愛死−LOVE DEATH− 

第七章 逃れえぬもの


病院内の公衆電話の受話器を置いたスティーブンは、肩を大きく上下して、溜め息をついた。やけに緊張している自分に気がつく。初めて言葉をかわした、スルヤの恋人は、音楽的な響きの綺麗な声で、外国人とは思えない、ほとんど完璧な英語を話した。それも、上流階級の発音だ。

疲れたように、手で肩を揉みながら、治療中のスルヤのもとに戻ろうと体の向きを変えた時、スティーブンは、そこに、別れて間もないもと恋人が立っていることに気がついた。

「ティムが連絡してくれたのよ」と、感情を抑えた、固い声で、バレリーは、言った。黒髪のショートカットの、スペイン系らしい、気の強そうな黒い瞳の、綺麗な娘だ。

「スルヤが事故にあって、あなたが付き添いで来ているって」

スティーブンは、口の中で、友人を呪う言葉を吐いた。

「大丈夫なの、スルヤは?」

「おまえには、関係ないだろう。大体、スルヤのことなんか、今まで、気遣ったことなんか、なかったじゃないか。それどころか、あいつのことを嫌っていた」

「あら、嫌っていなんかいないわよ。ねえ、彼の所に案内して。お見舞いしたいから」 

冷やかな口調でそう言って、病院の奥に歩いていこうとするバレリーの腕を、スティーブンは、幾分、乱暴につかんだ。

「痛いわね、何よっ?」

「おまえが、用があるのは、この俺だろう?関係のないスルヤに、ちょっかいだすのはよせ。奴は、怪我をしたんだぞ?」

「相変わらず、スルヤにだけは、優しいのね。付き合ってた時から、ううん、その前から、ずっと気になっていたけれど、まるで、恋人よりも、あの子のことの方が気になるみたいね。ねえ、スティーブン、本当はあなた、女の子より、男の子の方が、好きなんじゃないの?」

「馬鹿なことを言うな」

通り過ぎの看護婦が、低い声で言い争う二人を、眉をひそめるようにして見て行った。

スティーブンは、いらだたしげに、バレリーを見下ろし、やがて、根負けしたように肩を落として、ぶっきらぼうに言った。

「確か、ここの地下一階にカフェがあったはずだ。そこで、話をしよう」




処置室の前で、スルヤの友人達三人は、こうして待つ以外に何かできるわけでもない、悪戯に過ぎていくばかりの時間を持て余すように、何となく所在なげで、アニーとティムは皮張りのシンプルな椅子に腰を下ろして、じっと黙りこみ、その前を、ケンは、いらいらしながら腕を組んで、歩き回っていた。

「全く、スティーブンの奴は、何してやがるんだ、スルヤの家に電話をしてくるからって消えたっきり、もうかれこれ三十分はたつっていうのに」

「そんなふうに、クマみたいに行ったり来たりしないでよ、こっちまで落ちつかなくなるわ」と、アニーにたしなめられて、ケンは、ぐっと黙りこんだ。

「スルヤの奴…大丈夫かな」と、心配性のティムが、閉ざされたきりの処置室の扉を不安そうに振りかえって、何度も繰り返した同じ言葉を呟く。

「大丈夫、心配することはないわよ。別に、どこも怪我はしてなかったし、ちょっと頭を打っただけでしょう。ケン、あなた、もし、何か予定があるなら、先に帰っていいわよ。私は、彼の様子を確認したいから、残るけれど。スティーブンが電話したなら、スルヤの家の人も、来るでしょうし、ちゃんと説明しないといけないから」

「このまま、帰ったりしたら、ずっと気になって、その方が気持ち悪いよ」と訴えるケンから目を逸らして、アニーは、足元に置かれたペット用の小さなケージに注意を向け、その窓の辺りに、そっと指を走らせた。中で、何かが、落ちつかなげにごそごそ動いている。 

「大丈夫よ。もう、何も心配することないわ」

ティムは、疲れたような溜め息をついて、処置室のドアから視線を離して、廊下の向こう、この時間では、患者の姿もまばらな広いロビーの方を、何気なく、見た。

すると丁度、ロビーに面した正面玄関の自動ドアがすうっと開き、一つのすらりとした人影が、長いコートの裾を軽やかな羽のように翻し、中に滑りこんで来た。

「へえ…」

突拍子もなく、何かに感嘆したような声を出すティムを、アニーが、いぶかしげに顧みた。

「すごいな。あれって、たぶん、プロのモデルか女優じゃないかな」

「何よ、ティム?」

「すごい美人が、入ってきたんだよ。ほら、あそこ、ロビーに今入ってきた、黒いロングコートの…受け付けの看護婦に、何か聞いてる。おい、誰か有名人が、ここに入院でもしてるんじゃないか?」

