愛死−LOVE DEATH− 

第七章 逃れえぬもの


痛む足をそうっと持ち上げるようにして、何とか自力でタクシーから降りたスルヤは、慣れない松葉杖と格闘しながら、よたよたと、家の扉の方に歩いていく。

タクシーの料金を払って、危なっかしい足取りの恋人の後ろをついて歩きながら、まだ機嫌の直っていないカーイは、刺すような目で、その背中を睨んでいた。全く、なんて無様な生き物だろうか。車にちょっと掠ったくらいで、足などいためて、ヴァンパイアだったら、そのくらいの傷、数秒もあれば治してしまうものを、不恰好な木の杖などついて、歩かなければならないとは。カーイは、いらいらしていた。こんな怪我人、とろくて見ていられない、後ろから、有無を言わさず抱き上げ、肩に担ぎあげて、さっさと家の中に入りたい。が、そんな怪力を発揮すれば、どんなにかスルヤが動転するか、分かっていたので、己を抑えて、我慢していたのだ。

にいと、カーイが抱えたケージの中のネコが、またしても、神経質な鳴き声をたてた。このネコにも、カーイは、我慢ならなかった。迷いネコだというなら、動物協会だか何だかに預ければいいものを、なぜ、スルヤの家に連れ帰らねばならないのか。

やっとの思いで、玄関にたどり着き、中に入った、スルヤは、ほっとしたのか、カーイを振りかえって、屈託なく笑いかけた。

「全く、今日はひどい目にあっちゃったけれど、ちゃんと家に帰れて、よかったよ。ああ、お腹すいちゃった。あれ、もう、こんな時間なんだね。どおりでお腹がすくはずだよ」

カーイの苛立ちなど全く気づかぬ様子で、居間を通り過ぎ、まっすぐにキッチンに向かう。

「ねえ、晩ごはんは、どうする?今から準備するのも大変だし、ピザでもとろうか…あれっ」

何かに気づいたような、弾んだ声を上げるのに、カーイが、キッチンを覗き込むと、調理台の上の作りかけのお菓子、既に型の中に収まって、後はオーブンで焼くだけの状態のアップルクランブルを指差して、スルヤが、嬉しそうに振りかえる。

「本当に、作ってくれたんだ」

カーイは、スルヤの人懐っこい笑顔から目を逸らして、足元にネコのケージを置くと、キッチンの中に無言で入っていって、カップボードの引き出しの中から宅配ピザ屋のメニューを取り出し、無造作にスルヤに手渡した。

「あなたの好きなジャンクフードを選んで、自分で電話しなさい。お菓子は、デザートに食べれば、いいでしょう」

「うわぁ、楽しみッ」

とろとろに溶けそうな目になるスルヤに、はからずも、カーイの口元に微笑みがうかんだ。全く、これしきのことで、どうして、そんなに手放しで喜べるのだろう。本当に、何て、子供なのだろう。恋人というよりも、むしろ、保護者になったような気がする。その血色のいい、柔らかそうな頬を、ちょっとつねってやりたいと思った。

キッチンの床に置かれたままのケージの中で、ネコが、居心地悪げに動き回るのに、注意を引かれたスルヤは、慌てて、その傍に歩みよった。

「ごめんよ、不自由な思いをさせたね。今、出してあげるから…わっ」

ぺたんと床に膝をついて、スルヤが、ケージの蓋を開けてやるや、白いネコは、中から飛び出し、スルヤの腕を掠め、じっと立って見守っていたカーイの足下を駆け抜けて、キッチンから逃げ出した。

「あ、待ってよ」

いきなりのネコの逃亡に、うろたえたスルヤが、痛む足を引きずって追いかけようとするのを、カーイが、冷静に止めた。

「放っておきなさい。いきなり初めての場所に連れて来られたから、神経質になっているんですよ。家の中の安全そうな暗がりに、しばらく、隠れて、様子をみるつもりなんです。落ちつくまで、あまり構わず、好きなようにさせてあげなさい。どうやら、ここが安全だと気づいたら、向こうから出てきますよ」

