愛死−LOVE DEATH− 

第七章 逃れえぬもの



受話器を取り上げたとたん、既に一度聞いた、よく通る若者の声が、話しかけてきた。

「スティーブン・ジャクソンです」

カーイは、一呼吸置いた後、落ち着き払った声で、答えた。冷静に電話の応対をする、その様子を見る限り、少しも、打ちひしがれた所はなかった。

「ジャクソンさん。ああ、先ほどは、連絡を下さって、ありがとうございました。病院では、タイミングが悪くて、お会いできませんでしたが…」

「ええ」と、電話の向こうの若者が、苦笑いしているのが、感じ取れた。

「ちょっと野暮用で、席をはずしていたんです。その…スルヤは、どんな様子ですか?」

緊張している。今、唾を飲みこんだ。人見知りをするタイプなのだろうか。よく知らない人間と、顔の見えない電話でやり取りをすることに、居心地の悪さを覚えているのだろうか。スルヤの話では、もっと堂々とした、自信家だったはずだが。 

「全然、平気そうな顔をしていますよ。心配したこちらが、拍子抜けして、呆れかえるくらいに。…スルヤと、話しますか?」

「あ、いえ、結構です。その、明日のクラスは休むように言っておいてください。先生には、俺から、伝えておきますから」

唐突に、沈黙が、訪れた。スティーブンの方から、挨拶をして、電話を切るかと思って、何となく待っているのだが、相手は、すぐには切らず、電話の向こうで、じっと押し黙っている。カーイは、少し興味をひかれ、耳を澄ました。スルヤの友人に、今まで、興味など抱いたことはなかった。今日初めて数人と会ったが、今度のことがなければ、顔を見ることはなかっただろう。一つには、やがて、犠牲者となる相手の友人や家族に顔を知られるのは、後々になって、わずらわしい事態を招くかもしれない、という用心からだが。

「スルヤが、ネコを助けるために、あんなことになったと聞いた時には、心底、驚き、呆れました」

親しみのこもった、暖かい声音で、カーイは、語りかけた。

「無茶なことをして、その程度の怪我がすんだからよかったものの、もし、すまなかったら、どうするんだって、さっき叱ったんです」

スティーブンの、低い、笑い声。

「俺だって、同じように、叱り飛ばしていたでしょうね。その機会は、逃がしたけれど。で、彼は、反省していましたか?」

「それが、全く」

嘆かわしげに、大げさに、カーイは、溜め息をついた。

「彼に言わせると、勝手に体が動いてしまったそうです。ネコが、助けてって言う声が、聞こえたんですって」

「ネコが?ふふ、何て言うのか、スルヤらしいですね。どんな顔をして言ったか、想像できますよ」

「私の顔を、まっすぐにじっと見るんです。叱られているのに、少しも悪びれも恐れもしない様子で。どうしてって問いかけるように、ちょっと、首を傾げるようにして」

「ああ、あれをやられると、言葉につまるでしょう?何だか、間違っているのは、こっちのような気がしてきて。別に、何も悪いことはしていないのに、ちょっと後ろめたい気になって、目を逸らしたり」

「あなたも、同じような気分を?」

スティーブンは、自分のフラットの居間からかけていたのだが、傍に椅子があるのに、何故か、立ったまま、坐ろうという意識が頭にないらしく、ジーンズのポケットに、手を突っ込んで、そこから引っ張り出した、ライターに見入ったまま、話を続けていた。

スルヤの恋人は、とても感じのいい、柔らかな話し方をする。英語は、やはり完璧。少し古風な言い回しを使うことがあるが、違和感はない。

目の前に持ち上げた、ライターに火をつけ、また、すぐに消した。

「あなたのことを、スルヤは、一番の親友だと」

スティーブンは、思わず、相好を崩した。

「俺にとっても、かけがえのない、大事な友達ですよ」

あなた、女の子より、男の子の方が好きなんじゃないの?

嫌な気分を、また、思い出して、いらだたしげに、手にしたライターを、カチリといわせた。

「立ち入ったことを聞くようですが、あなたは、そのう…スルヤとは、つまり…」 

スルヤの恋人は、僅かに笑ったようだが、気分を害した感じはなかった。

「確かに、立ち入った質問ですね、ジャクソンさん?でも、あなたは、もう、スルヤから聞いて、御存知なんでしょう?私に確認を取らなければならないくらい、そのことが、ご心配?」

我知らず、頬が赤らむのを、スティーブンは、覚えた。

「恋人かどうかと、お尋ねなら、答えはイエスですよ」

もっと勝ち誇ったように言われたら、腹が立ったかもしれないが、あんまり上品な物言いだったので、どこまで真剣な付き合いかとか、純情なスルヤを傷つけたら許さないとか、追求するまでもなく、何となく、丸めこまれてしまった。

「あなたは、本当に、スルヤのことを、親身になって、心配しているんですね。いい友人を持って、彼は、幸せですよ」

非の打ち所のない、完璧な話し方、音楽めいた、心地よい響きの声。うっとりと聞きいってもいいはずなのに、この不自然な緊張感は、一体、何だろう。

手の中の金色に磨かれたライターを、凝視した。彼の父親が、20才の誕生日に、プレゼントしてくれたものだ。自慢のコレクションから、気に入りの一品を、一人息子のために。希少品の上、今では絶版となった、貴重なダンヒルのライターだから、一生大事にしろと言っていた。自分は、煙草の吸い過ぎで肺ガンになって、2度も手術しておきながら、その息子に、ライターを贈るとは、一体、どういう了見だろう。そういうスティーブンも、14のころから喫煙を初めて、今では、立派なヘビースモーカーだから、このままでは、確実に父親と同じ道を辿りそうだ。

ライターを握り締めた手が、じっとり汗にぬれていることに気づいて、ジーンズの脚でふき取った。

「ジャクソンさん」

一瞬、ぼうっとしていたところに、いきなり名を呼ばれて、スティーブンは、ぎくりとなった。

「あなた、牡蠣は、お好きですか?」

「は?か、牡蠣ですか?」

いきなりな話の展開がつかめず、しどろもどろになった。

「ええ、実は、来週の土曜日、スルヤとミュージカルを見に行って…マチネーのね、その後、オイスターバーに行く予定にしているんです。もし、夕方から、都合がよければ、一緒に食事をと」

「あ…えっと、来週ですか…特に予定は、ないです。大丈夫です」

クローゼットの中のスーツのことを考えた。いとこの結婚式のパーティーに着たきりだが、クリーニングには、ちゃんと出しただろうか。シャンパンをぶちまけたような記憶があるが、染みにはなっていなかったか。

心臓が、今にも爆発しそうなくらい、高鳴っていた。

「そうですか。では、土曜の7時に、アクエリアムという名の店です。場所は、トラファルガー広場から…」

一体、いつ、どんな風に電話を切ったのか、スティーブンは、覚えていなかった。気がつけば、電話の傍で、呆然と立ち尽くしていた。お守りのように、手には、ライターを握り締めたまま。


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