ティムが顎をしゃくって示す方を、アニーとケンは振りかえり、そして、ああと納得したような声を、二人ともたてた。

「本当だ。…背、高いけれど、女性なのかな?」

「あら、モデルだったら、あれくらい、背丈はあるでしょうよ?すごく、長くて、綺麗な髪ね…本物のプラチナブロンドって、ああいうのを言うのかしら。あら…」

ロビーで看護婦と話している人物の方をちらちら見ながら、囁いていたアニーの声が、瞬間、僅かに上擦ったものになった。誰かの面会にでも来たらしい、その人物と話しこんでいた看護婦が、彼女らが坐りこんでいる、外科の処置室の方を指し示したのだ。

長い髪の人物は、看護婦に礼を言い、そして、まっすぐに、三人の方に向かって、歩いてくる。

「おい、こっち来る…こっち来るぞ」

まさか、という気持ちで、慌てて視線を逸らし、しかし、どうしても、やはり確認するように顔を上げて見てしまう。そうこうするうちに、流れるような、機敏で、優雅な身のこなしで、その人物は、うろたえる三人のもとにやって来、そして、立ち止まった。

「う…」

美貌も、ここまで来ると、無意味に人を圧倒し萎縮させる迫力を備えてくる。おそらく、その青く、底光りのしそうな、不思議な宝石めいた瞳には、そのあたりの普通の学生達など、およそ人がましいものに映っていないに違いない。アニーは、恥ずかしそうに、赤くなって、顔をうつむけ、二人の若者達は、できれば逃げ出したかったが、射すくめられたように、目を逸らすこともできないでいた。

その時、アニーの足もとのケージの中のネコが、いきなり、何かに怯えたかのように、激しく暴れ、不安げな鳴き声をあげた。

「あら、どうしたの、いきなり…。じっとして、いい子だから」

「そのネコも、何とかしないとなぁ。迷い猫らしいんだろ?」

その小さな騒ぎのおかげで、若者達の呪縛は解けたようだった。 

「スルヤの…友人の方々ですね?」と、穏やかな声が語りかけるのに、三人は、再び注意を引き戻された。

「スティーブンさんから、連絡を受けて、来たんです。スルヤは、どんな具合なんですか?」

さっきのように無表情で立ち尽していると、冷たく、とっつきにくそうに見えた美貌も、こんなふうに暖かな、友好的な笑顔をうかべると、全く違ったものに見える。若者達は、少し、安心した。

「えっ、じゃあ、あなたが、スルヤの家の人?」と、仰天したように、顔を見合わせる若者達に、穏やかに、辛抱強く、カーイは、言った。

「カーイ・リンデブルックです。…スルヤの叔父ラトナ氏のモデルで、彼のお目付け役というところですね。初めてのイギリスを一人で暮らすのは、何かと不自由で心細いだろうからと、私が、この冬いっぱい一緒に暮らすことに。丁度、ロンドンで、仕事ができましたので」と、顔色一つ変えずに、そんなもっともらしい嘘を、しゃあしゃあと言ってのけた。 

「ところで、スルヤは?」

もう一度尋ねるカーイに、ケンが、慌てて説明した。

「今、そこの処置室で治療中なんです。ここに運び込まれた時点では、まだ、意識を取り戻してなくて。見た所、外傷はなかったんですが…」

緊張のあまり、しどろもどろになって話すケンから、ふいに、別の何かに注意を引かれたように、視線を離して、カーイは、処置室を張りかえった。まさしく、その時だ。今まで、固く閉ざされていたドアが開いたのは。

「どうぞ、お入りください」

ドアの向こうから顔を見せた、看護婦がそう告げるのに、若者達は、ほっとした顔になった。そして、ものも言わずに部屋に入っていくカーイの後を、慌てて、追いかけた。

「あ、カーイ」

カーイが処置室に足を踏み入れると、拍子抜けするくらいに、のんびりと明るい声がした。そちらを見ると、簡易ベッドの上で、上半身を起こして、看護婦の手で左の足首に包帯を巻いてもらっているスルヤが、手をひらひらさせている。