「うん…うん、そうだね」

一瞬、スルヤは、追いたそうな素振りを見せたが、カーイの、大人らしい意見をもっともだと思ったのか、素直に頷いた。

そこからぱっと目を逸らして、カーイは、背中を向けた。そう、彼は、まだ怒っていたのだ。危うく、忘れる所だった。

「メニューを持って、居間に行ってなさい。後でコーヒーを入れて、持っていきますから」

つけつけとした口調で、カーイは、言った。

「うん、ありがとう」

キッチンを出る時に、スルヤは、後ろを向いてしまったカーイに近づいて、その肩に手を置き、頬に軽く唇を押しつけていった。頬に触れた、柔らかな湿った唇、癖のある髪の感触。頭に張られたばんそうこうの、消毒薬の臭いが、少しした。

スルヤが出ていくしばらくの間、カーイは、その場に立ち尽くしていた。困惑していた。のろのろと上げた手で、少年の感触がまだ残る頬に触れた。普段よりも、少し熱く感じられた。

(違う、でしょう)

カーイは、軽い頭痛でも覚えたかのように、こめかみの辺りを細い指で抑えて、かぶりを振った。

一方、居間に引っ込んだスルヤは、自分の好きなピザを注文し終わった後は、松葉杖を傍に、広々としたソファに身を落ち着けて、ぼんやり、テレビのバラエティー番組を見ながら、カーイを待っていた。程なくして、コーヒーのいい香りが、漂ってきて、マグカップを二つ、手に持った、カーイが、音もなく、居間に入ってきた。

「…痛みは、どんな具合なんですか?」

いつも、あまりに人の気配をかんじさせない恋人に、スルヤは、虚を突かれてしまう。今だって、足音一つしなかった。まるでネコのように。

「うん、動かすと少し痛むけれど、じっとしてたら、平気」

「痛み止めは、飲まないでも大丈夫?」

スルヤにカップの片方を手渡し、同じソファの一方の端に腰を下ろして、カーイは、どこにも異常はないか、探るかのような眼差しを、じっと相手にあてた。

「平気だって。そんなに心配そうな目で、見ないでよ」

カーイは、綺麗に整った眉を、少し吊り上げた。

「心配など、していません。私は、怒っているんです」

噛んで含めるように、言った。

するとスルヤは、いかにも意外そうに、目を丸くした。

「あ…と…怒って、いたの?」

カーイの中で、怒りの堰が切れた。この悪気のない、不用意な言葉に、彼は切れた。すごい勢いで、スルヤの手からリモコンを引ったくり、耳障りな雑音でしかないテレビを切ってしまうと、大きく息を吸いこんで、こう言った。

「当たり前でしょう。私は、あなたが事故にあったと知らされたんですよ。今日はまっすぐ帰ると聞いていて、夕方には、一緒にお茶を楽しむつもりにしていた…約束どおりにお菓子も作ったし、あなたの喜ぶ顔を見るのを楽しみにして。そのなのに、いきなり、不意打ちを食らったようなものです。タクシーを走らせて、病院に着くまでの道程、私は、最悪のことを考えましたよ。勝手な想像だけを巡らせて、思い悩むなど、馬鹿げているとは思ったけれど、とめられなかった。だって、人間というのは、いつだって…そういう、捕らえどころのない、捕まえたと思ったら、手のうちからすりぬけて、消えてしまうものでしょう…?いえ、そんなことじゃなくて…とにかく、私は、あなたが、一方的に、私の前から姿を消してしまうことが、どうしても、嫌だったんです。病院で、あなたの無事な顔を見た時は、安堵のあまり、膝から崩れ落ちそうな気分でしたよ。あなたときたら、本当に、心配したことが、ばかばかしくなるくらい、元気そうで…。でも、ともかく、無事でよかったと思いました。あなたに腹を立てるなど、全く、思いつきもしなかった。けれど、事故の理由を聞いて、気が変わりましたよ。不慮の事故だったなら、仕方がない、ひどい目に合いましたねと、私は、今頃、あなたを優しく慰めていたでしょうよ。それが、何ですって、自分から、車の前に飛び出したっていうじゃないですか。それも、あんな、ちっぽけなケダモノを助けようとして?全く、信じられない、命を粗末にするにも、程がある。はっきり言って、裏切られた気分ですよ、私は」と、感情が迸るがままに、カーイは、一気にまくし立てた。本当は、人間の獲物相手に、こんなにも赤裸々な心情の暴露はしないのだが、今は、どうしても、とめられなかった。構うものか。鈍いスルヤには、このくらいはっきり言わないと、どうせ、通じないのだから。

