところだった。椅子を引いて、立ちあがる動作も、一部の隙もなく、流れるように、優雅で、完璧そのもの。 

その瞬間、周囲の物音が、控えめな音楽も、上等な食器が触れ合ってたてる微かな物音、楽しげに談笑する客たちの声、そういったもの一切が、潮が引くように、さあっとスティーブンの回りから遠ざかっていった。

寒い。十分に暖房が聞いているはずなのに、脚下から這いあがってくるような悪寒を覚え、がちがちと鳴り出しそうになる歯を、噛み締める。

おかしい。こんなに寒いわけがない。

一体、ここは、どこなのだろう。ロンドンの、高級レストランの中?

寒い。まるで、雪に塗り込められたみたいに。ずっと昔、記憶の底に封印した、あの忌まわしい夜のように。

あの秘密は、埋葬されたはずだった。誰にも、決して語らないと約束することで、スティーブンの心の一部とともに、埋葬された。そのおかげで、これまで、彼はこうして生きている。

冬のパリの夜の凍てつくような寒さが、スティーブンを襲った。雪混じりの冷たい風が、白い闇の中から吹きつけてくる。それとも、あれは、鉛の色に沈んだ、冷たい川の水だろうか。あの川に落ちた男は、水の中で、どんなにか冷たかったろう、絶望的な気分でいたことだろう。いや、もう、あそこに落ちた時には死んでいたのだ。

冷たい汗が、噴出してくるのを覚えながら、気を失いそうな気分で、かろうじて、そこに踏みとどまりながら、スティーブンは、正面を見据えていた。

あの白い夜に見た悪夢の淵から、ゆるやかにうかびあがり、蘇った、忘れられないその顔を、凝然と見つめながら。

「初めまして、スティーブン・ジャクソン」

この世のものとは思えない、美しい顔が親しみを込めて、笑いかけるのに、目眩がした。

「カーイ・リンデブルックです」

差し出された手を、ほとんど無意識のように取って、握手をする。記憶にあるような、火の熱さとは違う、むしろ、冷たいその感触に、心底、震えあがった。

嘘だろう。こんなことが起こるはずがない。もう一度、あの顔に会うことなど、ありえない。

本当に目の前が真っ暗になって、たまらず、彼は、目を閉じた。

もう、逃げられない。捕まってしまった。

やっと、会えた。ずっと、追いかけていた。

(約束、しましたよ)

歯を食いしばって、再び、スティーブンは、目を開け、挑みかけるように、見返した。今にも崩れ落ちそうな、自分を叱咤し、ここで、逃げ出してしまったら、本当に、一生、この恐ろしい呪縛から解放されることはなくなってしまうとばかりに、なけなしの勇気を奮い起こして。

(逃げない)

ここは、パリではない。今まさに、凍てつく冬が始まろうとしている、彼のロンドン。柔らかなライトに照らされた豪奢な調度品、上等な銀器やグラスがきらめき、大勢の人々が寛いで談笑する、どこにでもある、人間社会に属する空間のただ中で、恐怖という名の、スティーブンの神が、微笑みながら、彼を歓迎し、迎え入れたのだ。


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