「…心配…しましたよ」

その屈託のない様子を見たとたん、嬉しいやら、腹が立つやら、とにかく、言い様のない様々な感情が突き上げて来て、カーイは、とっさに言葉が出てこなくなった。気持ちを落ち着かせようとするかのように、胸の辺りをそっと押さえた。

「保護者の方ですか?」

スルヤの寝ているベッドの傍のデスクで、カルテや検査結果に目を通していた医師が、チラリと顔を上げて、またカルテに目を落としかけ、はっとしたように、もう一度目を上げて、つくづくとカーイに見入った。

「あ…ごほん、ラトナ君の状態ですが、左足首の捻挫と擦り傷以外には、特に心配するような怪我はありません。運がよかったですね」

「ドクター、このたんこぶもね」

頭に張られた大きなばんそうこうを指し示しながら、スルヤが、付け加えた。

「ああ、そうだね。そうそう…倒れた時に、頭を強く打ったようなので、それが少し心配ですが、脳波を診たところ、それも異常はないようです。ご心配なら、今夜一晩、ここに泊まって、様子を見ることも可能ですが」

「大丈夫だよ、俺。ほら、この通り、ちゃんと帰れるよ?…痛っ」

ベッドから、ひょいと飛び降りて立とうとするが、挫いた足首が痛むのか、顔をしかめて、しゃがみこむスルヤを、看護婦が、慌てて支えた。

「本当に、大丈夫なんですか?」

疑わしげな顔をするカーイに、スルヤは、笑いながら、手を振って、看護婦が奥から持って来た松葉杖を試すようについて、何歩か、歩いた。その様子を眺め、小さな溜め息をついた後、カーイが医師の方に顔を向けると、彼は、分かったというように頷いた。

「…では、痛み止めのクスリを処方しますので、もし、痛みが長引くようでしたら、また受診して下さい」

もっと大変なことになっているのではと気を揉んでいた、スルヤの友人たちは、彼の思いの他元気な様子に、すっかり安心して、気が抜けてしまったようだった。

「じゃあ、俺、バイトがあるから、もう、帰るよ」と、処置室から出るなり、思い出したように、腕時計を見、慌てて、その場から立ち去るケンを見送った後、アニーが、思い出したように、大事に足元においていたケージを、スルヤに差し出した。

「そうだわ、この子、あなたがちゃんと預かって、世話するのよ。首輪はつけてなかったけれど、人慣れしてるから、迷いネコだろうって。ひょっとしたら、飼い主から連絡入るかもしれないから、あなたの電話番号、動物協会に教えといたわ」

「ありがとう、アニー。…やあ、よかったね、どこも怪我なくって。こんな箱に長い間入れられて、心細かっただろ。家に帰ったら、すぐに出してあげるからね」

二人のやり取りを聞きとがめた、カーイが、そっと口をはさんだ。

「ネコ?そのネコが、一体、どうしたというのです?」

すると、ティムが、大げさに肩をすくめるようにして、言った。

「そのネコを助けるためなんですよ、スルヤが、こんな怪我をしたのは。道路の真ん中で立ち往生している、この猫を助けようとして、車の前に飛び出したんです」

カーイは、信じ難いことを聞いたかのように、目を見開いた。

「そんなことのために、危うく、自分が車にひかれて、死ぬ所だった、ということなんですか?」

聞いているティムとアニーが思わず鼻白むような、険のこもった口調でそういうと、きつい目で、スルヤを振りかえった。綺麗な弓型の眉が、きりきりとつりあがり、青い瞳は、怒りのあまり、いつもよりも鮮やかな色に燃えあがって見えた。

「スルヤ?」

恋人の剣幕に、スルヤは、すまなそうに首を傾げはしたものの、反省している様子は全くなかった。

「うん…だって、つい体が、動いちゃって…」

カーイは、更に、何か責めるような言葉を言おうと口を開きかけるが、結局言葉が出てこなかったのか、軽く唇を噛んで、黙りこんだ。ほとんどあどけないと言っていいほど、無防備な表情で、彼の言葉を待っているスルヤを、きっと睨みつけると、踵を返して、ロビーに向かって、歩き出した。