案の定は、スルヤは、大きな目を真ん丸く見開いて、カーイの思わぬ激昂ぶりを、呆然と眺めている。

「何とか、言ったらどうなんです、優しいスルヤ?」

嫌みたっぷりのその言葉に、スルヤは、夢から覚めたように、ぱちぱちと瞬きをして、それから、心底驚いたとばかりに、肩で大きく息をついた。

「あの…うん…ごめんね。あの時の俺は、そこまで、考えてなかったから…とっさのことで、何も考えられなかったんだよ」

「どうして、車の前に飛び出して、ネコを助けるなんて、無茶をする気になったんです?それも、とっさのことで、覚えてない?」

「うん、それはね、あの時、俺には、声が聞こえたような気がしたからだよ」

「声?」

「うん、あのネコがね、助けてって、言ってるのが聞こえたからだよ。本当の声とは違うけれど、恐い、誰か助けてって、泣き叫んでいるのが分かって、すると、ただ立って見ているのが、いたたまれなくなって、足が飛び出していくのを、自分でも止められなかったんだよ」

カーイは、僅かに息を飲んだ。それから、物怖じせずに自分を見ている、スルヤの綺麗な目から、とっさに顔を背けた。あたかも、その優しさ、いとけなさ、無防備さに堪り兼ねたかのように。

「声…なんか、聞こえるはずがない。あなたの思いこみですよ、馬鹿馬鹿しい…」

そういまいましげに囁く声は、先ほどに比べると、随分力をなくして、響いた。

「あっ」

スルヤが、嬉しげな声をたてるのに、目を上げると、件のネコが、居間の扉から顔を覗かせて、じっと彼らを窺っていた。

「こっちに、おいでよ」

スルヤが、笑いながら手を振るのを、用心深く眺めていたが、やがて、ゆっくりと、居間に足を踏み入れ、しっぽを左右に振りながら、近づいてきた。スルヤの足元で、立ち止まり、しばらく静止して、彼の様子を観察し、次の瞬間には、軽々とジャンプして、その膝の上に飛び乗った。

「うひゃあ、さっきまで恐がっていたのに、いきなり、乗ってくるんだから。ほら、じっとして、ずり落ちないでよ」

急に友好的な態度に出てくるネコに、スルヤは、狂喜した。居心地のいい場所を見つけると、じっと坐りこんで、目をつぶり、ごろごろと喉を鳴らせだすネコのふわふわの白い毛皮に触れ、撫でながら、うっとりと目を細めた。

「まるで、骨がないみたいに柔らかいんだ、ネコって」

その様子にしばらく毒気をぬかれたようになっていたカーイだったが、スルヤがあんまりネコに夢中になっているのに、段々、腹が立ってきた。

「そうだ、名前をつけないとね。…女の子だし、歩き方とか、何だか気品があるから、プリンセスって呼ぼうかな。ねえ、カーイは、どう思う?」

「そんなネコのことなんか、私は、知りませんよ」と、憮然となって、カーイは、答える。

「名前なんかつけて、下手に情をかけたりして…知りませんよ、迷いネコなら、飼い主が名乗り出てくれば、返さなくてはいけなくなるんですから…」

妙に悔しい気持ちで、そう嗜めるが、ネコに構うことに没頭しているスルヤの耳には、届いていないようだった。頭を撫でていた手を、ざらざらした濡れた舌に舐められて、はしゃいだ声をあげている。