「帰りますよ」

スルヤは、慌てた。

「あ、待って…カーイ、ねえ、悪いけれど、このケージ、運んでよ。俺、松葉杖だから、持てないから」

カーイは、敵意むき出しの顔で激しく振りかえる。困ったように彼を見ているスルヤと、その足元に置かれたケージを見比べ、怒った足取りで、無言で戻ってくると、ケージを持ち上げて、また、すたすたと歩き出した。

「アニー、ティム、今日は本当にありがとう。あ、そう言えば、スティーブンは?」

「いいから、行きなさい、スルヤ。スティーブンには、私達から説明しておくから」

「ありがとう。また、電話するね」

そうして、慌てて、慣れない松葉杖をつきながら、一生懸命カーイの後を追いかけた。先に行ってしまったと思われたカーイは、しかし、実際には、正面玄関の前で、スルヤが追いつくのを待っていてくれた。

「ごめんね、心配させて」

まだ、怒っているらしいカーイは、それには答えず、先に玄関を出ると、近くの乗り場からタクシーを呼んでくるために、暗い道を大通りの方に走っていった。




「おい、スルヤは、どうしたんだ?」

ようやく、バレリーから解放してもらったスティーブンは、憤然とした面持ちで、アニー達のもとに戻って来た。

「あら、スティーブン、遅かったわね。おかげで、すごいものを見そこねたわよ」

「全く、一見の価値はあったよなぁ。てっきり、女性かと思ったんだが、あれが男性だなんて…」

「お化粧もなしで、あの顔でしょう?何だか、自信なくしちゃうわよ、女としては」 

奇妙な興奮状態にある友人たちを前に、スティーブンは、訝しげに眉を寄せた。

「おい、分かるように話せよ。何が、あったんだって?」

スティーブンの、いらいらした口調に、二人は、我に返った。

「スルヤの保護者っていう人が、来たのよ。それが、信じられないくらいに綺麗な人だったの。うちのおばあちゃんが、ホームに慰問に訪れたエリザベス女王に声をかけてもらって、もう、一目お会いしただけで寿命が延びたようだって言ってたけれど、何だか、そういう気持ち、分かる気がするわ」

「なあ、あの人、モデルだって言ってたけれど、スルヤの友達なら、写真のモデル、頼めないかなぁ」

「あら、でも、プロだったら、やっぱり、ギャラがかかるんじゃない?高そうよ、きっと、彼」

「おい、スルヤは、どこに行ったんだっ」

また話が脱線しだした友人たちに、業を煮やして、スティーブンは、叫んだ。

「あ、ごめんなさい、たった今、その彼と一緒に病院を出ていったわ。本当に、あなたが来る、直前よ。ひょっとしたら、まだ、その辺りで捕まえられるかも…」

最後まで聞かず、スティーブンは、走り出した。

「スルヤ!」

玄関のガラス戸を出た所で、その名を呼び、辺りをぐるりと見渡す。すると、丁度、彼が立つ玄関前の広場の端に、今まさにタクシーに乗りこもうとしている人の姿を見つけた。

タクシーのドアを開け、先に乗った連れに何かを話しかけるふうで、この暗さと距離ではっきり見えない横顔を、半ば隠して流れ落ちる、ほの白い長い髪が、印象的だ。声をかけることを一瞬忘れて、息を詰め、目を細めるようにして眺めているうちに、そのすらりとした姿は、タクシーの中に吸いこまれるように、消えてしまう。

「あっ…ス、スルヤ…!」

タクシーのドアがしまる音にはっとなって、それから、慌てて、呼びとめようとしたが、既に遅かった。

そちらに向かって駆け出しかけるスティーブンを残して、タクシーはしずしずと発進し、すぐに速度を増して、車のライトが行き交う、大通りの方に消えていった。 

「くそっ」

胸の奥から突き上げてくる奇妙な焦燥感から、悔しげに吐き捨てるスティーブン。それから、何をこんなにも焦っているのだと、当惑した。今にも手の届きそうな所にまで追い詰めた何かを、捕まえる寸前で、逃がしてしまったかのような。

スルヤと、その恋人を乗せたタクシーが視界から見えなくなっても、スティーブンは、そのまま、しばらく、そこに立ちつくし、説明しがたい、言い様のないもどかしさと焦りを抱え、凝然と闇の彼方を見据えていた。 


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