カーイは、またしても、切れそうになった。

「あなた、私と、その猫と、一体、どちらが大切なんですか?」

スルヤの方に向き直り、胸の前で拳を握り締めるようにして、思わず、そう詰め寄った後、カーイは、唖然となった。

スルヤは、ネコを両腕に抱きかかえ、カーイの方を見上げて、少し首を傾げる。

「そんなの、カーイに、決まってるじゃないか」

こともなげに言って、こぼれるように笑う、スルヤから、カーイは、恥ずかしさのあまり目を逸らした。

全く、何をやっているのだろう。無性に自分が情けなく、理不尽な怒りにかられ、飽きもせずにネコと遊んでいるスルヤを、鋭い目で睨みあげると、ソファから、そっと身を起こした。

「カーイ?」

不思議そうに顔を上げる、スルヤの顔を見ることは避け、カーイは、その肩をつかんで、ゆっくりとソファの上に押し倒した。それから、痛めた足には触れないよう注意しながら、その体の上に覆い被さる。二人の体の間にはさまれる格好になったネコが、抗議するようなうなりごえを残して、飛びのいた。

カーイは、スルヤの尖った顎を捕らえて、探り当てた唇を、強く吸った。唐突な抱擁とくちづけに、スルヤは、抗う気はないらしく、大人しく、横になったまま、抱かれている。その肩から腕を、ゆるやかに撫で下ろし、体の脇に力なく置かれた手の指に、己の指を絡め、少し痛みを覚えるくらいの力を込めて、握り締めた。スルヤの体が、微かに緊張する。カーイは、構わず、スルヤの口をむさぼっていた唇を離し、熱っぽい頬から、薔薇色を帯びた耳元に、滑らかな喉にと、進んだ。

(それほど死に急ぎたいなら、今、殺してあげる)

カーイの頭を支配していたのは、そんな、理屈に合わない、狂暴な思いだった。そう、彼は、全く、かっとなって、我を忘れていた。

(そうとも、車などにひかれて駄目にしてしまうくらいなら、今、飲んでやる。いちいち、あなたのために、待ってなど、やらない)

胸の奥から沸きあがり、奔流となって吹き出してくる、憤怒が止められない。感情に圧倒され、なす術もなく、飲みこまれ、揉みくちゃにされるような。

(そんな勝手な真似など、許さない)

これに似た思いを、確か、遠い昔にも味わったことがある。彼が、まだ若かったころ。先の見えない未来に関して、ずっと楽観的で、少なくとも努力さえすれば思いどおりになると考え、与えられた約束を、素直に信じ、よりどころにできた、時代。

(永遠よ、カーイ)

心地よい眠気を誘う、柔らかな低い声が、そう囁けば、この世に恐れるものなどないという気持ちになった。彼を取り巻く世界が変わり、彼自身も変わっていったとしても、一つだけ、永遠に変わらないものがあると思うことは、時折こみ上げてくる、いわく言いがたい不安をなだめ、安心感を与えてくれた。ずっと旅をし、故郷と呼べる場所を持たなくても、暖かく、愛情に満ちた、彼が自分自身に戻って寛げる、家は、常にそこにあった。

(永遠…)

本当に、失うことなど、夢にも思っていなかった。そう、あの日、最後の一瞬まで。

母親との別れは、彼の心を引き裂いた。受け入れることなど、できなかった。そして、本当に意味で、立ち直ることは、今に至るまで、できないでいる。裏切られ、見捨てられたという思いが、今でも、頭のどこかに付きまとっている。もう、二百年も生きて、世慣れたヴァンパイアとなった、今でも、親にはぐれた迷子のような、寄る辺ない身を抱きしめて、広い世界で呆然と立ち尽す、もう一人の彼がいる。帰る家をなくした、子供だ。

(貴女は、永遠と、言ったのに…)

気持ちが昂ぶるに任せて、腕の中に捕らえこんだ体を、まるで、憎い敵のように乱暴に扱っていたのだろう、相手が、弱い人間だということも、怪我人だということも、忘れ果てていた。

「あぅっ…!」

カーイの体の下で、スルヤの細い声が、苦痛のうめきをあげるのに、カーイは、夢から覚めたようになった。

「スルヤ…?」

ぎょっとなって、体をうかせ、組み敷いた、少年の顔を覗き込んだ。

スルヤは、ちょっと辛そうに顔をしかめていたが、カーイの突然の逆上ぶりにも怯えることなく、大人しく抱かれたまま、ちょっと潤んだ大きな目で、彼を見返していた。

「痛いよ…」

スルヤの傷ついた足を、気づかぬうちに、下敷きにしていたことに気がついて、カーイは、ひどくうろたえながら、身を引いた。

「すみません」

ひどく居心地が悪い気分で、とっさに、スルヤをまともに見ることができなかった。  

一体、何をしているのだ?血を、奪うのでは、なかったか?

混乱した頭をはっきりさせようと、激しく頭を振り、それから、改めて、スルヤを、さっきと同じ姿勢で横たわったまま、カーイが何か言うのをじっと待っている、優しい姿を見つめた。

カーイは、きっと、途方にくれた顔をしていただろう。先ほどの怒りも、身の内を駆けぬけた激情も、悲嘆も、かき消えた。心臓が轟いていた。緊張が一気にほどけ、何もする気にならない、脱力感に覆われた。スルヤの血を奪う、気概など、残っていなかった。

「すみません」と、無力感をひしひしと噛み締めて、カーイは、もう一度言った。そうして、両手で、己の顔を覆い隠した。

「カーイ」

髪を軽く引く感触に、カーイは、手のひらを少しずらして、指の陰から、そっと相手をうかがった。

「ありがとう」

当惑しながら、カーイは、手を下ろした。礼など言われる覚えはない。病院にスルヤを迎えに行ってから、カーイが彼にしたことと言えば、大人気なく無視したり、嫌みを言ったり、腹立ち紛れにあたったり、挙句の果て、身勝手な怒りにかられて、その血を奪おうとしたことくらいだ。

「あなたに、たくさん心配させて、ごめんね。それは、本当に、悪かったって思うよ、でも…」

訝しげな面持ちのカーイに向かって、心からの、素直な喜びと幸福感にあふれた笑顔で、言った。

「そんなふうに、誰かに、すごくすごく心配してもらって、それで、怒ってもらえるって、最高に幸せなことだと思うよ。ありがとう、カーイ」

鈍い痛みが、カーイの全身を舐めた。たぶん、彼は、蒼白になっていた。打ちのめされていた。

「そんなこと…」

カーイは、スルヤから逃げるように、ソファの上を移動して、その端に腰を落ちつけ、脇にある小さなテーブルの上からコーヒーのカップを取り上げ、それを飲む素振りで、慎重に、スルヤの視線を避けた。それでも、過敏になった神経は、スルヤの気配を、その落ちついた呼吸の音や、体が発する熱、ソファの皮の表面をそっと撫でている指の音、そして、ひたと当てられている黒い瞳の発する力を、じっと意識していた。

「そんなふうに思うのは、あなたが、周りから愛情をいっぱいに受けて育った人だからですよ。あなたの両親は、あなたをきっと可愛がってくれたんでしょう?」

「うん…」

スルヤは、何か言いたげに口を開きかけたが、彼にしては珍しく躊躇するように、やめた。自分の近くにある、別の小テーブルからマグカップを取り上げ、少し冷めてしまったコーヒーを一口、飲んだ。それから、また、顔を上げて、ソファに端に坐って、じっと何かを考えこんでいるカーイの、白い横顔を眺めた。ろうたけた美貌は、少し沈んで見え、繊細な細い指が添えられた、口元が、傷ついた人のように微かに震えていた。

「ねえ」と、スルヤは、その指と口元に魅せられたように、見入ったまま、囁いた。

「カーイの、お父さんとお母さんって、どんな人だったの?」

カーイの体が、電流に触れたかのように、一瞬小刻みに震えるのに、スルヤは、息を吸いこんだ。  

「だった、って、どうして過去形で尋ねるんです?」

振り向きもせずに、固い声で、カーイは、言った。

「あ…ごめん、何だか、そんな気がして」

「いいですよ。その通りですから。父親は、もの心ついた時には、もう、いませんでしたし、母は…母も、亡くして、ずいぶんになります」

「寂しい?」

カーイは、顔をうつむけ、微かに苦笑した。

「ええ、時々」

素直に認める気になったのは、どういう訳だろうと、我ながら、いぶかしんでいた。

何時の間にか、スルヤが、すぐ隣に移動してきたことは気づいていたが、何も言わずにいると、そっと伸ばされてきた手が、カーイの頭に触れ、労わるように撫で始めた。 

カーイは、笑い出しそうになった。ヴァンパイアである自分と、その獲物である人間の少年とが、今、どんな状態でいるかを、客観的に想像してみて。と、口元が歪み、別の声がもれそうになり、思わず、手で覆って、封じこめた。震えていた。

「ねえ、カーイ」

暖かく、気遣いにあふれた声が、囁く。カーイの正体とその目的を知れば、一転、全ては、失われるだろう。

「あなたを、抱きしめても、いい?」と、ただ傍にいたいだけのように、控えめに、尋ねる。

何も知らないからこその、優しさ、はかない、美しさ。  

我にもあらず、涙がこみ上げてきそうになる。実際、本物の涙を流せなくなって、久しかったのだが。人間だったら、たぶん、泣いていた。あるいは、心をよろうことを知らなかった、子供時代のカーイだったら。

寂しい。

頑なに顔を伏せたまま、何も答えようとしない恋人を、スルヤは悲しそうに見ていた。カーイの長い髪を指先ですいていた手をずらして、その肩を軽く抱くようにしてみたが、別に彼は拒まなかった。

「カーイ、俺…」

スルヤが、何かを言いかけた、その時、居間をすぐ出た所にある電話が鳴った。

「あ…」

残念そうな顔をするスルヤを置いて、カーイは、立ちあがった。

「私が、出ます」

さっきのお返しのように、スルヤの黒髪を指でかき撫でた後、カーイは、電話に出るため、居間を出ていった。その姿を見送った、スルヤは、切なそうに溜め息をついて、ソファにごろりと寝そべり、手元のクッションを、かき抱いた。

目を瞑って、じっと聞き耳を立てていると、電話に答える、カーイの柔らかな声が聞こえてくる。誰だろう。スティーブンか、アニーかもしれない。

穏かな笑い声がした。結構、親しげに話しこんでいる雰囲気。

ゆっくり目を開けると、カーイとスルヤの抱擁のおかげで追い出されたネコが、戻ってきていた。レモンイエローのガラスのような目で、スルヤを、ひたむきに見つめている。

「おいでよ」

スルヤが、体をずらしてやると、空いたソファのスペースに、飛び乗ってきた。

「また、ごろごろいってる…」

柔らかな毛皮を撫でながら、スルヤは、ひっそりとした声で囁きかけた。

「ね、あの時、何か言ったよね。気のせいなんかじゃ、ないよね」

また、目を閉じて、ふかふかの毛皮に顔をうずめた。

「だってね、本当に、聞こえたんだもの」 

固く閉じた瞼が、微かに震えていた。

(助けて)

こうして、目を閉じると、そこに焼きついた、古い場面が、今でも鮮明に蘇る。上から差しこむ光の筋も、届かない、暗い水の底に向かって、どんどん、沈んでいく。絡まりあう、幽霊めいた水草に向こうから、小さなはっばのような手が、こちらに向かって、揺れていた。ひらひら、ひらひら…。

そうして、耳を澄ませば、いつでも、あの時、聞こえたはずのない声が、それでも、水を飲んで痛む胸を貫き通すように、確かに聞こえた声が、訴えかけるのだ。

(助けて、おにいちゃん)

ひらひら…。 

 

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